暗闇。
暗闇、だった。
一筋の光もささない暗闇は真夜中に目を閉じているかのように何も見えず、ただ、そこに立ちつくすしかなかった。
何も見えないのに、その一番奥に、何かがあることだけは分かる。
感じるのは鼓動。
いや、胎動、か。
導かれるように進む足を止めることもできず、ゆっくりと、そこへ近づいていく。
眠りに誘われるように、ゆっくりと思考も消えていく。不安も、恐怖も、目的も、希望も。見えないのならば変わりはしないと、そこで、目を閉じる。
「どこに行こうってんだ」
聞こえた声に目を開けて、クロウはしばし何もできなかった。
何もなかったはずの空間に、突然飛び込んできた知った顔。
「き、りゅう」
「おお」
にたりと笑うその様は記憶に残っている。といっても、鮮明に思い出せるものではない。楽しかった時期を過ぎてからの記憶、出来るのであれば思い出したくない、けれど忘れられない時期に見た顔だ。
眠りかけていた思考回路が、突如目を覚ます。
正体不明の空間に突然現れた、ダークシグナー。鬼柳京介。彼が何かを知っている可能性はゼロではないのであれば、この空間を、いや、この状況を問わなければ!
しかし問いの言葉を発するため開いたクロウの口内に、何かがするりと入り込む。質量をもった何かに塞がれて口を閉じることもできず、結局発せたのは呻くような声だけだった。喉まで押し込まれたその正体も分からず、目を見開き、とっさに身を引いた。
つもりで、いた。
「何がなんだか、知りてぇんだろ?」
細められた鬼柳の目は、変わらず正面、同じ距離でクロウを見つめている。
クロウは同じ場所に立っていた。動けないのだ。何かが、両手両足の自由を封じている。正体不明の拘束から逃れようと身を捩り、かたく目を閉じ首を振った。
すべてが無駄な抵抗であることをすぐに悟り目を開けた時、暗闇の中にまた突然に浮かび上がった光景に、喉を引きつらせた。
口を塞ぎ四肢を絡め取る不可思議な感触の正体。それは闇だった。本来形すらないはずのそれが、まるで生き物が獲物を求めるかのように蠢いている。発言を邪魔する謎の物体を噛み千切るために歯を立てようとしていた気持ちが、それらを視界にとらえた一瞬でかき消えてしまった。
「………ッ!!」
悲鳴を上げることもできず、戦慄した。
デュエルで危機に陥った時に感じるものとは全く違う、恐怖と嫌悪だけが全身を走る。とたんにフラッシュバックする記憶。
背後から迫る黒い霧。疾走するブラックバード。聞こえた悲鳴にとっさに目を向けた道の先、黒い霧に呑まれていく人々。止まる余裕などなく、走る。転倒の衝撃。絶叫。伸ばした自分の手が、闇に呑まれる瞬間を、さいごに見た。
ならばここは、この場所、この空間は。
あの闇の、中か--!
「ッぅっ、え」
口内から質量が消え去って、クロウが言葉を紡ごうと息を吸い込むが、うまくいかずに噎せる。そのまま項垂れ呼吸を整えていると、首に絡んだ一本が下から顎を押し上げてきた。己の唾液で濡れた漆黒の触手が頬のマーカーをなぞる感触に、背筋から震えが走る。
「おい、きりゅっ鬼柳テメ……ッ!」
むき出しの腕を熱くも冷たくもないその黒色が這いあがってくる感覚に鳥肌が立つのを感じながら、クロウは早口に眼前のかつての仲間の名を呼んだ。助けを求めたつもりはなかったが、焦燥から発した声はそうとも聞こえてしまう。己の失態に舌を打ち、唇をなぞるあの違和感から口内を守ろうと、歯を食いしばり唇を結んだ。
「助けてやるつもりなら、毛頭ないぜェ」
くつりくつりと鬼柳は笑う。闇がクロウの体に迫っても、彼は顔色一つ変えない。正気じゃねえ、クロウは心中で罵声を浴びせた。
腹に巻きついていた触手が襟元から服の中に入り込む。それをひきはがそうと咄嗟に腕が反応したが、手首と二の腕に巻き付いた触手がそれを許さなかった。袖のないジャケットの脇から、やや細い触手が入り込む。肌を直に擽られて、眉根を寄せて叫び出しそうになる衝動を耐えた。
「俺はな、クロウ。お前のことが嫌いでよぉ」
鬼柳の声は異常なほどに冷静で、それが余計にクロウを混乱させる。膝下まで這いあがってきた闇と、眼前の鬼柳を交互に見やりながら、クロウは必死に両腕に力を込めた。
「お前が抜けなきゃ、お前が妙なこと言い出さなきゃ、俺たちはチームでいられたんだ」
鬼柳はなおも足掻こうとするクロウを眺めていた。その顔に張り付いていた笑みもいつしか消えて、ただそこに立つ。クロウの視線は、闇の触手が腰までたどり着いた時点で鬼柳に定められた。殺気ともいえる気迫を込めて、睨みつける。
「俺を売った遊星が憎い。チームを離れたジャックが憎い。俺を捨ててチームを捨てた、クロウ、お前が憎くて仕方ねえェッ!!」
鬼柳の怒声が空気を震わせると、闇が逃げるように勢いよくクロウに向かってくる。それらは狙い澄ましたように、クロウの衣服の中に逃げ込もうとしていた。滑らかでも強張ってもいない奇妙なものに素肌を撫でられて心地よいはずがない。
あまつさえ、下半身にまでそれが入り込もうとしているのだから。
「ぁっぐ!!」
耐えきれずあげたはずの罵声は口内に触手が何本も逃げ込んできたことで封じられる。先ほどまでそこにおさまっていた一本は、後から来たやや細いそれらに居場所を奪われ、不満を訴えるようにクロウの頬にすり寄ってきた。
その嫌悪感にクロウが顔を顰めると、突如片足だけが宙に持ち上げられる。両腕もつりあげられ、地についていた足も不安定につま先立ちの状態にまでなってしまった。あまりにも情けない格好に舌を打ちたい気分にはなったが、口内を蠢くいくつもの触手がそれを妨げた。放っておけば、喉奥まで入り込みかねないそれに気を取られているうちに、ベルトはすんなりと外されてしまっていた。
「っん、ぁ……」
片足を挙げられているため完全に引き下ろされることはなかったが、器用にパンツの前を開いた触手は容赦なくその中に潜り込んでくる。
声をあげて笑う鬼柳をにらみ返す余裕すら無くなって、それでもされるがままにはなりたくない。クロウはとうとう、口内の触手に歯を立てた。
弾力のありすぎるグミに噛みついたような歯触りが残り、突如口内に滑った液体が注ぎこまれる。触手は謎の液体だけを残して素直に口内から抜け出していったものの、肌に触れている触手すべてがそれと同時に滑りを帯びた。触手の機能は連動しているらしい、今予想ができたのはそれだけだった。
「うえ……っ」
拒絶の言葉より先にやはり嫌悪から声が上がる。口内にたまった粘液を吐き出していると、下着までもが腿の付け根まで下ろされてしまった。さらされた下半身に思わず視線を向けると、先ほど以上に情けない光景が目に映る。視界の端に、鬼柳の黒い衣服が見えた。
この無様な姿を、真正面から、見られている。
悔しさと羞恥から赤く染まった頬を隠すように、クロウは無意味だと知りながら顔を背けた。
「……ぅく……っ」
触手の一本がまだ反応を示していない自身の陰茎に絡み付く。背中から腰、ラインをなぞるように滑り落ちてきた触手は、そのまま晒された臀部をぬるりと撫でた。そこには先ほどまで感じ取れた焦りににた様子はない。明らかに別の意図があって動いている、そしてその意図がうっすらとだが、クロウには察せてしまった。
「…………うそだろ」
人は、極限に追い込まれるとなぜか笑えるのだと実感する。
クロウは引きつった笑みを浮かべ、どれだけ力を込めても動かない四肢を心底憎ん
だ。
「クロウ」
「……おい、鬼柳てめぇが何かしてんだろ、何とかしろよっざけんなぁああっ正々堂々デュエルしろ、オレに負けんのが怖っ、ひ、」
滑った細い触手が、クロウの穴を突いた。明らかに、ここが入り口であるかを確かめている動作だ。擽るように撫でて、小さな穴に正面から僅かに先端だけを挿入してくる。力を込めてそれを拒絶した。これで過ちに気づいてくれるよう、今のクロウには願うことしかできない。
鬼柳の声はぱたりと止んでしまった。それが余計に不安を駆り立てて、クロウは鬼柳を呼びながら、顔を上げる。
変わらぬ光景。
けれどその中に、鬼柳京介がいた。
変わりはない。
なんの変りもない暗闇に。
苦しげに顔を歪めた、かつてより僅かに大人びたチームリーダーがいた。
「なんだ…よ……」
目が合うと、鬼柳は何かを言いたげに口を開いた。
けれど結局言い淀んで、彼は瞼を閉じてしまう。
「きりゅ、うぁあっ、あ、ああ!?」
後ろで躊躇うように揺らいでいた細い触手が、意を決したように一気にクロウの内へ入り込んだ。先端で内部を擽られ、裏返った声があがる。それが滑りを帯びていたせいか、驚くほど痛みはなかった。
「やぁ、っめろ!ぅうあぁあ、あぁあああッ!」
一本が入り込めば、さらに数本がそれに続いて潜り込んでくる。違和感が圧迫感に変わる。居心地のいい場所を求めるようにさらに奥へ向かうものもあれば、一度外へ出てから再度侵入を試みるものもある。入り口を広げるように掻きまわされ、空間を広げるように奥を抉られる。生理的に浮かんだ涙が零れぬよう、見開いた目をそのままに、天を仰いだ。
いっそマーカーを刻まれるよりも耐えがたい激痛でも走ってくれれば楽だったろう。想像もしたことのない感覚、拭いきれない嫌悪感がかすかに残った理性と力を奪っていく。グローブの内側から潜り込んだ一本が手のひらを擽り指の隙間を通って絡み付く、それだけのことにも目の前に散る火花が量を増した。
「あうぅ、っぁあ……! く、っき…りゅ!」
下肢からぐちゃぐちゃ濡れた音が聞こえる。中途半端に脱がされた衣服もすでに水気を吸って重くなり、悲鳴交じりに鬼柳を呼んだ。
胸元をゆっくりと這う触手が悪寒とともに尖った右胸の先端を霞める。その瞬間弱い電流が走ったような痺れを覚え、ひっ、と喉を引きつらせる。下肢は乱暴に責め立てられているのに、腕や胸に触れるそれらは妙に優しい。バランスの取れない感覚にただ翻弄され、わけもわからずクロウは喘いだ。無理に絞り出した声のせいで、喉が痛む。それを労わるように、逸らされた喉を撫でられた。
「………っ、…………か、ふっ」
悲鳴すらも上げられなくなったころ、さらにクロウの体はさらに増えた闇の触手によって高く持ち上げられる。獲物の捕獲を喜ぶかのように掲げ、見せびらかすようにその身体を弄ぶ。背を逸らせたまま仰向けになったクロウは頭を持ち上げることもできず、鬼柳とは反対側の闇をぼんやりと眺めていた。
薄く開いた唇の端から唾液が垂れ落ちそうになったのを、その横に伸びてきた一本が掬い上げた。他のものより太さのあるその触手は、おそらく最初にクロウの発言を塞いだものだ。クロウの予想を裏付けるかのように、当たり前のように唇を割って口内に潜り込む。舌の上をぬるりと滑っていくそれに反射的に歯を立てそうになるが、その前にあっけなく喉奥を突く前に外へ出てしまった。
どこか拍子抜けして瞬くと、視界の端からも消えてしまう。首をめぐらせて行先を探ってみるが見当たらない。
「ぁっ、ひゃ?!」
他と違うあの一本に気を取られていたクロウの身体が今までとは系統の違う感覚に震えた。びくりと跳ねた片足から、ブーツが脱げて落ちる。いつの間にかブーツの中にも数本入り込んでいたらしい。それにも慌てたが、それ以上にクロウを焦らせたのは今までずっと排泄口から逆流して体内を掻きまわしていたそれらが、すべて一息に引き抜かれた事実だった。
解放されたと思えば安堵できるが、一向に拘束から解き放たれる気配はない。いつの間にか緩く立ちあがっていた性器を擽られ、鼻から声が抜ける。力の抜けた身体は余計に強く締めあげられ、急所の穏やかな刺激が逆に際立って感じ取れた。
緩く首を振る。呼吸を整えながら、脳内で鳴る警鐘を必死で否定する。
今まで以上にはっきりとした意図を持ってクロウを弄ぶ闇の魔手。明らかに性対象としてクロウを甚振る、行為の終着点。
「…………や…………」
声が震える。カチカチと歯が鳴る。震えていることに気付くが、止められない。ひたりと押し当てられた感触。先ほど唇をこじ開けたように。今度は、邪魔もののいなくなったそこへ触れるものが何かなど、見えなくても、見えないからこそ、分かる。
「……や……め、……」
さらに強く、入口へ押しあてられるもの。
かすれた声が紡ぐ。自由を奪われた身体では逃れることもかなわない。見栄も外聞もかなぐり捨てて、誰かの名を呼ぼうとした。母親代わりの女性。真面目で優しい親友。偉そうだが悪人じゃない幼馴染。自分を慕う子供たち。収容所の中で自分を気遣ってくれたセキュリティ。サテライトの多くの知人。一周して、行き着いた名。
助けてくれ、 。
「………、」
零してなるものかと耐えきった涙の代わりに零れた名。
上げるものかと呑み込んだ乞う台詞の代わりに呟く名。
サテライトの満月の何倍も何倍も輝いていた。何をするでもなく埋もれていた自分に思想と思考を与えた、真っ暗闇の中の光。愚かなほどに輝いて、さいごに爆ぜた光の名。
もう見えないはずの光の。
「っ……、 !!」
その名を確かに呼んだ瞬間、
>>すべての感覚から遮断された。(NORMAL END)
>>見えないはずの、鬼柳の嘲笑が見えた。(BAD END)
その名を確かに呼んだ瞬間、全ての感覚から遮断された。
静寂。
静寂が、残る。
一筋の光もささない暗闇に真夜中に取り残されたかのように何もできず、ただ、そこに立ち尽くすしかなかった。
何ができるわけでもないのに、何事もなかったように、仰向けに眠るそのひとを愛しいと思う。
感じるのは違和感。
きっと、後悔、だ。
導かれるように伸びる手を止めることができず、しゃがみこみ、彼の頬に触れる。
悪夢に囚われぬように、優しくその頬を撫でてやる。不安も、恐怖も、困惑も、絶望も。目が覚めたらすべて忘れてしまえと、念じて、目を閉じる。
「何、やってんだか……」
あたりを取り巻く闇が鬼柳の溜息に呼応するかのように揺らめいた。クロウは仰向けに闇の中に横たわっている。
鬼柳の記憶に刻みつけられた悲惨な光景は、すべて闇が呑み込んだ。この空間は消えゆくためだけの命を取り込むための空間だ。望めばすべて吐き出し、呑み込める。
初めは手を出すつもりはなかった。
昔と変わらぬ曲がらない正義感で飛び込んできたクロウを嗤うつもりで闇に踏み入ったのだ。しかしそこで目にしたのは、驚くほどに簡単に、空間に呑みこまれようとしているクロウの姿。
こんな簡単に消えられてたまるか。一瞬にして膨れ上がった憎悪、彼に裏切られた過去のあの日の衝撃が、鬼柳の発言を促した。
どうせ呑み込まれるのならば過去に味わったことのないほどの苦しみの中、精いっぱい足掻いて沈んでしまえ。それこそが贖罪なのだと思い知らせてやろうと、あの幻覚に取り込んだのだ。
それがどうしたことか。
どうしてなのか。
恐怖するクロウを嗤えなかった。小さな体が闇に呑まれる様を見ていられなかった。それどころか、クロウの身体を蹂躙するのが己であればなどと、夢想した。
その結果を思い起こして、鬼柳は再び溜息をつき、その場に脱力して座り込んだ。
「悪趣味にもほどがあるぜ……なあ、クロウよぉ」
答えは当然返らない。
天井のない黒を見上げて、闇を介さずにクロウに自ら触れる瞬間を想像する。しかしまたそれに応えようとして闇がざわめいたので、すぐに打ち消した。ある種闇から出でた存在である鬼柳が望めば闇は諸手をあげて従うのだが、それこそ無意味であることはよくわかっている。
この闇の中央では落ち着いて思考の整理もできないと判断し、鬼柳は腰を上げる。同時にクロウの腕を掴んだが、案外重い体はそれほど持ち上がらず、舌を打ってまた身をかがめ、今度は一気に抱きかかえた。そうすると今度は軽く感じて、勢いよく立ちあがりすぎた身体はわずかに後ろによろめいた。
ふ、とクロウの唇が笑みの形に歪む。マーカーが増えていても、少し大人びていても、それは鬼柳にも見覚えがあるクロウの寝顔だった。唇が動く。何かつぶやいているようだが、まったく分からない。試しに耳を近づけてみると、辛うじて単語が聞こえた。オレのターン、おそらくそう言った。
「……気楽なもんだ」
忘れてしまえ消えてしまえと望んだのも確かに己だが、苦しめ嘆けと願った自分の前で、こうも幸せそうに眠ってしまうクロウを見ていると相反しながらも同一の感情が加速する。
いっそ再起不能になるまで傷めつけてやりたかった加虐心と、あんな悪夢をもう見せてやるものかという保護欲。そう、行き着くのは結局、後悔だった。
歩き出す。
闇の中は足音すらしない。ただ、二人分の呼吸音が聞こえる。穏やかな心音を胸の前に感じながら、前へ。
闇が時折揺らぐ場所。その一点の前で、立ち止まる。
結局。
この後悔が生まれる理由は、認めたくないだけで。
「じゃーな」
離された手に衝撃を受けたのも、求められるまま手を伸ばしたのも。
「見届けてくれよ、お前は」
触れたかったから。もっと、数え切れないほど、他の誰よりも、触れたかったから
だ。
揺らいだ闇の中へ、クロウの身体を沈めてやった。
つながる先がどこかは鬼柳にも分からなかったが、おそらくはクロウが今、最も愛する黒の傍へたどり着くはずだ。
その黒を駆ってたどり着く先が、きっと。
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