夜の街中を少女が駆ける。何かに怯えた少女の様子にすれ
違う人々は振り返るが、声をかける間もなく少女は走り去る。
(何が起きたの? わたし、どうなったの?)
自分のことを知らないという家族、全く思い出せない自分
の名前。つい先程まで普通に暮らしていたはずなのに、何で
このような状況になったのか、少女に心当たりは何もなかっ
た。
「はっ、はっ、はぁ、はぁ」
商店街の外れまで走り抜けた少女は小さな公園を見つけ、
中にあるブランコに腰掛ける。錆びた金属がこすれる耳障り
な音が、人気のない公園の静寂を乱す。蛾が群がる街灯は切
れかけて暗い明かりが時々点滅しつつも、少女の足元に薄く
長い影をつくった。
(何で、名前が思い出せないの?)
寝坊した自分を起こしてくれる家族の声、みんなで食べる
朝の食卓、バス通学の自分を迎えに来てくれる兄や姉、一緒
のお風呂に入る両親。その光景はまざまざと心に思い浮かべ
ることができる。その中で皆が少女の名を呼ぶ。だが、まる
でテープを切り取ったかのように、少女の名前だけが聞こえ
ない。
「・・・、もう朝だぞ」
「おかえり、・・・。今日はどうだった?」
「はい、・・・の分」
「・・・」
「うっ、うぅっ」
悲しさと寂しさでが胸を押し潰し、穴だらけの回想が静か
なノイズを頭の中にかき鳴らす。少女は頭を抱えて地面にう
ずくまった。
少女は、一人になるのも寂しいのも慣れていた。幼い時に
父が大ケガをし、ほとんどの時間を一人で過ごしていた。も
ちろんとても寂しかったが、包帯まみれでベットに横たわる
父を見て我慢することを決めた。それが唯一少女にできるこ
とだったし、決して忘れ去られお座なりにされたのではない
と理解していたから。幼い心で決意できるほど、少女は愛さ
れて育てられていた。
(お父さんもお姉ちゃんも、わたしのこと忘れちゃった……)
だが今は、愛された記憶がかえって少女の心を傷つける。
両親譲りの強い心で困難に立ち向かえる少女も、力の源であ
る家族を揺さぶられてはひとたまりもなかった。普段の少女
であれば、もう少し冷静に対処できたかもしれない。しかし
自分の名前が分からないということが少女に恐慌をもたらし、
自らを責めて更なる混乱を呼ぶ悪循環に陥ってしまう。
(わたし、悪いことをしたの? 悪い子だから、なの?)
ざざざっと公園の砂利道が鳴る。ほとんど期待していない
が、たった数%の可能性にかけ、少女は泣き腫らした顔を上
げる。はたして。
姉ほどではないが栗色の長い髪。似ていると言われるのが
嬉しい、実年齢よりも若々しい顔。豊かな胸を隠す仕事着の
翠屋エプロン。彼女が作る絶品の菓子のような甘い甘い少女
の大好きな母、高町桃子。
彼女もここまで走ってきたのか、肩で荒い息をしている。
こめかみに汗が流れるその顔は、悲痛な色に彩られていた。
「……お母さん?」
もし母もそうであれば、少女に立ち直る自信はなかった。
それでも単に先延ばしするのはとても辛く、更なる可能性に
かけて怖々と問いかける。
「お母さん?」
少女は駆け寄った母に抱き締められ、甘い大好きな母の香
りと柔らかい胸に包まれる。至福などと難しい言葉は知らな
くても、ただただ愛されていると感じる幸福の瞬間。
「お母さん!」
だが。
「ごめん、ごめんね」
傷つくことに対して敏感になった少女は、それだけの言葉
に込められた微妙なニュアンスを嗅ぎ取ってしまう。
(お母さんも、わたしが分からないんだ……)
甘い香りも柔らかい感触も本物だと少女は全身で感じてい
る。本物なのに何かが違う。何か分からないが心の隅に引っ
掛かる違和感。何が違うのか、少女は自問する。
(お母さんが本物なら、わたしが偽物なのかな)
少女からも母に抱き着き、その胸の中で思いっきり泣いた。
何がどう違うのであれ、今はただ抱き締めて頭を撫でてくれ
る優しい手に少女はすがりたかった。