踏み入れた森の奥。
進む青年に、恐怖心などない。あるのは少しの企みだけだ。
鮮やかな多種の緑に目を奪われながら、名前も知らない草を踏みつけていく。罪人の証である黄色のマーカーと同時に目に入るのは、大きめの薄闇色の瞳。
夕焼けよりも鮮やかな橙色の髪を逆立てた青年の名はクロウ・ホーガン。濃い茶のノースリーブジャケットから伸びる腕は程よく日に焼けており、森の色とはまた異なった深みの緑のカーゴパンツは細身で、裾はブーツの中に入れこまれている。彼が森を歩く姿は、若干幼さの残る顔立ちも相まって、まさしく絵になっていた。
彼はおとぎ話を信じて願いを叶えに来たのではない。
おとぎ話に現れる咲かない花を探しに来た、それは事実であるが。
クロウが森を訪れた発端は、数日前。
コンクリート張りの床と壁、質素な一室は元は地下にある車庫であった。車が出入りしていた入口は今完全に封鎖され、鉄製の板を敷いた簡素な手摺り付きの階段が出入り口となっている。錆びた赤茶の板を靴底で踏み鳴らして降りていけば、先にあるのは一台のパソコンが乗ったデスク。部屋の中央には、円に近い形をした銀色の機械がある。
人影は3人分。パソコンの前に座っている者、部屋の隅の壁に寄りかかる者、機械の傍らでしゃがみ込み、小さく唸るような音を立てる内部を探るように見つめる者。
「失敗だ」
淡々とした声、けれど明らかに沈んだ顔で、デスクに座っていた青年が一言発した。夜空の様な藍色の瞳が伏せられると、とたんにあたりに漂う、落胆の空気。
左右に分けて逆立てた特徴的な形の黒髪に走る鋭い黄色のメッシュ、濃紺のジャケットに黒灰のパンツ。夜の空と星を思わせる色彩を纏う彼は、再度低く声を上げた。
「……すまない、俺が」
「や、いーってことよ、遊星! 前よりは進展してんじゃねえか」
「この調子ではいつ完成できるのか分からんな!」
膝を伸ばし大きく伸びをしながら、続いた謝罪を遮って明るい声を上げたクロウの横で、壁から背を離さず長身の男が鼻で笑った。
金色の髪と整った容姿、彼が腕を組み二人の青年を見下ろすだけで彼の存在が主張されている。纏った白いコートは室内の電灯の下でも光を放っているかのような白で、他の二人にはない肌の白さと淡いアメジストの眼もまた見る人の目を眩ませる。その眩さを重ねるならば、世界の目覚めの時間。朝が訪れ日が昇る、その瞬間だ。
その眩さに何を思うこともなく、クロウはダンと床を踏み鳴らす。唸りながら自らの頭を掻きまわし、握った拳を空振ったところで、とうとう叫ぶ。
「っだぁあー! ジャックてっめーはよぉお!」
「やり直しだぞ遊星。仕切りなおしだ。まずはその目の下の隈を何とかするんだな」
顔を真っ赤にして怒るクロウの先へ目線を送り、いとも容易く言いきった金髪の男ははふいと背中を向けてしまう。不動遊星と、ジャック・アトラス。二人はクロウの幼馴染で、長い年月を共に過ごした同士であり、親友だった。
一瞬は殴りかかろうかと腕を振り上げたクロウは動きを止め、溜息の後で表情を苦笑に変える。行き場をなくした拳は一度下ろされた。遊星はジャックとクロウを見比べた後、指摘された自身の目の下を指でなぞって、もう一度ジャックの背中を見つめて小さくほほ笑み返す。
「ゆーう、せーえぇっ!」
緊張が解けた空気の中に飛び込んできたのは、抜群に明るい声。背を向けていたジャックも思わず振り返るほど。
声の主はドアを勢い良く開いた状態で大きく両手を振った。明るい緑色の髪を頭の上で束ねた少年。その後ろには、少年に良く似た顔と服装だが髪を二つに分けて結んだ少女と、小さな二人に寄り添うように立つ、遊星やクロウとほぼ同じ世代と思われる少女がいた。
遊星はジャックに向けていた笑みとはまた少し違う笑みで歓迎を伝え、クロウが少年に負けないほど高く手を上げて迎えた。
「龍亞、龍可! アキも来たんだな」
「ええ、調子はどう?」
先に階段を駆け降りた双子をドアを閉めながら見送った赤毛の少女、十六夜アキが微笑む。赤を基調としたワンピースドレスは、ミニ丈のスカートの上に広がっている。一段ずつ階段を下りると、ふわり、ふわり、花弁が舞い散るように裾が揺れるのが少女らしい。遊星は彼女の視線を受けて、やや戸惑いがちに首を振った。
「失敗したのね」
「ああ……」
「……あなたが悪いんじゃないわ」
階段の半ばで、アキも遊星と同じように首を振った。
遊星が企てているのは、現在この街で最も優れた動力であるモーメントに変わる動力源の開発だ。
モーメントは無限の動力である。初めは電力の代替として用いられ始めたが、今や電力の枠を超えてあらゆる利用法が確立されている、奇跡とまで呼ばれる存在だった。
しかし、この夢のような動力はすべて街の中央に位置する大組織、イリアステルが管理しており、彼らは住民にこのエネルギーを供給するために、多大な税を要求した。
もともと格差の激しい街は、これによってさらに分断されてしまう。
遊星達が住む地域は、中枢であるシティと切り離された存在としてサテライトと呼ばれるようになり、ここで暮らす人々は衰退した電力や裏ルートから引きだしたモーメントエネルギーの一部を使ってどうにかシティの人々に近い生活をしようともがいている、廃れた地だ。
遊星達は、この街を改革せんとしている。
イリアステルの税に悩むことなく、人々がいがみ合い貶し合うのではなく、各々が自身の性格、実力を発揮し切磋琢磨できる社会。それは理想の社会と呼ぶほど美しくはないが、一石を投じることができれば変わっていくはずだと、彼らは信じている。
遊星、ジャック、クロウ。その思想に賛同した、アキ、龍亞、龍可。今この場にいる6人以外にも、彼らの危険な抵抗を影からそっと支え、守ってくれる仲間達。同じ思想を持つ者が次々と折れていっても、まだ彼らは諦めてはいなかった。
「……あのね、遊星」
動物の耳のように二つに分けて括られた髪を揺らしながら、龍可が口を開いた。その言葉を拾い上げるように、少年、龍亞が続く。少し戸惑いながらも、まっすぐに遊星達を見上げて彼は言った。
「オレたち、森に行こうと思ってるんだ!」
双子の兄妹である彼らの仲睦まじさと明るさは、いつも遊星達を強く励ましてくれるものであった。しかし、ジャックの眉間には深く皺が刻まれ、遊星やアキもはっと息をのんで、押し黙ってしまった。クロウは階段の手すり部分に背を預け、頭の後ろで手を組み沈黙を守る。
「なんだと?」
低く、怒りを秘めた声をあげたのはジャックだった。龍可が慌てて前に出て、ジャックをはじめ、遊星、アキ、クロウを順に見る。
「わたしたち、何もできないから。おまじないくらいにしかならないかもしれないけど、探してみようと思うの。願いを叶えてくれる花……」
「駄目だ」
龍可の真剣な言葉に返したのは、今度は遊星だ。見透かすような藍色の目で、龍可をじっと見つめる。龍可は一瞬戸惑った様子を見せたが引かなかった。小さな拳を握り、兄とともに声を張る。
「良くない話もあるって、知ってるわ!」
「イリアステルの奴らが潜んでるって噂も知ってる!でもっ」
二人の口調が早口になるほど、頭の上方でくくった髪が揺れる。クロウだけが、その髪を目で追っていた。そうして彼は何も言わない。遊星が首を振り続けることも、ジャックが真っ向から否定することも、アキが許さないことも分かっていたからだ。
「おとぎ話も貴様らの手助けも、必要ない!」
「だけど!」
「いらんと言ったらいらん! あの森は……気に食わんッ」
駄目だ、と繰り返すジャック、それに賛同し首を振る遊星と、眉尻を下げるアキ。クロウの予想通りの展開だ。ふっと視線を天井に向ける。おそらくそろそろ、この押し問答に決着がつくころだと予測して。
「お前たちがいてくれないと、困る。俺に元気をくれているじゃないか」
「遊星……」
目を潤ませて遊星に頭を撫でられている双子の兄妹に視線を戻して、クロウは苦笑し、決めた。
もともとイリアステルの施設へ何度も侵入を繰り返してきた己ならば噂も恐れることはない。
実際に森を見てきて聴かせてやろう。一輪くらい、まだ咲いていない花もあるだろう、己の行動力と運をもってすれば見つけられる、大丈夫だ。気休めでも彼らを笑わせてやれるなら、そして希望になるのなら労力など惜しまない。
ジャックや遊星のようにクロウもまた森については良い印象は持っていなかったが、陰で募った好奇心と希望は彼の内側で燻っていた。
だからこそ、些細なきっかけを理由にしてこの地へ踏み入れる許可を、自分自身に下したのである。
「花を、探しに来たのか?」
唐突に背後から低い声が問いかけた瞬間、森を風が駆け抜けた。
心地のいい風ではない。冷たいにも関らず、ゆるりと肌をなでていく風。寒気で震えた体を抱くように腕をさすって声の主に向き直れば、そこには黒いローブを纏った男が二人、立っていた。
ローブのフードで目元を隠してクロウを見下ろしている彼らをクロウは知らない。分かるのは、彼らが語りかけているのが己であるということだけだ。
「花を探しに来たのか、青年よ」
抑揚のない男の声が問う。口元には笑みを浮かべて。
ローブの一部に、黄色い文様が見えた。奇妙な威圧感にクロウは身構え片足を引いたが、男たちは身動きひとつしなかった。幻想のように、ただそこに立つ。唾を飲み込んでから、クロウは口を開いた。
「……あんたは?」
「私たちは、森、だ」
今度はやや戸惑いがちの声が答えた。黒いローブに、紫の文様が描かれている。クロウよりはるかに身長の高い男。口元は引き結ばれており、口を開くことを躊躇しているようにも見えた。もう一人の男とは明らかに異なる彼の態度に疑問を覚えたクロウだが、それを言葉に変える前に、先の男が告げる。
「我が神が告げた。お前は望まれている」
声が、愉しんでいる。淡々とした特徴のない口調でも、確実にその男はクロウの来訪を歓び、愉しんでいた。唇が歪む。浮かべたのは、笑みなのだろう。
「だが、お前は望んではいないはずだ」
すぐにもう一人の声が紡ぐ。焦りを帯びた人間らしい声は、逆にクロウの来訪を哀しみ、怒っているようですらある。唇が歪む。耐え忍ぶように、噛みしめられて。
「戻るといい、まだ間に合う!」
「進むといい、望むのであれば」
二人の男の声が重なって、二人が足を踏み出すと同時にクロウは首を横に振った。
逃げなければ、
逃げなければ、ならない!
風など起きてもいないのに、何かに体を押された気がしてよろめいた。前へ、後ろへ、右足、左足。選択は、どちらか。
「わけ…わかんねえっつーの!」
二人の言葉に耳を塞ぐ代わりに、クロウは森へ振り向きそのまま駆けだした。子供だましのような話には不釣り合いなほどの、薄暗い深緑の中へ。
森を奥へと進んでいたいたクロウがふと足を止めたのは、棘の蔦が作ったアーチを目にしたからだ。どれほど長い距離を走ったのか、己の息が切れていることにもようやく気付かされた。
不自然に拓かれた道を示すように、木々おい茂る森の中の人工的な門のp存在は、目立つ色などしていなくても目を引いた。
近づいて、触れてみる。棘は固く、力を込めれば指の腹に血が滲むだろう。クロウはつい開き始めた唇を引き結び指を離すと、ふと横を向いた。結果、心臓が大きく跳ねる。
「迷子の小鳥ね」
くすり、と女が笑う。先ほどの男たちと同じようにローブのフードを深くかぶった黒髪の女は、アーチの右側に立っていた。先ほどまでは確かに視界に入っていなかった彼女は、いったいどこから現れたのか。疑問を抱くと同時にクロウは後に引いて身構えた。
走ったことで逆に落ち着きを取り戻した思考は、先ほどほど焦ってはいなかった。知りうる情報から導き出せる答えを問いに変えて引きだして、人差し指と同時に女に付きつける。
「……おいっ、お前、イリアステルの奴らか?!」
「イリアステル……?」
クロウが投げた問いは、問いの形で返された。クロウの傍に立っていた女と逆、アーチの左側に立った女から。
彼女もまた長い黒髪を持っているようではあったが、声の質も態度も、もう一人の女とはずいぶん違った。右の女のローブには緑、左の女のローブには橙の文様が描かれている。
「……っ違うのかよ」
二人を牽制するように見やりながら、クロウは片足だけを引く。何かあれば飛びかかることも、逃げ出すこともできる体制。女の一人は薄く笑い、もう一人は歯を見せて嗤った。
「知らないね! あたしたちはただ、待っているだけ」
「望み望まれる者だけが、門をくぐることを許される」
クロウに分かったのは、この似たような黒衣を纏った人々は確かに集団であるということだけだった。ならば彼女たちもまた、先の男が口にしたように「森である」のだろうか。
橙の文様が描かれたローブの女が、すいと片手を持ち上げクロウを刺した。
「あんたは求められている、けれど、求めてはいない」
凛と、通る声。先ほどまではどこか投げやりにクロウに言葉をぶつけてきていた女が、突然発した冷酷さすら感じさせる声が、空気を張りつめさせた。クロウは緊張で乾いた口内を誤魔化すように、あえて口を開く。
「……さっきから何なんだよ、この森の噂と関係ある話か」
答えなど期待はしていなかった。緑の文様のローブを纏った女が、口元に手をあててくすくす、と笑う。良く見れば仄かに紅色に染まった唇は艶やかで、それほど女性に知り合いがいないクロウにも、彼女がいわゆる美人であることは想像がつく。
だからこそ余計に、掴みどころのない彼女の笑みが不気味だった。
「花を、探しに来たのでしょう」
彼女が笑みを消すことはない。長く白い指で口元を隠す、ゆっくりとした動作から見える余裕に苛立ってクロウは吐き捨てる。
「そうだよ! 蕾どころか一本もねえけどな」
「求めるのならば、どうぞ」
僅かに動いた彼女の顔が向いたのは、棘のアーチの先。より鬱蒼と茂る木々が遮って、先の状況は分からない。もう一方の女も、視線をアーチの先に送っていた。誘いの言葉はなかったが。
笑みを浮かべる女と、表情を隠す女。先ほどの二人と同じように与えられた選択肢を前に、クロウはさほど迷うことなく歩を進めた。棘のアーチは広く高く、クロウの障害にはなり得ない。
森は、クロウにとって未知の空間だった。サテライトで育ったクロウにとって、草木生い茂る森の存在は写真や絵画の中だけにしかなかった。しかし見聞きしたことのある森の姿と重ねてみても、この森は特別のようだ。
時期の関係があるにしても、一輪の花すら見えない。どこにでも咲いているような、タンポポやシロツメクサも。見上げる木々にも花が咲くような気配はない。
そして全く聞こえない、鳥の声。獣が唸るような声は時折聞こえたが、鳥のさえずりはどれほど耳を澄ましても聞こえてくることはなかった。
森といえば木と草と花、鳥を含めた動物たちがいるところだというクロウの知識はあっさりと覆されてしまい、その事実がますます彼の好奇心を刺激する。どの草むらを覗き込んでも動物の姿を確認することもできないものだから、気分はすでに宝探しだ。
四人の男女のことは頭を振って頭から追い払い、そもそもの目的も含めて、カンだけを頼りに進んでいく。わざとあたりを荒らしておけば返りの道しるべ代わりにもなるだろうという考えも、心の隅にはあった。
細い枝が頭にぶつかって折れてしまったので、その場で膝を折り拾い上げ、地面に突き立てる。緑の草の中にひょろりと生えた薄茶色の枝はなんだか滑稽で、ふと笑みを浮かべた時に、気づく。
先ほどまでは見えなかった、灰色が見えた。指で触れれば、固い。
丸みを帯びた平たい石が、地面に埋め込まれている。見れば、点点と、道を作るかのように。
思い立って石の上を歩いてみると、徐々に普段通りの歩幅で歩けるようになっていく。意識せずに石を踏むようになり、さらに足元に勝手に石がやってきているのかと思うほどになると、また光景に異変が起きる。草と、医師だけが見えていた足元に見えたのは、人の足だ。
顔を上げたクロウは予想通りの光景を見て、深く、溜息をついた。
「まだいたのかよ……お前らも望むだのなんだの言うのか」
立っていたのは銀髪の男が二人。やはりローブで顔の半分を隠している。右の男は緩やかに微笑み、着る左の男は表情を見せない。二人のローブの文様は、紫と、赤。
「望み求めたのだろう。青年よ」
「そうだよ、あーそうだ」
怯むことより苛立ちが勝った。クロウは低く静かな声に対し、投げやりに言い放つ。それでもどちらの男も態度を変えることはなかった。微笑をたたえた男が、更に笑みを深くする。揺らめいたローブの紫の文様の一部に縫い込まれているらしい銀糸が煌めいた。
「あなたもまた、望むのですね」
「貴様はそれを、求めたのだな」
二人は微動だにしない。二種類の威圧感を感じさせる声が、クロウに向けて放たれる。問いの形をしているが、彼らが求めているのはクロウの答えではない。舌を打ち、クロウは男を睨めつけた。一向に笑みを崩さない方の男をだ。
「てめえらは、めんっどくせえんだよ! オレがほしいのは花、それだけだ!」
「ならば許すのだな!」
クロウが自棄になって捲し立てると、男の形相が変わった。それらしいそぶりも見せずに、まるで別人に入れ換わったかのように。
「望み、求め、許すのだな!」
朗々と紡がれる言葉。
男のローブが風ではためき、フードの下の眼がクロウの位置から見えた。見えたものは、黒。
人の瞳を想像していたクロウに衝撃を与えたのは、黒。瞳ではなく、眼球自体が、黒に染まったかのような禍々しい黒。
男が何かを呟いて手を伸ばしてきた瞬間、クロウは脱兎のごとく駆けだした。鳥肌を収めるように腕を撫で、右と左の足をひたすら交互に動かす。
向かう先は、最早クロウにも分からない。
背後に向けて走ったはずだが、その足元には先ほどまで辿ってきた石はなかった。見慣れてしまった草むらの中を、走り続ける。
走る途中、ガサリ、と。明らかに他の草木とは異なって、乾燥したものを踏みつけた音がしたが、立ち止まって確認することはできなかった。
「くそっ……、気味悪いッ」
悪態を吐き、転げる勢いで走り続ける。背後から、視線だけがついてくるような不快感。後ろを逐一振り向きながら走っていたクロウは、目の前に迫っていた壁に気付くことができず、正面からそれにぶつかってしまった。
後ろに倒れかけたのを何とかこらえて、改めて正面を見る。
艶やかな黒。壁と呼ぶよりはカーテンと呼んだ方が相応しいような、けれど弾力のある、不可思議な黒。それは緩やかなカーブを描いて天へ向かっているようだ。確かめるように撫でていると、縦に隙間があることに気付く。
「んだ、これ」
手を差し入れて割り開くと、抵抗はあったがクロウの頭のあたりにできた隙間から何かが見える。身を乗り出してみて、クロウは絶句した。
淡い、青い光。
地面いっぱいに、透明な蕾が揺れている。細い緑色の、植物の茎のようなもので支えられた先端は楕円形の球体で、時折仄かに青白く光りを放つように見えた。
さらに顔を上げて見えたのは、中央で強く光る球体を支える、長く伸びた柱ほどある一本だ。見間違いではなく、今度は確かに光を放つ蕾が空間全体を照らし、足元の小さな蕾に光を与えている。
点滅するその光に照らされる周囲を見る限り、この場所が決して広くないドーム状になっていることも分かった。先ほどクロウが潜ってきた黒い薄い壁で取り囲まれ、森とは切り離されているようにも感じられる、写真や絵画でも知らない空間。
シティのネオンライトのようで、それよりもずっと穏やかな光に惹かれ、クロウはさらに広げた隙間から無理やり中へと身を滑り込ませた。
足を突いたとたん、くちゃりと音が鳴る。泥を踏みつけたのと似た感触に顔を顰めたクロウだが、足元を見下ろしてみると、足元には何やら液体がたまっていた。漂う強い香りは、花の香りを思わせる。
前屈して手を伸ばしてみると、指に絡む液体はクロウにも良く知っている蜂蜜とそっくりだった。照らされて光るそれは、神秘的でもありどこか気味が悪くもある。数歩進むだけでブーツには蜜が絡み付き、その重みが歩みを遅くするのでクロウは痺れを切らし、ブーツをその場で脱いでしまった。
靴下も濡れる前にブーツの中に押し込んで、ズボンの裾も捲りあげる。素足で踏みつける足元の感触は決して気持ちのいいものではなかったが、クロウは唇を舌で湿らせながら中央に向けて進む。
足元の球体は踏みつけるとぱちんと音をたてたが、茎らしい部分が折れることだけはなかった。踏みつけられても、クロウが通った後から元通りに置きあがり、先端に同じ蕾を付けるのだ。こぷこぷと小さな音を立てて、風船のように膨らんでいく。
「すげえ」
思わず声を上げて、更に進む。何度も足を取られそうになりながらも、中央の柱までたどり着いた。指先で触れてみると、その柱も薄く蜜を纏っているようだった。
吐き気がするほどの花の匂いにはいつの間にか慣れていて、むしろ心地よさすら感じ始めている。側面をなぞった人差し指に絡んだ蜜を、誘惑に負けて舌を出して舐めてみた。強すぎる甘さに顔を顰めたが、クロウの手は自然と同じ動作を繰り返す。今度はグローブを付けたまま、手の平全体で掬いとって、噛みつくように舐める。手が口周りがべたべたに濡れるのも、舌に残る甘味も気にならなかった。不思議だと思いながらも、同じ動作を続ける。
「もっとスゲエもん、やろうか」
夢中になっていたクロウの耳に届いたのは、若さの残る男の声と、潜めた笑い声。手のひらを拭うこともせず、クロウはすぐさま振り向いた。
見えたのは、黒いローブ。青い文様の描かれた、長いローブ。
今まで見てきたものと違ったのは、彼がひとりで立っていたことと、フードを被っていなかったこと。
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