梔子の夜

〜The night of the gardenia〜

1


「可愛いね、君……」
「綺麗だよ」
「震えてる。可哀相に……。さあ、おいで……」

「さあ……」

 あれは夢だったのだろうか。
 あれは幻だったのだろうか。
 でも、彼の目、彼の声、彼の手の感触は今でも脳裏に焼き付いている。
 あの時の梔子の薫りと共に…………。


 僕が彼と出会ったのは、ほんの些細な偶然からだった。
 あの日、僕が道に迷わなければ、自転車で転んで怪我をしなければ、僕はおそらく一生彼と出会うことはなかっただろう。おそらく一生、自分のこの忌わしい性癖に気付くこともなかっただろう。
 そう思うと、僕は彼が憎かった。そしてほんの少し、彼に感謝した。
 あれは五年前の夏の初めの出来事だった。
 当時小学六年生だった僕がよくやっていた遊びは、地図を見ながら友達と自転車で知らない街まで行き、地図を見ないで違う道を走って帰ってくるという、しごく単純な、バカバカしいものだった。でも当時の僕らにとっては、知らない街を探検し、自分達の記憶と勘だけを頼りに帰るゲームは、なかなかのスリルを得られるものだったのだ。
 その日は土曜日で学校は休みだった。いつものように友達の純太と夏彦と三人で自転車を走らせ、まったく知らない土地まで来て、さあこれから帰ろうという時、僕は二人と喧嘩をした。
 もう理由は忘れてしまったけれど、今から思えば、とるにたらない、些細なことだったのだろうと思う。でもまだ幼い子供だった僕は、どうしても二人を許すことができなかったのだ。
 そうは言っても、二人対一人。向こうに分があるのは誰の目にも明らかだった。
「もうお前らなんか知らないからな!」
 僕はそう捨て台詞を吐くと、二人を残して、力いっぱいペダルを踏み込んだ。知らない街で、道もよくわからなくて不安だらけだったけれど、来た道を帰ればなんとか帰りつけるだろうと考えていた。
 でも案の定迷った挙げ句、閑静な高級住宅街に入り込んでしまった。こんなところじゃなくて、もっと広い道路に出なくちゃ帰れない……。でも道を聞こうにも、通るのはなんだか取り澄ましたお金持ちの奥さん風の人ばかりで、気後れしてしまう。
 僕が周りの住所から何かヒントを得られないかとあちこちキョロキョロしながらスピードを落として自転車を走らせていると、ちょうど角を曲がってきた車にぶつかりそうになった。僕は慌ててハンドルを切り、なんとかぶつかるのは免れたが、バランスを崩して倒れてしまった。
 車はそのまま、何ごともなかったかのように通り過ぎてしまった。
 僕は不覚にも涙がにじんでくるのを止めようがなかった。不安で、心細くて、まるで世界に僕だけが取り残されてしまったかのような孤独感。
 ―――もう一生、家に帰れないかもしれない……
 そんなことまで考えてしまうほどの。
「君、大丈夫?怪我はないか?」
 頭上からかけられたその声に驚いて顔を上げると、僕を見下ろしている心配そうな青年の顔が目に入ってきた。
「あ、大丈夫……です」
 僕は慌てて起き上がり、倒れた自転車を起こそうとした。しかし青年が僕を制し、自転車を起こしてくれる。
「ありがとうございます……」
 僕は羞恥から消え入りそうな声でそう礼を言い、軽く頭を下げた。
 早くこの場を立ち去らなければ。
 なぜかそう思った。
「じゃあ……」
 僕は自転車にまたがり、ハンドルを握った。
「ちょっと待って。足、怪我してるよ」
「え?」
 僕は彼の視線を追い、ハーフパンツを履いた自分の左膝が擦り剥けて血が滲んでいるのに気付いた。どうりで痛いと思った。
「大丈夫です。これくらい」
「ちゃんと手当てした方がいい。そのままだとバイ菌が入っちゃうよ。僕の家はすぐそこだから、家で手当てしてあげる」
「……でも……」
 僕はその申し出に躊躇した。知らない人に付いて行ってはいけないと両親にきつく言われていたし、こんなかすり傷程度で人の手を煩わせるのにも気が引けた。
「家には僕だけだから、遠慮する必要はないよ」
 彼は優しい目でそう促した。
 そこまで言われて断る理由も思いつかず、僕は自転車を押して彼の後に付いて行った。
 すぐそこだと言った通り、一分もしないうちにレンガ造りの立派な家に辿り着いた。
「どうぞ」
 彼が門を開け、僕の背中を押す。
 僕はおずおずと立派な門をくぐり、自転車を止めた。
 辺りには、なにやら花の良い匂いが満ちていた。僕がその花の在り処を探り当てようと遠慮がちに辺りを見回していると、彼がにっこり笑って奥の庭を指差した。
「良い匂いするだろう?ほら、あそこ」
 スタスタ歩いて行く彼に、僕は慌てて付いて行く。
「これ、何の花かわかる?」
 彼は僕の背丈ほどある、真っ白な綺麗な花を咲かせた木の前に立った。
「いいえ」
 確かに見たこともあるし、香りにも覚えはあったけれど、無知な小学生の僕がその花の名前など知っているはずはなかった。
「梔子だよ」
「くちなし……」
「そう、近くに来て匂いを嗅いでごらん」
 僕は言われるまま、彼の側まで行ってその花に顔を近付けた。途端に、強烈に甘い香りが鼻腔に充満する。思わず顔をそむけた僕に、彼は気を悪くした風でもなく、少し悪戯っぽく微笑した。
「少しキツすぎる?遠くでほのかに薫ってくるくらいがちょうどいいかもね」
 僕は笑う彼を見ていた。
 僕はその時、どうしてそれまで気にならなかったのかわからないくらい、彼の顔はとても美しく整っているということに気付いた。
「頭がクラクラする。ねえ?」
 そう言って花を手に取り、そっと顔を近付け、僕に笑いかける。
その顔は綺麗で、それ以上にひどく淫らに見えた。
 紅をさしているかのような濡れた赤い唇。切れ上がった目尻。細く美しいカーブを描いた眉……。
 ひどく淫らで……―――怖いほどに…………。
 僕は見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて視線を外した。
「おいで。傷の手当てをしてあげる」
 彼はことさら優しくそう言い、僕の肩に手を乗せ、玄関に向かった。その手の思いがけないほどの熱さ。そしてちょっとおかしなほど僕の背中に密着した彼の身体。
 今ならわかる。彼の意図が。でもその時の幼い僕はまさかそんなことに思るわけがなかった。
 彼がああいう行為を要求するとわかっていたら、あの時の僕は逃げただろうか。多分、逃げただろう。急いで自転車にまたがり、慌てて門を出てがむしゃらに走り出したに違いない。

 でも今の僕なら…………?

 記憶の中の彼が淫靡に笑いかける。


「可愛いね、君。恐くないから。さあ……全部見せて…………」



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