喫茶「翠屋」。海外修行で鍛えたパティシエの御菓子が自
慢の喫茶店で、近隣の女の子たちだけでなく遠くからも客が
くる市内でも有名な店である。
日が沈んで客層が学生からOLに代わるだけで、繁盛して
いるのが店の外からも伺えた。少女は入り口のガラス戸越し
に、店の中を忙しそうに行き来する家族の姿を見つけ、安堵
して胸をなでおろす。
「いらっしゃいませ!」
少女が扉を開けると鳴る鐘の音に反応し、店の中からいく
つもの元気な声がする。その中で一番入り口近くのレジにい
る男性に少女は駆け寄った。
「お父さん!」
高町士郎、大きくて強くて暖かい少女の父。いつも頭を撫
でてくれる大きな優しい手。だが、それを求める少女の期待
は裏切られる。
上げられた父の手は少女の頭に向かわず、彼の頭をかくに
とどまる。父は店内を見回して該当する人物がいないことを
確認し、目の前の少女に視線を戻す。
「えーと、お嬢ちゃん。お店で誰かと待ち合わせかな?」
父の困った顔と耳を疑う言葉に、少女は一歩後退りする。
「……お、お父さん?」
父にからかっている様子は見受けられないし、普段少女に
このような悪戯や意地悪はしない。ならば父の反応は一体ど
ういう事なのか。少女の背中を冷たい物が流れ落ち、不安の
影が少女を覆う。
「おとーさん、どうしたの?」
胸元に小さく翠屋と書かれたエプロンをした少女が二人の
元にくる。年頃は高校生ぐらいか、丸いメガネをして長い髪
を後ろで編み込んでいる。高町美由希、高町家長女で少女の
仲の良い姉。
「お父さんって聞こえたけど、隠し子がいたなんて、私、知
らなかったな」
姉はコラコラと咎める父を無視し、手にしたトレイを抱え
たまま少女の前にしゃがみこむ。
「どうしたのかな、もしかして迷子になったの?」
姉も父と同じ、少女のことなど何も知らないような反応。
少女は胸元で両手を握り締め、嫌々するように頭を振る。
「お姉ちゃんも、おとうさんも、わたしのこと、分からない
の!?」
少女の悲痛な問いに父と姉は顔を見合わせる。
「俺はこの辺りで見かけた覚えが、美由希はどうだ?」
「うーん、私も……。ねぇ、お姉ちゃんに名前教えてくれな
いかな」
選りに選って姉に名前を問われ、少女の目が湿り気を帯び
る。
「わたしっ、わたしは……わたし、は……高町……たか…ま…
ち……」
握り締めた小さなこぶしが震え、潤んだ目が大きく見開か
れる。
(わたし、自分の名前が、分からない?)
父の名も姉の名も、母のも兄のも分かる。店の電話番号も、
家の住所も、誕生日も。なのに、少女自身の名前が出てこな
い。まるで石油事故の噴煙のようなどす黒いものが頭の中に
充満し、少女の名前を少女自身から隠しているようだ。
(わたしは、誰なの?)
胸が冷たい手に握り締められたかのように痛み、苦しくて
服の胸元を強く握り締める。そこにも何か大切なものがあっ
たような気がしたが、手の中には上着の布地しかない。
少女の顔が歪み、頬を冷たいものが流れ落ちた。
「ごっ、ごめんなさい!」
ガラガランと扉の鐘を鳴らし、呼び止める声を背に少女は
店の外へ飛び出した。