Kの呟き 昔語り
15 Danger of love
次の日……
目覚めた時には、もう昼近くになっていた。
隣にいるはずの幸実はいない。
俺はまだ朦朧としている頭を掻いてベッドから降りる。
どれくらい眠っていたのだろうか……
昨夜は抱き合っているうちに深夜ほどにはなっていただろう。
夢も見ないほど深く眠っていた割には、身体の芯に重さを感じる。
洗面所で顔を洗おうとすると、幸実はリビングで食事を並べて
いたところだった。
「おはよう。……といっても、もうお昼ね。そろそろ起こそうと思ってた
ところよ」
明るく笑う。
テレビでは昼のニュースが映っている。
「ああ……おはよう」
間抜けな返事をして、俺はシャワーを浴びた。
まだ俺の身体は、性懲りもなく勃起している。
ただの生理現象で、少しすればおさまる。意志とは関係ない。
そう思っていても、苦笑してしまう。
もう、さすがに今日は彼女を欲しいとは思わない。
まだこの腕に彼女を抱いた感触もはっきりと残っている。
幸実の心づくしを受けて、二人で食事をする。
「仕事、休んでよかったの?」
俺は彼女に訊いてみる。
「ええ、別にいいのよ。私の仕事は緊急性もないし。もうじき
忙しくなる時までは、こうしてもバチは当たらないでしょ」
彼女は医師である兄の補助的な仕事をしている。
実生活でも秘書のような、各種のマネージメントをしていると
以前聞いていたから、肝心の兄が不在の今はそうしていても
いいのだろう。
俺は、彼女に少し訊いてみたいことがあった。
ただ、ベッドでないここで言うのが少し気恥ずかしい。
「なあに?じっと見て」
照れたように彼女は言った。
「あのさ……」
俺はおそるおそる切り出した。
「……幸実、ピル飲んでるって言っただろ。あれって、避妊が
確実だっていうけど……本当に大丈夫、なの?」
幸実はくすっと笑い出した。
「いままで、さんざんしておいて……」
「今更だけどさ……」
俺は少しムッとした。
「大丈夫よ。でもね、避妊のためじゃないの。生理痛が辛かった
から、そのために貰ってるのよ」
「へえ……そうだったのか」
セックスに関する表面上の知識は、一応常識の範囲として頭の
中にあった。
避妊に関しても、コンドームも確実とはいえない、膣外射精も
カウパー氏腺液……射精の前に出てくる、あの透明な上澄みの
液に、精子が混じることもあるのでよくないということは知っている。
ただ、肝心の女性の身体についてはよくわからない。
「本当なら、男がちゃんとコンドームで避妊して……女の子も
自分の生理の周期とか、排卵日とかを把握していればいいん
だけどね」
猥談などで友人とセックスに関して話してはいても、真面目な話
こういった女性からの提言を聞けるのは有り難かった。
さすがに、こんなつっこんだ話は親しい友達とでもなかなか
できる機会はない。
セックスの経験ややり方については、友人が経験を誇らしげに
吹聴するのを話半分に聞いているだけだ。
「これからのことも考えて、そういうことをちゃんとお勉強するのね。
なんだったら、お姉さんが教えてあげてもいいのよ」
「はいはい」
二人して笑いながらそう言っている。
けれど、どうしても訊きたくとも訊けないことがある。
兄とのことだけは、耳にしたくない。
肉親の生々しい話など、ただでさえ嫌なものだ。
兄もあの身体を堪能しているのだろうか。
そんな忌まわしい思いを頭の中から振り払う。
「昨日、手を取り足をとり……で教えてもらったけどね」
話が性的な方向に向かってしまうが、もう彼女を抱く気は今度こそ
起きない。
昼間は嫌だと彼女も言っていた。
俺は空手道場の指導員としてのバイトがあるので、夕刻前に道場に
行かなければならない。
大学は夏期休暇の時期だが、道場は土日、休祭日を除いて基本的に
平日は毎日道場は開かれている。
その中でも、指導員として変動的なスケジュールを縫って活動する。
俺は学生、少年部の指導を受け持っている。
幸実の家を出て、俺は一旦自宅に道着を取りに帰る。
振り返るまい。俺は俺の気持ちに従っただけだ。
こと、ここにおいて後悔したくない。
甘さと苦さを伴った彼女との時が、身体の片隅にしっかりと根付き
はじめていた。
道場に入り、着替えて支度をする。
汗と器具、人の熱気……さまざまなものの入り交じった独特の
匂いがする。
幸実につけられた左胸の痣は、まだはっきりと残っている。
それを隠すためにTシャツを着て、道場に入った。
エアコンは玄関口のものしか作動せず、道場は基本的に扇風機と
自然の風をとり入れている。
外気は夏の暑さで淀みきっていても、ここには清冽な気が漲っている。
それを感じていると、自分も身が引き締まる気分になる。
とりあえず柔軟から身体をほぐし、軽く基本の型に入る。
鏡に映る自分の姿を見ながら、姿勢をチェックする。
不意に後ろに大きな影が映った。
「腰が据わってないな」
低い声がかかる。
かつてここの指導員だった武田さんがいた。
大学での先輩にもあたる。
今は警官であり、○暴対策の部署に配属されることになったという。
俺は驚いて振り返った。
「仕事はいいんですか?」
「ああ、非番だから久しぶりに来てみたよ。なんだ、おまえ。腰が
ふらついてるぞ」
熊の手のような厚みのある掌が俺の腰を叩いた。
80s近くある俺が、その衝撃によろけると武田さんは笑いながら
続けた。
「おまえ、女ができただろう」
そのものズバリ、言い当てられてしまった。
音を立てて、心臓が強く収縮する。
「昨夜は、腰が抜けるほどやりまくったのか?ん?そうだろう」
下品なことを言いながら、俺の肩に野太い腕を回す。
なんとかいう、外人のレスラーに似ている体躯……100s近くの
巨躯にのしかかられる。
背丈は180少しなので俺と同じくらいだが、身体の厚みは俺の
二回り以上大きい。
「やめてくださいよ……もう」
俺は苦笑しながらその腕を振りほどいた。
「図星だろう?わかるんだよ。その腰つきじゃあな」
にやにやと相好を崩してからかうように言われる。
「勘弁してくださいよ……」
「ちょっと、型やってみろ。平安でいい」
俺は空手の基本的な型、平安の演舞をしてみた。
確かに身体が重い。特に脚のあたりがだるく、キレがない。
「正中がずれてる。だから動きにブレが出る。腰が決まらないからだ。
……まあ、今日はあれだな、少年部だけ見ろよ。ちょっと出来る奴から
見たら、おまえの動きが本調子じゃないのはわかるぞ」
少年部の子供達が道場の中に入ってくる。
大きな声で挨拶が交わされる中、俺は武田さんに肩を叩かれた。
「あとで話、聞かせろよな」
俺はまいったな、と内心困惑しながら指導に入った。
俺は指導を終え、シャワーのあとで着替えているとまたも武田さんに
捕まってしまった。
Tシャツを脱いでいるところに近寄られる。
「胸のそれ、キスマークか?」
……なんでこういうところだけ、目ざといんだろう。
「違いますよ。この前、組み手した時の痣でしょう」
「じゃあ、こっちはなんだ?」
首の左横、肩口との境目あたりをつつかれる。
こんなところにもつけられていたのか……
俺は口の中で少し舌打ちした。
「隅におけないなあ。まあ、おまえに今までそんな女がいなかった
方が不思議といえるか」
「からかってるんですか」
俺は少し憤然としていた。冗談じゃない、こっちは真剣に悩んで
いるんだ。
彼女とのことを、話のネタにしてしまいたくない。
「そんなつもりはないよ。おまえが真面目なのはわかってるから」
結局、奢るからと居酒屋に連れて行かれる。
「どんな女なんだ?教えろよ」
この人が人に話したり、面白おかしく笑い話にするとも思えないが
幸実とのことは秘めておくつもりでいた。
俺と彼女だけが知っていること、それだけでいい。
だから、最低限のことしか喋らない。
「……年上です。その人には、もうすぐ結婚する相手がいるんです」
「本当か?」
いきなりの重い告白に、武田さんの目が丸く見開かれる。
正面からそう言い放つことで、深い事情を詮索されないよう
予防線を張る。
本当だ。だが、その相手が俺の兄だとは言わない。言う必要もない。
「不倫かよ……おまえがなあ。まあ、好きになっちまったものは
仕方ないけどな……」
腕組みをして考え込んでいる。
「けど、もうすぐってことはまだ相手と結婚してるんじゃないんだろ?
奪えないのか?」
「奪えないんです。いいんです、それで」
俺は水割りを煽った。
忘れかけていた思いが胸を疼かせる。
「そう……か。おまえが惚れ込む女なら、いい女なんだろうな」
俺の横顔をのぞく武田さんの表情が真顔になった。
「けどな、おまえ。本当に、はまるのはいいけどな……やりすぎる
のはよくないぞ。真面目な話」
俺の今日の様子からして、激しい情事の影響が出てしまっているのを
見破られた。
「夢中になるのもいい。けど……溺れるなよ。おまえには、まだ
先があるんだから」
まるでずいぶんな年寄りのようなことを言う。
俺のことを心底から心配していてくれるのはわかる。
「心得てるつもりです」
そうは言っても、言葉などうわっつらでしかなかった。
溺れかけているのを自覚している。
「で……何回やったんだ?」
声をひそめて囁かれ、俺は噴き出しそうになってしまう。
真剣な話の直後でこれだ。
まあ、悪気があって言っているのではない。
「ええと……まる一日で、7回……ですか」
「はあ、凄えなあ……」
正確には、その間に俺は家に一度戻ったので、まるまる一日彼女と
いた訳ではないが。
「おまえ19だろ。若いよなあ」
「武田さんこそ、まだ25じゃないですか。年寄りみたいなこと言わないで
くださいよ」
「絞りとられたか。それじゃ、腰もふらつく訳だよな」
「そんな訳じゃ……」
とは言いながら、確かに彼女の身体に吸い尽くされそうに思えた
ことを思い出す。
「試合の前の日には、気をつけるんだな。ほんとに、足腰の
据わりが悪くなっちまうぞ。有望な選手が、女で駄目になったこと
だって、今まで山ほどあったんだ」
「…………はい」
俺はその忠告を、肝に銘じた。
女で駄目に……か。
そうはなりたくない。
そんなことになれば、幸実にも申し訳ない。
自分の感情も、身体もコントロールできるようにならなければ。
もっともっと、自分を鍛えたい。
誰にすがることもないほど強く……
最後に信じられるものは、結局のところ己自身なのだから。
だが、俺を案じてくれる年上の友人の言葉と存在が有り難かった。
不倫と聞いて頭から否定することもない。
教科書じみた正論をふりかざし、やめろと押しつけることもしない。
言葉だけではからかっているようにもとれるが、決してそうではない。
俺は独りではないと思わせてくれる。
温かな気持ちを胸に、俺は家路につくことができた。
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