2、裏切りの仮面の下



「ありがとうございます、キシリア様」

 キシリアの執務室で、デスクに座ったキシリアの前に立ったマ・クベが深々と頭を下げた。一時は処刑が決定したのをキシリアに救ってもらったのだ。いくら感謝してもしきれない。

「もう、よい」

 キシリアがわざと軽く言って手を振った。

「そなたが居なくなると、私も困る。感謝するならこれからも私を支えてくれ」

 恐縮するマ・クベにそう言うと、マ・クベが嬉しそうな笑みを浮かべた。決意も新たに、より一層深く頭を下げる。

「部下として」

 付け加えられたキシリアの言葉に、マ・クベの動きが一瞬止まった。

「……キシリア様?」

 訝しげにキシリアを見ると、キシリアが耐えられずにマ・クベから視線を外した。

「すまぬ……。あの夜の事、忘れておくれ」

 肘をついた手で顎を支え、下を向きながらキシリアがそう言った。いつもなら真っ直ぐ堂々とマ・クベの目を見るキシリアが、今は怯えたようにマ・クベの視線を避けている。

 あの夜。

曖昧な表現だったが、マ・クベには、キシリアが何の事を言っているのかはすぐに判った。それほど大切な夜だったのだ。マ・クベにとっては。

二人で互いを愛していると確かめ合った夜。

 その、歓喜に震えた夜を忘れろと唐突にキシリアが言った。

「何故……、ですか?」

 突然のキシリアの言葉に、マ・クベの低い声が、更に低くなった。聞こえるか聞こえないかのかすれ声が、かすかにキシリアの耳に入ってくる。そこからマ・クベの受けた衝撃の大きさが伺え、キシリアをより一層苦しめた。

「私が、何か貴女の気に触る事でも……」

 なんとか立ち直ろうとそう言ったマ・クベに最後まで言わせず、キシリアが遮った。

「違うのだ、マ・クベ。お前のせいじゃない……」

 キシリアの声に、苦悩が混じった。マ・クベにかけた残酷な言葉は、諸刃の剣のように自らも傷つける。

 マ・クベの命を救うために、ギレンに抱かれた。

ギレンとの一線を超えた自分には、マ・クベの愛を受ける資格がない。ギレンとの行為を自分も望んでいたのではないか? という思いを抱きながら、他の男に愛される事はできない。

 ギレンが付けた傷は、二人の間にいつか必ず災いをもたらす。それが判っていて、マ・クベの愛を求める事はできなかった。

「では、なぜなのです! 何があったのです」

 事情を知らぬマ・クベが、かつて愛を誓った恋人の心変わりが信じられず、悲痛な叫び声を上げた。

「私が、変わってしまったのだ」

 マ・クベの心の痛みが、キシリアにも伝わってくる。耳を塞ぎたい気持ちで、キシリアがそううめくように言った。

 マ・クベも、キシリアも、お互いを求めているのに、やっと気持ちを確かめたというのに。でも、駄目なのだ。理不尽な現実は、容赦なく二人を引き裂く。

「すまぬ。もう、忘れろ。その方がいい」

「どうしてです? 私にはあの時の貴女の言葉が嘘とは思えません。貴女は確かに、私を愛してくださっていた。あの時、確かに!」

 叫びながら、マ・クベの脳裏に、光の射さぬ営巣で、処刑を待つ自分をキシリアが尋ねてきたあの夜の事が鮮明に思い出された。



 貴女を愛しています。いままでも、そしてこれからもずっと。

 そう、マ・クベが胸に秘めてきた思いをキシリアに伝えた。

私がキシリア様を想っていた事を、キシリア様が少しでもお心に止めてくだされば、私は救われる。

 ささやかな願いを込めていた。

 だが、マ・クベが見たのは、想像もつかなかったキシリアの表情だった。

マ・クベが処刑を目前にしてキシリアに愛を伝えた時、キシリアの瞳が、食い入るようにマ・クベを見つめているのに気がついた。やがて、両の瞳から、涙が一筋落ちて頬をぬらした。

 信じられぬ光景に、マ・クベが絶句していると、私もお前を愛しているとキシリアが震える声で言った。誇り高く、冷徹な女将軍が、ただの女になって、マ・クベにそう言った。そう言って瞬きをすると、また涙が一筋零れ落ちた。

一瞬耳を疑った。馬鹿のようにゆっくりとその意味を知ると、歓喜に震えた。

絶対に叶わぬと思い、許されぬと思っていた。

我慢できずにキシリアの体を両腕で抱いて、それが夢ではないと確信した。キシリアは抵抗せず、マ・クベを求めるように、強く抱きついてきたのだ。

キシリアの体を離し、そっと顎を持ち上げると、キシリアが恥じるように視線をマ・クベから外し、やがてゆっくりと目を閉じた。

 口付けだけを交わし、愛を誓った。

 相手に触れるだけで、狂おしいほどの一体感を感じた。口には出さずとも、愛しており、愛されている事が判った。体の交わりがなくとも、深く繋がりあっているのを感じた。



 それが、嘘だと言うのか?

「私を愛していると、仰って下さった……」

 今にも泣きだしそうなキシリアの顔、マ・クベの顔を凝視しながら、キシリアが流した涙、マ・クベのキスを受けた融けるような表情、どんな手段を使おうとも、絶対にお前を殺させはせぬと言った、修羅の顔。

 キシリアの見せた表情全てがマ・クベの中で巡った。その表情の裏にある気持ちが嘘だとはとても思えない。思いたくない。

「止めよ、マ・クベ。嘘など言うものか!」

 うめくように言ったマ・クベの言葉に、キシリアが思わず立ち上がって叫んだ。

 マ・クベが嫌いになったのではない。むしろ逆だからこそ、マ・クベを切り捨てねばならないのだ。

 初めはただの部下だった。やがて、心を許すようになった。気がつけば愛していた。

 充分すぎるほどの時をかけて、ゆっくりと育んできた想いがやっと成就したにもかかわらず、ようやく生まれたマ・クベとの絆を断ち切らなければいけない辛さは、キシリアも同じだった。

「あの時はどうかしていた。一時の夢、泡沫の幻、病気だ、熱病だよ。傷が広がる前に終わってよかったのだ。お前には申し訳ないと思っている。お前の心を弄んだ罪、償えるものならば幾らでも償おう。だが、私の心はもう欲しがるな」

 デスクから立ち上がり、マ・クベの前へキシリアは歩み寄った。マ・クベの正面に立ち、最後通牒のようにそう言い放つ。

 だが、それは、マ・クベにではなく、自分の心に言い聞かせるかのようだった。

私もお前の心を欲しがらない。どんなに苦しくとも。

 キシリアが、マ・クベに断絶の言葉を吐きながら、自らの心にもそう言った。

マ・クベに本当の事を言う訳にはいかない。自分の命を救うために、キシリアがギレンと交わったと知れば、マ・クベはどれだけ自分を責めるだろう。

 どんなにお互い求め合っても、どうしようもないのだ。

 破滅を回避するためには、こうするしかないのだ。いくらマ・クベに恨まれようと、マ・クベを失うよりはましだ。

 想いは成就せずとも、マ・クベとは上司と部下の関係でいられる。

 どんなに心苦しくても、マ・クベは側に居てくれる。

「謝って欲しくなどありませんな。私が欲しいのは、貴女のお心、それだけです。それが得られぬのなら何をしていただこうとも思いません」

 だが、キシリアの心を知らず、きっぱりとマ・クベがそう言った。

 キシリアの心が揺れる。私もお前が欲しいと、今にも叫びだしてしまいそうになる。

「忘れろ! 私を愛してくれるのなら、なおさらだ」

 自分でも、驚くほどの精神力で、辛うじてそう言えた。心が傷だらけになり、血まみれになる。

「それが貴女の望みなのですか?」

「……そうだ」

仇敵を睨みつけるような目で、キシリアがそう言った。

滴り落ちる血の一滴も、マ・クベに知られてはならない。

そう思って、氷のように冷たくなりきった。唇の端が震えそうになるのを、必死に堪えた。 

「貴女、どうして私の気持ちを試すような事を言うのです?」

次の瞬間、キシリアの耳に入ってきたのは、マ・クベの悲痛な叫びだった。

普段は冷静なマ・クベが、別人のように乱れた。

キシリアがマ・クベを失いたくないと必死なように、マ・クベもまた、キシリアの本心を得ようと必死だった。

「あなたの気持ちをお聞かせください。私をもう愛していないというのなら、私は引きましょう」

「私がお前を愛していようと、どうにもならぬ事はあるのだ!!」

思いもよらぬほどのマ・クベの熱に、氷にひびが入る。かぶっていた仮面が粉々に砕け落ち、キシリアの生身の感情が、迸るように溢れ出た。

自分はこれほど愚かな女だったのかと、眩暈がした。

「ならば引くわけにはまいりません!!」

 マ・クベの瞳が、ぎらりと光った。常に冷静だったこの男が、負けじと声を荒げ、自分よりも大切だと想ってきた女に逆らった。

 愛し合っているもの同士なのに、今生の敵同士のような視線を交し合った。

お互いを想うがゆえに、譲れぬ。

 マ・クベの腕がキシリアの体を捉えた。この男のどこにそんな力があったのかと思うほど、強く抱きしめられ、強引に唇を奪われる。

 唇が離れた瞬間、キシリアの平手打ちが飛んだ。マ・クベの唇の端から、赤い血が一筋落ちる。

 それを気にする様子もなく、マ・クベが先ほどとはうって変わった、落ち着き払った冷たい瞳でキシリアを見る。

 その目のあまりの冷たさに、キシリアがぎゅっと目をつぶり、顔を背けた。だが、すぐに冷酷で峻厳な女神の顔を取り戻した。

「お前のこれまでの忠義に免じて、私に逆らった事、一度は忘れてやる。だが、二度は無いと思え。二度と私に触れる事は許さぬ!」

 かっと目を見開き、逆らう事を許さぬ声が、そうマ・クベに命じた。

 マ・クベは臆する事無く、感情の伺えぬ冷たい表情でキシリアを見ている。


関係が崩れる音が、確かに聞こえた。



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