薄青い液体の中で、土井垣が漂っていた。ぼんやりと開かれた両目。
毛穴から泡が立ち上り、アイツが溶解していく。虚ろな眸がこちらを見つめる。
『やっぱりお前……処分されちまうんだな』
俺の目の前にも泡が立ち昇った。いつのまにか、あの液体が周りを満たしていた。俺が溶けていく。目覚めてしまった素体は……処分されるらしい。……
蛍光灯の明かりが眩しい。犬飼は掌をかざした。
「気がついたか」
徳川の声が聞こえた。「いったい、どうしたんだよ?」
「……頭が……痛くなって」
犬飼はまだ夢を見ているような気分だった。
声のほうに顔を向けると、徳川が鼻にしわを寄せ、難しい顔付きでベッドの傍らにたたずんでいる。室内は何処もかしこも無機質に白く、どうやら医務室で寝かされているようだ。
「頭が痛い?……どんなふうに?」
何となくいつもと違う徳川の雰囲気が、犬飼の頭をクリアにする。土井垣が寝ていたのと同じ病室にいることも、彼の目覚めを促した。
「痛み止めを飲んだのですが。早く眠りたくて酒と飲んだら、……地獄ですねぇ」
「酒と飲んだぁ?馬鹿か、おめぇは!死にてぇのかよ!」
そう言いながらも、徳川のしかめつらは少し和やかになった。
「そうかい、酒と飲んだのかい。……時によう」
徳川はベッドに近寄るとのしかかるように犬飼を見た。「何か悩み事とか、気になることとか……悪夢とか、そんなことはねぇかい?……言いたくなきゃ、かまわねぇけどよ」
微笑みながら犬飼に寄せた顔を離したが、その柔和な細い目は全身をくまなく観察しているようにも見える。
そんな徳川に、犬飼はしばらく考え込むような顔つきをした後、突然、真面目な顔つきで言った。
「聞いてもらえますか?」
いつもとまるで違うその様子に徳川は緊張したように身構える。
「言ってみろ」
犬飼は小さく深呼吸すると、おもむろに口を開けた。
「俺の彼女が最近激しくてね。どうしたもんでしょう?」
「……けっ、……のろけてんじゃねぇやい!」
拍子抜けした徳川は呆れた表情になったが、ニヤニヤしている犬飼に下卑た笑顔を向けた。「そんなもん俺が知るかよ!気分がよくなったら、さっさと仕事に戻れ。土井垣が使えねぇからよ、ガキどもをトレーニングする人手が足りねぇんだ」
すっかりいつもの徳川だった。
「わかりました。……そういや土井垣は客に引き渡す準備はできたんですか?」
話のついで、と言うような気楽な感じで犬飼は尋ねる。
「まだカプセルにいるよ。なかなか脳波が安定しねぇんだ、レム睡眠ばかり続いていやがる……アイツ、駄目かもしれん」
「そうですか。元がとれなかったら残念ですな。……すみません、もう少し寝かせてもらえませんか?なんかまだ胸がむかむかするし、頭も重いんでね」
「そうかい。まぁしょうがねぇな、ゆっくり休めや」
徳川の猫背がドアの向こうに消えてしまうまで、犬飼はじっと見送った。
「工場長」廊下を歩く徳川に白衣を着た職員が近づいてきた。研究員らしい。「犬飼小次郎はどうでしたか?」
「薬と酒と一緒に飲んだ、とか言ってたな」
「吐しゃ物からは確かに痛み止めとアルコールが検出されています。顧客の家でも酒を飲んだそうです」
「マインドコントロールとは関係ねぇんだな?」
「取り合えずスキャンした限りでは、MC(マインドコントロール)チップには異常や損傷は見られませんでしたが、本人の精神状態までは数値化できるものではありませんからねぇ。面談やストレスチェックでもしてみなければ……何かそれらしきことを言っていませんでしたか」
「女が絶倫で困る、とさ」
徳川は面白そうに笑った。
「お客様も困ったものですね……」軽口には答えず、研究員は生真面目に渋面を作った。「素体に同情しますよ。まぁTタイプの変異体は特別丈夫だしストレス対応も強いから、今のままなら心配はないでしょう……またMCチップに破損が生じるような極端な負荷でもかからなければね。そうだ、土井垣も犬飼のような通い素体にしてはどうです?青年素体はなまじ“考える頭”があるだけに……愛玩用として飼い殺しにされると、すぐに精神崩壊してしまう」
「そのほうがメンテもしやすいしな。あのババアがお上品な人形ならもう飽きた、今度はどうしてもブルーカラーの青年タイプが欲しい、と言い出した時は頭を抱えたもんだが、瓢箪から駒だったぜ。あの変異体を譲ってくれたTプラントの大平工場長には、感謝しなくちゃな」
土井垣も上手く治ったら、オーナーには通い素体の線で話を付けてみよう……。徳川は頭の中で忙しく算盤を弾いた。
医務室のドアが締まるのを見届けると、犬飼は起きあがった。後頭部へ手をやり、わずかに窪んだ辺りを触れる。微かな出っ張り。
チップは埋め込まれたままか……。犬飼は唇をかんだ。今頭痛がしないのは、ニューロンへの電気刺激を遮断する作用を持った薬でも与えられているからだろう。
とすると自由に動けるのはそんなに長くはないな、いや、動けるどころか、考え事ができるのは、だ。薬が切れれば、また木偶に元通り。……そのほうが幸せだ、とつぶやきかけて犬飼は薄笑いを浮かべた。
これは俺の考えなんだろうか、それともマインドコントロールか?
……つまらんことを考えている暇はねぇ。犬飼はベッドに腰かけ、靴を穿きながら思考をまとめようとした。MCチップではなく、ただのIDチップが埋め込まれているだけの土井垣でさえ、ドーム障壁の周辺ではあの様だった。どうもチップの機能は、無線LANや病歴の記載だけではなさそうだ。
『素体も人間も、ド―ムの木偶であることには変わらねぇや』
マインドコントロールは俺の方が強力なはずなのに、症状は土井垣のほうが重かった。俺たちの違いはなんだったろう?犬飼はなかなか働こうとしない頭に叱咤を飛ばした……障壁周辺に滞在していた時間。ヤツは徒歩で、俺はバイクだった。徒歩だと俺も二の舞だったというわけだ。とすると一番上手いやりかたは……。
犬飼は我知らず壊れ物のように頭を支えながら、そろりと立ち上がった。
ドアノブに手をかけた所で後頭部をガツンと殴られたような衝撃を感じ、よろめきながらドアに手をついて体を支えた。頭が痛む。薬が切れてきたのかマインドコントロールが強力なのか……
『くそっ、どうにも出してはくれねぇわけだ』
俺はこれからもずっとドームの木偶か……犬飼は荒い息を吐いた。
いや、そのうち頭がぶっ壊れて培養液にぶちこまれて、リサイクル素体の廉価版で売れられることになるのだろう。そして二、三年で飽きられてまた培養液にぶっこまれて、再び廉価版になって、また飽きられて……。
『くそ面白くもねぇ』
ふと、土井垣の姿が脳裏に浮かんだ。ドームを出たいといっていた、でかくて一人前ななりのくせに、未だマインドコントロールをうけていない素体。
犬飼は息を吸い込み顔を上げると、ドアを開いた。
天候は、どちらかと言えば曇りがちで、大気は重く湿っていた。
どんより曇ったねずみ色の空は、ドームの空に浮かんでいるものとはまるで違う。あそこはいつでも野放図に上天気で、まるで天気であれば文句はなかろうと言わんばかりだった。
しかしここでは今にも泣き出しそうな空模様でも、観客は帰らずに試合を見守っていた。球場を埋め尽くす声援。振られるメガホン。揺れる応援旗。
「ナイスピッチング!」
ボールを返しながら、土井垣はマウンドの犬飼に向かって叫んだ。
見事なシュートだった。やっぱりこんな天候の日は変化球がよく決まる。
『よし、このバッター外角には手が出ないぞ』
もう一球同じところに決めてやれ。しかし土井垣のサインに小次郎は首を振った。マスク越しに睨んで見せたが、また首を振った。
『おい、犬飼……』
振られるメガホン、沸き起こる歓声。
土井垣は再びサインを送ったが、犬飼は相変わらず無表情に首を振りつづける。
『おい、犬飼!』
土井垣はタイムを告げるとマスクを持ち上げ、立ち上がろうとした……。
ゲホゲホと咳き込んでいるような音が聞こえ、土井垣はぼんやりと目を開けた。頬がジンと痛い。ひっぱたかれたようだ。
「おい、起きろ!ぶっ壊れてるのか!」
「……」
土井垣は辺りを見まわした。周囲に薄青い液体に満たされた強化プラスティックのカプセルが見える。培養室のようだ。するとあれは夢だったらしい。……本当に見果てぬ夢だと土井垣は額を押さえ、思わず笑い声を立てた。
「おい!……本当に、ぶっ壊れちまったのか?」
そんな土井垣を濃い眉の下の鋭い目が、薄気味悪そうに見ている。
「なんだ犬飼か。バーチャルでない、ナマの野球をやっている夢を見ていたんだ。楽しかったぞ」
目の前のヤケに真剣な顔が面白くて、土井垣はまた笑ってしまった。
「こんな時に何ノンキなことを言ってやがる!……いや、それでこそ土井垣だ、まともなようだな」
嬉しそうに言ったが犬飼は顔をしかめている。苦しそうに見えた。
ふいに寒気を感じて土井垣は自分の両肩を抱いた。ぬるりとした感触。思わず手のひらに目をやると、てらてらと光っていた。慌てて体を見回す。全裸であった。
自分が今しがた培養カプセルから出されたばかりであることに、土井垣は気が付いた。
「おい、手順間違っているぞ。培養室での素体の覚醒は禁止されているはずだ」
「やれやれ、素体に注意されるとは思わなかったぜ」相変わらず顔はしかめているが、犬飼はおかしそうに笑った。「とにかく、早く服を着ろ!出るぞ」
タオルと衣服を土井垣に押し付ける。
「出るって…何処に」
そうだ、俺は素体だったんだ……あのまま夢の続きを見させてくれれば良かったのに、と培養液の生ぐさい臭いのする体を拭いながら、土井垣は恨めしく思った。
「外だ」
「外?……顧客のところにか」
「バカ、ドーム壁の向こうだよ!早くしろ、気づかれたらおしまいだ」
「……お前、失業する気か?」
土井垣はシャツを被った。
「Tプラント、見学して来た」
犬飼の声は不機嫌そうだった。
「……。すまん」
すばやく、ズボンも身に着ける。
「礼には及ばねぇよ。……しかし素体に素体を捕まえさすなんて、とんだ茶番だぜ全く!俺のオーナーはあのババアらしい」
小次郎は立ち上がると、しかし苛立たしげに壁に頭を打ち付けた。
「おい、犬飼」
「頭痛がひどくてよ。お前はまだ市場に出る前の半人前だからマインドコントロールは受けていないが、俺は一人前のTタイプ特別仕様だからな。……くそっ」
犬飼はうめくと、壁にそってずるずると崩れ落ちた。
「しっかりしろ!」
土井垣は慌てて抱き上げたが、犬飼は拒絶するように払いのけると床にうずくまった。 「大丈夫だ、ちくしょう……。いいか、お前にも埋め込まれているIDチップだが、たいした文明の利器だぜ、こいつは……とにかく、……徒歩で障壁周辺をうろついたりしたら、……この前の二の舞だ」
ここまで言ったところで、犬飼は体を二つ折りにすると激しく嘔吐した。
「犬飼!」
飛沫がかかるのもかまわず、土井垣はうめく体を抱き寄せた。もうされるがままで、抵抗する気力もないようだった。
「俺はそれほど酷くはなかった。……あの辺りにいる時間は、短ければ……短いほどいい。バイクが自動車で……いや、俺のバイクを使え、これがキーだ」
しかし渡そうと伸ばした手は激しく震え、キーはコンクリートの床に落下すると硬い金属音を立てた。
「駄目だ、バイクだったらお前を連れていけない」
犬飼がまた吐いた。
「俺は……いい。お前一人でいけ」
犬飼は微笑んだようだが、吐しゃ物のへばりついた唇が引きつったようにしか見えなかった。
「置いていけるか!」
介抱しながら土井垣が叫ぶ。
「るせぇ……てめぇの足手まといになんか……」犬飼の体が激しく痙攣しはじめた。「……なって、たまる……か……」
目がぐるりと返り白目を剥くと、震える口唇の恥から泡が漏れる。
「くそっ……」
土井垣は意識を失った犬飼を見つめながら、唇を噛み締めた。
ドームの夜空には相変わらず書割のような月が浮かんでいた。こんなにネオンの明るい街に輪郭のきっぱりとした月は、美しく輝いてはいたが奇妙に不自然で、厚化粧の女のようだった。
徳利を抱えほろ酔い気分の千鳥足で歩く徳川工場長は、月など長らく眺めたことはない。もうここでは五十年ばかし同じ月が昇っているのだった。
チップの無線LANでバーチャル酒場に接続したなら、酔いなどログアウトと同時に覚めてしまって千鳥足で帰る必要はない。もちろん三十分、一時間と酔う時間の設定は自由自在だったが、徳川は本物の酒にこだわった。
自分の体をコントロールの外に追いやることこそが酔いじゃねぇかよ。……そんな身上を持つ徳川にとっては、本物の酒がどれほど目玉が飛び出るぐらいに高価でも、バーチャル酒場など邪道であった。たとえそれで金が溜まらず工場長でありながら独身寮に住む破目になったとしても。
いい気分で監視カメラに挨拶すると、工場の敷地内に入場した。ドームの夜には、いつもの気持ちよい風が吹いている。
どうしてそんな事をしたのかよくわからないのだが……徳川は立ち止まって、十数年振りに月を仰いだ。
瞬間、地面を蹴る音。身構えた時には、既に喉元に何か鋭利な刃物が押し当てられていた。
「よせ、犬飼。穏やかじゃねぇぜ」
徳川は一瞬驚いたようだったが、まるで予期していたかのように答えた。
徳川の対応に刃物の男は意外なようだったが動揺は見せない。
「騒ぐな。自家用車のキーを渡せ」
今度は徳川が意外な顔をする番だった。
「なんだ、犬飼じゃねぇ?……土井垣か」
徳川は大人しく両手を頭の後ろで組んだ。「てっきり犬飼だと思ったんだが。ヤツはどうした?」
「早くキーを渡せ」
刃物の男は答えなかった。
「カプセル漬けのおめぇが自力で出れるわきゃねぇからな。……そうか、二人でつるむことにしたのか。いつから示し合わせていたんだよ?ふふん、その様子だと犬飼のヤツぶっ倒れているな。ヤツには前科があるからな、マインドコントロールも強力だぜ。……そう急くなって、キーは持ち歩かねぇんだよ」
徳川の言葉に、男はますます刃物を押し当てる。
「物騒だなぁ、全く!キーは車にかけっぱなしだよ、無くさねぇようになぁ。……ふん、どうせゴルフコンペでもらった車だい、飲んだら乗るな!じゃ俺に用はねぇしよう」
男に小突かれて徳川は歩き出したが、口のほうは相変わらず滑らかだった。
「しかしよう、保護協会じゃ特別仕様は嫌がられるぜ。個性が強過ぎて一般の買い手はなかなか見つからないからな。慈善事業を気取ってはいるが、所詮は商売人の集まりだ、夢は見るな。……結局元のオーナーに買い取られる場合も多いぜ、どうするよ?」
「あなたには関係ないことだ。そのまま大人しく前を歩け……急げ!」
「……どっち道お前らには未来はないんだよ。素体なんだからな、人間じゃねぇんだ。かわいそうとは思うが、そういうもんだぜ。このまま留まればしっかりマインドコントロールを施してやる……なにもかも忘れさせてやるからよ」
「うるさい!黙って歩け!」
「へいへい」
「鼻糞もほじらせてくれねぇのか?」
薄暗い地下駐車場で、縛られて身動きできない徳川がつぶやいた。
土井垣と言えば、ベンツの後部座席に犬飼を押し込んでいるところだった。
叫びもわめきもしねぇからお前とじっくり話をしたいんだよ、と徳川に言われるまま先ほどから憎まれ口を聞かされている土井垣だが、まるで誰もいないかのように作業を続けるだけで、別に気にしている風でもない。
「しかしなんだって俺のベンツなんだよ。こんな大げさないかつい車、街中じゃ目立つだけだぜ」
徳川の位置からは土井垣の下半身しか見えない。
上半身を車内に突っ込んだまま、土井垣は人形のように無反応な犬飼をシートベルトか何かで席に固定する作業に集中しているらしい。床でわめいている老人のほうなど見ようともしなかった。
徳川はしばらく考え込んでいたが、土井垣の坊主頭が車体の陰から現れると、ゆっくりと口を開いた。
「さてはお前ら、保護協会へ行くんじゃねぇんだろ?」
土井垣は初めて徳川のほうへ向き直った。ややあってその上品な唇が歪む。
「やれやれ、おしゃべりな人だ。これであなたを置いていくわけにはいかなくなったな。つきあってもらうぞ、徳川工場長」