ジェレミー・ドロンフィールド 「飛蝗の農場」
☆☆☆★



とにかく型破りな作品である。「このミス」で1位になっていたが、そこまでの一般性があるとはとても思えない。正真正銘の怪作だ。三橋暁が解説で「なんじゃこりゃ?」と言っているのも頷ける。


農場に迷い込んだ男を誤って撃ってしまい、看病をするにつれ男に魅かれていく。
しかし、記憶喪失にかかった男には恐ろしい秘密があって……。


というプロットはごく普通。特に変わりはない。
それどころか最後まで読んでも、ストーリー自体に取り立てて変なところはない。
後半に行くにつれ、ちょっと現実にありえないような子供っぽい展開になっていく辺りに作者の狂気(ホントにこの作者大丈夫か?的な)を感じるが、とりたててどうということはない。


この作品が他の作品と一線を画すのは、ストーリー自体よりもその語られ方によるところが大きい。

「第1部・必要に応じて名前を変更して」
「第2部・変更さるべきもの」
「第3部・名前を変更して」

という謎めいた章立て。
合間合間に挟まれる唐突なエピソードと挿絵。そして難解な結末(の語られ方)。


「飛蝗の農場」を一言で表すとしたら、「不安定」であろう。読者は一本だけ足が短い椅子に座ったかのような、微妙なグラグラを味わいながらページを繰ることになる。
そのグラグラ感の起因するところは、作品が拠り所となるべき核を持っていないことだと思う。

一応舞台は飛蝗の農場に設定されているが、時間軸も人称も目まぐるしく入れ替わり、落ち着くことがない。
登場するスティーヴンという男は多重人格ではないのか? というような疑いを抱かせたかと思うと、次の場面ではその男が語り手になったりする。読者は何を拠り所としてよいかわからない。それが「飛蝗の農場」の持つ奇妙な味の原因である。


その昔、瀬戸川猛資が著作「夜明けの睡魔」でクリスティの「アクロイド殺し」に触れ、「このミステリには客観性がないのでミステリとして成立していない」といった旨の小論を書いていたが、「飛蝗の農場」は客観性のなさを強調し、まとめあげた作品とも言える。全てが全て主観で語られ、何がなんだかわからず物語の迷宮へ……というのが「飛蝗の農場」である。
なぜスティーヴンは飛蝗を異常に怖がっていたのか? に対する回答が与えられないといった小さな破綻があちこちにあり、迷宮性に拍車をかけている。


こういうと小手先芸のような印象を与えるかも知れないが、はっきり言うと作者が本当におかしいのか、これらを全て計算してやっているのかよくわからない。
また、第2次サイコスリラーの幕開けなどと言われているが、この方向には袋小路しかないと思う。とてもサイコスリラーの新たな地平を切り開くとはとても思えない(というか、既に「ハンニバル」がジャンルへの終止符を打っている)。

この作品ははっきり好みが分かれると思う。ゲテモノ好きな方、もしくは家庭の料理が好きだけどたまにはなんか変わったモンでも食べたいなあという方に勧める。
狂人か、冷徹な数学者か。どちらにせよ今後の楽しみな作家が出てきたものだと思う。


■蛇足
私なりの結末の解釈(当然ネタバレ)


2003年8月20日



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