美しいエナメルの施された非実用的な長い爪が背中に食い込み、犬飼は一仕事終えた気分になった。
先ほどまで犬飼の腰を締め上げていた白くすらりとした長い脚は、今は高く持ち上げられ小さく痙攣していた。
震えは足のつま先まで続いていたが、そのCG美女を思わせる端正な顔立ちは、眉間や額に皺が寄る事もなければ鼻腔が膨らむ気配もない。
顔だけ見ていれば午後のテラスでお茶を飲んでいるような静けさで、体だけ別の女優が代役しているかのようだった。
生え際を掻き分けて仔細に観察したら、きっと皺取りの手術跡が何重にも見つかることだろう……こんな時にそんな事を冷静に考えている犬飼こそ頭と体が別物なのであるが、男にはありがちなことだし気にも留めない。
『俺は何でこんなことやってんだ』
お祭り騒ぎが静まった後、自分の横で女の体が柔らかくなっていくのを感じながら、犬飼は午前中に見たものについて、もう一度思いをはせた。
K地区、Tプラントの少年たち。TタイプはSタイプとは、遺伝的に全く異なっているようだ。色白で年齢の割に小柄なのは同じだが、T素体のほうがS素体より若干大きく、体も見た目よりは丈夫なようである。ちょうど十歳児がグラウンドに出ているのを目撃できたのだが、たぶんS素体と最も異なっているのは、その性格であろう。
きっとT素体に関わるほうが仕事としてはキツイに違いない、彼らはサボったり反抗したり、それも職員が目を離した隙に狡猾に行うので、俺が職員だったら引っ叩いているかもな、と犬飼は苦笑した。
『そしてアイツも泣きまねやウソが得意で、結局俺は弟に甘いアニキだった』
廉価版が出荷されるところにも運良く遭遇できた。さすがに生き人形に過ぎない廉価版は性格の違いなども感じられず、S素体の完成品――十五歳体――と大差なかったが、見た目は全く異なっていた。S素体が上品な美少年ならT素体はかわいいいがちょっと個性的というのが売りなのであろう。成長するともみ上げが伸び、視力が低下するのか、眼鏡が付属品になっているらしい。
『アイツも変声期以前は肌もつるつるで母さんそっくりで……俺たちとはぜんぜん似ていなかったが……声が低くなると毛深くなって、やっぱり犬飼家の血筋だ、と思ったものだった』
今朝犬飼がTプラントで見たもの……それは、紛れもなく実家にいるはずの、彼の末弟の姿であった。
『どういうことだ?何故俺の弟が素体なのだ』
ふいに、煙草のフィルターが唇に押し付けられた。
一体どうしたの、と女が微笑む。いつもなら、必ず一服しているところでしょ?
この女はいくつなのだろう……されるがままに大人しく煙草を咥えながら、犬飼は目の前のパーフェクトに美しい顔を眺めた。にこやかに微笑むその唇は、体色素に手を加えておりルージュを塗らなくても紅い。しかし見た目は二十代前半にしか見えないが、偶然ちらりと目撃しただけの土井垣がばーさんと言うように、全体から滲み出る雰囲気が老女なのであった。
『何故俺はこの女と付き合っているのだろう』
このわがままな女は就業中だろうとなんだろうとお構いなく連絡してきて……俺はその度に工場を抜け出すが、注意を受けたこともない。俺の主な仕事は素体のトレーニングをすること……1日ほんの3時間足らずで終る。後は雑用。プラントの掃除とか、出荷の手伝いとか……どうでもいいようなことばかりだ。まるで、あの女にいつ呼び出しを受けても大丈夫であるかのように。土井垣も俺と大差なかった。まぁアイツには女はいなかったから、本当に暇でしょうがなかったようだが。
俺は若いからな……女が煙草に火を点けてくれたので、犬飼は深く吸い込んだ。ニコチンの摂取に脳が鎮まっていくにつれ、煙草の先端は赤く光りながらチリチリと縮こまっていった。
少子化の過度に進んだドームには、若者はほとんどいない。いや素体なら子供も若者のも沢山いるが、本物の人間の子供を犬飼は見たことがなかった。工場の職員も、本当にその年齢かどうかは知らないが、四十代前後がほとんどだった。
だから若者は大事にされていて……犬飼は白い煙を吐きながらぼんやりと考えた……別にあくせく働かなくても、大人が働いてくれるから、とみんな思っていて……。
みんな?みんなって誰なんだ?……煙草でクリアになったはずなのに、頭は気味の悪いことを思いつく……実際に会ったことなんてあるのか?誰が、そう思っているんだ?そんなこと、誰に聞いた?
「小次郎ちゃん、どうしたの?」
自分も煙草をふかしながら女が言った。燻らしているのは細身のメンソールで、犬飼のとは違う。
紫煙が二人の外見には不釣合いな、豪奢なベッドルームに立ちこめる。
「小次郎ちゃんらしくないわよ、そんな難しい顔をして。悩みでもあるのかしら?かっこわるいわねぇ、今が楽しければいいじゃないの。そんな暗い小次郎ちゃん嫌いだわ、若いんだから楽しまなくちゃ……」
女はがっちりした肩にしなだれかかると厚い胸板に手を回し、密生した胸毛を指先に絡ませた。
「……そうだな。そのとおりだ」
もう一度深く吸い込む。煙を吐きながら器用に輪っかを作ると、女は甲高い嬌声を上げた。
白い煙の輪はフワフワと宙をさまよった後、内円から自滅するようにはかなく消え、犬飼は名残の煙を目で追った。
俺は若いんだから。俺は若い。
……俺は今、何歳なんだ?
『鬱陶しいことは考えるな。らしくないぞ』
頭の中で声が響いたが、犬飼はベッドから立ち上がった。
寄り添っていた女は支えを失い、ベッドの上で不様に転げた。
「なんだ犬飼か?君が図書室なんて明日は雨だな」
工場内の図書室から出て来た犬飼に、職員は憎まれ口をたたいた。犬飼は笑顔を返したが、本当は頭が割れるように痛かった。
それまで興味がなかったので全く知らなかったのだが、工場内の蔵書にはT素体に関するものも数多くあった。
痛む頭を抱えたまま、犬飼は不機嫌な面差しで寮の自室に戻る。
殺風景な室内は取り合えず空き缶や食品の空容器は始末してあったものの、相変わらず整理整頓が行き届いているとは言いがたい。
テーブルの写真立てを掴むと腰を掛けるのももどかしげに、犬飼は力尽きたようにしわくちゃのベッドの上に倒れ込んだ。仰向けに寝転んだまま写真を顔の上にかざすと、詳細に観察する。
家族写真……犬飼の前で利かん気な笑顔を浮かべている眼鏡をかけた少年は、かわいい末弟のはずだった。
『弟があんなにうじゃうじゃいるとはな』
額に手を当て頭痛と戦いながら、犬飼は本の内容を反復してみた。
――T素体は、コピー元のDNAが不完全だったため、空白部分を演算で求めた故かS素体よりジャンクDNAにバグが多く……その変異体(つまり特別仕様)には、原型と近似ではあるが、S素体よりも多種多様な容姿の素体が発生することが多いと報告されている。例えば、身長、体型の相違、目鼻立ちの相違、肌色の相違など――
『でも小次郎´(ダッシュ)って感じだがな』
写真を見ながら土井垣が言っていた言葉。
プレミアムタイプの育成に五年はかかる。俺は今までに何回、素体を世に送り出したことだろう。一回だけ?違う、二回?いやそれ以上……。
俺はあの女と何年付き合っているんだ?二年?五年?……
家族と暮らしていたのはいつだったろう……工場に来てから何年経つ?
繰り替えされる平穏な日常。往復するのは、ただ工場と社員寮と女の家。娯楽はTVとバーチャル遊戯。年上の同僚と、素体に囲まれた生活。深く悩むことも、驚く事もなく過ぎる気楽な日々。
帰省する同僚もいたのに、俺は何故か実家に帰ることもなく。いつから、誕生日を祝わなくなったのだろう?
俺は、今いったい……何歳なんだ?
頭痛はますますひどくなり、テーブルに戻そうとした写真立てが床に落ち耳障りな音を立てたが、犬飼には拾い上げる気力さえ湧いてこなかった。
思えばこの痛みは、何かに疑問を持ったり、考えようとするたびに始まった。
日常の小さなほころびを気づかせまい、とするかのように。
ひどい吐き気がした。
犬飼は口元を押さえつつふらふらと上体を起こしたが、洗面所に向かう暇もなく、ベッドの傍らに吐き戻してしまった。
最悪の気分。何も考えず、このまま眠っちまえ……頭の中で声が響く。犬飼は汚れた口を手の甲で拭うと、ベッドに沈み込んだ。眼の痛みに耐えられず、瞼を閉じる。眠れ。眠るんだ。眠れば楽になる。明日もまた、いつも通りの日々だ。眠れ。眠れ。
犬飼は歯を食いしばると、無理やりに重い瞼をこじ開けた。頭の中の声は続いていた。眠れ……。眠るんだ。眠れ……ネムレ……ネムレ……ネムレネムレネムレネムレネムレ……
うるせぇ、ちくしょう。……マインドコントロールと言う言葉が脳裏に浮かび、なぜかプレミアムの少年たちの姿を思い出した。彼らには名前はなく、みな番号で呼ばれていたが、それなりに個性があり顔の見分けは容易だった。しかし出荷に備えてマインドコントロールが施されると、もう犬飼には誰が誰だか区別がつかなくなった……。
頭痛は天罰のようにさらに激しさを増し、体が痙攣し始めるのを犬飼は感じた。
『でも小次郎´(ダッシュ)って感じだがな』
土井垣よ、ダッシュは弟じゃねぇ。
……俺のほうだ。
犬飼は、意識を失った。