身体も、そして心でさえも。
年下の俺を包み込むような、いわば母性というものを感じさせる。
女性にこんな想いを抱けるようになるなんて、つい数ヶ月前までの
殺伐とした自分からは、遙か遠い世界の話だった。
それまでの俺にとっては、女というものの存在は単に淫欲の対象と
して画面の向こうにあるものか、同世代の学生としてはただの
顔見知り程度の関わりでしかなかった。
昨日のように言い寄られたりアプローチを示されたことはあっても
生憎ながら、はっきりとしない相手を救ってやるほどの親切心は
なかった。
幸実のように、俺が好きになった女性と真正面から向き合うというのは
これが初めてのことだった。
初めての女性……
皮肉なことに、それが俺が尊敬し助けにしている実兄の婚約者だとは。
突如そんな自虐的な思いが浮かんでしまい、打ち消そうと頭を振った。
幸実の寝顔は、幼さと年相応の落ち着きを織り交ぜたような不思議な
印象がある。
夏用の薄い上掛けに身を包んだ彼女は、規則正しい寝息でひっそりと
眠り続けている。
朝の穏やかな時、小鳥が鳴き交わす声が響くだけの郊外の静けさ。
こんな気分で朝を迎えるなんて、何年かぶりだろう。
もう記憶にもない遙か昔に、いくつも過ぎ去ってしまった朝にこんな
気持ちになったような気がする。
自分が置かれている場所が、そばにいる人が懐かしく愛おしいのに
それなのに寂寥感が胸の中から湧いてくる。
どこか寂しいような、哀しいような気持ちだった。
それはいつのことなのか、あるいは夢の中での感情だったのかも
しれない。
今この情景は、きっと忘れられないだろうと思った。
幸実と抱き合い貪り合ったワンシーンを思い出すように、その時の
感情とともに、この先思い返すときもあるだろう。
初秋の爽やかな風に吹かれたくなって、そっと幸実の隣から抜け出る。
妙に感傷的になって目覚めてしまった朝は、自分自身に照れを感じる。
まだ朝の6時前だ。
昨夜寝た時刻は覚えていないが、幸実は今日仕事はないと言っていた。
それならゆっくり寝かせておいてやりたい。
俺は昨夜のシャツとジーンズを探したが、何故かベッド廻りに落ちて
いるはずのその服はなかった。
そういえば、汗まみれの道着やその他の服も、スポーツバッグの
中に入れっぱなしだ。
俺はそれらの始末をどうつけようかとリビングに出ると、俺が脱ぎ
散らかしてあったシャツとジーンズが干されているのを見た。
手に取ると、洗剤の清潔な香りがする。
いつの間に……?
俺が幸実と一緒に寝ていたというのは確かだが、その後寝入った
のは俺だけで、きっと彼女は起きて洗濯までしてくれたのだろう。
そうだとしか思えなかった。
すっかり乾いているシャツにパンツ、そしてジーンズとソックスを身に
つけると、とりあえず朝の日課のロードワークをしたくなった。
俺の住む部屋までの片道3qほどを軽く流しながら走り、着替えの
服を持って幸実の部屋に戻る。
困ったのは、彼女の部屋はオートロックなので玄関で呼び出さないと
部屋に入れないのだ。
まだ七時前なのだが、彼女を起こしてしまうことを躊躇う。
意を決してインターフォンを押すと、意外なことに即座に幸実の返事が
あった。起きていたのか。
「ごめん、貴征だよ。開けてくれないか」
玄関ドアの施錠が解かれ、俺は中に入ることができた。
幸実の部屋に入ろうとする前、ドアが開かれていた。
そこにはもう普段着に着替えた幸実が立っている。
「どこへ行ってたの?なにも言わないで……」
俺を見上げる幸実の視線と言葉に、いつにない棘を感じた。
「……ごめん。ちょっと、朝走りに行くついでに荷物を置いてきたんだ。
起こしちゃ悪いと思って、黙って行った」
自室で着替えてきた俺の服装を見つめて、幸実は黙っていた。
「……朝ご飯は?一応用意できてるけど」
「ああ、実はまだなんだ」
俺は幸実の機嫌を損ねてしまったことを知った。
軽い和食が用意されているテーブルにつくと、ありがたくそれを
いただいた。
「……黙って行っちゃうなんて、ひどい」
幸実はぽつりと呟くように言った。
「よく眠ってたから……幸実を起こしたくなかったんだ。ほんとに
悪かったよ」
幸実の表情から翳りは消えていない。
俺が黙って帰ったきり、戻って来ないとでも思っていたのか。
「そうだ、服も……夜中に洗っておいてくれたんだろ?ありがとう。
朝になって思い出してさ、慌てたんだよ。汗びっしょりになったまま
だったから、下手したらカビ生えたりってこともあり得るし」
「返してあげなきゃよかったかしら」
幸実はうつむいたまま、トーンを落とした声でかすかに笑った。
「ねえ、またひと月後に大きな試合があるんでしょ?今度は確か
全国大会なのよね」
顔をあげた時の幸実は、明るい表情に戻っていた。
「そう……だな。きのうの今日だけどさ……」
「負ける訳にはいかない……のよね?」
「ああ……」
「そうしたら…………」
幸実はそこで一旦言葉を切った。
「……そうしたら、また逢えなくなるんでしょ」
俺は即答できなくて言葉に詰まった。
その通り、彼女の言う通りだ。
だが、その言葉を告げてしまうのは何か躊躇させるものがあった。
幸実には我慢を強いてしまっていた。
俺自身のことは自分で始末をつけなくてはならないが、彼女には
なんの咎もない。
だけど、もうあと少しの辛抱なんだ。
そう自分には言い聞かせても、彼女にそれを言い切ることに踏ん切りが
つかない。
「いいのよ。またしばらく逢えないのよね。わかってるのよ」
彼女は空になった食器を持って流しへ向かった。
「ごめん……」
俺はただそう言うしかできなかった。
「……いいのよ……もういいの!」
突然幸実は涙声になって叫んだ。
「謝るくらいなら最初からしないでよ!」
俺に向き直った幸実の頬に、涙が光っていた。
「私に関われないなら、置いていくくらいなら、なんで最初から
放っておいてくれなかったの?!」
叩きつけるような悲痛な声が、物理的な圧力となって俺の頬を
打ちすえていくようだった。
「みんな、男って勝手なの。わかってるの、一度手に入れちゃったら
もう放っておいてもいいって思うのよ。自分にはやりたいことがある、
それを言えば女は全部許してくれるって思ってるのよ!」
彼女の言葉が、鋭い刃となって俺の胸に突き刺さった。
俺には反駮の余地などなかった。
「もういや!待つだけなんて、もういや!!」
両手で顔を覆って泣き崩れる幸実に、俺はどう言葉をかけていいのか
わからなかった。
突然の感情の乱れように驚愕するばかりだ。
どう言えば、どう振る舞えば彼女を慰めてやれるのか。
戸惑いが俺の身体をこわばらせるが、このまま放っておくわけには
いかない。
幸実の細い肩に触れようとのばしたその手を、振り払われた。
「出て行って!」
鋭く言い放たれた。
「ひとりでいたいの。ひとりっきりにさせて!」
俺は言葉もなく、ただ呆然と彼女の変貌ぶりを眺めていた。
そして、こんなにも激情を露わにする幸実にどうやって触れれば
いいのかがわからなくなった。
うかつなことを言えば、余計に彼女を傷つけてしまうだけだと
思えて仕方がなかった。
のばしかけた腕を拒まれて、力無く肘から下が垂れた。
昨日見知らぬ男を殴り、地に倒れ伏させた腕は、今目の前にいる
愛しい女にはなんの力も示せない。
試合の最中受けたどんな打撃よりも衝撃的な痛みを伴って
手の甲が疼く。
悪酔いした後のめまいに似たような感覚が、頭をふらつかせた。
黒い渦が足元から立ちこめてくる。
やるせない脱力感と同時に、身体の表面を熱感と冷感が交互に
ぐるぐると駆け巡っていく。
幸実の背が無言で俺に拒絶を伝えていた。
抱きしめれば逆効果になるばかりか……。
俺はただひとこと「ごめん」と言っただけ、唇を噛みしめた。
重い沈黙を抱えて、俺は彼女の部屋からそっと立ち去った。
外は雨が降り始めていた。
俺を嘲るように冷たい水滴が頬を叩いていく。
やがて音を立てて落ちる雨が見る間に豪雨へと変わる。
女心と……っていうやつか。
朝に感じた胸に迫る寂寞感が増して、俺はやりきれない気分に
落ち込んだ。
頭を整理させたいと彼女の部屋から出てきてしまったが、これで
よかったのだろうか。
いや、いい訳がないのはわかっている。
なんと慰めていいのか、まったくわからなかった。
俺はたおやかな幸実の中に、あんなにも激しい怒りの感情が
隠されていたことに少なからずショックを受けていた。
しかも、その原因のひとつは俺が何気なく彼女を置き去りに
して部屋を出て行ってからだ。
このひと月、確かに俺は勝手な振る舞いをしていた。
抱きたい時に幸実を抱く、それ以外の時には遠ざける。
顔も会わさず、声も聴かずに過ごしていた。
好き同士の恋人なら……不安に思って当然のことだ。
自分の欲望のはけ口として彼女を好き勝手に弄び、衣食の
世話までも受けて疑問にも思わなかった。
幸実でなくとも嫌気が差すだろう。
今自分が突然放逐されたような気分になって、ようやく彼女の
不安と孤独の一端を知ったような気がした。
それがいままで、なぜわからなかったのだろう。
俺は降りしきる雨の中、黒雲を仰いで立ち尽くしていた。
周りが見えていない……
この関係を持つ前に、何気なく幸実に言われた言葉がふと
脳裏をよぎった。
今まで、俺が女性との関わりあいを嫌がっていた訳がおぼろげ
ながらわかった。
そんな余裕がなかったからだ。
こんなふうに、女性の感情が乱れた時にどうしていいかもわからない。
そんな俺が、一人前に恋愛沙汰に首を突っ込もうとしたのが間違い
だったのか。
彼女は実際何度も置き去りにされる憂き目に遭っている。
俺からだけでなく、その前に何度も兄からも。
俺と恋愛関係に陥った過ちに加え、俺までが彼女を放置してしまう
ことをしたのだ。
彼女を手ひどく痛めつけたきっかけは、俺の勝手な行動だったのだ。
火傷しそうなシャワーを浴びながら、俺は狂おしい自責の念に身を
灼く思いでいた。