季節は、春。始まりと終わりの季節。晴天の下、若葉が穏やかな陽光に照らされ光る様はそんな季節に相応しい。若葉と同様に鮮やかな橙色の髪を照らされながら、クロウ・ホーガンは前を開けた黒色のオーソドックスな学生服の裾を払った手をズボンのポケットに突っこんだ。目の前には女生徒。小さな両手で大事に持っているのは、淡い水色で縁にレースの模様がついたかわいらしい封筒。すとんとしたブレザータイプの制服で隠れていても分かる、細い割に出るところは出た、一般男子の理想の体。
「ホーガンくん、あの、これ……」
髪は染めているのかいないのか分からないくらいの茶髪、それでいて声も口調も控えめ。ヤマトナデシコ、クロウの頭に浮かんだのはそんな単語。正しいのかどうかはわからない。広い校庭の片隅にある木は教室の窓からは見えない位置にあり、まさにこんな控えめなわりに積極的な女子たちが行動を起こすにはおあつらえむきだ。誰が植えたのか知らないが、いい迷惑だと内心毒を吐きながらクロウは欠伸を噛み殺す。
電子通信手段の発達したこのご時世で手紙なんて差し出した時点で、後に続く彼女の言葉はとっくに予測できていたから。
「っだあ、畜生!」
教室に戻り、残り少ない昼休みの時間を取り返そうとするクロウの行動は早かった。持ちこんだ弁当包みを引き裂く勢いで開き、二段の弁当箱を慣れた手つきで分ける。がちゃと音を立てて取り出した箸を構えて、一息つく間もなく梅干を埋めた白米が詰め込まれた一段を左手で持ち上げた。
「荒れてる、ね……」
コンビニで買ったとわかるサンドイッチを片手に、左隣の席の男子学生が苦笑を浮かべる。深みのある青い髪は首を撫でるほどの長さがあっり、表情も仄かにぼやけた印象があるため、どこか軟弱な印象を与える。しかし彼が立ち上がれば、スポーツマンを思わせる体躯と長身がその印象を打ち消すことを、普段並ぶたびに悔しい思いをさせられているクロウは良く知っていた。
「るせっ……てか、ブルーノお前も今からメシか?」
「うん、まあね」
椅子の背もたれに腕をかけて、ブルーノは笑う。クロウが教室を出ていく時にはすでに机の上にサンドイッチが出されていたにも関わらずこれから食事か。クロウはそう思ったが、あえて何も言わずに炒めたポークウィンナーを一口でほおばった。特に会話もなく互いに食事を進めていると、クロウの前の席の椅子が引かれて、二人とも顔を上げる。見えたのは左右に立ち上がった特徴的な黒髪と、目を引く青紫の瞳。
「クロウ、戻ってたのか」
「ん、ぅせ」
名を呼ぼうとしたが、白米を詰め込んだクロウの口からは意味不明な言葉だけが零れる。白米は辛うじて零さずに、クロウは拳で口を塞いで慌てて咀嚼した。席に着いたばかりのクロウの友人、不動遊星は購買で買ってきたらしい黄色い厚紙製の箱を開き、そこにふたつ並んでいた銀色の袋を取り出して上体を捻ってクロウに向けた。遊星が手にしているのは、クロウも見慣れた栄養補助食品だ。弁当箱に戻した箸をつけることなく、深く、深く息を吐いた。
「……ゆっせ、お前またそれかよ」
「手軽でいい、味も複数あって効率的で」
「わかったもういい、ほら口開けろ、あーん」
反射的にか開いた遊星の口に、クロウは半分に割った卵焼きを箸でつまんで放り入れた。遊星が口を閉じると、今度は隣から無邪気に「いいなあ!」と声が聞こえたので、ブルーノの口にも残り半分を押し込んでやった。クロウの弁当はクロウの手製で、格別に見栄えも味もいいというわけではないが卵焼きだけは絶品であることを二人は良く知っている。弁当と言えば卵焼きだろうと力んだクロウが本気で練習を繰り返した賜物だ。
「クロウ、腕を上げたな……」
「うん……でもそろそろ卵焼き以外も上達してもいいころじゃないかな」
「……お前らおれを何だと……」
どこか遠くを見つめながらほうっと息をついた親友たちを半眼で眺め、クロウは笑みを引きつらせた。それでも空腹をどうにかしようと動いた手が炒めただけの豚肉をクロウの口に押し込んだ。少し塩辛いそれを咀嚼して、白米に箸をつけたところでクロウの視線が遊星を通り越して上に、向いてしまった。見えたのは数学の公式が書かれたままの黒板の上の丸い時計。
「うわ、やっべ!」
机の上を箸が転がって、クロウの手が学生服のズボンのポケットに押し込まれる。卵焼きをようやく飲み込んだ遊星は、眉根を寄せてクロウのポケットを見た。クロウにとって日常と化しつつある昼休みの呼び出しが何であるのか、同じ日常を過ごす遊星は知っていた。
「やっぱり行くのか」
「あー、行ってくらぁ……」
転がした箸を揃えて黒色の箸箱に戻し、クロウは唇の端を舐めて席を立った。ブルーノがそれを見上げ、遊星は同時に席を立つ。クロウは弁当箱をそのまま、机の左端に寄せた。
「俺も行く」
「いいって、一人で」
「ジャックに用事があるんだ」
言って、遊星は机の中から派手な色のビニールの袋を取り出す。薄い何かをほぼ正方形に梱包したようで、要するに遊星はそれを先輩であり友人のジャック・アトラスに渡したいということらしい。確かにクロウの目的地は一つ年上の幼馴染である彼のクラスだ。持って行ってやろうか。そう言いかけて、クロウは口を噤んだ。
「ブルーノ、お前はどうする?」
遊星は視線をずらし、ガタガタと音を立てて中途半端に浮かせた椅子ごとクロウの机に近づいてきたブルーノを見やる。遊星の中で、行かないという選択肢はすでにないのだ。そしておそらくブルーノも。
「僕はクロウのお弁当食べておくよ、いってらっしゃい」
案の定躊躇いなく振られた手を振り返し、ポケットの中の封筒に触れたまま教室を出ようとしたクロウは、思いだしたように振り向き一言付け足した。
「放課後あんぱん買ってよこせよ!」
「考えておくよ!」
ブルーノの答えを聞いて溜息をついたクロウの肩を、遊星がぽんと叩いて大丈夫だと微笑みかけた。
3年の廊下は2年のそれと比べて静かだ。それはたぶん、受験だの就職だの、考えたくもない大人社会への入り口が開いていることをうっすらと自覚し始める生徒が増えるから。
「……また来たのか」
今、教室の出入り口で開ききったドアに手をかけて嘆息する彼は、上級生の風格はあるが2年のころと比べて何が変わったということもない。幼馴染として見慣れたがゆえにそう見えるのかもしれないが。とにかくこいつは変わらないな、そう思いながらクロウは片手を上げてひらと振った。
「おれだって来なくていいなら来ねーっつの」
ジャックは腕を組み、振り返り教室を見回した。切れ長のアメジストの瞳、艶やかな金髪、良く通る声、通り過ぎるだけで目を奪う長身。絵にかいたようなきれいな先輩。これが、クロウのクラスの女子たちが言うジャック像だ。暴力的だとブルーノが、おしゃべりがすぎると遊星が、わがまま小僧だとクロウが加えてようやくクロウの中でもそれはジャックだと言えるようになる。クロウにとっては屈辱でしかないが、表現はどうあれ、顔と声が良いことと長身であることは否定しようがないのだ。
もう一度息を吐いたジャックが、一度首を振った。それだけでクロウは頷いてみせる。クロウの目的は、このクラスにいるもう一人の良く知った男子生徒だ。
「そーか、さんきゅ」
教室にいないのであれば、もう残る選択肢は一か所しかない。少なくとも、クロウにとっては。だからこそ長居は無用と背を向けたのだがジャックがそれを許さなかった。大きな手のひらが袖の上から手首を掴む。アメジスト。女子がそれに喩えた瞳が細められて光る。
「もう奴に関わりすぎるな」
クロウの目的の人物を、「奴」とジャックは言う。クラスメイトで、古くから見知った人間であるのに。クロウの後ろにずっと立っていた遊星が袋を摘んだ手に少し力を込めた。薄いビニールはかしゃと音を立て、クロウは方を竦め苦笑する。
「言われなくとも。つか、関わりたくて関わってんじゃねえし」
「断ることくらいできるだろう」
クロウと遊星は件の人物を「奴」とは呼ばない。その男が昔に指定したままの呼び方で今も呼ぶ。遊星はそれしか彼を呼ぶ方法を知らないから。クロウは、今さら変える意味を考えたこともないから。クロウの手首を強く掴むジャックは、引き下がる気配を見せない。昼休みは終了に刻々と近づいている。教室の中で昼食を広げている人物はもういない。
クロウが腕を振ってもジャックは離れない。離せと言っても首を振る。クロウの眉間に皺が寄った時、遊星が手を伸ばした。
「ジャック」
真顔で伸ばした手は、両耳の手前に垂らされた細い髪の束を片方摘んで引く。反射的に遊星の腕を払った手は、クロウを掴んだその手。ジャックがそれに気づいて再度手を伸ばす前に、クロウはもう廊下をかけていた。クロウの逃げ足は幼馴染の中で一番早い、ジャックが歩幅を生かしたところで、小柄さを生かして人の間を縫い、階段を滑るように走る彼に追い付くのは困難だ。だからジャックは額に手を押し当てて奥歯を噛んだ。
遊星はクロウが走り去った廊下を見つめながら、ジャックの胸元に袋を押しつけた。
「もう、クロウと鬼柳の問題だ」
告げて、ジャックを見上げた遊星の眼は、鋭すぎるほど真剣なだけだった。
鬼柳。鬼柳京介。彼がクロウが探している生徒。クロウが受けとった少女からの手紙を渡すべき相手。
京介は、昨年転校して来た途端に有名になった生徒だ。中学ではクロウ達と良くつるんでいたが、彼一人が事故に巻き込まれてからしばらく音信不通が続き、高校になって再会した。
水色がかった髪で耳を隠す伸ばし方も、金色とも言える明るい色の瞳もそのままに、雰囲気を変えて現れた彼が記憶の中の鬼柳京介と重なるまでには随分と時間がかかったと遊星もジャックも洩らしていたが、クロウはさほど気にかけてはいなかった。白目を黒く覆ったコンタクトも、常に人を見下ろした笑い方も、中毒気味だった携帯電話を手放してしまったことも、穏やかで柔らかかった声音が、どこか粘着質なものになったことも。
人は変わるものだ。しかし変わったからといって他人にはなり得ない。それなら鬼柳は鬼柳だろうと、クロウは思っている。昔ほど接近を望まないというから、距離は増えてしまった自覚はあるけれど。それを縮めるつもりも広げるつもりもクロウにはない。
上履きのゴム底で階段を踏み付けるように降りて、その裏側を覗き込む。用務員用の清掃道具を詰め込む倉庫の前で、壁に寄りかかって目を閉じている人物を確かめたクロウは、投げ出された彼の足の裏を爪先で蹴った。
手の中には明らかに中身の残ったゼリー飲料のパック。同じ制服。間違いない。
「おい、不良」
「あぁ? ……あー、よぉ、不良」
開いた目の奥は、黒と金。クロウを見上げて笑うのが、京介だ。コンタクトをしたまま寝るなとクロウは何度も忠告しているが、聞く耳を持たない彼は案の定今日もそのまま眠っていたらしい。春先とはいえ日も当たらない階段の影は冷えるだろうに、それが心地いいと京介は言うからクロウも止めない。
「ああ? またかよ」
「まただよ」
クロウはポケットの手紙を取り出して京介の眼前につきつけた。色の白い指がそれを取り、ひらひらと振る。唇が弧を描くと、まるで見せつけているかのようにも見えてクロウは唇を尖らせた。
けれどそれも。
「いつもごくろーさん」
そう、京介の言う通りいつものことなのだ。
京介の横に腰かけて、うああ、と声を上げて伸びをする。床も壁も冷えていたが、廊下を駆けてきたクロウにはその冷気が心地よかった。肩の力を抜くと、チャイムが鳴る。京介もクロウも同時に「あ」と声を上げるが、立ち上がろうとはしなかった。
手の中のゼリー飲料の蓋を閉めてポケットに押し込む京介を見て、クロウは眉根を寄せる。
「それ、残すなよ」
「気が向いたら飲むわ」
遊星と違い、京介は食べ物だろうが粗末にすることを厭わない。昔から見つけるたびにクロウはいつも忠告だけはしているが、京介がポケットに押し込んだ食品がどんな結末を迎えているのかは知らない。
「まあ、お前のもんだからな……つかほんと、お前さあ、携帯持てよめんどくせえ」
「いらねえ。あんなん役に立たねえ」
中学時代、珍しくクロウ、ジャック、遊星と京介が派手な喧嘩をした日の夜に交通事故が起きた。トラックにはねられ、子供が重傷を負った事故だ。手術を超えて奇跡的に命は助かったのだが、その子供を京介が突き飛ばしたと証言した人物がいたせいで話は随分と曲がってしまった。
京介はそんなことはしていない。後で明らかにもなった通り、京介は子供を助けようと手を伸ばしただけだ。ただ、彼は優等生ではなく、少々口が悪かった。よりによって手を伸ばすと同時に叫んだのが、「おい、クソガキ」だっただけ。それを聞いた主婦が振り返った直後、京介が呆然と子供を見つめていただけ。けれどその場で見知らぬ大人に責め立てられた京介は、動揺する心を隠せず親友たちに助けを求めた。
喧嘩を根に持ったジャックは一晩だけ頭を冷やせと着信拒否。責任を感じた遊星は今は話せないと電話を取らず。クロウは携帯を鞄に押し込んだまま公園のブランコに立ち乗っていた。
翌日学校で噂が広まって、何も知らない三人はただ困惑して登校して来た京介に駆け寄った。その直後、京介は三人の前で携帯をへし折って見せたのだ。
「こんな薄っぺらい絆なんざ、いらねえ!」
たった一晩。けれどその間、どれほど苦しんだのかと考え込んだ遊星は塞ぎ、自業自得だといいながらジャックは京介の話題を避けた。クロウもしばらく反応に困り、開いた溝を埋める前に京介は学校を変えてしまった。
今となっちゃ笑い話だと京介はクロウに言ったが、未だに携帯は信用できないという。返事が決まっていることは理解しているのに、携帯の話をすると途端に子供じみた表情をつくるものだから、クロウはたまにこの話題を振ってしまう。
「まあ、お前に携帯がなくてもおれは気にならねーけど」
話題の最後は、いつも同じ一言。
年上のくせに子供じみた理想と夢を掲げていた時と同じ顔をするのがなんだか嬉しいなんて、クロウは一度も言ったことがない。
「次、何」
「知らねえ」
「おれ英語。サボり向けじゃね?」
折った膝を抱えてクロウは笑う。駆けてくる足音がしたので、京介が人差し指を一本立てて、クロウにも階段側に寄るようにと手を払って合図した。階段の真下は完全に死角。わざわざ覗きこまれなければ二人の姿は見えない。親指と人差し指で輪を作ったクロウは、中腰の姿勢で移動する。京介も後に続いて、ふたりで小さく座り直す。
「見つけた奴を睨むこともしないオレら、超優しいな」
クロウは頷いて、膝の上に頭を乗せた。京介の指が頬を突いて来たので、それを払って睨みつけ、目を閉じる。ちらりとクロウの視界に入った京介は、封筒から取り出した便箋を片手に持っていた。
京介の放課後の予定がこれで決まった。受取った手紙を持って、クロウに手紙を託した少女に会いに行く。そして手紙を突き返して言うのだ。「悪いけど」。
直接手紙を渡した少女は、目の前で手紙を破かれたと聞いた。直接告げた少女は、鼻で笑われ立ち去られたという。クロウから渡された手紙だけは、京介は必ず中身を読む。そして黒のコンタクトをはずして少女を訪ね、至極穏やかに、ゆっくりと首を振るのだ。
クロウは見た目は派手だが、気さくな性格をしている。遊星やジャック、ブルーノ、それから京介。どの友人に関しての話でも嫌がることなく返し、頼み事でも不可能でなければ大抵二つ返事で引き受ける。授業をさぼっても誰かが体調不良をでっちあげるし、テスト前にノートを見て唸っていれば自然と救いの手が伸びる。
想ってはいても傷つくのが怖い少女たちは、迷うことなくクロウに縋った。結果が、この日常だ。
おそらく今日の少女も後日クロウに礼と謝罪を伝えにに来るだろう。イメージから推測するに、食べ物付きだ。今までで一番豪勢だったのは、バレンタイン前後にやってきた少女のチョコレート。よほど京介が柔らかく断ったのだろう、ひどく興奮した様子でとんでもない値段のチョコレートを渡してきた。もちろん、あくまで礼であるという点は強調したが、チョコなど食べれば同じだと思っていたクロウの意識を覆したあの味は未だに忘れられない。
ひんやりとした空気の中で、無意識に熱を求めて肩を触れ合わせながら、じっと二人は時間が過ぎるのを待つ。会話らしい会話は、ない。これも、いつものこと。
そんなクロウの日常で手紙とは、誰かが渡されるものでしかない。
だから靴箱に手紙があると、前後左右の靴箱が誰のものであるかを確認してから、宛名を何度も確かめる。
この日の放課後、靴箱に放り込まれたクリーム色の便箋には、丸い字でクロウの名前が書かれていた。一瞬考える。この学校に、他にクロウ・ホーガンはいただろうか。
中に依頼でもあるのかと謝罪を添えて封筒を開けば、便箋は二枚。一枚目にはどう考えてもクロウのことを褒めているらしい文章がつらつらと書かれ、二枚目には件の木のある場所で、改めて話がしたいと書かれている。
「……おいおい、これって、え?」
クロウ・ホーガンは一人だ。どれだけ思い返しても、この名前をクロウは他に知らなかった。
そしてこれは、どれだけ考えても、このご時世で珍しすぎる典型的な恋文だ。不気味さなど感じさせない柔らかな文章と、控えめでありながら素直な好意が滲み出る言葉の羅列。
封筒を片手に、肩から滑り落ちた鞄にもかまわず、クロウは脱ぎかけた上靴の踵を踏んで立ち尽くした。ぽかんと開いたままの口を塞ぐ余裕もない。なんだこれ、とひたすら自問を繰り返していると、白い手がその封筒をかすめ取った。一呼吸遅れて、顔を上げれば。
「……なんだよコレ」
「鬼柳!」
慌てて手を伸ばしたクロウの手を避けて、京介の手が便箋を取り出す。その目が書かれた文字を追い、読み切ると不機嫌そのものだった表情が強張った。封筒と便箋を片手で持ち、再度伸ばされたクロウの手を空いた手で押さえる。
「なんだよ、コレはよ!」
「知るかよ! お前こそなんだよ、返せ!」
誰もいなくて良かったとクロウは心の底から思った。とんでもない羞恥心となぜか感じた焦りで真っ赤に染まった顔を、京介以外見る者はいない。抑え込まれながらも何度も手を伸ばしていると、京介の手の中で手紙が握りつぶされた。あ、とクロウが声を上げる。
「ざけんな……」
低い声。
驚くほど低い声がして、クロウは京介を責める言葉を押し留めた。強く腕を引かれ、腕にひっかけていた通学用の鞄を取り落とす。重い音はしなかった。財布も携帯もポケットの中で、クロウの鞄には菓子の残りと弁当の空箱、ブルーノから渡されたあんぱんしか入っていない。
「来い」
「は……?」
京介の手が、更に手紙を強く握った。無残に握りつぶされた便箋を見つめるクロウの耳元で、また低い声が続く。
「この女、ぶっ潰すぞ」
クロウは手紙の差し出し人を知らない。京介は差出人を女と言ったが、それはあくまで文字や便箋のデザイン、状況から推測できるものであって、女子ではないかもしれない。そう、悪戯である可能性が高いんだと笑い飛ばして無理やり封筒を奪い返してしまうこともできた、しかし。
「行くぞ」
「……おう」
京介の眼が笑っていない。それだけを理由に、クロウは抗わなかった。いつだって成し遂げられないようなことを率先して成し遂げてきたのが鬼柳京介だ。きっと今回も相手が誰であれ探し出し、言った通りにするだろう。背中を向けていてもぴりぴりと肌に感じる殺気を感じながら、クロウは掴まれた手首が痛むことを訴えることもせず後に続いた。
廊下を進む途中すれ違う生徒たちは、京介を見ると知らぬ振りで目を逸らす。女子は目で追う者もいたが、京介と目が合うと引っ込んでしまう。後ろにいるクロウも外見のせいか、知らない生徒には京介と同類だと思われてしまって同情の視線を受けることもなかった。
京介と目が合えば逃げ、クロウと目が合えば戸惑う。二人とも、広い校内で一瞬で味方を作れる外見ではない。広い枠からは外れた存在。口にすることはないが、二人は現状を気に入っていた。いつもであれば、ただ、純粋に。
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