Kの呟き 昔語り


16 煩悶



金曜の夜……
俺は道場で指導のバイトが入っていた。
自分の都合で断ることもできるのだが、今回はあえてそうしなかった。
秋、10月終わりには大きな大会が控えている。
その前哨戦として、俺は所属する流派の関東地区大会に出場が
決まっている。
9月の初旬、三回戦のシード選手だ。
中重量級、昨年の全国大会の覇者でもある俺は連覇を狙っている。
どうあっても勝たねばならない。
著名な流派ではないが、昨今の格闘技ブームの煽りからそれなりに
知られるようになってきた。
去年はキャプション付きで、雑誌のカラー写真にも出た。
よくよく注意して、雑誌を隅から隅まで読まなければわからないくらいの
扱いだが、それでも周囲の友人知己はそれを知って、喜び讃えて
くれた。
もちろん兄もだ。
幸実にはこのことは話しているのだろうか。
彼女は俺が空手をしていることはもちろん知っているが、俺は自分から
そういった賞歴を得意げに語りたくはなかった。
ささやかな矜持を胸にしているだけで、自分から吹聴して回りたくはない。


兄が帰宅した日、幸実からいつもの食事を誘う電話はあったが
俺は兄の家に行く気はなかった。
あそこで幸実を抱いたことを、行けばまざまざと感じてしまう。
彼女を見つめる目が、俺の女だと雄弁に語ってしまいそうで怖い。
この胸の底にたぎる熱い思いを、どうやって兄の前で押し隠せばいい。
逢わない方がいい。その方がお互いの為だ。
そう思いこもうとしていた。

もう兄はあちらに向かう気でいるのを聞かされた。
開業の準備を整える段階に来ているに違いない。
いつ頃行くことになるのだろう。
それまでの間、彼女とは結婚式は挙げるのだろうか。
俄然多忙になるだろう兄と幸実を、俺は見守らなくてはならない。

離れてみて、次の日にはもう彼女を想っていた。
この腕に、胸に抱きしめていた身体の感触。
艶のあるしなやかな黒髪、柔らかな白い肌。弾力をおびた乳房。
ピンク色に濡れた唇、そして俺を求め、あらん限りの欲望を受け止めた
あの身体のすべてを。
彼女がマゾだと確信し、俺の中に潜み続けていたサディズムを
引きだされたあの夜。
彼女を欲しいという激情を、どうにかして振り切ろうと必死だった。
心が彼女を望む以上に、一度女性を知ってしまったこの身体が
覚えこんでしまったあの快楽を、貪欲に求めてやまない。
抱かなくともいいと思えたのは結局あの日だけで、その翌日にはもう
性に狂った獣が、俺の身体の奥底で咆吼を続けている。

自分の中の獣性のはけ口を求め、彷徨う。
一日、二日目までは半日以上道場に篭もり淫欲を圧殺した。
夜になり、高まる欲望を鎮めるために自分を慰める。
幸実の唇を、俺を虜にしたあの肉体の隅々を脳裏に蘇らせる。
自慰の弾けるような圧倒的な快楽も、すぐに醒める。
そして物足りなく思えてしまう。
なによりもあの肌に触れたい。抱きしめたい。
そんなことばかりがぐるぐると頭と身体を駆けめぐる。
わかっていたつもりだった。孤独に耐えなければならないのだと。
苦しみも、痛みを味わうこともすべて承知の上で、傷つくことも
知った上で快楽を貪り、酔いしれ、無限とも思える時を過ごした。
だが今、乾いた砂漠の中に迷った旅人が幻の水を渇望するように
俺は彼女を求めていた。


本能と理性の闘いだった。
負けてはいけない。
この黒い獣を飼い慣らし、制御できるようにならなくては。
願わくばこの矛先を、武道で昇華できないものか。
そう思い、激しい稽古に打ち込んだ。
オーバーワーク気味で体中の筋肉が悲鳴をあげるまで、自分の
身体を酷使しぬいた。
疲れ果ててしまえば余計な感情に振り回されずに済む。
俺よりも空手歴の長い人間でも、社会人でさえも俺に壊されるのを
恐れ、試合形式の組み手を避けるまでになっていた。
皮肉なことに、幸実と逢えないことの苛立ちや焦燥が俺の
技を鋭く研ぎ澄ましていく。
ストレスが力に変わるのなら、これも励みになる。
恋愛の苦悩が己を沸き立たせる源になるのなら、どこまでも
苦しみぬいてやる。
そんな倒錯した感情を抱くに至った。

以前俺の様子を気にしてくれた武田さんは、心配したのか俺を
見に来てくれていた。
本来重量の差が開きすぎる武田さんとは、約束組み手でも
なければぶつかり合わない。
20sちょっとの差の試合は重量級以上ならざらにあるが、俺は
80sの中重量級でしかない。
それを超えると重量級になる。100s近くの武田さんがそれだった。
俺は本気で立ち向かわなけねばならないが、相手は俺をいなす。
怒りとも悔しさともつかない感情に後押しされるまま、拳を突き
蹴りを放つ。
身体に起きる打撃の激痛に身を任せている間は、ちっぽけな己の
感傷などどこかへ吹き飛んでしまう。
俺のやり場のない鬱屈した感情を受け止めてくれる、もう一人の
兄のような存在だった。
荒れている俺を見、黙って稽古の相手になってくれる。


一週間、週末はなんとか耐えた。
それというのも、彼女は兄とともに北海道の現地に飛んだからだ。
ただ、土産物をくれるというので次週には顔を出さねばならない。
その時には俺も喜んで招待を受けるつもりでいた。
幸実の顔を見ないことが、声を聞かないことが辛い。
抱けないのは物理的な距離があってのことで、仕方がないと諦めも
ついた。
今度は、心に温もりを求めている自分に気がついた。
兄の目の前で、だが熱い視線を向けないようには努力しよう。



考える隙もないほどに、俺はがむしゃらに自分を奮い立てた。
幸実のことが脳裏にちらつく夜は、彼女を想って欲望を解放した。
そうでもしなければ、力に任せて彼女を奪いたくなってしまう。
いたわるように優しく抱くのではなく、手荒に扱ってしまいそうだ。
彼女が感じて咽び泣いても、凌辱を加え続ける。
暴力的に犯すというのではない。
感じるように追いつめた挙げ句に、それっぽくしてやりたい。
泣いても叫んでも、それでも彼女は待ち望んでいる。
俺という男を待っていたと、身体が俺に知らせるだろう。
今度彼女を抱ける機会があるなら、本当に実行に移してしまいそうだ。
激しく肉体を痛めつける稽古の間に流れた時間が、俺の心に
化学変化のようなものをもたらしていた。
この時点では、まだ俺はそのことに実感を伴ってはいなかった。




幸実と最後に逢ってから……抱いてから二週間近く経過していた。
金曜の夜、帰宅してきた俺にタイミングよく彼女からの電話がきた。
『貴征さん?元気だった?』
明るいいつもの声。
受話器からの声の響きだけで、俺はもう体中が熱く火照るのを
実感していた。
「……ああ。元気だよ。今帰ってきたんだ」
『そうなの。……ねえ、明日の夜……英征さんがお土産渡したいん
ですって。だから、来られる?』
心なしか、声がくぐもっているような気がする。
俺は恥ずかしい話、彼女の声を電話ごしに聞いているだけで勃って
きてしまった。
性的な会話など微塵もないというのに、どうした有様か激しい欲望に
駆られてしまっている。
これが電話でなく直接逢っていたなら、やはりこんな身体の反応が
あるかと思うと、冷や汗が出ると同時に身体が燃え上がるような
気分になった。
「行くよ。……幸実……今、自宅?それとも兄貴の家から?」
声をひそめて聞く。
『私の家よ。あの人は院で残業してるから、今日は会わないの』

聞いた瞬間に、頭の中で電流が弾けたようになった。
矢も楯もたまらず口走る。
「……逢いたい。そっちに行ってもいいか?」
一拍置いて、彼女が答える。その時間が途方もなく長く感じた。
『いいわ……来てちょうだい』
その口振り、声がもう溶けている。
あの時の、俺の身体を求める時の甘えるような声音。
俺は逸る気持ちを懸命に抑えながら、シャワーを浴びて服を着替えた。
逢いたい……
抱きたい。身体を重ねたい。
今まで押さえつけていた気持ちが爆発しそうだった。
高まる期待とともに、心臓が内側から弾けてしまいそうだ。
タクシーで20分かかる距離、その間呼吸が速く浅くなってしまうほどの
興奮状態に陥る。
淫らな光景が、脳裏にさまざまな形で蘇る。
運転手から釣り銭を受け取る時間さえも惜しくて札を投げるように渡す。


マンションの外玄関からの呼び出しで中に入り、今にも駆け出したく
なるのを抑えて幸実の部屋の前に立つ。
呼び鈴を押すと、幸実はすぐにドアを開く。待っていてくれたのだろうか。
彼女はいつになくセクシーなワンピースを着ていた。
鎖骨と両の肩口が丸くカットされ、なだらかな肩のラインと胸元が
浮き彫りになっている。
ドアを閉じるとすぐ、言葉もなく抱き合い、玄関で唇を重ねた。
立ったままキスを続け、貪りながら強く抱きしめる。
胸元を手で探り、柔らかな乳房を揉みしだく。
抱きしめる彼女の身体のしなやかさ、髪の香り、喘ぐ声。
すべてが愛しく、そして欲情を刺激してやまない。
もう痛いほどの勃起が続いているそこを彼女の下腹に押しつける。
唇の合わせ目から、幸実の声にならない喘ぎと吐息が漏れ続ける。
「……逢いたかった」
俺は唇を外すと、それだけ言って真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「私も…………」
幸実は霞がかかったような瞳で俺を見返す。
「あなたに……抱いてほしくて……」
俺の胸に顔を埋めて、小さく囁く。
俺は幸実を求めていたが、彼女も俺に抱かれることを望んでくれていた。
そのことを知った喜びと、腕の中にいる幸実を愛しく感じる思いが相まって
否応なく気持ちが高ぶっていく。

待っていろ、今抱いてやる。
逢えなかった時間のぶんだけ、身も心も埋め尽くしてやる。
今夜はもう、想いを止められそうにない。


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