*** 黄金の指輪の下に <1> ***
さらさらと紙に羽ペンを走らせる音がする。
音はたゆまず、縷縷と途切れることなく続き、まるで時の流れそのもののようにいつ果てるとも知れない。
「―― 遅参いたしまして申し訳ございません。闇の森のスランドゥイルの子、レゴラスでございます」
ペンの音以外、何一つ音はせぬ広い部屋の中。
いくぶん緊張をはらんだ己の声が静寂を押しのけて響きわたり、かつ消え、すぐにまたもとの静けさが訪れる。
レゴラスは方形細工の象嵌された見事な床にひざまずき、頭を垂れ、伏せた目でつややかに磨き込まれた美しい床の紋様を眺めながら、身じろぎひとつせずに応えを待った。
・・・裂け谷を訪れて最初にこの部屋へ入る時は、いつも緊張してばかりいるような気がするけれど。
何とはなしに、心に思う。
緊張といっても、別段怯えたり竦んだりしているわけではない。
ぴしりと気が引き締まるような、背筋がぴんと張るような―― そんな、むしろ心地よい緊張感といっていい。
かちり、と羽ペンがペン立てにしまわれる音がした。
ついで、さらさらと砂のようなものが紙に振り撒かれる音。
インクを乾かすための銀紛をふりまいているのだろう―― ちらりと頭の片隅でそう思う。
ぱさりと目の前に、視界をさえぎるように己の髪が落ちてきた。
窓越しに投げかけられたやわらかな陽光を受けて、視界いっぱいに白金の光がきらめき、一瞬緊張が途切れる。
レゴラスは、邪魔な己の髪をかきあげようと片手を上げかけ――。
「遠路、よく参った。久しいな―― 道中変わりはなかったか?」
朗々とよくとおる、静かな落ち着いた声が部屋に響く。
レゴラスははっとし、あげかけた手を戻すと、さらに低く頭を垂れた。
「裂け谷の手前で、一度だけオークの軍勢に遭遇を。ですがこちらに気付かないようでしたので、手は出さずそのまま行かせました。・・・あとは、さして何事もなく」
跪いたまま、答える。
「・・・オークの数は?」
「およそ、二百体ばかりかと」
「どちらに向かっていった?」
「西方へ」
答えると、西か、と短くひとこと、ひとりごとのようなつぶやきが耳に届く。
それから、かたりと椅子を引いて席を立つ音。
衣擦れの音と、ひそやかな足音。
「・・・昨日着いたばかりのドワーフ族の者たちも、そなたと同じ事を言っていた。おそらくは同じ軍勢を見たのであろう。―― きゃつ等が向かったのが西とあれば、やはりいそがねばならぬ」
思慮深げな様子の声がゆっくりと近づいて来ると、最後のほうはレゴラスのすぐ真上から投げかけられる。
陽射しがふいとさえぎられ、目の前の床に長い影が落ちた。
視界がかげり、白金の髪が一旦きらめきをおさめる。
「―― おもてをあげるがよい、スランドゥイルの愛し子よ」
わずかに微笑を含んだ声に、レゴラスはゆっくりと仰のいた。
視界の中の、漆黒のガウンと銀鼠色の長衣を上へとたどっていくと、肩から胸へと流れる、幾束かの真っ直ぐな紫黒の髪が目に入る。
ついで、やや尖り気味の顎、引き締められた口元、すっと通った高い鼻梁。
眼窩におさまる、怜悧な様子の威厳深きひかりをたたえた、一対の灰色の瞳。
「長らくご無沙汰しておりましたことをお許しください。―― エルロンド卿」
己にそそがれる、静かな威厳と慈愛に満ちた眼差しを、レゴラスは敬愛を込めて受け止め、そう呼びかけた。
裂け谷の王、エルロンド。
齢は既に六千と五百を越え、己にとっては伝承の人物にも等しいといってもよかった。
かつてはエルフの戦士はかくあるべし、とすら賞された歴戦の勇者であり、また炯眼をもって果断な采配をふるう優れた統治者でもあり。
他のエルフの敬愛と憧憬を一身に集める、裂け谷のエルフ王だ。
父王スランドゥイルとは浅はかならぬ仲だったとは聞くけれど、実のところ一体それがどんな仲だったのか――親友なのか、好敵手なのか、はたまた敵同士だったのかなどは、どちらの口からも聞いたことはない。
「・・・そなたは相変わらず畏まってばかりだな。跪かなくても良いと、何度言っても聞きはせぬ」
齢など一片たりとも感じさせない目元を僅かにほころばせ、裂け谷の王が苦笑まじりに告げる。
「そなたはあのスランドゥイルの子だ、誇り高くもあるだろう。私が王だからといって、そのように仰々しくしなくてもよいのだ」
「僕にとって、貴方は王であらせられる以上に、過去の大戦で功績を挙げられた名高い戦士です。同じエルフの戦士として、貴方にどれほど敬意を払ったところで惜しくなどありません」
王の顔をしっかりと見上げ、レゴラスはよどみなく答える。
口にした言葉は、勿論世辞ではない。まごうことなき真実だ。
「・・・我が身には過ぎた言葉だな。だが、有難く受け取っておくとしよう。スランドゥイルが耳にすれば何と言うことやら―― さぁ、もう立つがよい」
深い声に暖かな優しさをにじませてそう言うと、エルロンドがレゴラスの目の前に手を差し伸べる。
レゴラスは、エルフの手にしてはやや骨ばって見えるその手を取ると、敬意を表して恭しく甲に口付けた。
それからマントの裾をひらりと捌いて立ち上がると、胸に手をあて、裂け谷の王に向かって出来るだけ優雅に一礼した。
―― 裂け谷は、相変わらず美しいところだな。何度来ても、いつも目を見張ってしまう。
森の木々の色合いさえ、闇の森の深々とした暗緑色に比べると、色鮮やかで華やかに見えるのは気のせいだろうか?
エルロンドの居室の窓越しに、眼下に広がる裂け谷の美しい景観、そして極めて風雅な白亜の建物の数々を眺めおろしながら、レゴラスは思う。
目を遠くに移せば、切り立った崖や山肌には、白い水煙がもうもうと立ち込める滝があちこちに見受けられ、見ているだけでもとうとうたる瀑布の音が耳奥に響いてくるようだ。
外だけにあらず館の中――エルロンドの居室も、初めて訪れた客人ならば思わず感嘆の声をあげずにはいられないだろうほど、素晴らしかった。
やわらかな陽光に満ち溢れ、うららかに明るい部屋の壁や柱には、草花をあしらった繊細で優美な装飾が丹念にほどこされ、いとも華やかな雰囲気をかもし出している。
また、燭台ひとつ、机の上のインク壷ひとつとってもこの上なく見事な品ばかりで、レゴラスの目にはとてつもなく贅が凝らされているように映った。
もっとも、そう思っているのは、客人である己だけなのかもしれないけれど――。
「―― レゴラス。そなたは裂け谷の他の客人たちとは、もう言葉を交わしたか?」
「いえ、まだです。つい先ほどこちらへ着いたばかりなので。―― あぁ、でもこの館の下で、ホビットをひとり見かけました」
背後からの声に、先ほど見かけた、少しころんとした体格のふっくらした丸顔のホビットを思い出しながら、レゴラスは答えた。
エルロンドの館に入ろうとしたところで見かけたのだが、めったに出会うことのないホビットに興味をひかれ、思わず声をかけようとしたら、向こうは一瞬ぽかんと口をあけて己を見上げ、それから何故だか脱兎のごとく逃げ去ってしまったのだ。
別段抜き身の剣を下げていたわけではないし、一体何が彼を驚かせてしまったのだろう――?
そう思い、何度も首を傾げてしまったものだ。
「ホビットならば、黄金の指輪の持ち主の旅連れの一人だな。数日前、追っ手に追われながら裂け谷へやって来たのだ」
「―― 黄金の、指輪」
レゴラスは口の中で小さく反芻すると、窓ガラスに映りこんだエルロンドの姿を見つめた。
黄金の指輪とはもちろん、あの忌まわしき冥王の一つの指輪に他ならない。
己がはるばる、闇の森より呼び寄せられた理由そのものでもある。
「・・・会議に出席する方々は、もうみな揃っているのでしょうか?」
窓から目を離し、背後の王を振り返ると、レゴラスはたずねた。
「いや、まだ人間たちが着いておらぬ。だが、遅くとも今夜には着くだろうとの知らせを受けている。・・・会議は早ければ明日、開かれるだろう」
エルロンドが答え、窓際のテーブルの上から手ずから注いだ酒杯を取り上げると、レゴラスに向かって差し出した。
レゴラスは小さく礼を言って受け取ると、杯に満たされた琥珀色の果実酒に軽く口をつけ、喉を潤す。
「明日、ですか。・・・エルフと人間、それにドワーフが一同に集うなど、僕は決して有り得ないことだと思っていました」
ふわりと羽のように軽い喉越しの酒に、つい杯を傾けてしまいながら、レゴラスはつぶやく。
人間はまだしも、犬猿の仲のエルフとドワーフが集ったところで、果たして結論など導き出せるものだろうか――そう疑わずにはいられない。
異なる種族は、やはり相容れないものなのだという事実をつきつけられて、もの別れに終わってしまうような気がしてならなかった。
「誰もがそなたと同じことを思っていただろう、スランドゥイルの子よ。――そして、この会議が本当に意義あるものなのかとも」
見方によっては厳格とさえ見える顔に、諭すような表情を浮かべ、エルロンドが言う。
「だが、会議は開かねばならぬ。そして決断は下されねばならない」
静かに、だがびんと張りのある声で告げられ、レゴラスは思わず酒杯の琥珀に目を落とした。
胸のうちの思いを見透かされ、咎められたような気がして、いたたまれない思いにとらわれる。
「――かつて世界を覆った暗黒に立ち向かい、闘った時も、幾度もこのような会議は開かれた。・・・それがまた、開かれることになろうとはな。それも、己の許の、この裂け谷で」
エルロンドが、つとレゴラスの隣に並び立つと窓の外へと目を向け、淡々と口を開く。
その胸に去来するのはどんな思いなのか、声にはとても深い悲しみが込められているように聞こえ、レゴラスは少しはっとなると、エルロンドの横顔を見上げた。
かの大戦を最後まで戦い抜いたエルロンド自身の口から、直接その遠い過去の話を聞いたことは、今までに一度もなかった。
ただ、いつだったか、あの時、己の手で指輪を葬っていたならば――そうつぶやくのを一度だけ耳にしたことがある。
その印象的な言葉は何となく忘れがたく、ずっと心にとどめていたのだけれど――。
額に銀を嵌めた、少し厳しく引き締まって見える横顔をじっと見上げていると、エルロンドが、ふとレゴラスへと顔を向けた。
陽光を受けて、灰色の瞳が一瞬、鋼の刃を思わせるような硬質の光をたたえてレゴラスにそそがれる。
「―― 黄金の指輪があらわれた。そなたにとって、このことはどんな意味を持っている?」
「・・・冥王の復活と、それを阻止するための闇の眷属との戦い――でしょうか」
静かな口調で王に問われ、レゴラスはわずかに首を傾げてそう答えた。
「然り。―― だが私にとっては、この裂け谷の消滅だ」
突然に告げられたその言葉に、一瞬耳を疑い。
「まさか・・・そんな馬鹿な!」
次いで愕然となると、レゴラスは思わず声をあげてエルロンドを凝視した。
「そんな―― そんな、この裂け谷が消えるなど、どうしてそんなことが」
確信のない事柄を軽々しく口にするような王ではない―― そうと知っているだけに、動揺し、うろたえ、きつく酒杯を握りしめて立ちすくむ。
「・・・黄金の指輪は葬らねばならぬ。だが、かの指輪の強大な力が消え失せれば、一つの指輪に支配される他の指輪も――この私の手の内にある指輪も、力を失うことになる」
灰色の双眸を静かにまたかせ、エルロンドが言う。
レゴラスは唇をかんで、朗々とした声の紡ぎだす言葉に、黙って耳を傾けた。
「消滅、というのは言葉が合わぬな。聖域、また安息の地としての裂け谷が失われる―― そういうことだ。この長い年月の間、我らが心安らかにこの地で暮らせたのは、指輪の力があってこそ。力が失われれば守護は解かれ、この地はやがて少しずつ汚されてゆくだろう」
淡々と告げられたエルロンドの言葉に、レゴラスははたと思いつく。
「―― もしかして、エルロンド卿は裂け谷を去ろうとお考えなのですか?」
いくぶんふるえる声で、思いを口にする。
灰色の双眸をひしとすがるように見つめると、すべてを悟りつくしたかのような、穏やかな―― そして少し寂しげな微笑だけが返された。
「それは――それだけは、どうかお考え直しを。この僕から、裂け谷を訪れる楽しみと喜びを奪わないで下さい。・・・お願いです」
「・・・レゴラス」
「指輪の力がなくとも、貴方がここにいます。貴方だけではなくグロールフィンデルも、他の素晴らしい戦士だってたくさんいる。裂け谷の無事はきっと守られるはずです。―― 何なら、僕もここへ留まりますから」
必死の思いでいいつのる。
裂け谷のエルフたちが去ってしまう―― そんな、とてつもなく悲しくて寂しいことが起ころうとは、夢にも思わなかった。
信じたくない。
また、知りたくもなかった――。
ゆらり、と己の視界がかすかにゆがむ。
エルロンドが少し驚いたような様子を見せた。
それから、あたたかい、慈しむような表情を浮かべると、すいと手を伸ばす。
「そなたの気持ちは嬉しく思う。・・・安心するといい、私はまだ決断したわけではない」
レゴラスの頬を両手で包み込み、言い聞かせるように言う。
・・・それはきっと、己を宥めるための嘘だ。
裂け谷の王はもう、決断してしまったに違いない。
裂け谷の王を見つめ、そう思う。
心が少しずつ重みを増してゆき、レゴラスは耐え切れず、目を伏せた。
「すまない、そなたがそんなに驚くとは思わなかったのだ。・・・今ここですべき話ではなかったかもしれぬ」
エルロンドはつぶやくと、レゴラスの顔を仰のかせ、額に軽く口付けた。
それから頬にも口付けを与えると、ゆったりとレゴラスの肩を抱き寄せ、髪に軽く手を梳きいれる。
「レゴラス―― 私の大切な緑葉よ。思えばそなたとは、あまり言葉を交わしたことがなかったな」
慈しむようにレゴラスの髪を手櫛で梳きながら、裂け谷の王が静かに言葉を紡ぐ。
「いつもグロールフィンデルがそなたを攫ってしまっていたから、声を掛けようにも、掛けようがなかったのだが」
「―― それは、あの」
軽く笑みを含んだ声でそう言われ、レゴラスは少し慌てた。
それから、ふと気付く。
そういえば、いつもエルロンドの傍らに控えているグロールフィンデルの姿を、今日はまだ見かけていなかった。
どこに居るのだろう――?
「グロールフィンデルは遣いに出した。―― 安心するがいい、すぐに戻ってくるだろう。そなたが来ることを知っているゆえな」
心を見透かしたようなエルロンドの言葉に、レゴラスはまた慌てる。
「レゴラス、頼みがある。聞いてくれるか?」
「・・・それはむろん、エルロンド卿の頼みとあれば、なんなりと」
王の腕に包みこまれ、その肩に顔を預けながら、珍しいその言葉に首をかしげながらもレゴラスは頷いた。
「―― 明日の夜、私の許をたずねてきて欲しい。そなたともっと、話がしたいのだ」
「・・・それがお望みとあれば、もちろん伺いますでしょう」
エルロンドを仰ぎ、にこりと微笑むと、レゴラスは承諾した。
偉大な戦士として尊敬し、優れた王として敬愛もし、また時にはその鷹揚な包容力に父親のようだとも思っていた裂け谷の王は、己にどんな話を披露してくれるのだろう。
急速に興味をひかれ、いつのまにか心の重荷が、少しずつ軽くなってゆく。
不意に、外の様子が騒がしくなった。
「・・・あぁ、残りの者たちが着いたようだ」
エルロンドがゆっくりとレゴラスの身体を離し、窓の外へ顔を向けた。
レゴラスもそれにならって、外の様子を眺め下ろす。
建物の影になっているのか、そこにはまだ何の姿も見えはしなかったが、言い交わす声と声、馬のいななきと蹄の音、エルフのものでない重々しげな足音などが聞こえてくる。
「これで、会議の面々が全て揃ったな」
ぴしりと鞭打つような声。
はっと見上げれば、厳しく引き結ばれた口元と、外を見据えて炯炯と光る鋼の瞳―― 果断なる王の顔が目に入る。
「会議は明日だ。そして、世界の命運を担う決断がなされるであろう。―― 決断を下すのは、我か、それとも他の者か」
自身に言い聞かせるかのように、エルロンドが低く唱える。
「――エルロンド卿。僕はこれで」
これ以上この場にとどまっていては、おそらくエルロンドの政務の妨げになるだろう―― そう思いたつと、レゴラスは退出を申し出た。
裂け谷の王はこれから客人を迎え、明日の会議に向けて忙しくなるに違いないのだ。
「・・・あぁ、すまぬ。そなたも着いたばかりだったな。今日はゆっくりと休んで旅の疲れを癒すがよい」
レゴラスを振り返り、王がねぎらう。
その言葉を機に、レゴラスはいずまいをただして一礼をしようとし―― そして未だ酒杯を手にしたままだったことに気が付いて、少し慌てて残りを飲み干すと、傍らのテーブルの上に置いた。
「―― それでは失礼致します」
今度こそ胸に手を当て、王に向かって頭を垂れる。
それからマントの裾を捌いてきびすを返すと、レゴラスは扉へと足を向けた。
Written by marianne / NEXT