カラスアゲハは、もういない。
夕暮れ時が早まるにつれ、トンボは水色のものよりも赤い色のほうが多くなった。
トウモロコシ畑は収穫が終わり、薄茶色の地面をさらしている。昨年は暴走ベンツが突っ込んだおかげで台無しになった一角だったが、今年は何事もなく秋を迎えることができた。時折付近のラジオにノイズが混ざることは続いていたが、あの夏以降、灰色の壁の向こうから客人が来ることもない。
一年と数ヶ月が過ぎ、ドームから来た二人の男はそれぞれの居場所に落ち着いた。
土井垣が心配していた通り、ベンツの後部座席から引きずり出された犬飼の『チップ』は破損していたが、幸い小脳への影響は思ったよりも少なく、生命維持に支障をきたすような障害は残らなかった。しかし大脳への影響は甚大だった。目覚めた時は言わば『初期化』状態で、すっかり赤ん坊に戻っていたそうだ。
一般的な『知識』を植え付けることは可能でも、個人的な『記憶』はどうにもならない。土井垣の知っていた『犬飼小次郎』は、死んだも同じだった。
実際、『話ができるまでに回復した』彼と会ってみたが、懐かしい男の顔の見慣れた目は、訝しげに見返すだけだった。それ以来、犬飼とは会っていない。
あいつにとって、ドームの記憶なんかないほうがここでは生きやすいだろう。そもそも俺たち自身が作り上げた本物の記憶と呼べるものなど、素体であると気づいてから脱出するまでの、ほんの数週間に過ぎない、と土井垣は思う。
予想外の雨が降り、広大な土地の広がるこの場所では、人々は少しずつ年を取り、六十年に満たないの短い人生を、子どもたちの成長を見守りながら精一杯生きている。最先端の科学文明に中に生きるドームの人々から見れば、老いや死がごく当たり前にある彼らの生き方など想像もつかないだろう。
二年経てば、チップのテロメア細胞生成抑制効果が薄れて老化が始まるづら、と殿馬が教えてくれた。年を取ることを許されるんだな、やっと人並みになれるわけだと答えて土井垣は苦笑いを漏らした。ドームの人間は……あれは人間なんだろうか?老いや死と言った、生物として当たり前のことを拒否し、自分と同じ姿形をしたものを、モノのように扱っても平気な彼らは?……
こうしている今でも、プラントでは素体が製造されている。このままここにいて、何もしなくてもいいのか?……。見上げると青い空。土井垣は赤トンボを目で追いながらドームの空を思い出し、ふとそんなことを考えた。
突然、首筋に冷たいものを感じて振り返る。ラムネの瓶を持った三太郎がにっこり笑うと横に座った。
「どうぞ。これ、もう開いてますよ」
草野球の盛んなこの地方では、青年たちがそれぞれの職業ごとにチームを結成し、野球を楽しんでいた。秋も深まる時分ともなれば、優勝杯をめぐって週末ごとに試合が行われている。第一グラウンドで行われた農協青年団チームと林業組合の試合は、青年団側の圧勝で終わり、現在、漁協チームと商店街チームの結果待ちである。
「なんですか、最高殊勲選手がぼんやりして」
あの日以来、土井垣は微笑農場で居候させてもらっている。今では農協野球部の強力な四番だった。
「ああ……」こんな風に本物の野球を楽しめる日がくるなんて、と言おうとして土井垣はやめた。今日は、ドームのことは忘れていたかった。「まだ、あっちの試合は続いているのか?」
「漁協の岩鬼がプレイボールホームランやっちまったんで、雪村がすっかり調子崩してさ。もうボッコボコに打たれて、ぜんぜん試合が終わらないんですよ」
商店街チームの小兵、雪村投手の真似をしているのか三太郎は両手でメガネを作ると目を細めたが、大きさはあまり変わらない。
「じゃあ次の相手は魚屋だな。……ピッチャーは、やっぱり渚か?」
三太郎はメガネの真似をやめた。
「やっぱりもなにも、あいつは漁協のエースですよ」
後ろからやってきた土門に、ラムネもうないのか?と声をかけられ、三太郎は立ち上がってしまった。現在は魚河岸で働いているというある男の消息を聞こうと思った土井垣だったが、諦めて瓶に口をつけた。
「土門さん、すごい試合です、アウトになるまでに十八点も入りました」
偵察に行っていた吾郎が帰ってきた。めちゃくちゃな試合だ、とみんなが笑った。
「あれ、土井垣さんどこへ?」
「めちゃくちゃな試合でも見物してくるよ」
空き瓶を三太郎に渡すと、彼はおもむろに腰を上げた。
試合の行われている第一グラウンドと第二グラウンドの間は緑地帯になっている。土井垣は残暑の残る眩しい道を、グラウンドへ急いだ。四番を打つ身としてはピッチャーの調子を知りたいところだった。とはいえ渚なんて大したことはないが……。
ふと、秋の風を感じて道の外れに目を向けると、桜と思われる大木が、眩しい陽射しの中ようやく色づき始めた枝を伸ばしている。
見れば涼しい木陰に誰やら寝転がり、のんびりとくつろいでいた。帽子ですっかり顔が隠れている。白地に黒のユニフォーム……漁協組合の選手らしい。
腕を枕に横たわっているが、広い肩幅と、服の上からでも二の腕の筋肉が盛り上がっているのがわかる。組んだ脚のがっちりとしたふくらはぎ、逞しい腿。
見間違えるはずがなかった。
懐かしさに、土井垣は笑みを浮かべながら足早に木陰に近づく。
足音に気が付いたのか、男は帽子を持ち上げた。
訝しげな目つき。
土井垣の微笑が力ないものに変わり、足取りがゆっくりになった。あんまり思いがけなかったので、一瞬、この男の現状を忘れてしまっていた。
しかし、そのまま声もかけずにやり過ごすには二人の距離は近づき過ぎていたので、思い切って声をかけることにする。
「久しぶりだな、犬飼。……元気でやってるか」
男は訝しげな目つきのまま帽子を取ると、体を起こした。
しばらく眺めてから、やっと思い出したらしい。
「以前、病院でお会いしましたっけ? 確か、俺をドームから連れ出してくれた方ですよね。……すみません、名前を思い出せなくて」
懐かしい低い声。なにかしこまっているんだと笑いながら、肩を叩きたかった。らしくない敬語なんか使うんじゃないと。だが。
「俺は、土井垣将だ」
つぶやくと目を伏せ、ぶっきらぼうに続けた。「ここは涼しそうだな。隣、かまわないか」
犬飼がうなずいたので、腰をおろした。
元気でやってるか、体はすっかり治ったのか。この町には慣れたか。仕事はどうだ、魚河岸で働いているらしいけど、肩に負担がかかったりしないか。
話したいことは山ほどあったが、くつろいだ態度をすっかり引っ込めてしまった相手に、土井垣はなんと言えばいいのかわからなかった。
遠くでバットにボールの当たる音が聞こえる。まだ試合は続いているらしい。ユニフォームを着ているのだから野球部員のはずなのだが。
「漁協は試合中だろう?お前、なぜこんなところにいる」
「俺は控えですから。今日は鬼の霍乱か岩鬼がやたら当たっているし、渚も調子がいいから、ここで油売ってるんですよ」
犬飼は当然だとでも言うような顔をしている。
「なんであいつがエースで、お前が二番手なんだ」
「そりゃあ、あいつのほうがいいピッチャーだから。さすがエースですよ。たいしたもんだ」
話を交わしながら、土井垣は悲しくなってきた。こんなに素直に相手の実力を誉める、闘争心のまるでない犬飼など……。しかも目の前の男は、肩幅や腕の太さといった外見は昔と何ら変わっていないようだ。だが顔つきだけはやたら柔和な感じがするが。
「まだ体が完全じゃないのか?運動能力に問題はないと聞いていたが」
「……別に、どこも悪くありませんよ」
「しかし、見たところ筋肉量が減ったようにも見えないぞ。昔のお前なら渚ごとき」
「俺は、昔の犬飼小次郎のことなんか知りません」
ぴしゃりと口を挟んできた。明らかに気に障ったらしい。男は土井垣にとっては昔馴染みの鋭い目つきでねめつけると、不機嫌に話しを続けた。
「あんたの知っている犬飼小次郎のことなんかね。昔の俺がどんなにすごいやつだったか知りませんが、今の俺は並みのピッチャーなんですよ。スピードは、他のやつらより少しはありますがコントロールが甘い。シュートなんかさっぱり曲がらんし。でも、俺は今の自分に満足してるんです」
しかし話終わった頃には、鋭さは影を潜めてしまった。記憶は全て失われた、初期化されたようなものだ、という医者の言葉を土井垣の理性は思い出していたが、目の前の犬飼はやっぱりあの犬飼小次郎にしか見えなかった。
「ちょっと待ってろよ」
土井垣はおもむろに立ち上がると、グラウンドに向かって走っていった。
『一体なんなんだ、あの男は』
一人残された犬飼は苛立たしげに草の上であぐらをかいた。自分が普段考えないようにしている過去について、ああも無遠慮にほじくり返してくるとは。
救い出してくれたことは感謝しなければならないのだろうが、犬飼としては思い出しようのない過去のあれこれよりも、今現在のことを考えていたかった。それはあの土井垣という男にしたって同じはずだ。だからこそ、俺と会わなかったのではないのか。今更、ドームとやらの中の出来ことを蒸し返してどうするつもりだ……。
『まったく、あんなやつに付き合っていられるか』
しかし、犬飼が立ち去ろうとするよりも早く、土井垣は戻ってきてしまった。ボールとグローブを抱え、息せき切っている。
「犬飼、俺に投げてみろ。お前がそんな、並みのピッチャーなわけがあるか。肩も背中も腰も変わっていないのに」
もうあんたとは関わりたくない、そう言い返そうとしたが、ためしに一球受けてみて俺の現実を知ればあきらめるだろうと思い直した。
「わかりましたよ。でも失望したって俺のせいじゃありませんぜ」
第一グラウンドのほうでざわめきが聞こえてきた。試合が終わったのではないかという気がしたが、今はかまっていられない。
土井垣がミットを構えてしゃがんだ。犬飼はしかめ面のまま振りかぶり、力をこめて、いつもよりも丁寧にボールを投げた。投げ返す土井垣の訝しげな顔。ほら、言わんこっちゃない、あんたの知っていたピッチャーは、もうこの世にはいないんだよと二球目を振りかぶる。
ボールを受けると、土井垣は立ち上がった。
「おいお前!何故フォームを変えた?」
「変えたもなにも昔から俺はこのフォームだ!」
犬飼は怒鳴り返したが、心の中では一年も経っていない昔だがな、と可笑しく思っていた。この街で盛んなテニスとサッカーの知識も頭の中に入っていたが、残念ながらあまり盛んでないハンドボールとバドミントンの知識は頭にインストールしてくれなかったらしく、この二つはルールもわからない。
土井垣は大股で近づいてくるなり、もっと足を高く上げろ、と言った。もっと胸をはれ、腕を引け、リリースを遅くしろと。
「なんだそれは。ひっくり返りそうな投げ方だ」
「お前の脚力なら大丈夫だ、そんな教則本に出ているような投げ方より、絶対こっちのほうがいいはずだ」
もう反論する気も失せていたので、犬飼は土井垣コーチに指導されるまま、体を動かしてみた。好奇心のほうが強かったのかもしれない。
「まぁそんなものかな。よし、投げてみろ」
土井垣は向こうへ行くと、再びしゃがみこむ。
犬飼は不機嫌な顔つきのまま、言われたとおりに足を高く引き付け、胸をはり……。
それは奇妙な感覚だった。
初めてのフォームのはずなのに、体は滑らかに動く。
そして、とても気持ちよく投げられた。
確かにこれが、俺の投げ方なのだと犬飼は思う。
二球目、三球目と投げ込む。渚なんか目じゃないスピードボールを投げる自分に、探しものを見つけたような、不思議な気分を味わった。
四球目、五球目。投球は徐々に波に乗り、球威はいよいよ増してくる。
確かに、これが俺だ。
「なぁ、土井垣さん」
犬飼は声をかけた。
「ありがとう。こんなに速い球を投げられるなんて、すごくいい気分だ」
しかし彼は黙ったまま、黙々とボールを受けている。
「まったくあんたは名コーチだよ。……だけど、不思議だな」
鋭い音を立てて、速球がミットに収まる。この男、キャッチングも上手いもんだと犬飼は思った。投げやすかった。ボールを受け取ると振りかぶりる前に、思わずこう漏らしてしまうほど。
「なんだか昔あんたと、こんなふうにキャッチボールをしたような気がする」
言ってしまってから犬飼は苦笑いを浮かべた。「俺みたいな、初期化された人間の言うことじゃないですがね」
犬飼はいい気分で六球目を投げた。ところが、大きく逸れたわけでもないのに、ボールはミットからこぼれ落ちてしまった。
「大丈夫ですかい、突き指しませんでしたか?……あれ、あんた。泣いているのか」
「……。あんまりなまくら球なんで、情けなくなったのさ」
土井垣はかすれた声で答えると、転がるボールをつかみ、勢いよく投げてよこした。
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