S F --3







「鬼柳、どこだ?」

 クロウが京介の背中を見送ることもなく終わった別れが過ぎて、出かけていた遊星たちが戻った。それからが大変だった。京介に何か土産を買ってきたらしい遊星が彼を呼ぶ声がどんどん大きくなっていく。目的の人物がそこにいないことを知っているクロウはジャックが訝しがっていることにも気付いたが、黙って座っていることしかできなかった。いつも京介が座っている椅子の上に、俯いて。
 がたん、と大きな音がして、ジャックの視線は音の方に向いた。

「ジャック! 鬼柳がっ、鬼柳がいない!」

 悲鳴じみた声が上がる。めったに取り乱すことをしない遊星が、部屋中の物陰を覗き込み、ドアと言うドアを開けて駆けまわる。すっかり不安定な京介を一番案じていた遊星もまた、疲弊してしまっていたのだろう。しばし唖然としていたジャックが、慌てて駆け寄り後ろから抱えて止めにかかる。

「落ちつけ、遊星ッ!」
「鬼柳っ……どこに、っくそ、俺が、俺が……」

 もがく遊星が、頭を抱えた。座っていたクロウが見上げると見えた顔、その意志の強い目の下にははっきりとした隈がある。肉体的にも精神的にも、彼はきっと限界だった。ジャックは遊星自身よりも痛ましい顔で、目を閉じる。睫毛が震えた。彼はきっと泣きたいんだとクロウは気づいた。

「休め、遊星」
「嫌だ」
「休めッ!」

 頑なな遊星。頑ななジャック。二人は決して譲らないだろう。クロウは静かに立ち上がる。握った拳が震えたのは、力を入れすぎたせいなのか、それとも、悔いている証だろうか。答えを探す前に口を開く。

「遊星」

 言い争いが止まった。息を荒げた遊星とジャックが、振り向かんとするクロウを見る。張りつめた空気は変わらない。沈んだ灰と揺れた藍はぶつかって、ジャックはその赤みの紫でクロウを眺めていた。

「鬼柳は、見つからねえよ」

 遊星の目が見開かれる。意味のない悲鳴を上げてクロウに向かおうとした遊星の身体を、すかさずジャックが押さえつけた。離せと叫ぶ遊星の目からは涙が落ちる。

「何故っ、何故そんなことを、クロウッ!」
「聞いたんだ、おれは! 鬼柳から……京介からちゃんと聞いた」

 詰っているのか、救いを求めているのか。遊星は今までに聴かせたこともない声で、今までに見せたことのない顔で叫ぶ。クロウは視線をそらさず告げる。とくりと心臓が鳴る。緊張で口が渇いているのにも関わらず饒舌に言葉を紡ぐことができた自分に感謝すらした。
 京介、と彼を呼ぶ。薄々感づいていたのだろう二人は、はっと悲痛な顔をする。

「死ぬ気、だってよ」

 クロウは二人に笑いかけた。京介の最期を受け入れたのだと笑ってみせた。突き放した自嘲も少し混じった半端な笑顔。

 知らせたくなかった。
 壊れてしまった鬼柳京介。少なくとも、クロウにはそうとしか見えなかった。頼れる兄貴分であり、自分たちに指針をくれた恩人であり、愛しかった、恋人。
 すべてが壊れてしまう。鬼柳京介のせいで。大切な親友も、関係も、未来も、理想も、夢も!

「あいつは、死んだ」

 誰も責めない。みんなが仲間だ。もし俺の死が何をもたらさなくても、俺の分まで戦ってくれ。
 そんな遺言めいた発言を、理想の中の鬼柳京介の言葉を騙って、クロウは自分と遊星、そしてきっとジャックをも守った。その日は3人とも、涙をこらえるのに必死になって過ごした。


 そうして唯一抱えた嘘で、傷つくことがないように彼は死んだと自分自身にも言い聞かせた。それでもずっと、森に向かった鬼柳のことを覚えていた。誰にも何も言わず、とくに森を気にかけることもなく過ごすことで、記憶の時間をとどめようとした。
 それでも彼のことは徐々に、時とともに皆の記憶から薄れていって。クロウの記憶も霞んでいって。それが怖くなった。優しかった鬼柳京介。あの記憶だけは残しておきたい、それは多分、クロウ一人が抱え続けた願い。


 思い出したくない。
 でも忘れたくない。
 
 鬼柳京介を、忘れたくない。

 思い出すだなんて、思い出すだけの存在になんて、したくない。





 ぱちん。





 ずるりと、体内に何かが入り込む感触。痛みはあったのかもしれないが、クロウは見開いた視界の中心に京介の顔を見て、ほう、と息を吐いただけ。

「クロウ。ここに来る途中、枯れちまった花見なかったか?」

 体奥に京介自身を飲み込んだまま、ゆるく揺さぶられた。小さく声を上げれば片腕で優しく抱き締められて、途端に体の力が抜ける。
 クロウは記憶の糸をたどり、視線をふらりと上に向けた。ぼんやりと光る大きな蕾は、まだそこにある。
 そういえば、ここに来る途中、何かあっただろうか。
 思い出せない。思い出したくない。思い出す必要なんてない。クロウは緩く首を振り、京介は微笑む。

「あー、たぶんあったと思うんだけどよ。それ、お前がオレのものになりますようにってオレの願い」
「っあぐ」

 さらにクロウの奥へ京介が押し入る。京介が笑ったせいで彼の身は小さく揺れて、その振動にすらクロウは顕著に反応する。吐息交じりに喘いで震えた唇を、京介がその舌先で擽った。

「お願いっていえば可愛いもんだが」

 いつの間にか京介は、片手でクロウの腰を抱き、もう片手でクロウの髪を撫でていた。持ち上げられていたはずのクロウの足は京介の肩の上で、先ほどまで絡み付いていた茎によって縛り付けられている。

「欲望を糧にして、花は咲く。願いも欲望も一緒だとオレは思うんだけどな」

 不安定な姿勢のまま好き放題に突かれ、散々注ぎこまれた蜜が押し出され流れ落ちる。クロウの濡れた唇から零した声は掠れて消えた。引き裂かれるような痛みではなく、ゆっくりと引きはがされていく感覚。
 だらしない咀嚼に似た不快な音を聞きながら、己の一部分から徐々に、食われているのだとクロウは錯覚した。牙を立てずにそっと、食らいつくすまできっと、続くのだと。

「これな」

 京介の指が、透明な蕾をクロウの口内に落とした。舌の上に乗ったそれを指先で押しつぶせば、ぱちんと音を立てて蜜をあふれさせる。割れた蕾を指でつまんで引きだして、二本の指を舌を撫でるように滑り込ませる。

「この蜜が、ぜぇんぶお前のことぐっちゃぐちゃになるまで犯したいってオレの『欲望』」

 濡れた指でクロウの頬を撫で、京介は吐息に混ぜて言葉を紡いだ。
 抉るように打ち付けられた熱と質量に背を逸らせ、クロウは声もなくまた新たに涙をこぼす。

「あ……?」

 垂れ落ちそうになった蜜を飲み込んだ直後、一瞬クロウの意識が鮮明になる。
 鬼柳京介を忘れたくない、クロウの願いはひとつ叶った。先に告げられた京介の願いによって、こうしてクロウが京介のもとを訪れたから。

 クロウが京介の顔に目を向けると、京介は目を細めた。

「そうだ、オレの願いはお前が叶えた。橙色のオレの花、お前の可愛い願いがオレの欲望を叶えてくれた……こんなこともあるんだなァ」

 くっくと笑う。愉しそうに。
 クロウに自身を埋め込んだまま。

「お前のキレイなお願いは、どれだけ汚れて咲くのか……楽しみだなァ!」

 未だ開かない蕾を見上げて、鬼柳は声を上げて笑う。耳障りな笑い方、空気を突き刺し裂くような。

 ぱちん。
 笑い声に混じる音。
 何かが欠けて、クロウは瞬く。

「待って……、くれ」

 内側からこみ上げる熱に浮かされながら、ぴくりとも自由に動かない手足を捨て置いて、唇を動かす。呼吸を整えることもできず、舌も蜜の甘さで痺れて上手く動かなかったが声を出す。

「……なんだよ?」

 興が覚めたといわんばかりの不機嫌な声で返しながら、京介はクロウの腰から腿へ手を滑らせた。クロウは思わず高い声を上げたが、それを飲み込みながら京介を見つめた。

「最初に、お前にも、おれの……願い、一つ……叶えて欲しいんだ」

 ぱちん。
 ぱちん。
 走り抜けなければ端から崩れていく橋を駆け抜ける、そんな空想のスリルが重なる。拾うべき言葉を探す間もなく、目の前に、落ちる寸前の言葉を掴んで、駆け抜ける。

「……まあ、それはそれとして。今はそれより早く叶えて欲しいお願いがあるんじゃねえの?」

 咀嚼が始まった。
 クロウの臀部に指を食いこませ、わざとらしく音を立てて深く、早く。追い込むようにあらゆる角度から、逃げ場を削っていく。逃れる術などクロウにはないのに。捕食される以外の運命などないのに。

「あ、ぅあっあ、っく」
「どうなんだ? えぇ? クロウよぉ!」

 的確にクロウの弱点を突きながら、京介の顔に笑みが戻りはじめる。愛おしげに見下ろす目と裏腹に、蔑んで歪む唇。
 京介が言うお願いどころではないと、クロウが一番理解している。茎の拘束から解放されても、自身の解放を遮る一本の茎は未だに残っている。張りつめたクロウの欲だけは、ずっと逃げ場を探して渦巻いていた。
 濡れた服がぐちゃぐちゃに乱れ、わけがわからなくなるほど内側から掻きまわされ、嗄れた悲鳴を上げた。何を言えばいいのか、クロウは知らない。知らないけれど、込み上げてくるのは、京介が求める言葉。

「も……いきた、ぃ、京介……っ、あ、ぁあ、あああぁああっ!!」

 京介がクロウのそれを戒める茎を片手で引きちぎった。
 踏みつけられても暴れても切れなかったはずの強固な茎も、京介にとってはこの程度。ざまあみろ、と一瞬浮べた笑みは、直後の衝撃で消えた。
 強く穿たれ悲鳴とともに欲を開放しながら、クロウは京介に訴え続ける。溶けきった身体はもう陥落している。苦痛も快楽も京介のものだ。すべて、京介のもの。


 お前の願いはおれが叶える。
 だから、たのむ、おれの願いを。












 朱い夕焼け空が街中を包むころ。シティの一角にそびえ立つマンションの一室のチャイムが、一度だけ押された。

「はい、どちらさま……ックロウ!」

 ドアを開けて顔を出した龍亞は、飛び上がる勢いで驚きに声を上げ、ひとつに結った髪も大きく揺れた。部屋の奥からパタパタと妹の龍可が駆けつけてくるのを見、クロウはくつ、と笑う。
 広いきれいな玄関に、よく似た顔が二つ、大きな目が四つ、クロウを見上げてクロウを呼ぶ。笑いながら、クロウは二人の頭に手を置いた。

「久しぶりだな」

 ぽん、と手を置きなおせば驚きだけに染まっていた二人の顔が柔らかくなる。少しばかり潤んだ目をした龍可が、そっとクロウの上着の裾を握った。

「……遊星たちも心配してたんだよ? 今まで、どこに……」

 龍可の頭に乗せていた手で、彼女の指を解く。龍亞の頭に乗せていた手を自分の左胸に置いてクロウは微笑み、ポケットからそれを抜き取った。

「……願ってくれないか」

 花。
 否、花の蕾によく似た、透明な球体が細い棒の先にある。玩具のようではあるが、しかし仄かに青く光って見えるそれを玩具と呼ぶのは躊躇われる雰囲気がある。ふさわしい例えがあるとすれば、その蕾は単純な作りの精巧な硝子細工。
 クロウは龍可の手にそれを握らせ、唇の端をきっぱりと上げる。

「遊星、たちの夢が、叶いますようにって」

 今まで見せたことのない強張った笑み。龍亞は笑みを消し、龍可は硝子の蕾を持たされた手に、もう片手を添えた。クロウの両腕は力なく下ろされ、青灰の瞳から光が消えたように見えて、龍亞が慌てて彼を呼ぶ。

「クロウっ」
「……それだけで、いい。花が咲くまで、願ってほしい」

 年齢の割に大きな目を、ゆっくりと閉じてクロウは続ける。
 いつも皆を励まし笑っていた彼の、珍しいほど穏やかで静かな表情を目にして、龍亞と龍可は押し黙るしかなかった。

「おれも願う。でも、もし、おれが願ってやれなくなっても、お前たちは、願っててくれ」

 龍可は渡された蕾の中で何かが揺れたような気がして、視線を一度移す。一瞬映った淡い蜂蜜色はゆらりと揺れて、消えてしまった。

「おれは、もう戻らない」

 花開くようにゆっくりと、クロウの瞼が持ち上がる。煌めく青灰。霞みがかる星空、月光に照らされた夜の色。それでいて、日の光ほどに強い意志の光。
 龍可は両手を握りしめ、龍亞が代わりに前に出た。握られた拳は小さく震えている。

「っな、なんでだよ! なんでそんなこと言うんだよっ」
「決めたんだ。おれが、ちゃんと自分で決めた」

 感情の波など感じさせない眼で、声で、クロウは凛と答える。瞳は潤んで見えたが、彼は泣きそうにもなかった。双子は伸ばしかけた手を止める。目の前にいながら、目の前にいないとすら錯覚させる彼に触れるのが、怖くて。

「遊星達にも伝えてくれ。……死んだとでも、言ってくれ」
「クロウ!」

 クロウは、ふらりと一歩後ろに下がる。玄関のドアは開いていた。クロウのブーツの底はゴム製で、固い床を叩いても軽やかな音を立てることはない。それにしても、静か過ぎた。
 風もないのにクロウの髪が不自然に揺れる。鮮やかな橙。何かがおかしい。何もかもがおかしい。
 気付いたところでふたりには何も出来なかった。ただひたすらに、声で、心でクロウを呼ぶことしか、もう出来ない。

「何があっても森には来るな」

 龍可の手の中で、蕾がゆらり、揺れる。
 クロウの射抜くほど強い視線が、二人をその場に縛り付けた。クロウはまた一歩、後ろに下がる。それでもう、彼は玄関の外にいた。

「何があってもだ……誰も森には、入れるんじゃねえぞ!」

 ごうと音を立てて、強い風が外から吹きつけた。ばらばらと舞い入る木の葉が、容赦なく二人の小さな体にぶつかった。
 悲鳴をあげて咄嗟に顔を覆った二人が顔をあげると、玄関のドアは何事もなかったかのように、音もなく閉じている。
 靴も履かずに駆けた龍亞がドアを開けるが、そこには見慣れた光景があるだけで、誰もいない。
 立ち尽くす龍可が視線を廻らせたが、今自分たちに打ち付けられた木の葉はどこにも見当たらない。
 数分の幻のような再会が残したものは、彼女の手の中の、蕾ひとつだけだった。




 葉を、踏みつける。
 かさり、がさり。音を立てて。

 濃い茶のノースリーブジャケット、深みの緑の細身のパンツ、ゴム底のブーツ。鮮やかな橙を逆立てる、飾りのついたヘアバンド。クロウはまた、森の草を踏みつけ顔を上げた。
 影よりも濃い黒のローブを纏って、京介はにいっと笑ってみせる。組んでいた腕を解いて、差し出される右手。

「……ありがとな」

 やっぱり京介は優しかった。クロウは心の底から安堵し、差し出された手を取る。まるでおとぎ話の姫君のような扱いは、調子に乗った京介らしい、相変わらずの行動。
 そう、相変わらず。それなのにクロウは、すこし滑稽だと思った。
 瞬きのため一瞬閉じた瞼の裏に見えた気がした未来は、遠くて眩い。
 

「クロウ、お前の願いが叶ったら、オレのもう一つの願いごとも叶えてくれるか?」

 クロウは問いには答えなかった。けれど、肩に回された手を払いのけることもしなかった。無理に顎を掴まれて向き合わされて、京介と向き直らされても。


 クロウは思う。いつだって、空っぽにされるのは自分の方だった。
 あの夜、始まりになったあの夜も、京介はクロウのカップにしかミルクを注がなかった。京介はいつも与えるばかりで、何も持ってはいなかった。何もないなら、空になれるはずもない。

 近づいてきた京介の唇に、クロウは自分からそれを押し当てた。冷たくて甘い口付け。仄かな甘味が物足りなくて、京介の髪を掴むように頭の後ろに手をまわして奥まで求める。京介は戸惑うことなくこたえた。


 目を閉じて、クロウは願う。京介に、何かを与えてやりたい。
 きっとそれが、内に秘めた京介の願い。

 これから無意味なほどキスをして体を重ねて、欠けていく音を二人で聞こう。
 それから。




 二人して空っぽになってしまおう。
 

 

未来は、しんせい。→


(全部とけたら、終わりにしよう)

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