昔語り
25 行き違い
幸実が忘れられるかと自分に訊けば、答えは決まっている。
否だ。
あんなに苦しんでいる彼女を放っておく訳にはいかない。
だけど自分一人ではどうにも解決法など見つからない。
堂々巡りの呪縛にはまって出口を見失いかける。
こんな想いを抱えているのは苦しすぎる。
だが、秘密の恋をどうすればいいのか……。
俺ははたと閃いた。
ただ一人、このことを打ち明けた人間がいる。
武田さんだ。
あの人にしか打ち明けられない話を聞いて欲しい。
俺は居てもたってもいられず、武田さんの職場へ電話を入れた。
『それはおまえ、ひっぱたかれても側にいなくちゃ駄目なんだよ!』
ひととおりの話が終わると、武田さんはそう言い放った。
ちょうど非番でいた武田さんを運よく捕まえることができたのだ。
『馬鹿だよなあ、離れちゃ駄目な女からほんとに離れるなよ!
そこでそばにいなかったら、ほんとに自分を捨ててもかまわないんだ
って思われちまうぞ』
俺は黙って太い声を聞いていた。
『バカおまえ、ほんとに今すぐ彼女のとこへ行ってこい!詫び入れて
土下座でもなんでもしてこい。離したくなかったらな』
「でも……」
俺は口ごもった。
「実際に、この次の大会の前までには、少し遠ざからなくちゃならない
のは事実だし……」
『……時々は、身体が寂しくならない程度に抱くんだよ。それしか
ないだろうが』
「抱くって…………」
以前の話と同じに、またも露骨な内容になって、俺は少しの戸惑いを
覚えてしまった。
『おまえは両極端すぎるんだよ。禁欲しなくちゃならない、だから
しばらく逢えない、その前には猿みたいにやってやりまくる?
それでそのあとはほっとく?……バカかよ、ほんとに』
武田さんは心底呆れ返った、という口調だった。
表現は悪いが……それは事実でしかなかった。
『逢いたけりゃ逢えよ。抱きたいなら抱けばいい。だけどほどほどに
しろっていうんだ。試合の前夜に腰が抜けて調子がおかしくなる
ほどでなきゃ、自制も結構だが……少しは解放してやれなきゃ
……おまえも、その彼女も調子が狂って当たり前だろ?』
そうだ……。
自分を抑え、緊張感を保ち続けるためとはいえ、同じような忍耐を
彼女にまで押しつけていい訳がない。
幸実にしてみれば理不尽極まりない仕打ちだろう。
俺は今までそれを彼女に強いていたのだ。
自分との関わりを持とうとせず、必要とされない時は遠ざけられ
放置され続け、そして逢いたくなった時だけに、男の都合で性具
扱いされていては、幸実でなくとも怒りの声をあげて当然だろう。
『やられるだけだって思う女の気持ちになってみろよ』
武田さんに指摘を受けて、俺はいかに自分が身勝手な振る舞いを
して彼女を巻き込んできたのかと悔やんだ。
俺は電話の向こうにいる武田さんに一礼した。
「……謝ってきます。許してもらえなくても……」
『いいから、とっとと行って来い』
「すみません!」
俺は驟雨の中、タクシーで幸実の元へ向かった。
幸実の住むマンションにとって返し、オートロックの呼び出しボタンを
押した。
返事がないが、数十秒ほど置いて何度も繰り返した。
やはり応答はない。
近くにある公衆電話のボックスから、彼女の家に電話をかける。
それも延々と呼び出し音が虚しく響くだけで、何度かけても受話器は
取られない。
家にいないのかもしれないが、いても居留守を使ってインターフォンも
電話も無視しているのかもしれない。
むしろその方が自然だと思えた。
今日は仕事もない日だと言っていたが……
彼女の職場である兄の診療所に、電話をかけようかとも思った。
ただそれもうまい口実が浮かばない。
彼女を傷つけてしまったから、電話に出てもくれないから、彼女に
連絡をとりたい。
そんな言い種で通る訳もない。
どうやって真意を隠そうか、不審に思われずに彼女の安否を確かめるか
思いつかない。
俺はふらふらと歯科医院まで出向いた。
雨が早い薄闇を呼び、日も暮れかけている中、離れた箇所から窓灯りを
見つめた。
無駄か……。
彼女は医療行為には関わっていないから、診療室や待合室にはいない
はずなのだ。
医局と呼ばれる奥の部屋にいて、そこで事務仕事や雑務をしている。
裏口にまわらないとそっちの窓は見られない。
ただ、こんな時刻にこそこそと俺が来ているのを顔見知りの衛生士や
スタッフに見られたら、それこそ不審に思われるだろう。
俺はどうしたものか考えていると、治療が終わって待合室から出て
歩いて来た小学生の子供が目に入った。
三年生か四年生くらいの男の子だ。
だめもとで訊いてみようか。
俺はそう思って子供に声をかけた。
「あのさ、今日髪が脇の下くらいの綺麗なお姉さんいなかったかな?
衛生士さんとか受付の人じゃないんだけど……」
「えっと、ときどき若い先生といる人だよね?今日はぼく見なかったよ。
いないんじゃないの」
幸実を子供が知っていることに驚いたが、答えは俺を喜ばせるものでは
なかった。
「そうか……」
これだけではわからないが、ぐずぐずしていると、もしも俺を見咎められた
時に困る。
また幸実のマンションに戻ってみたが、先刻と同様に彼女の気配は
完全に絶たれたままだった。
俺はひとまず自室に戻って案を練り直すことに決めた。
兄が診療中なのはわかっている。
兄の部屋に幸実が行っていることも考えられる。
できれば行きたくはなかったが、行くにしても傘ももどかしくて
歩き回り、一部はかなり雨に濡れてしまった服を着替えなおしたい。
俺の仕打ちに身を震わせて泣いていた、か細く頼りない後ろ姿が
目に焼き付いて離れない。
俺はそこまで彼女を傷つけてしまったのだ。
前もそうだ。
さんざん抱いておいて、俺は彼女を無神経にも突き放して泣かせた。
また同じことの繰り返しだ。
いつまで繰り返せば気が済む……!
俺は自分の不甲斐なさに、無性に憤りを感じて仕方なかった。
重い足どりでマンションの階段を上がると、俺の部屋の前になにか
大きな物が置かれているように見えた。
だがそれは誤りだった。
幸実が玄関先にうずくまっていたのだ。
そうとわかった瞬間俺は傘など放り出し、彼女に駆け寄った。
「幸実……!」
「……ごめんなさい……」
弱々しく微笑む顔は幾分蒼白で、抱きしめた身体は冷たかった。
「謝るのは俺の方だ!」
俺は冷えきった彼女を抱きかかえると、慌ててドアの鍵を開けた。
初めて彼女を自室に招くことになる。
雨に濡れている訳ではないが、途中激しく降った豪雨で一気に
気温が下がり、半袖では辛いほどの外気だった。
幸実は長袖のブラウスを着てはいるが、きわめて薄い布地の
もので、朝見た彼女の服装のままだった。
リビングを抜けて寝室兼勉強部屋のベッドへ彼女を運ぶ。
額が熱くはない。
熱はないが、長く戸外にいたらしく身体が冷たかった。
俺は幸実を抱きしめながら、寒さで強ばって小刻みに震える
彼女の身体をさすった。
「……ごめん……。俺が悪かったんだ。きみの気持ちを考えも
しないで……。自分のことしか考えていなかったんだ」
幸実はゆっくりと頭を振った。
「謝りたかった。許してもらえなくても。俺は本当に勝手だった。
きみに言われた通りだったから。なにも言い返せなくて
だから……」
「私が悪かったの。……八つ当たりしちゃったから……」
八つ当たり……兄に対してのことか。
俺は胸に錐が刺さるような痛みを感じたが、それ以上深く
考えないようにした。
「身体がこんなに冷えてる……どこにいたんだ?俺は昼過ぎに
幸実の部屋に行って電話もしたんだけど、出なかった。
さっきもそうしたんだけど……」
俺は彼女が非難されていると思わないよう、努めて優しくそう言った。
「覚えてないけど……あなたの部屋に来てたの」
すれ違ってしまったのか。
お互いに相手に謝罪しようとして、見事に。
思わず俺の口から失笑が漏れた。
「タイミングがズレちゃったんだな……」
「そうね……」
幸実も小さく微笑んだ。
ベッドに折り重なり、何故か小声で話し合ううちに幸実の身体は
いつもの柔らかさと弾力を取り戻してきた。
見つめ合うと、なんだか例えようもない感情の大波が寄せてくる。
「寒かっただろう……外。風呂沸かすから、身体あっためた方が
いいよ。俺の布団に入ってて」
幸実から離れると、風呂にお湯を溜めるようにセットする。
ふっと溜息をつくと、俺は安堵のあまり脱力感に襲われてしまった。
幸実の心が取り戻せたんだろうか……。
これでいいんだろうか。
今はこれで……?
24 驟雨
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