「きりゅぅ……」
どこだ、と声を上げる前に反応があって、完全に眠り込んでいた俺は身を起こした。ちょうど足の付け根に、クロウがしがみついている。羽どころじゃなく、体も震わせているのが嫌でも分かった。なんで気づいてやれなかったんだろう、自分に怒鳴りつけたい気持ちを抑えて、両手でクロウを拾い上げた。
「クロウ、大丈夫か!?」
「あたま……いてえ」
風邪でもひいたのかと咄嗟に伸ばした指の先がクロウの手に触れて、ようやく何か変だと気づく。クロウが押さえているのは、一般に頭痛と聞いて思い浮かべるこめかみ付近じゃなくて額だった。そしてうわ言のように紡がれるのは、寒い、じゃなくて、熱い。
血の気が引いていく。風邪じゃないとしたら、何だ。こういう生命体特有の病気なのか。この間の一日居候が菌でも持って来たのか、いや、もしかしたら俺が何か持ってきたのか。
「クロウ、ちょい、手どかせるか?」
手の中にある体は熱いような気がするが、俺にはそうやって確かめるしかできない。小さな手が震えながら額を放れ、そこに指を押しあてようとした俺は、眼を疑った。
「……お前、これ」
指の腹で撫でようとしたクロウの額に、見たこともなかった黄色い模様がついている。喩えるにふさわしい言葉もすぐに見つかった。アルファベットのMだ。
「いてえ……」
「痛いのか、これ……?」
指でなぞるように触れてやれば、自分から頭を擦りつけてくる。体の震えは止まっていたが、痛みを紛らわそうとしているのは一目瞭然。俺は悩むこともなく指をぴたりと押しつけてやる。少しは和らぐのか、クロウはほっと息をついた。
「眠れそうか?」
「鬼柳……」
クロウは痛みで泣いたらしい。赤い眼で俺を見る。いつも見せない弱気な顔。
「おれ、びょうき、かもしれねえ」
小さな声でそんなことを言うもんだから、俺は思い切り、何度も首を振った。
「死んじまうかも、おれ……」
そんなこと、そんなこと言うな!
言いたいことが言葉にならなくて、俺はひたすら首を振った。大丈夫だと言ってやることもできず、クロウを握り潰してしまわないように、両手で温めてやる。小さな体が手の中でまた震え始めたのが痛みのせいなのか恐怖のせいなのか、それすら分かってやれないのが悔しい。
人の言葉を話せて表情もあって、こんなに、こんなに伝えようとしているのに、何もできないなんて。
「きりゅう、……ぅ」
小さな手のひらが俺の手を撫でる。泣くなよ、そんなこと言い出しそうな顔。
「……ありがとなぁ」
そんな、そんなの、今生の別れみたいに言うな!
俺はただ首を振るばかりで、嫌だ、そう言うばかりで。額の黄色の模様を両手で押さえて俯いて、苦しそうな顔を必死で隠すクロウがいじらしくて。
左手でクロウを胸に抱き、俺は賭けに出る。
手にしたのは黒と青のカラーリングの携帯電話。携帯を不携帯することで有名で、電話もメールも気付くまで2、3日が基本の友人の通話ボタンを押す。深夜であることなんて、関係ない。
「繋がれ、繋がれ、繋がれっ繋がれよ!」
クロウを握りしめないよう、力の行き場はひたすら右手。携帯電話が壊れようが構わない。コールはそうしていると数十回目。
どうした、と低い声が答えたのを聞いて、俺は第一声、バカヤロウと叫んだ。
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「ちょうど家の傍にいた」
そう言って玄関のドアを開けた遊星に真っ先に手の中でぐったりとしたクロウを差し出すと、遊星は驚くこともなくポケットからラムネ菓子のような薬を取り出してクロウの唇に押し当てた。
錠剤にしては丸っこいそいつは、クロウの嫌がる味ではないらしい。力が入らないなりに、夢中でカリカリとかじっている。
遊星を部屋に招き入れると、遊星はテーブルをはさんで、俺の向かいになる位置に座った。錠剤を半分ほどかじりきったクロウが一息つく。即効性の薬なのだろう、少し、痛みが和らいできたようで、かなり顔色がよくなっている。
遊星がそれを見て少し微笑んでから、また真顔に戻って俺を見上げた。
「それは、マーカーだ」
「マーカー?」
オウム返しに問う俺に、遊星は神妙な顔で頷く。
「ああ、個体によって形も数も違うが……たぶんクロウなら、7つまで……といったところか」
「分かるのか?」
「……俺の父親が、研究しているからな」
遊星の表情が今までにないほどに曇って、でも俺は問うことを止められなかった。ずっと頭の片隅にあった疑問。普通じゃありえないクロウの存在への疑問。
言葉にはしたくなかったけれど、それしか見つけられなくて。
「クロウたちって、その……所謂、実験動物、みたいな……アレなのか?」
「……その言い方は、好きじゃないな」
遊星が顔を顰めたので、すぐに言葉を足した。声を荒げたせいだろうか、机の上の寝床(ルームシューズ)の上、うつ伏せにくったりとしていたクロウがぱたと羽を動かした。
薬が効いているせいか、いっぱいに開いて俺を見上げる目は、少しだけとろんと眠たそうだ。人差し指で撫でてやってから、声を潜めて俺はまた遊星との会話に戻る。
「俺も嫌いだっつの。でもよお……研究とか何とか、こいつ、こんなちっせえし、羽だってあるだろ……」
遊星はじっと俺を見ている。気のせいか、どっかがクロウと似てる。今まで一度もそんなこと思ってなかったのに。
ガキのころ公園で出会った仲間。父親が留守がちで、そう言う本人も留守がちで、金髪でくそ生意気な親友がいて、神出鬼没で過去のことをあまり話さない、だけど不思議と、信頼できる俺の変な友人。
遊星は、俺の言葉を首を振って流して、指を二本立ててみせた。
「選択は二つある」
遊星は俺から目を逸らさない。クロウもだ。とろとろと今にも眠りそうなのに、閉じかける目を必死に瞬いて俺を見上げている。この状況で、俺に何が言える?
俺は頷いて、遊星の言葉の先を促した。
「ひとつ。クロウを、あくまでこのまま『クロウ』という個体としてお前が世話し続けること。そうすればクロウは、このまま…もう少しは大きくなるが、生き続ける。寿命は鳥と変わらないと思ってくれていい」
「寿、命って……」
「もうひとつ」
何でもないことのように言われて、余計に俺の頭はその単語で占められた。寿命。生き物なら絶対にあるもの。鳥の寿命ってどのくらいだ、少なくとも、俺と比べればずっとずっと短い。
さっと青ざめた俺を慰めるように、クロウがぱさと羽を揺らして飛ぼうとした。羽は揺れただけで、飛んでは来なかったけど。
遊星の視線もクロウに移る。何かを確認するように。
「もうひとつ。人と明らかに異なる部分、クロウの翼を切り落とす」
耳を疑った。
でも遊星には、「冗談だ」なんて言い出す気配がない。
「この個体の特性として、動物的な部分を失うことで再度細胞の構築が行われて、鬼柳達のような人間として歳を取っていくことができるんだ」
嘘、ではない。
冗談、でもない。
嘘みたいだが、遊星は、嘘なんて言わない。
「このまま生きるとすれば、クロウに苦痛はない。ただ、お前と居られる時間も短くなる」
時計の秒針の音まで聞こえてきそうな静寂に遊星の声。
「翼を落とせば、クロウは寿命も含めて、人間になる。……ただ」
続く言葉の予想なんてしなくても分かる。
「体の一部を、麻酔も何も無しに、切り落とすんだ。それなりの苦痛が伴う」
「それなりって、そりゃお前ッ!!」
淡々と口にできるような痛みではないことは想像がつく。クロウの翼は飾りのようにちょんと付いているわけではなく、しっかりと背中、肩甲骨の辺りから生えている。
そこから、切り落とす?
人間でいえば手足を落とすようなものだ。痛くない、わけがない。ショックで命を落とす可能性だって言われなくても分かる。
「それでも麻酔は使えない。体が拒否反応を起こす。未だ成功率が3%だ」
遊星は無表情に宣告する。失敗したらどうなるんだ、なんて、クロウの前じゃ聞けない。
クロウはきっと理解してる。遊星の言葉の意味。
テレビの見方なんて、教えるんじゃなかった。
「きりゅう」
弱いけどはっきりと俺の名前が呼ばれた。いつの間にかクロウと見つめ合っていたんだと気付く。想像だけで泣きそうになって、情けねえ。
どっちがいいかなんて、聞けない。答えられない。答えたくない。
「きりゅう、おれは、痛くてもいい」
「クロ……」
「ハンバーガーを、ふたっつもみっつも食いたい。バナナも、イチゴも、コーラも、ラーメンも、四角いベッドも使ってみたい」
「だけど、クロウっ」
「きりゅうが嫌ならいい。でも、きりゅうがやってくれんなら、おれは絶対我慢する」
もぞもぞと起き上がり、立ち上がり。クロウが手を伸ばしてきたので、つい癖で、手の平を上に向けて差し出した。飛べなかった頃のように、俺の手のひらによじ登って、またそこから手を差し出す。
高いところが好き。そう言うかのように、上へ、上へと望んで持ちあがる手。
クロウをのせた手をそのままにして、立ちあがる。
クロウに翼があれば、簡単に届く高さ。俺の顔のすぐ前で、クロウはいつも通りに笑った。
「ここまで高けりゃ十分だ!」
だから、と。
その後の言葉は決まっている。でも俺は頷いてやれなかった。
マーカーの痛みにすらあんなに苦しそうだったのに、こんな小さいのに、耐えられるものか!
「っできねえ」
「鬼柳」
「できねえよンなこと!!」
クロウと違って、俺の決断力はこういう時に限って発揮されなかった。
クロウはこくこくと頷いて、また口を開いた。
「できねえならいい。おれは、お前にえらんでほしい。その代わり、でかくても小さくても、おれをここに置いてくれよ」
「ったりめえだ!」
こんなに必死になって言うことか、これは。
でも俺は必死だった。
理由を深く考える余裕もなかった。
思いついたのは、クロウを失う可能性なんて考えたくない、ただ、それだけ。
俺には、マーカー発生の痛みどめの薬と、タイムリミットだけが残されることになった。
「マーカー、6つまでだ。7つ目が発生した時点で、クロウの選択肢は消える。それまでに決断しろ」
遊星の言葉に、頷くだけがせいいっぱい。
俺は両掌でクロウを包み、自身の一生の何倍何十倍も重大な選択を抱いて、その夜深く深く眠った。珍しく、寝返りを打つこともせず。
帰って来てみると、廊下に丸いものが落ちていた。摘みあげられる程度の大きさ、摘んでみると、つるりとした茶色。
ひとつかと思いきや、二つ、三つ。
「……ああ」
摘みあげたそれの正体はもう分かっていて、拾いながらたどり着いた場所で、状況も理解できた。
元ルームシューズ、現ベッドで眠りこけているクロウの傍らに、鳥類っぽいキャラクターのデザインされたチョコ菓子の箱がひとつ。
チョコでキャラメルを包んだ球体の菓子を詰めたケースの出し入れ口は、鳥のくちばしになっている。ここに天使がいたらプレゼントうんたら、そんなのがあった気がする。
薄っぺらいビニールを剥がされた後のスカスカの空箱を試しに開けてみたら、エンゼルは留守だった。
「まぁーた勝手に食ったな」
クロウは小ささのわりに賢い。流石に人間と同じような構造をしているだけはある、ということか。
さらにもう一つ人間らしい部分として、英語の類はとことん苦手という個性まである。というわけでクロウは横文字になると尻込みしてしまうが、それ以外ならばどんどん吸収していくわけだ。昼の教育番組とか、バラエティー番組とか、クイズ番組なんかを見ては妙な知識を付けていくクロウは見ていて楽しいが、たまに困る。
俺の帰りが遅くなった日に、「ふじゅんいせーコーユーか」とキラキラした目で聞いてきたのは記憶に新しい。クロウはその言葉を一体何だと思ってるんだ。
むにゃむにゃと幸せそうなクロウは、良く見るとその手にまだチョコを持っている。俺にとっては粒みたいなサイズだが、クロウが持つとボール持ってるみたいだ。
ボールサイズのチョコとか、そうそうないからな。ちょっとうらやましい気もする。
あまりに幸せそうに寝ているから、おれはついクロウの頬をむにむにとつついていた。そのたびにいやいやと首を振るくせに、クロウは起きない。ペット可愛がるのってこんな感じかな。
「ペットじゃねえけど」
言って、くっ、と笑う。
クロウは断じてペットじゃねえ。じゃあ何かって言われたら、俺は同居人と答えるつもりだ。
だってペットは飯食いながら一緒に「美味い」って言わないし、布団かけてくれねえし、おかえりって言ってくれねえ。だろ?
頬を突いていた指を何となく額のマーカーに向けたら、違和感に気付いた。
クロウのデコのMの文字。
Mだけだったはずだ。
「……増えてる」
Mの横に、ぽつんと点。小さいが、増えてる。
指でこすってみたって落ちない黄色、ってことは、これが、二つ目ってことか。
思っていたより、遅いのか早いのか…いや、早いんだな。俺の答えは全く出そうにないんだから。
撫でた額は、髪の生え際の方が冷たかった。きっと汗をかいたからだ。もしやと思って机の下を見れば、遊星から貰ったラムネ薬の紙袋が落ちていた。閉じてあったのに、いくつか錠剤が零れてて。
辛かったから自分で飲んだのか、それとも、俺に見られたくなかったのか。両方かもしれない、クロウは、そういうやつ。
薬飲んで、元気になってチョコボール食ってたのか。それともチョコボール食ってたら、具合悪くなったのか。起きたら聞いてみるか、それともなかったことにするべきか。
むにゃ、とクロウが幸せそうに笑った。
うん。
なかったことにしよう。
一粒だけ拝借して、後はそっとクロウの横に寝かせた。クロウが起きて大欠伸したら、その口に押しこめてやろう。
甘いと怒るか、それとも笑うか。見届けるまでは、寝ないでいよう。
タイムリミットまであとマーカー4つ。
選択肢がある意味を、俺はずっと考えている。
うー、と自然、声が上がる。
瞬きすると目の前が揺れて、起き上がるとぼんやり、あつい。
部屋は真っ暗で、鬼柳は寝ている。
おれはベッドを出て、机の下に転がり下りた。羽ばたくと鬼柳が起きるから、起きっぱなしのクッションの上を狙う。
着地は成功。
鬼柳は寝ている。
おれのよりでっかいベッドで、あっちを向いてる。
ゆーせーに貰った薬を机の下に置くのは、あまり鬼柳の目に入らないようにするためだ。あとはこうして、おれが自分で取りやすいように。
鬼柳が家にいないときに痛んだら、自分で飲む。
今鬼柳はいる、けど、寝てるから。
自分のことは、自分で。
鬼柳がいない間に見た番組で、鬼柳よりずっと小さい人間が言っていた。あんなに小さくてもできるんだから、おれにだって。おれだって、やらなきゃ。
「う」
右目が、痛い。声をあげそうになって、必死で口を閉じる。薬に手は届きそうなのに、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。痛い。痛い。痛い。
座り込んで、膝に額を押しつけて丸くなって、羽で自分を暖める。震えるのが悔しくて、両手で端を掴んだ。
この前だってちゃんと、自分でなおせたじゃないか。
寒いのも、くるしいのも、熱いのも、痛いのも、同じだったじゃないか。これで三度目じゃないか。もう、分かってることじゃないか。
それなのに動けなくなって、痛い。痛い、痛い。
鬼柳が寝てるだけだ。違うのは、鬼柳が寝てるだけ。
「きりゅう、…痛ぇよう」
口に出してしまったら、もっと情けなくなった。
馬鹿。ばか、おれの馬鹿。鬼柳は寝てるんだ。鬼柳に、マーカー、はないんだ。おれが辛いのなんて、おれが言わなきゃ、鬼柳には分かんないんだ。
大丈夫だって言わなきゃ。言わなきゃ、鬼柳が心配する。また悩む。大丈夫だって、言ってるのに。
「クロウ?」
ごそ、と音がした。顔をあげれば、机の裏側しか見えない。でも、ベッドから降りてきた裸足。がた、と机に手をかける音。
「大丈夫か!?」
床に膝をついてまで机の下を覗き込んできた鬼柳の顔を見た途端、ぶわっと目の奥が熱くなった。
こんなんじゃ、おれが、満足、出来ねえよ。
「き、りゅう」
「また、痛いのか? 今度はどこだ」
「……目……いてぇ」
前に転がるみたいに膝をついて、伸びてきた手に触る。指先にぺたり、手の平を乗せると、すぐにおれを包み込んだ手が、机の下から机の上に移った。
おれのベッドの上に戻されて、薬を唇に押し当てられる。がりがりと歯を立てると、さらさらと溶けていく。マーカーの痛みを消す薬。効果が出るまで、じっと丸くなって待つ。ぎゅっと目を閉じて。
「クロウ」
鬼柳にもう一度拾いあげられて、すぐ傍まで連れて行かれる。鬼柳の手のひらはつめたい。でも、手が冷たいのは、心が暖かいんだってドラマで一番出番の多かった兄ちゃんが言っていた。
おれは、もう一度手の平をぺたり、鬼柳の手の上に置いてみる。おれの手は冷たいだろうか。心は、きっと暖かい方がいい。
「一人で無理すんなよ、この馬鹿」
ぎゅうと抱きしめられて、苦しい。その代わり、右目の痛みは気にならなくなった。苦しい、苦しい、苦しい。
必死に手を伸ばしても、おれには鬼柳の指にしがみつくのが精いっぱい。服を掴むのが精いっぱい。
どうしておれの手は、鬼柳の背中に届かない。
痛みが引いた翌朝、俺のマーカーは3つになった。
痛みがなくなったって鬼柳が困った顔をするのが、すごく嫌だ。
細長い棒状プレッツェルに甘いチョコを塗った、非常にシンプルな菓子。だがこれが、悔しいほど。
「……うまい」
「うめえ!」
赤い厚紙のケースの中、銀色の袋を開けて、俺が一本、クロウが一本。菓子の特徴として、持ちやすいように片端はプレッツェルのみで、チョコは塗られていない。
指先で摘んだ菓子、先端部分だけをかじったそいつをぐるぐると回しながら、俺は深く息を吐いた。
「これ考えたやつ卑怯だよなあ、食いやすいし美味いとかさあ」
「そうか?」
「そうだろ……あ、いや悪い」
クロウは腕と手の甲まで覆うグローブをはずして、チョコの部分を掴んでせっせと食べ進めていた。手の平はべったりと、チョコまみれだ。
「あーあー、お前その手で俺に触るなよ?!」
カリカリ、クロウはプレッツェルをかじりながら話半分に聞いている。もうその手はプレッツェル部分を握れるくらいまで食べ進めていた。ちらと俺を見て、菓子片手に机の上を駆けてくる。
走るフォームがちまちましていて、うっかり足を引っかけてやりたい気持ちにもなって、それを隠して首を傾げてみて。
「……くーろーう?」
「ん?」
ぺったりと、俺の腕にチョコ。
クロウはにんまり笑って、わざとらしく菓子をかじる。もごもごと頬いっぱいに菓子を詰めて、また手の平をベタベタと俺に押し当ててくる。
「べつにいいじゃん、どうせこれから風呂だろ?」
「だっから触るなって、…ったくよー…」
チョコを付けるのに飽きたら、今度は良い長さになったプレッツェル菓子のチャンバラを始めた。対戦相手は俺が摘んだままの菓子。
明らかに俺が不利だろ、おい。そうは思いながらも諦めて、受けて立ってやる。
ほいっと菓子を振れば、最初の一、二撃は菓子で受ける。
三撃目は食い意地が買ったのか、がっしと掴みかかってきた。本人にとっても反射的な行動だったらしくて、当然半分に折れたチョコのついたプレッツェルを手に、俺を見上げて笑ってみせる。やっちまった、と苦笑い。苦笑いしながらも、両手の菓子は交互にかじる。
「食い意地はりすぎだろ」
「うめぇんだもん」
「顔にもチョコついてんぞ」
俺の手に残った菓子で唇の横を突いてやれば、今度はそっちにかじりついてきた。はっと目を見開いて、かあっと赤くなる。
俺はくっと笑って、菓子から手を離した。
「今日、一緒に寝るか」
まだ仮定に過ぎないが、今日、確信に変えられるかもしれない。
冬眠前の動物みたいにクロウが食べ物に反応するときは、マーカーが増える予兆。
『動物』として生きる道に近づいているから、かもしれない。
にっこりと頷くクロウの、チョコまみれになった小さい手が、顔が、妙に気になった。
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