――――そして、目を覚ました。
「…………む?」
窓から差し込む朝日を瞼に受け、その少年――クロノ・ハラオウンは疑問に思う。なぜ朝日を受けるのか、と。
あの一件……闇の書とそれに関する事件の際に拠点を海鳴市の一角にあるマンションに移してより、およそ一年が過ぎていた。
その際に設けた自室のベッドは壁際にあり、窓とは反対の位置に設置されている。その隔て距離にして約3m。
それは事態が収束し、暫くの間の様子見のために駐在することとなった今も変わらず、雨戸を閉めずに就寝したとしてもその場所まで直接日差しが差し込むことは物理的にもありえず、つまりこいつは怪現象だ……。
と、そこまで考えたところで彼は自身が顔を机にへばりつけるようにして寝ていることに気がついた。
起きる。
「参ったな……、そのまま寝てしまったのか」
赤く跡の付いた頬を撫でながら一人ぼやく。
視線を眼前にやれば、そこにはミッドチルダでは、引いては時空管理局でも一般的に使用されている情報処理端末が起動状態で放置されていた。
軽く弄れば、そこには書きかけの報告書が写る。
その内容は主にしてかつての危機である闇の書に関する事柄に関する報告書である。
今もまだ記され続けるこれらはベルカの騎士たち、そしてその主である八神はやての今後に関わる重要なものであり、他に抱える仕事に比べても疎かには出来ない品である。
故に、せめて期日に対して余裕のある今のうちに半分は仕上げておきたい……そう考えて帰宅後に机に向かい、程なくして轟沈した――おそらくはそんな顛末だろう、と人事のように彼は考えた。
とりあえずきっかり半分は書き上げてあるのでよしとする。我ながら滑稽な律儀さではあった。
「で、今は何時だ?」
呟きながら壁の時計を見ようとした矢先、部屋の扉が叩かれる音が響いた。
寝起きの頭で考える。現在この拠点を主に使用しているのは母であり上司であるリンディ提督、通信主任兼執務官補佐であるエイミィ・リミエッタ、そしてもう一人、正確にはさらにプラスして一匹。
この中で律儀にドアをノックするような気遣いを行えるのはただ一人である。
程なくして声が響いた。
「あの、――――クロノ。起きてる?」
フェイト・テスタロッサ。否、今はその姓をハラオウンと代えて彼と兄妹の間柄となった少女だった。
「ん、ああ……起きてるよ」
半身を逸らして椅子を回し、背面のドアへと声を返す。ややあっって開かれたドアより顔を覗かせたのは、金の髪を持つ少女。その顔はしかし、戸惑うように揺れている。
「ええと、その、母さんが起きるのが遅いから起こしてきなさいって。――だから」
「ん、ああ。……うん、判ったすぐ行くよ」
互いに探るように言葉を紡ぐ。なんともたどたどしい会話である。それは本人達にも自覚があるのか、若干の焦りのようなものも見え隠れしていた。
無意味に息苦しさを感じたクロノはとりあえず着替えようかと椅子から立ち上がる、と同時にフェイトが声を掛けた。
「あの、クロノ、また徹夜だったの?」
「う、うん。まあね、今日昨日中に仕上げたいものもあったし…………」
「そうなんだ。その、体には気をつけてね」
そこで会話が切れる。返答の間を計り損ねた感を覚えたクロノはまたも苦しいものを感じるが、しかし今度はフェイトの方が先に根を上げたようだった。
「――――そ、それじゃ」
それだけを告げると彼女はするり、と扉から覗かせていた半身を引っ込めるとそのまま戸を閉めて去っていく。小走りに走る足音が遠ざかっていくのをクロノは聞きながら、やっとそこで自分が息継ぎをしていないことに気付いた。
盛大に息を吐く。
「はぁ……、参ったな」
一人呻いて頭を掻き毟る。彼女が家族に迎えられてからこの一年の間、どうにもこのような調子が続いていた。
別に彼女と一緒に生活をするのが嫌なわけではないのだが、どうにも対応に困ることが多々ある。
どうという事ではない筈なのだが、どうにも戸惑ってしまうのだ。それを一言で表すとするのであれば、こうだ。
「慣れないなぁ…………」
「慣れないなぁ、じゃないっしょおクロノ君!」
正午。遅い朝食――既に昼食に近かったが――を摂っていたクロノに対してエイミィはその手に構えたプレーンヨーグルトも勇ましく大いに吼えた。その雄姿を苦々しく眺めながらクロノは弁明する。
「いや、だって」
「だっても何も無いっ。フェイトちゃんが妹になってからもう一年たつんだよ?それなのになにさあのギクシャクした態度!」
唸りを上げて空を切る容器、飛び散るヨーグルト。
「『ちょっとそこの醤油とってくれ』『あ、あたしが取るよ』『え、ああ・・・・・・ありがとう、フェイト』『う、うん……』ってなにさそれー!アンタ達は倦怠期の夫婦かってのさ!」
「あ、あの……エイミィさん……?」
アナタキャラが変わってますよ? そんなクロノのセミ念話トーク(つまり思っただけ)も届かずエイミィはヒートアップを続ける。思わず第三者に助けを求めて視線を泳がせれば、しかしその先にいたのは敵方の援軍だった。
「そうねぇ、確かに今のままだとちょっと困るかしら」
「母さんまで」
「だって、仕事が忙しいからってもう一年にもなるのにあのギクシャクぶりを見せられると、母さんとしては心配になるわぁ」
そういいながら彼女――リンディ・ハラオウンはその形のいい眉を顰める。
「可愛い息子と娘のことですもの」
そういわれるとぐうの音も出ない。クロノは眉尻を下げながら考えた。
確かにこの状況下でいまだにうだうだやっているのは自分だけである。フェイトの使い魔であるアルフとは特に関係がこじれる事無くやっていけてはいたが、いざフェイトと相対すると妙に気構えてしまうのだ。
思わず呟く。
「どうしたものかなぁ」
その煮え切らない態度に再びエイミィが爆発しようとしたその時、本局からの通信を示す甲高い音が室内に響き渡った。
「――――とりあえず、先に仕事か」
ほっとしたような、気が重いような、なんともいえない気分でクロノは一人ごちる。
とりあえず陰鬱に悩むよりは体を動かしていたほうが幾らかはマシだろうと、そんなことを考えながら。
■→蒼穹の果ての戦場
――A's COMBAT THE LYRICAL WAR――
――――白を引いて青の空を駆ける五機の次元揚陸艇。
その最後の一機が爆発四散した時点で、その映像は終了した。
大型スクリーンから光が消え、ブリーフィングルームに光が戻る。その明かりに照らされて浮き上がる多数の人影たちを前にして、時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンは再び説明を開始した。
「――――以上が今回の目標である多次元犯罪組織『銀の暁』の拠点を守るガーディアンの戦闘記録映像だ」
スクリーンの映像が切り替わる。そこには、巨大な次元航行艦と、五隻の小型艇が映っていた。
「見ての通り、ローウェル提督貴下の第四巡航艦アンディーンは敵拠点の存在する次元世界を特定、武力制圧を図るべく武装局員一個中隊を五機の揚陸艇に乗せて出撃させた」
クロノの示す先、静止画で映る五つの艦艇。それらには全て、時空管理局のエンブレムが真新しく刻まれている。最新型の突撃揚陸艇であった。
「だがそこで――――このガーディアンの迎撃にあった」
その後は映像の通りである。音速超過で大気圏内を機動する鋼の鳥を装うガーディアンに対して超音速戦闘の行えない次元揚陸艇はなす術もなく、その猛攻の前に全てが大空に散ることとなったのだ。
「ひどい……」
呻くように、並び座してブリーフィングに参加していた純白を纏う一人の少女が呟く。だがその瞳は哀しみだけではなく、その悲劇を赦せぬという強い意思もまた宿っていた。
選ばれた精鋭たちが集うこの場において場違い見えるその少女の名は、高町なのは。
儚げにみえるその外見からだれが想像しよう、かつて起きた二度の災厄、プレシア・テスタロッサ事件及び闇の書の事件に深く関わり、そして解決に尽力した凄腕の魔導師である。
彼女だけではない。彼女と共に戦い、またかつては敵対したが今では共に戦う者である者達もまた、この場に現れていた。
「――――成程、確かに我らが招集されるだけの難解さはあるようだな」
と、沈黙を守っていた甲冑を纏う朱の女が言葉を紡いだ。長身の美女は視線を前方で説明を行っているクロノに鋭く向け、告げる。
「あの機械型ガーディアンはロストロギア、しかも大型のを含めた六機全てが連動して機能する型であろう」
「流石に聡いな。足労を願って正解だったようだ、烈火の将シグナム」
クロノの賛辞にシグナムは答えず笑みだけを返す。彼が世辞を朗々と紡げるほど器用な性格でないことは比較的関わりの深くない彼女にも理解できているようだった。
「なんだよ、そんくらいでさ。そんくらいあたしにも判るぜ」
不意にシグナムの傍ら、今まで興味なさげに椅子の上で足をぷらぷらさせていた赤い少女が口を尖らせながら言葉を割り込ませる。彼女は不敵に笑うと言葉を続けた。
「あん型は機動性と火力に長ける代わりに魔力をダイエット明けのシャマルみたいにバカ食いするからな。それでいて増槽とか付けてる様にみえねぇってことは、あれだろ。別の動力源があって、多分そいつもロストロギア級だ。違うか?」
「ちょ、ヴィータちゃん! なに突然言い出してるの……!」
得意げに言い放つ少女に横にいた緑の少女が酷く慌てた様子で腰を上げる。
「その通りだ。やはり君達の知識と洞察力は侮れないな」
「へへぇー」
クロノの評を受け、満足げに笑いながら座りなおすヴィータ。
彼女は幼い少女に見えてその実は闇の書を守護するために生み出された戦闘人格である。それ故にこの戦闘知識は不思議なものではないといえた。
しかし一方で彼女は高度な戦闘判断と幼い少女としての心が咬み合わないことが多くあるようだった。
頓に彼女らの主はやての影響が大きいが、それが喜ばしいことであるとクロノは考えていた。最早彼女らは戦うためだけの存在ではないのだ。
ところで彼女らでも太ったりダイエットが必要だったりするのだろうか。
「――――と。話を続ける」
咳払いを一つして、解説を再開する。とはいえ、残る解説は多くない。
音速戦闘を行うガーディアンとそれを補佐する発動機のロストロギア。
この二つの古代遺産により戦力を不意打ち気味に失うことになった巡航艦アンディーンはその後後退。
体勢を立て直すため近隣の支局へと立ち寄り、そこから本局へ状況が報告された結果、現場より最も近しい位置にあったアースラに第二波のお役目が与えられたとうわけである。
「だが、此方とて状況は変わらぬのではないか?アースラの次元揚陸艇が他の艦のものと性能が異なるとは思えないが」
ベルカの騎士の黒一点、盾の守護獣ザフィーラがもっともな疑問を放った。だがそれはクロノとしても既に考慮済みである。
「うん、その点についてはアースラで直接次元揚陸を行う予定だ」
「……この艦でか?」
眉尻を上げてザフィーラが言う。それは返答の意図が読みきれないといった風な体である。その反応を当然のものとしてクロノは続けた。
「疑問は最もだ。この艦で出向いたところであの音速機動するガーディアンに対処できるわけじゃあない。闇の書の時のように対象が静止目標であるなら兎も角、あの速度で移動する対象には艦載火器では掠りもしないだろう。下手を打てばこの艦ごと沈みかねない」
故に、と彼は言葉をつなげながらスクリーンに新たな映像資料を映し出した。
「あのガーディアンに対しては――――魔導師による超音速戦闘で対処する」
「ねえねえ、フェイトちゃん!」
ブリーフィングが終了し、喧騒が生まれ参加者が思い思いに動き出す中、呆然と立ちすくんでいた少女に高町なのはが声を掛けた。
「大変なことになっちゃったね」
友達を心配そうに見つめながら少女は言った。だが眼前の友人は未だ戸惑いの中にあるようだった。呟く。
「私……出来るかな」
「大丈夫だよ、フェイトちゃんなら絶対平気だって!」
厚い信頼に裏づけされた声援を笑顔で告げるなのは。その笑顔は常にフェイトには眩しく、かつて彼女を覆っていた闇の中を照らし導いてくれた、かけがえの無いものだ。だがその笑みは一転して悩むように切り替わった。人差し指をあごに当てる構えを取りながら彼女は言う。
「でも……難しそうだよね。その、超音速戦闘って。魔導師の人が音速で戦うんでしょ?」
そうなのだ。音速で蒼穹を往くガーディアンに相対するにはまた此方も音速の世界に足を踏み入れなければならない。それだけの高速の中で火力と機動性を併せ持てる存在、それは――――魔導師のみだった。
「超音速戦闘か――――懐かしい響きだな」
遡ること数刻前。最初に反応を示したのはシグナムだった。
「成程、と再び言おう。確かに、並みの航空機では速度で追いつけても火力と機動性によって振り落とされ敗れるのが落ちだろうな。あの守護者の守りを抜くには魔法しかなく、故に――――音速を超えるのは魔導師でなければならない」
だが、としかしベルカの騎士たちの束ね、烈火の将は思考する。
かつての魔導師達は音速の世界にまで戦場を広げていた。それはまだ次元航行が可能な航空艦が実用化される前の、遠い遠い昔の話である。
彼らは音速の壁を超え、あの彼方の園で熾烈なる戦いを繰り広げていた。だが音速機動か可能な航空艦の開発が進むにつれ、音速の魔導師達はその戦場から消えていくこととなる。
人が――――魔導師が音速の壁を超えることは至難であり、現在でも専用のデバイスを使用しないと困難な、練達の技である。
そのような技術を持つランクの魔導師は当時としても極めて稀であり、故に安定性と量産性に優れる航空艦に取って代わられ……そしてその姿を消したのである。
「あ、判ったぜ!」
と、唐突にヴィータが声をあげた。彼女は得意満面といった風な面持ちで声を張り上げる。
「だからあたしらを呼んだんだろ。ベルカの騎士は全員デフォで超音速戦闘出来っからな」
成程、とシグナムは頷いた。確かに現状で超音速戦闘が可能な練度を持つ魔導師はそう多くないだろう。その中で自分たちに白羽の矢を立てるというのは間違った判断ではない。
防衛用の魔法生命体であるヴォルケンリッターは対超音速戦闘手段として当然のように自身らも超音速戦闘を可能とする。
だが超音速戦闘はデメリットも数多く、出力も大きく喰うため通常の戦闘時における機動手段としては殆ど有効利用できず、逃走時や長距離移動の際には次元転送があるため、使用する機会が訪れなかったのだ。
正に限定状況でのみ有用であるという使い所が限られる魔法である。今時の魔導師が修めているとは思えなかった。
だがそれに対するクロノの答えは意外なものだった。
「いや、君達には本拠の正確な座標が判明後、武装局員と共に突入してもらいたい。人手不足の中、制圧戦において君達ほど頼れるものはいないからね」
「なんだとぉ? じゃあ誰がやるっていうんだよ!」
褒められて悪い気はしないがさりとて予測が外れたことに憤るヴィータはとりあえず叫んだ。複雑な奴だ、とシグナムが半目で眺める中、クロノは告げる。
「対ガーディアン戦における超音速戦闘は僕と――――フェイト・ハラオウン嘱託魔導師が担当する」
その言葉に一番驚いたのは、言われた当人であるフェイトだった。
「え――――私?」
「理由をお聞かせ願えるかな?」
その答えを愉快、といった風に受けながら、シグナムは尋ねた。一方のクロノは発言者でありながら若干の逡巡を持って言う。
「今回のガーディアンは超音速戦闘を行う上でアウトレンジ攻撃をそのスタイルとしている。これに対して君達ヴォルケンリッターはインファイトを主体としている為、相性が悪い」
と、そこでいったん言葉を切り、クロノは朱の騎士に視線を向ける。
「特にシグナム――――君にはあのガーディアンの親機を捕らえることの出来る遠隔攻撃手段が無いだろう」
「ふむ、遺憾だがその通りだな」
侮辱とも取れるその発言にしかし笑みを持ってシグナムは答えた。
自身の総体を正確に把握するシグナムはガーディアンに対して取れる有効な一撃が限られることを自覚している。
特にボーゲンフォルムよる自身の最大一撃であるシュツルムファルケンは高速で機動する対象に対しては優位性が薄い。無論、対決すれば勝利するつもりは当然のようにあるがそれは相当に厳しいものであるだろうということは容易に想像ができた。
寧ろシグナムが喜ばしいと感じるのは付き合いの浅いヴォルケンリッター達の総力を正確に把握し、その性能の優秀さに目を眩ませる事無く運用して見せているこの少年の叡智である。
暇が出来れば一度くらいチェスでも交わしてみるのも面白いかもしれない。そんなことを考えてシグナムは笑う。烈火の将の心は何処までも戦士であった。また何か考えてるよあのウォーモンガーは、とジト目で此方を見ているヴィータなど、気にするものでもない。
「あの、でも――――じゃあ何でわたしが……?」
おずおず、といった風に当事者であるフェイトが口を開いた。ベルカの騎士達が今回の任務に不向きなのは理解できたが、それはフェイトがこの一件を任せられる理由にはならない。その疑問は最もだ、とクロノはその理由を説明し始めた。
「それは――――」
海鳴市沿岸より約数キロ離れた海上に、人影が奔る。
白のバリアジャケットで武装し、手に愛用のインテリジェントデバイス、レイジングハート・エクセリオンを構えた少女はただひたすらに飛翔し、速度を上げる。そしてその速度が限界を超えた瞬間、大気を打つ凄まじい破砕音が周囲に衝撃波を伴って放たれた。
白い尾を引いて少女は疾走し、そして次の刹那――――海面と激突して巨大な水柱を生成した。
「なのはっ!?」
遠巻きに浮遊してそれを眺めていたユーノ・スクライアが仰天して叫び声をあげる。だがその慌てる少年に対して傍らの騎士装束の女はやはり、といった体で頷いた。
言う。
「ふむ、二度のトライで音速の壁を超えるとはなんとも恐ろしい天稟だな、高町なのは。だが――――」
傍らのユーノとシャマルが急いで墜落地点へと向かうのを見送りながらシグナムは呟く。
「やはり音速で動く自身の慣性を制御し切れなかったようだ。超音速機動時のベクトル制御は平時のそれに比べて極めて繊細で、かつ大胆に行わねばならない。少しでも制御を失えば、その身はあらぬ動きをもって大気を滑ることになるだろう」
一息。微苦笑と共にシグナムは告げた。
「まあ、講釈を垂れるまでもなく体感できたとは思うが」
『うん……とってもぉー』
果たして返されたのは念話だった。シグナムの視線の先ではサルベージされるより先に海上へと浮上するずぶ濡れのなのはの姿が見えた。
完全に無傷であるのは彼女のプロテクションが恐るべき強度を誇ることもあるが、大気を泳ぐにあたって与えられたデバイスによる魔法的な擬似衝角の効果が大きい。
そのやり取りを別の空域より眺めていたクロノはやはり、と胸中で頷いた。
音速機動は驚異のレアスキルであり、高い練度を要求される高難度魔法である。いかな高町なのはといえども一朝一夕で体得できるものでは無い。
そもそも、彼女は空中機動を得意とはしておらず、この魔法とは相性が悪い。加速と速度に優れる彼女ならば音速を超える事は難しくないだろうと踏んでいたが――結果は案の定といえた。
クロノは考える。音速の彼方で舞える者は多くない。
ヴォルケンリッター一同は相性の問題もあるが、何より拠点突入時に人手の減った――何せ一個中隊、二百人の人員が失われたのだ。死んではいないだろうが――武装局員の代わりに存分に働いてもらわねばならない。
あのフェレットもどきは論外として、本来ならば自身以上の切り札となりえる高町なのはもこの条件下では期待できない。となれば自身が打って出るしか他は無く、しかしてクロノ・ハラオウンただ一人では決定打に欠け、何より数の差で不利を否めない。
そう判断し悩む執務官に作戦立案の際に執務官補佐が推薦したのが、彼女だった。
ふと、視線を上げる。そこには、青空を白い尾を引きながら飛翔する、黒と黄金の少女の姿があった。フェイト・T・ハラオウンである。
その手にしたインテリジェントデバイス、バルディッシュ・アサルトには音速戦闘用のオプションパーツが取り付けられ、大気の壁を切り裂きながら唸りを上げて主を補佐している。
彼女の戦術の根本には機動性がある。その速さを自らの何よりの武器と自任するフェイトの飛翔は精緻にして剛胆、練度も比類なく、また都合のよいことに音速戦闘の訓練も一応は受けているとの事だった。
彼女の師が――フェイトはその師をリニスと、親愛のこもった声色で呼んでいた――施したそれはしかし、やはり実用性が薄いそれを重要視せず、だが彼女の窮地を救う手札の一つになると信じて与えられていた。
それはフェイトの速度に対する真摯さをより高めることなり、結果として彼女の鋭さをより鍛えることとなっていた。
彼女とヴォルケンリッターの差は遠隔攻撃手段をより得意としているフェイトのほうが相性がよいという、ただそれだけの差である。超高速戦闘の練度は劣れども、それは彼女の適性が補って余りある――――それが最終的にクロノの下した判断だった。
そして今、彼女が再び音速で舞えるようにクロノが手ほどきを行っているという塩梅である。
「…………どうかな」
「――――慣性制御に出力を割き過ぎているな。それだと火力に影響が出るし、何よりそこまで出力を割かなくても君ならもっと上手くベクトルをコントロールできるはずだ」
一通りのノルマを終えてフェイトが帰ってくる。評価を求める彼女に彼は冷静に判断を下す。
「もっと自信を持っていい」
「う、うん。ありがとうクロノ」
「え、いや……別に。当然の判断を述べただけさ」
訓練としてでなら彼女と平静に相対することができる――――そう考えていたクロノは自身の甘さに後悔する。間が持たないとはまさにこのこと、彼は捻出するように慌てて次の話題を切り出した。
「そ、そうだな。次は高速戦闘用の攻撃魔法の術式を組もう。音速戦闘ではそれ専用の術式にカスタマイズしないと弾速が間に合わないからね」
「はいっ、お願いします」
クロノの言に飛びつくように返答するフェイト。どうやら間が持たないのは彼女も同じだったようだ。そんな様をやはり別の位置から観察していたヴィータが苛立たしそうに唸った。
「なんだなんだアイツ等、イライラするなぁ。なにやってんだよ」
「まぁまぁいいじゃないのヴィータちゃん。初々しくて」
そういってヴィータを宥めるシャマルに浮かぶ笑みがしかし、八神家の居間でワイドショーの芸能人ゴシップを観る際に浮かべるそれに酷似していた。
だがその絶妙なニュアンスの違いに気付く事無く傍らで海水に塗れた髪をタオルで拭くなのはは現在の状況を彼女らに伝える。
「ええと、フェイトちゃんとクロノくん、上手くいってないんだって。一年もたつのにギクシャクしてるって、エイミィさんが言ってたよ」
「ちょ、なのは、その言い方は微妙に誤解が生まれる表現だよ……?」
なのはの言に驚愕して呻くユーノ。その会話に割って入るように、アースラから通信が入った。エイミィである。
『そうなのよそうなのよ、折角気を使ってフェイトちゃん推薦してみたのに相変わらずだしさ。なんとかならないものかなぁ』
「この通信も含めて普通に職権乱用ですよエイミィさん……」
疲れたように対応するユーノ、ゴシップに目を輝かせるシャマル、憤るヴィータ、興味なさげに空を眺めているザフィーラ。総員が完全に和み談話モードに入っていた。
クロノフェイト組とは違い、なのはが音速機動を体験する以上の意味の無い訓練ではあったが、それでも酷い話ではある。
だがそんな中、話を聞いていたシグナムはふむ、と真剣な面持ちで考え込んだ。
「テスタロッサも……いや今はハラオウンか。彼女も執務官殿も来歴が来歴であるからな。いざ家族だ、という段になっても、では、という訳にはなかなかいかないのだろう」
そう、自身もまた、戸惑ったが故に解らないでもない。と、シグナムは一人思う。そして考えた。
「そうだな。勤め先の上司だ、偶には気を使ってやるのもよいかもしれん」
そういって薄く笑うシグナムに、なのはもまた真摯な表情で頷いた。
「うん、私もフェイトちゃんにお話聞いてみる。何か力になれるかもしれないし」
そう告げて顔を上げれば、大空を貫き奔る、彼女の姿が見えた。
溜息を吐く。
その行為だけで、気分更に重くなったような気がした。
溜息は幸せを逃がすとは、確かなのはの世界で言われている格言のようなものだっただろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、フェイトは腰掛けていたベンチに座りなおした。
超音速戦闘の模擬訓練は恙無く終了した。こと魔法行使の技量にて同期に類を見ない秀才であるクロノ・ハラオウンと比べてもフェイトの空戦能力は遜色が無く、作戦実行において支障なしと判断された。
だがその評価を受けても彼女の心が晴れることは無く、こうして休憩時間に自販機の前で一人缶飲料を飲みながら思案する姿だけがあった。
暗く心を覆う思考に映し出されるのは、一人の少年――――クロノ・ハラオウン。彼と家族という間柄になってもう何ヶ月もたつが、未だにその肩書き通りに打ち解け接することが出来ないでいた。
義理の母であるリンディ提督とは、ぎこちなくはあるが、健全に母と娘の関係を全うできている。リンディは彼女を受け入れ、自らを娘だと呼んでくれた。
それは彼女にとって代えがたい幸いであり、正式にハラオウンの姓を受けた日には涙さえ流れたものだった。そしてその様をクロノは祝福し、その日より三人は家族となった……その筈だったのだが。
「――――フェイトちゃん?」
不意に至近より声が放たれた。俯かせていた顔を上げれば、そこにはなのはが心配そうに顔を傾げていた。幾らなんでも気が抜けすぎだ、と彼女は心中で自嘲する。
なのはに気配を消して接近した形跡も謂われも無く、その上でここまで近寄ってきたことにまるで気付かないとは、リニスが健在であればどういわれたことか――――嘗ての師を思い浮かべ、そこで彼女を悔恨として思い出すほどに弱っている自分に気がついた。
呆然とした体でなのはを見上げるフェイトを、彼女は言葉をかける事無く、しかし心配そうに見つめている。その気遣いをありがたいと思いながらも、フェイトには謝罪の言葉しか出せなかった。
呟く。
「ごめん……」
その言葉になのはは微笑で答え、しかし言葉を返す事無くフェイトの脇に腰を下ろした。暫くの沈黙の後、彼女は問う。
「フェイトちゃん、最近元気無いけど……悩み事?」
それは尋ねるというよりは、確認のような物言いだった。そんなにも自分は落ち込んでいるように見えるのか、とフェイトは笑った。
彼女を自分の不出来で悩ませるとは、友達として申し訳が無い。彼女の思考が深みに嵌っていく様を感じ取ったなのはは、弁明するように言う。
「ち、違うの!エイミィさんがクロノくんとフェイトちゃんが打ち解けられてないって話してたから……どうしたのかなって」
だがなのはとしてもここ最近彼女が思い悩んでいる様子は感じ取っていた。だが理由がわからず、どうしたものかと考えあぐねていたのだ。
「リンディさんとはあんなに仲良しなのに」
「うん……母さんとは、良くしてくれているし、問題なんて無いよ。ありがたいと思ってる」
「じゃあ……クロノくんとは何であんな風になっちゃうの?」
言われて、考える。暫くの沈黙が場を支配する。その間もなのはは一言もしゃべらず、じっと友達の言葉を待った。
「――――私ね」
ポツリと。こぼれるように言葉が紡がれる。
「きっと今、幸せなんだと思うんだ。帰る家があって、そこには母さんやアルフ、クロノ達が待っていてくれて、学校に行けばなのはやアリサ、すずかと会えるし、ユーノやはやて、シグナム達もいるし――――」
だけど、と。彼女は懺悔する様に告げた。
「友達がいて、家族がいて……みんな、私を受け入れてくれている。それが――――怖いんだ」
「怖い?」
意外な答えに、なのはは思わずオウム返しに尋ねた。フェイトは小さく頷き、続ける。
「本当に私が幸せでいいのかなって。どこかでみんなに無理をさせていないかって、考えちゃうんだ。本当はそんなことないって判ってはいるつもりなんだけど」
「それでクロノがね、私のせいで困ったりしているのを見ると、ああやっぱり無理させてるんだなって思っちゃうんだ。やっぱり――――急に家族が増えても、困るだけだよね」
そういって弱弱しく笑うフェイトを見て、なのはは理解する。彼女がどういう心境にあるのかを。
そう、彼女は戸惑っている。望むもの、求めるものだった家族という幸いに対して、どう接すればよいか判らないでいる。だがそれは、彼にしてもそうだろう。
「あのねフェイトちゃん。クロノくんも、同じだと思うよ」
「え……?」
「クロノくんも、フェイトちゃんが無理してないかって、自分のせいで困らせてないかって、考えてると思うんだ」
「クロノが?」
「うん。フェイトちゃん、クロノくんもお父さんが早くに亡くなってるって話知ってるよね」
それは問いかけというよりも確認だった。そしてフェイトもその話はリンディから聞かされている。十一年前の事件で、当時の闇の書を護送していたクロノの父、クライド提督がその一件の影響で亡くなっているということを。
「クロノくんそれからずっとリンディさんと二人で頑張ってきたんだと思うの。だから、フェイトちゃんが家族になって、とっても嬉しいけど、でもどうしたらいいかわからなくて戸惑ってるんだと思うの」
その戸惑いは、きっとフェイトと同じものだ。そうなのはは告げた。彼女が戸惑いながらも彼を気遣うように、彼も彼女を不器用に気遣っている。新しく出来た家族が、妹が辛くないようにと。
「だから、クロノくんにも伝えよう? 勇気を持って、私も同じだって」
悩むよりはその方がずっといい。かつて、自分がそうしたように。
「幸せに戸惑う心を分け合えれば、きっとすぐに仲良くなれるよ!」
気持ちを分け合えばいい。
「――――」
その言葉を呆然と聞いていたフェイトだったが、やがてこくりと、静かに頷いた。その表情には笑みがある。
「そう、だね。がんばって、始めてみるよ」
そうだ、かつてなのはが自らにしてくれたように、今度は自分から動く番だ。自分から、想いを伝えてみよう。そう決心してみれば、いつの間にか陰鬱としていた心のうちも、晴れやかになっていた。
「うん。私、がんばるよ」
そう言って咲く彼女の笑顔は、なのはの知るいつもの笑顔だった。
「執務官殿、少しよろしいでしょうか」
フェイト達とはまた別の区画にある休憩所。そこで休みを取っていたクロノは、不意にかけられたその声に顔を上げる。と、そこには意外な人物が立っていた。
「シグナム……君か」
珍しいな、と彼は思う。クロノとシグナムは任務上ではここ一年間で何度かの交流があったが、このように単独で話しかけられるのは初めてではないだろうか。そう印象する彼にシグナムは畏まった体で言葉を放った。
「御休憩の所、申し訳ございません」
その硬い物言いにクロノは小さく笑う。彼女は立場や階級を重視し秩序を重んじる正に騎士然とした性格をしているのは既に把握済みではあったが、彼女としては仮の上司であり、しかも年下である自分にまで例に則った立ち振る舞いをおこなうとは。
その生真面目さに笑みを浮かべるクロノに、シグナムはその笑いのニュアンスが伝わったのかやや憤然とした面持ちでクロノを睨んだ。
「いや、悪い悪い。でも、そう堅苦しく振舞わなくてもいい。君は管理局預かりの身とはいえ、本来の主である八神はやて以外のものに忠節を通す義理もないだろう。僕のことも任務外ではクロノで構わない」
苦笑いしながらそう告げると、クロノは座していたベンチより立ち上がり、手近の自販機より二つ、缶コーヒーを購入した。片方をシグナムに放る。
「任務外の訓練に付き合わせた礼だ。ブラックで平気かい?」
「は、ありがとうございます。――――、クロノ」
受け取った缶コーヒーを開封しながら、言葉遣いを調整するようにシグナムは彼の名を呼ぶ。それを笑顔で受けながらクロノも缶コーヒーを口に含んだ。
「それでいい。で、用件はなんだい?何か問題でもあっただろうか」
そう言葉にしながらクロノは考えた。シグナムはヴォルケンリッターの将を任されるだけあり、責任感が四騎中もっとも強く、また戦術眼にも優れる。
その彼女がわざわざ話を持ちかけてきたのだ。事の内容は重大なものに違いない。そんなことを考えている中、シグナムはゆっくりと口を開いた。
「問題――――そう、問題でしょう。それも重大な」
言葉を選びながら喋るシグナムの様子に真剣なものを感じ取ったクロノは気を引き締めて耳を傾ける。果たして、その重大な事柄は告げられた。
「率直に申し上げると――――貴方とフェイト・ハラオウンの関係についてです」
「は?」
我ながら間の抜けた返事だ、と彼は他人事のように考えたが、しかしてこれ以外のリアクションが取れなかったのも事実だった。
「な、なんで君がそんなことを……」
「貴方とフェイト・ハラオウンの関係が上手くいっていないと聞きまして。――――その、人伝てに」
エイミィだな。クロノは直感して心中で歯軋りした。人の口に衝立は立てられないというが、女性のそれには特に顕著であると、彼の短いながら濃厚な人生の経験が告げていた。
そんな憤る彼には気付かず、シグナムは言葉を続ける。
「それに、訓練中の二人の態度を見れば、縁の機微に聡くない私でも判ろうというものです」
そういわれてしまえばぐうの音も出ない。客観的に見ても二人のやり取りは相当苦しそうに映っていたという事を今更ながらに悟った彼は、情けなさに片手で顔を覆った。
「いえ、そう卑下するものでもありませんよ。傍から見ていれば、微笑ましいものです」
「それはフォローのつもりが無いな、シグナム……」
先程の返礼といわんばかりに笑みを浮かべる彼女にクロノは毒ついた。だがそんな彼をシグナムは微苦笑をその面に湛えながら呟く。
「ですが、理解できなくはありません。私も、かつてそうでしたから」
「――――え?」
その言葉を受けたクロノが不思議そうな表情で顔を上げる。彼が見るシグナムの瞳は、どこか懐かしむように遠くを眺めていた。
「かつて――――ええ、もう一年以上前になるのですね。我らヴォルケンリッターは闇の書の起動と共に、再び現世へ顕現しました」
そう、それは暖かさも増していく、ある春の夜のこと。
八神はやての九歳の誕生日を迎えたその時、待ちわびたかのように起動した闇の書から現れた防衛用魔導生命体であり攻勢プログラム、それが四騎の守護騎士、ヴォルケンリッターだった。
闇の書の主のため、最低限の意思だけを与えられた道具――――その筈だった彼らを、はやては家族として迎え入れてくれた。自らを騎士としてではなく人として、家族として扱うその年若い主に、彼女は大いに戸惑った。
それは今までに無いことだからでもあったし、どう対処すればよいかも分からなかった。そんな感情を覚えながら日々を過ごすうちに、不意にあることに気がついたのだ。
「別に、付き合う必要などないのだ。これは新たな主の戯れであり、我らは遊ばれているだけである――――そう考えれば、簡単に決着のつく話だった」
そう――――その筈だ。そんなことはもう早くから考えていた。ならば何故、私は迷うのか。なぜ、彼女に付き合い、共に過ごすのか。
「本当に簡単な話だった。今思えば、何故直ぐに気付かなかったのか、とも思う」
なぜこれ程までに私は戸惑うのか。それは単純にして明快な答えだった。
「私は――――この関係を心から求めていたのだ」
迷うのは、求めるから。惑うのは、欲するからに他ならない。要らぬもの、忌避するものを前にして人は迷ったりはしない。それが魅力的であるから、それが切望するものであるから、人は迷うのだ。
自らをヒトと思わぬベルカの騎士は、故にその感情に酷く驚いた。そして気の迷いとはいえ、主に対し無礼な考えを持った自分を、だがはやては親愛の心で迎え入れてくれた。その時に思ったのだ。
強く戸惑うのは強く求めるから。闇の書の守護者として戦い続け幾星霜、ヴォルケンリッターの束ね、烈火の将シグナムは始めて望み、求め、親愛する幸いを守護することが出来るのだ、と――――。
「我、此処に本懐を得たり。その想いは今でも変わる事無くこの胸のうちにある。強く迷うものは強くそのものに惹かれている。その迷いが強ければ、その求める心も強い。あそれに気付ければ、あとは踏み出すだけである――――と、少し説教くさくなってしまったか」
語り終えて、少し照れるように笑うシグナムは静かに話を聴いていたクロノに視線を向けた。
「クロノ、貴方の戸惑いは傍目から見ていても強く感じることが出来る。だが、今こそ勇気を持って踏み出すべきだと私は思う。その想いは――――テスタロッサも同じはずだから」
と、慣れ親しんだ名を告げてシグナムは既に温くなった缶コーヒーを一気に飲み干した。
「……そう、だな」
シグナムの言葉を心中で反芻していたクロノは、やはり温くなった缶コーヒーを口に含み、呟く。
「少し、臆病になりすぎていたのかもしれない」
想うのは、瞼に残る父の面影。失われた父親の温もり。父無き後、自分は一人で――――母にも頼らずやってきたつもりだった。それは早く一人前になり、母にこれ以上心配をかけさせぬように。これ以上、悲しませないために。
それが上手くいっていたのかは分からない。だが、最善を尽くしてきた筈だ。しかし、フェイトが家族に加われば、それが果せるか分からない。フェイトを悲しませない自信が、妹に心配をかけないという覚悟が、彼には不足していたのだ。
「彼女は、充分に哀しんだ。もうこれ以上心を煩わせる必要なんかない。年相応に、笑顔で日々を送るべきだ。だが僕には、彼女の笑顔を守りきる自信がない――――」
だが、と。彼は瞳に意思を込めて中空を睨んだ。
「その迷いのせいで彼女を哀しませているのだとしたら、本末転倒だ。ならば、是非もない」
「踏ん切りがついたようだな」
「おかげさまでね」
微笑と共に告げるシグナムに、笑顔で言葉を返すクロノ。思い出されるのはあの日、アースラで母親に決別され崩れ落ちた彼女の姿。シグナムが主を守ると誓約したように、自らも誓うべきだ、と。クロノは強く想った。
「…………と、それにしても」
軽くなった身体で軽くなった空き缶をゴミ箱に放り投げながらクロノは傍らの騎士に話しかける。
「随分と饒舌だったな、シグナム。君らしくもない」
「そうでもない。私とて語りたくなるときもあるし、少々のお節介を焼いてみたいと思うときもある」
そう答えるシグナムは、先程までの固い口調ではなく、随分と打ち解けた風だった。
「それに――――」
「それに?」
クロノの問いに、シグナムは黙って空き缶を宙に投げると、刹那。迸った右腕により弾ける様に空き缶はゴミ箱の上の壁に叩きつけられた。反動で空を舞うその姿は、見事に二つに裁断されている。
「テスタロッサにいつまでもあのままでいられては、好敵手としては困るからな」
言って不敵に笑みを浮かべる彼女の手には、いつの間にか一振りの剣の姿があった。