頬を撫でる、風。
ポッポタイムの一室を吹き抜ける風はいつも生ぬるくくすぐったい。シティよりもサテライトに近いその感触を、クロウは気に入っている。不意に揺り起こされて、クロウはやっと目を開けた。途端目の前に広がる端正な男の顔。
「っ、うお」
くるりと上がった悲鳴、くつりと男は笑う。
弱い風に揺れる髪。青みの銀髪は、どこにいても目を引く。そうして視線が移れば、次に目に入るのは人形じみた白い肌と金色の眼。その目が合って、微笑みかけられでもしたら、きっと目に焼き付いてもうはなれない。
「寝坊なんて珍しいな、クロウ」
「な、なん、……あ」
男、鬼柳京介はクロウが眠るベッドに乗り上げてクロウを見下ろしていた。纏っている仕立てのいいシャツは、彼の持ちものではない。少しだけサイズが大きいそれは、クロウの同居人、ジャック・アトラスのもの。
何故彼がここにいるのかは覚えている。
昨夜唐突に訪れて、クロウの予定を問い詰めて、何もないと答えた瞬間クロウを抱えて寝室に飛び込んだ嵐の正体が彼であるから。昨夜何がどうなったのかはあえて思い出さないことにして。
しかし、何故彼がこのシャツを着て、目の前にいるのだろうか。
その疑問が届いたのか、鬼柳は更に笑みを深め、告げた。
「デートしようぜ、クロウ」
寝起きの頭で、遠距離恋愛中の恋人の言葉にどう反論するべきかも分からず、クロウはこくりと頷いた。
前を歩く鬼柳の背中を追いかけながらクロウはゆったり息を吐いた。
「……普通に買いだし手伝えって言えばいいだろよ……」
「クロウと出掛けるならデートだろ」
「あーっ! もういいっ」
サティスファクションタウンは発展途上の街だ。シティにしかないものも山ほどあり、シティで直接仕入れた方が安く便利なものもある。鬼柳の目的はそれだった。
まず一件目、家具。WRGPの盛り上がりに乗ってシティにオープンしたばかりの家具屋は、オープンセールの真っ最中だった。これからまだ背も伸びるだろうウェストに新しいベッドを買ってやりたい、それが鬼柳の希望だった。
とはいえ平日の午前、店はさほど繁盛している様子はない。所々に見える売りきれ、仕入れ待ちの文字が先日までの大盛況を感じさせてはいるのだが。
ふうんと辺りを見回して、目的の売り場にたどり着く。先に付いたのはベッド売り場。鬼柳は並んだベッドを見回して、機嫌良くクロウの方を向いた。
「クロウ、どれがいい?」
「何で俺に聞くんだよ……」
「俺よりウェストに背が」
「それ以上言うとおれ帰るからな」
後ろで束ねた髪を引いて、それでもクロウはちゃんと並ぶベッドの具合を確かめはじめた。身をかがめ、スプリングの軋みやベッドの高さを確かめる。記憶にあるウェストの身長を思い出しながら一つずつ繰り返し、展示品限りのベッドの感触と値段を確かめ、にんまりと笑う。
「鬼柳、コレ――」
振り向きかけたクロウの体は、ベッドの上に転がった。その隣に座った鬼柳が、くく、と笑ってクロウの額に手を押し当てた。
「気に入ったんなら、俺たち用のも買っちまうか?」
「……っ」
辺りを見回し、クロウは眉をひそめた。似たようなデザインとサイズのベッドが並ぶ空間の端で、ぽつりと一言。
「シングルしかねえぞ」
「……え?」
余裕ぶっていた鬼柳が、途端、目を丸くする。クロウが起き上がりもう一度振り向くと、ずっと澄ましていた彼の頬がほのかに赤くなっている。戸惑いがちに見つめられると居た堪れなくなって、クロウは目を逸らした。
「……何だよ、気持ち悪ぃ」
「はは……愛されてるな、俺って」
「はああ?」
現品限りのベッドにかかった商品札を取り発ちあがると、鬼柳は不満げに視線を送るクロウの肩に腕を回して囁いた。
「ダブルでいいってこと、だろ?」
クロウが鬼柳の腕を払いついでにベッド側に蹴り飛ばし、別の売り場まで走りだしたのは言うまでもない。
店内は走らないでください、の言葉に動けなくなったクロウの手を取った鬼柳が次に向かったのは同じ店の食器売り場。
食器なんて使えればいいとクロウは思ってはいたが、ニコが紅茶を入れるためのティーポットが欲しいと笑いながらクロウの手を引く鬼柳には何も言えなかった。
しかし売り場にたどり着いて、二人は立ち尽くすことになる。
「いや、どれが美味くいれられんだ、紅茶」
「どれも同じじゃねえ……?」
「どれにすんだよ……」
店の人間が好きなのだろうか、想像していた以上に種類があったのだ。ティーポットばかり棚に並ぶ光景に圧倒され、紅茶とはほぼ縁のないふたりは無意識にじりと後退った。どんなデュエリストにも決して怯まない彼らが、だ。
「おい、鬼柳……ニコのやつ、どういうの好きなんだ?」
「今は真っ白いやつ使ってるんだけどよ」
「花とか…リボンとか…」
「ん、んん……」
自然と身を寄せて、ひそひそと話す。クロウの方が背が低いので、鬼柳はシャツを纏った背中を丸めて、片手を自分の腰に、もう片手をクロウの肩に置くことで落ち着いたようだ。
二人で同じ方へ視線を動かし、戻し、首を傾げる。後を通った店員が声をかけかけて、くすと笑って素通りしていく。二人はそれほど真剣で、仲睦まじく見えたのだろう。
「アキと龍可は花の柄が好きだったぜ…」
「じゃあニコもやっぱ花かな…」
手に取ったのは蒼い薔薇柄のティーポット。控え目な柄の、丸みの強い可愛らしいデザインだ。そろりとクロウがそれを取り、鬼柳と向き合う。
「これで」
「それで」
揃いのティーカップは箱におさまっており、それを二つ取って鬼柳は頷く。そのままレジに向かおうとしたので、クロウは慌てて引き留めた。
「おい、二つでいいのか?」
「俺はマグカップ派でさ」
言いながら、鬼柳はマグカップの陳列された棚も素通りしていく。矛盾した発言に、クロウは疑問を顔全体に浮かべて鬼柳を追いかけた。
「おい、マグカップ」
「それはまだいい」
「いいのかよ、せっかく安いのに」
ティーカップの入った箱を二つ積み重ね、片手をクロウに差し出した。軽く頭を下げる、少し気障な仕草。誰に習ったんだ、ジャックか、とクロウは眉を寄せその手を見つめた。
その手はクロウの手を取るかと思いきや、すいと持ち上がってクロウの頬を撫でた。
朝感じたのとよく似た感触。あれは風じゃなかったのかと顔を上げる。
「クロウの嫁入り祝いで買いにいく」
囁くと同時に、頬を掠める唇。朝と同じ感触。
ぶわ、と顔を真っ赤に染めたクロウの手からティーカップを奪い、鬼柳は颯爽とレジへ向かった。
固まってしまったクロウに、鬼柳はもう一度振り向いて。
「もちろん俺のとこに来るよな?」
誰がいくか、ボケ!
ぱくぱくとクロウの唇は動いたが、声にはならなかった。
店を出ると、鬼柳は妙にきょろきょろとあたりを見回し始めた。次に買うものはまだ聞いていない。ブラックバードデリバリーの配達員であるクロウなら、それだけの情報があればどこにでも案内できる。しかし鬼柳は極力自身で目当ての店を探そうと、ギリギリまでクロウにそれを告げないのだ。
もっとも、昨夜無茶な体勢を強いられて痛む体ではブラックバードを走らせることができず、今日は徒歩と公共交通機関の世話になる羽目になっていることを思うと、非常に複雑な気持ちになって、クロウはちらと鬼柳を睨んだ。
「クロウ」
途端、振り返る顔。綺麗過ぎるほどの笑顔。
「ちょっと休憩しようぜ」
言って、鬼柳が指したのは、家具店の向かいにあったカフェ。煉瓦の壁、白いカーテン、インテリアらしい犬小屋。窓際席には一組の男女が見える。しかしカフェにいい思いをさせられたことのないクロウの顔は、自然強張っていった。
3000円のコーヒーの悪夢。3000円でコーヒーを飲むくらいなら3000円の肉を食べたほうがどれだけいいかと何度説いても聞き入れられない、クロウには理解できない領域。
まさか鬼柳も、と後ずさる。
「あそこ、安くて美味いらしいぜ」
クロウの異変に気付かないのか、鬼柳はにこにことクロウを引き連れていく。カフェのウェイトレスが綺麗な営業スマイルで来店を迎えて頭を下げた。
通されたのは一番奥の、暖炉の隣にあった席。照明を見上げれば、眩すぎない程度の明かりが花弁の中に灯っている。クロウは無意識に壁際に寄って座った。
「……落ちつかねえ」
「そうか?」
「んん……」
渡されたメニューを開くこともせず、俯いたクロウは視線だけを鬼柳に向ける。眉尻をやや下げて微笑み返す鬼柳は、シャツの色も今日は白に近いせいで、随分と光の影響を受けて見えた。窓からの陽光と室内のやや朱みを帯びた照明に挟まれて、蒼銀の細い髪が煌めく。
クロウがここで店を変えようと言い出せなかったのは、彼があまりにも様になっていたからだ。クロウの側に開いたメニューを向けて、軽食も美味いんだぜ、と笑いかける顔は、無邪気で、どこか懐かしい。
それを曇らせてしまうのはもったいない。クロウは出された水を飲んで、メニューを覗き込んだ。口にこそしないけれど、確かに自分は、この鬼柳京介の唯一の恋人、という立ち位置を喜んでいるのだ。それが伝われば、いい。
「俺、ナポリタンな」
「じゃあ……俺、これ」
「ボリューム満点サンドイッチ。アイスコーヒーも決まりな」
通りがかったウェイトレスを、軽く持ち上げた片手を振って呼ぶ。クロウは何気なくメニューを捲って、最後のページに目を留めた。早足で近づいてきたウェイトレスが、お決まりですか、と微笑みかけた。
「ナポリタンとサンドイッチ。あとアイスコーヒー二つ」
「あ、あと、これ」
開いたままのメニューを指して、クロウがウェイトレスを見上げる。
「チョコレートパフェは食後でよろしいですか?」
「あ、オネガイします」
降り注ぐ笑顔につい笑顔を返して、クロウは頷いた。突然の追加注文を受けて、ウェイトレスはそのまま席を離れたが、鬼柳は首を傾げる。ぱちと瞬く目、見返すクロウも首を傾げる。
「珍しいな」
「だってお前、好きだろ」
メニューをぱたんと机の上で畳み、端のスタンドに立てる。首を傾げたままの鬼柳へ向き直り、クロウはまた水を飲んだ。
「パフェ。好きだったろ? せっかくだから食おうぜ、チョコならおれも食う」
「あ……」
手にしたコップをテーブルに戻し、鬼柳は机の上で手を組んだ。心なしか唇の端を上げ、クロウを見つめる。金色の目。
クロウは彼の瞳が好きだ。不安になるほど淡くて、それでいてまるで光を宿したように強い。暗いサテライトでらんらんと輝いていたそれが、闇の中で消えかけていたのを見た時には、心底衝撃をうけたりもした。
今言えば彼はまた気にして沈んでしまう気がするので、言わない。ちょうど運ばれてきたアイスコーヒーにガムシロップを入れることで、自然に鬼柳から目を離した。
「パフェ…一緒に……ね」
呟いて、アイスコーヒーのストローを咥える鬼柳の眼はきゅうと細められている。まだ苦いはずのアイスコーヒーすら気にしていない様子だ。
心ここにあらず。クロウが手をひらひらと振っても、鬼柳はまだ考え事をしているらしい。アイスコーヒーは全く減っていない。
集中力があるのはいいことだが、ここで黙りこまれても困る。ひとまずクロウは鬼柳の分のガムシロップの封を開け、彼のコップに流し込んでやった。
そのままそっとストローを掴んで、動かせるだけ動かしてみる。透明な砂糖液がくるくるとコーヒーに溶ける途中、鬼柳の視線が下に動いた。
「やっと気付いた……か」
続けようとした言葉は、そこで吹っ飛ぶ。
ストローを離れた鬼柳の舌が、離れかけたクロウの指先に触れた。そしてしっかりとクロウと目を合わせ、彼はにんまり笑ってみせた。
「甘い」
ガムシロップが指についたんだろうか。
そうは思っても、クロウは指を引っ込めて黙っていることしかできなくなっていた。両手は膝の上、視線も膝の上。
先ほどまであれだけ明るかったのに、とオーダーされたメニューを運んでくるウェイトレスも不思議そうにしていたが、逆に鬼柳の機嫌が先程以上に良かったので、何を言われることもなかった。
「食った気しねえ……」
サンドイッチとパフェに乗ったバナナをぺろりと平らげておきながらも、店を出るクロウが口にしたのはこの台詞だ。
「そうか? 美味かったぜ」
「美味かった、財布に痛手でもねえ、腹も一杯だ、……だけどな……」
片手を腹部に当てて、息を吐いたクロウは鬼柳を見、鬼柳がにこと笑い返す途端にまた視線を落とす。味も量も申し分なかった、その証明として満腹感があるのだろうが、胸で渦巻くものが、邪魔をする。見上げる空、太陽が遠くきらめいて、ますますクロウの渦を育てた。
「クロウ、次行こうぜ。ちょっと遠いんだけど」
「…あ? 今度何だよ…」
さりげなく腕を掴まれることにも慣れて、クロウは言われるまま歩く。バスに電車に地下鉄、乗り場を通り過ぎて鬼柳は歩いた。交通機関が発達したシティは、この通りを歩くより数百円の出費で済むなら乗り物移動が早い。まして平日の昼、人通りはいつも以上に少ない。食事分を取り戻そうとしているのか、単純に慣れなのか、それとも。
クロウは一度鬼柳の手を払い、離れた手の平を握りこむ。えっ、と鬼柳の声がしたが、構わず足を速めた。
「コート、クリーニングに出してんだ」
クロウの手を引く体勢に戻って、鬼柳はできるだけ細い路地を選んで歩いていた。こそこそと隠れて、ネズミにでもなった気分だ。あるいは、本当に昔と同じ。
自然と浮かぶ笑みを刻んだ唇で、クロウはへえ、と声を上げた。
「だからジャックの服着てんのか」
「それはまあ、色々あってな」
くしゃと頭を掻き、鬼柳はいくつ目かの路地を抜けたあとクロウの手を放した。クリーニング屋はまだ見えないが、鬼柳はこの通りに何かを見つけたらしい。
「クロウ、あそこ寄ろうぜ」
「どこだよ」
「あそこ、Tシャツ売ってんじゃん」
「赤いTシャツ買うのか?」
「それ、いいな」
笑いながら近づいた店は、どうやら古着屋のようだった。新品にしか見えないTシャツの札に、USEDの文字が書かれていることに驚いた記憶は新しい。
噂をすれば赤を基調としたTシャツがかなりの安値で売られていて、クロウは自分の体の前でそれを広げて鬼柳を呼んだ。
「あったぜー、叩き売り赤T」
「それじゃなくて、クロウはこっちな」
澄ました顔で差し出されたのは、赤いTシャツ。クロウからすればこの安値のついたものと何が違うのか分からない。試しに値札を見てみれば値段が随分と違った。どうやら鬼柳が渡してきたものは新品であるようだ。しかし、そこまで。
「他の誰が着てたんだか分かんねえのは認めねえ。それなら俺のシャツやるよ」
「え、……いらね」
つい零れた本音に、鬼柳は慌てて両手を振った。
「例えの話だからな、本気にすんなよ」
「目がマジだった」
「……満足できねえ……」
肩を落とす姿は、むしろ生き生きとしていた。永遠に失われてしまったと思っていた輝きが、変わらず彼の中にある現実。クロウは内側で何かがますます激しく渦巻くのを感じて、赤いシャツの上から胸を押さえた。
「取りあえずこれ買ってくるな」
「買う、のか」
ぼんやりと返した返答を、鬼柳は何か勘違いしたようだ。店のそばにあった壁にクロウを寄りかからせ、待ってろな、とだけ言い残して走っていった。
奪い取られたシャツの感触を失った手を見つめ、クロウは言われるままに立っていた。今の鬼柳は仕立てのいいシャツを纏っているせいか、古着屋なんて似合わない。それでも、クロウの知る鬼柳だ。
渦巻くものが、言動の邪魔をする。クロウは壁にもたれ、両手をズボンのポケットに押し込んだ。
「クロウ、大丈夫か?」
そして店から飛び出してきた鬼柳へ、顔を上げる時には、出来る限りいつものように。
「わり、なんつか、眠い!」
「……はは、そだな! じゃ、さっさと済ませちまおう」
ごめんな、そう言って頭を撫でる手を見上げれば目に入る太陽が、先ほどより近く、クロウを見ている。通りを行く人々が振り返る、その視線も何故か途端に気になった。
鬼柳の体がそれらを遮り、低く名を呼ぶ。頷く。それが、またぐるりとクロウの違和感をかきまぜた。
「俺のコート、すぐ向こうの通りの店にあっから」
少し早足に鬼柳が進み、クロウはその後を追う。どちらからも手は伸ばされなかった。
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