多分初めてだ。
そして、最後だろう。
俺、色々考えたんだ
神妙な顔をしてクロウがそんなことを言い出したのは、サテライトを半分まで制覇したころ。
前触れもなく唐突に、アジトから連れ出されて。京介は寒空の中、真剣な顔のクロウをぼんやりと眺めている。
色々考えた
言うだけあって、どこか苦肉の選択を迫られた顔。今まで一度も見たことのない顔。
眉間にぎゅうと皺を寄せ、大きな青灰色の瞳がゆらゆら揺れる。未だに迷っているというような、それでいて引き返すことは困難とでもいうような。
そんな顔。
それでも、何かを振り切るように一度だけ大きく頭を振って、クロウが口を開く。
「俺、もうお前に甘えない」
……あれ?
想像してたことと、違う。
そんな思いが京介の頭を掠めたのは一瞬。
それよりもなによりも大きな驚愕がすぐ後に頭を擡げたから、実際は思わなかったも同じだ。
甘えない?
「俺、考えたんだ。この間お前が風邪引いてからずっと。あんとき俺、わけわかんねぇって…なんだこれ、わけわかんねぇってなってた。ただの風邪だってこともわかってたし、たいしたことねぇってのもわかってたのに…わかってたはずなのに、身体動かなくなっちまって」
糸が切れたように。錆付いたように。風切羽を切られたように。
「ちょっとだけだ。ほんのちょっと不安になっただけで…ぱたんって、なんもかんも停止した。ぱたんって。俺、それがすげぇ怖かった」
動けない、考えられない。目は京介しか写さず、耳は全てを遮断して。ちいさく丸く、身体を縮めるだけ。
「俺が俺の物じゃないみたいで。どうしようもなくて…これからずっとお前に甘え続けてたら、きっともっと最悪なことになる。どんどん駄目になるって思った。だから…」
「もう、甘えない?」
キンと、空気が張り詰めた
クロウは、それを肌で感じていた。
京介はいつもどおりの顔で、声もいつもどおりに近いものだったのに。何かがピンと伸び張り詰めて、今にも引き千切れてしまうのではないか…そんな気がした。
明らかに、京介が発した一言で。
「駄目になる…駄目になる、な」
かしと、京介が少し乱暴に頭を掻く。少しだけ視線がそれ、また元通りクロウに向かったとき。そのレモンイエローの瞳に浮かぶ彩は、まるで。まるで、唸り声を上げる寸前の獣。
怒りを湛えた色。
「…たかだか十数年の人生で、お前よりも少しだけしか多く揉まれちゃいねぇが、ひとつだけ教訓ってやつを教えてやる」
声を荒げるでもなく、寧ろ平らかに。その表情に一瞬の波紋もなく、ただ瞳だけが爛々と輝いて。
「それがたとえどんな理由であれ、駄目にならねぇやつなんていねぇよ。遅かれ早かれ、いつか絶対、転げ落ちる」
すっと上がった京介の右手が、人差し指を下に向けすぅっと降ろされた。
「物理的に、感情的に、どっちかはわかんねぇ。両方かもしれねぇ。人によっちゃ途中で踏ん張るやつもいれば、底辺まで転がり落ちるやつもいる。落ちても気付かないやつもいれば、更に底までいっちまうやつもいる。状況はそれぞれだろうが、ひとつだけ言えるな。今までの人生順風満帆で、駄目になったことなんてねぇって本気で言い切るやつは、化け物か若くてまだ先が見えてねぇだけかどっちかだ」
たかが十数年の人生。にしては、随分と重みのある言葉。
サテライトという特殊環境の中で、京介は過去に一度、もしくは何度か、底辺まで落ちたことがあるのだと言っているようなもの。
「誰だって体験すんだよ…軽症だろうが重症だろうが、誰だっていつかは。特別なことなんかじゃねぇんだよ。だから…くだらねぇ理由つけんな」
最後の言葉だけ、平らかな声が揺らいだ。
耐えている。何かを耐えている。ずっと耐えて耐えて、でも。そろそろ爆発しそうな揺らぎ。
爆発すれば、塞き止めるものはない。わかっていて、目を見開いたクロウが相手だと、わかっていて。
「そんなクソくだらねぇ理由で…俺から離れようとすんな!!」
「ちが…っ」
咄嗟に出た否定の言葉は、京介に腕を掴まれた事で遮られる。クロウは恐々とした態で身を引きかけ、それでも足に力を入れ留まり。
キッと顔を上げた。目の前には、今にも噛み付きそうな勢いで真っ直ぐに睨みつけてくる、京介の顔。
「違ぇっ!離れるとかじゃなく、ただ…」
「違くねぇよ!今お前が俺に近づいてくる理由のほとんどが甘えだろうが!それがなくなったら何が残る?チームのリーダーか?便宜上の関係だけか?!」
「仲間だろ俺ら!!」
「仲間だけでなんでもすませようとすんじゃねえ!俺はお前の幼馴染でもなんでもねぇんだ!!」
「怖ぇんだよ!!」
怖い、怖い、怖い
「いつまでもこのままでいいわけねぇ!いつまでも甘ったれて、いつまでも当然って思えるわけねぇ!わかってんだ…わかってんのに……当然と思ってる俺が、一番怖ぇんだよ…」
確証なんてない
絶対なんてない
サテライトに生まれた以上、早い段階で知らされる事実。
なのに今、この状況はなんだ。甘い蜜を知らされて、とぷりとぷりと浸されて。
それがいつかなくなったとき、突きつけられる現実はなんだ?
いつの間にか京介のジャケットを握り締めていた指が震える。まだここにある、今はあるもの。でも、あり続けるとは限らないもの。
どんな状態でだって、なくなってしまったら終わり。
「お前と会って始めて俺は、終わりってもんの意味がわかった。わかっちまったんだよ…」
まだ手にしているものは少ないけれど。これからどんどん手にとって、古くなったものはどんどん手放して。
手放すときはきっと忘れている、どれほど欲しがって手にしたものか。どれほど大切だったかも。
手放して、数歩歩いて。目の前に崖があってそのまま落ちて。落ちて、落ちて…。
「だからなんだよ」
さわと、クロウの頬に京介の指が滑る。
さわ、さわと。
顔を上げれば、京介はもう怒りから遠く離れ、案ずるような顔。
さわ、さわと滑る指は、湿っていて。クロウは、自分の目尻がうっすらと濡れている事に気がついた。
流れるほどの量ではない、ただ頬を擦った親指が掠め取っていく。
「終わったって関係ねぇよ。何処落ちたって、何処まで落ちたってかわんねぇ。底辺まで行って、ぶっ壊れるか血反吐はいてでも登るかしか選択がなくたって、お前登るよ」
覗き込むレモンイエローは、少し揺らいだ。すぐに消える些細なものだったけれど。
「…んで、始めるんだよ。駄目になることが最後じゃねぇだろ。駄目になったあと、どう行動するかが問題だろ。登った先が今までより見晴らし悪くても、更に上を目指して無茶したって、そこから何かが始まることに変わりはねぇ。本当の終わりってのは、ぶっ壊れる選択をしたときだけだ。お前は絶対に、その選択だけはしねぇよ」
絶対に
「絶対なんて…」
「あるんだ、お前はあるって信じられるやつなんだよ。絶対に揺らがねぇ、ぶっとい筋通せるんだ」
だから
「だから、俺は…」
きっかけを作ろう。
縛り付けるためじゃなく、手放すために都合のいいきっかけ。
立ち去る理由が明確で、後腐れのないもの。
納得できるもの。
使うか使わないかは、そのとき次第。
使うときは バイバイ その一言で終わりだ。
「お前が好きだ、クロウ」
初めて触れた唇は、少し震えていて。
多分、同じように少し震えたそれを何度も押し当てて。
「甘えてくれよ、頼ってくれ。離れないで、そのためなら何だってするから。何だってやってみせるから…お前がいなくなったら俺は、気が狂う」
怖い
怖いな…これ以上に怖い選択なんてあるはずもない。
なのに。わかっていたって、どんなに理解していようと、切り札を使うしかないときもある。
「俺を、好きでいてくれよ」
ゆるゆると、クロウの腕が京介の背にまわった。
そのとき京介が、泣きそうなほどの歓喜に包まれていて。それと同じくらい、喚き散らしたいほどの苦しみに喘いでいても。
もう一度合わさった唇から、それを推し量れなんて…きっと神様にだって出来ない芸当だっただろう。
『甘えたその13/怖い』
オマケ→
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