夜の中州を、男が歩いている。
見るからに何かスポーツをやっているとわかる、見事な体つきの長身の男である。
賑やかな歓楽街だが、彼はどこか寂しげで所在なさそうに見える。
『いつもなら、土井垣さんが案内してくれるのに』
不思議と福岡には詳しい土井垣。
ふと、目つきの悪い毛深い男が脳裏に浮かび、不知火は唇の端をへに字に曲げた。『あいつのせいだ』
嫌な顔は頭から消し去り、恋女房の姿を思い浮かべてみる。
しかしその土井垣は今はいない。今シーズンの彼は、本当にツキがなかった。まずオープン戦直後にクロスプレーで右親指を骨折。そしてようやくテーピングで復帰した頃に、ファウルチップが直撃し、また右手を痛めてしまったのである。
『オールスター、間に合わないかもしれない』
握力が戻らずバットも振れない状態だと聞いている。
福岡での対ダイエー4連戦、第2試合デーゲーム。
結果は散々だったが、不知火が原因ではない。今一人で中州をぶらついているのも、このところ頼りにならない打線に、愚痴を言いたくなりそうだったからだ。
いずれにせよ、取りあえずダイエー戦での仕事は終った。残り試合、もう俺に出来ることはない。
『横浜に戻ったら、土井垣さんに会いにいってみよう』
そのとき、誰かか怪訝な顔つきで見つめているのに気がついた。
「犬飼さん」
やれやれ、噂をすれば影か。男の口は一瞬への字に戻りかけたが、相手の口が開く前にすばやく笑顔になった。
「やっぱり不知火か……。いつもの、例の帽子を被ってないと一瞬誰か迷っちまうな」
本日の勝利投手。機嫌がよさそうである。
犬飼小次郎とは、岩鬼の紹介でなんどか酒を呑んだ。
『お前、土井垣と組むんだってな』
第一声はドスの効いた凄みのある声で。どないしはりましたんや、小次郎はん、と岩鬼が慌てるぐらいだった。正直、嫌われている、と思った。その時は何故だかわからなかったが。
この人は土井垣さんを好きらしい。そして土井垣さんが俺にぞっこんだと思い込んでいて、それが気に入らないようだ。俺と土井垣さんは、あんたが思っているような仲じゃないんだがな。
「いい変装になるんですよ、アレは」
「まったくだ……ところで、今から一緒にどうだ?」
小次郎は左手で杯を傾ける真似をする。耳の辺りがほのかに赤いのに、まだ飲み足りないらしい。
おいおい、どういう風の吹き回しだ?……勝利投手と敗戦投手が一緒に呑む。自慢したいのか。威張りたいのか。まあ独り酒よりは、いいか。いつか話をしてみたいと思っていた相手だし。不知火は観念した。
「ホテルの門限もあるんで、あまり長くは付き合えませんけど……それでもよければ」
小次郎の案内で、不知火は路地裏のショットバーへ入った。土井垣に連れていってもらったことのない店だ。小次郎はマスターと顔見知りらしい。
店は落ち着いた大人な雰囲気で、そこそこ混んでいたが、不知火はともかく犬飼が誰だかみんな知っているようなのに、ちらりと顔を見る以外はじろじろ眺めたりこそこそ噂をしたりということもない。いい店だ、と不知火は気に入った。
カウンターに座るとそれぞれ注文する。
沈黙。
シェイカーの中の氷がたてる甲高い音と、空気の流れのようなジャズの調べだけが店内を満たしている。
カウンターの隣の席で小次郎は所在なさそうに頬杖を突いていたが、やがて、
「土井垣はどうしてる?」
さもどうでもいいように、つまらなそうにつぶやいた。
夜のスケッチ(1)