Kの呟き 昔語

11  Hold on


それから間もなくして、なんとも重い空気に耐えられなくなり
俺は自宅に帰ると告げた。
が、幸実はなにも言わなかった。

正直に言えば、身体はまだまだ彼女を欲していたが、気持ちが
それについていかなかった。

このままでは、本当に溺れてしまう。
それを危惧して、俺は保身のために自分に言い訳をしていた。
兄はあと三日ほど帰らないらしい。



自室に逃げ込むように帰ったその後で、やはり幸実の側を
離れたのは間違いだったかと後悔した。
のんびりと昼飯を食う気にもなれず、俺は昨夜の睡眠不足を
補うつもりで横になった。


暗闇で、女が一人泣いている夢を見た。
俺は遠くから傍観しているだけだが、顔を見なくともそれが
誰なのかすぐにわかる。
幸実がうずくまり、折り曲げた膝に顔を埋めている。
声など出さず、涙に濡れた顔など見えない。
それなのに、俺には彼女が泣いているのがわかるのだ。
駆け寄って慰めたくとも、それができない。
足元が異常に重く、走ることはおろか歩くことさえできないのだ。
どろどろと粘りつくコールタールのようなものに足をとられて
やがて身動きもできなくなる。
俺は気ばかり焦って、前へ進もうと足掻いた。



目覚めた時は、全身が汗まみれになっていた。
後味の悪い夢を見たせいで気分はひどかった。
時計を見ると、もう夕刻を過ぎて宵口に入ろうとしていた。
エアコンを効かせていても汗びっしょりになってしまったので
シャワーを浴びることにする。



ぬるいシャワーの温度を徐々に上げて、火傷しそうなほど熱く
したあとで、一気に温度を下げる。
身体と気持ちに活を入れるにはこれが一番だ。
シャワーを終えてタオルで身体を拭っていると、ふと洗面台の鏡に
映った自分に違和感を感じる。
胸元に、赤い斑点のようなものが幾つもついている。
最初はそれを見てもなんだかわからなかった。
こんなところに打撃を受けても、痣になっていただろうか。
それにしても、小さくあちこちに広がりすぎている。

唐突に、頭に閃くものがあった。
昨日の夜幸実と抱き合っていた時のことだ。
彼女が俺の上になって、ここら辺にキスしていたことを思い出す。
これは、その時の……
いわゆるキスマークというものだと、ようやくわかった。

そうとわかった瞬間、猛烈に彼女への愛おしい思いがこみあげてくる。
離れたいと、離れようと思っていたはずなのに……
彼女をひとり置き去りにしてきてしまったことが悔やまれる。


俺はとるものもとりあえず、幸実の元へ向かった。
今頃は、夢と同じように泣いているんじゃないか。
さんざんに抱いて、抱かれたあとで冷たく突き放した俺を、彼女はどう
思っているのだろう。
悪かった。謝りたい。
抱けなくとも、俺は幸実に逢って詫びたかった。



マンションのインターホンを押す。
逸る気持ちで、いつになく脈が速い。
……応答がない。
二度目を押し、暫く経っても同じだった。

彼女の自宅へ帰ったのか。
まだ仕事は続けるらしいし、留守の兄宅にいても仕方ないだろう。
俺は踵を返そうとしたが、それでもドアノブに手をかけてみた。
手応えなく、あっさりと扉が開く。
拍子抜けしたと同時に驚いた俺は、ドアから滑るようにして部屋の
中に入った。
リビングとダイニングの照明は光量が絞られてはいたが、灯りは
点っている。
眠っているのかと思ったら、奥から小さな話し声が聞こえた。
兄はまだ帰っていない筈だ。
だとすると、どうしたのか。

寝室の方から、幸実の声がする。
ドアが少し開いていた。
中には灯りがついていて、幸実はドアに背を向けて電話で
話していた。
「……そう。わかったわ」
幸実の声が沈んでいる。
「ええ。早く帰って来てね」
そう言ったあとに、しばらく受話器を握ったままでうつむいていた。
少しして、ようやくフックに受話器を戻すと顔を両手で覆った。
泣いているのか…………
その様子から、俺は電話の相手が兄貴だと知る。

俺は黙って見ているのがいたたまれなくなった。
とりあえず、ドアをノックする。
「幸実」
声をかけると、彼女は驚愕に目を見張っていた。
突然戸口に俺がいるのだ、それももっともだろう。
「……びっくりした……どうしたの?」
彼女の声が少しかすれている。
目の縁には慌てて拭ったらしい涙の跡がある。
「こっちこそ、驚いた……インターホンで応答がないから
帰ろうとしたんだ。そうしたら、ドアに鍵がかかっていなくて」
「えっ!……本当なの?」
幸実はひどく驚いていた。
「本当だよ」
「インターホン、気がつかなかったわ」
「不用心だよ。これがもし俺じゃなくて、泥棒だったらどうするんだ。
いくらオートロックだからって、鍵かけないなんて危なすぎるよ」
俺は言いながら、幸実が見知らぬ侵入者の男に襲われる場面を
想像してしまう。
背筋に冷たいものが走る。
それだけでなく、危うく身体を奪われそうになるところまでも
思い浮かべかけ、慌てて頭を振る。

「しっかりしなくちゃ駄目だよ」
幸実の顔を見て、まるで目下の子供を叱るような口調で言ってしまう。
ああ、違う。
言いたいのはこういうことじゃないのに。
ただ、今の幸実はいろいろな面で危うすぎる。
それが俺を、彼女を保護したい思いと、叱咤する欲求に駆り立てる
のだろう。
「ごめんなさい……気をつけるわ」
俺がついていれば、こんなことにはならない。
……そんなことを思ってしまい、自分の不遜な考えに呆れる。
「今夜、どうするんだ?帰るの?」
俺は話を逸らそうとして訊いた。
「英征さんは明後日の夜帰るんですって。私は…………」
しばらく幸実は考えているようだった。

「やっぱり、あっちで診療所受け継いで開業するつもりらしいの。
すごく気に入ったみたい。施設もいいみたいだし、環境も」
「ふうん…………」
俺は曖昧に生返事をした。
俺にどうすることができるだろう。
彼等を祝福し、喜んで見送ってやることしかできない。
また、そうするしかない。
それしかないのだ。

「あとは……私だけ……ね」
ぽつりと幸実は呟いた。
立ち尽くしていて、朝のように抱き合うわけでもない。
また、彼女の身体が頼りなく揺らいでいるような気がする。
支えてやることができたら。
せめて、一時の慰めでもいい。
彼女の力になることができたなら。
「幸実…………」
俺はうまく言葉を紡げなかった。

「……さっきはごめん」
「え?……なにが?」
幸実はきょとんとした表情で俺を見た。
「朝のこと……」
「あ……。いいのよ。だって、私だって悪いんだし……」
幸実は照れたように少し微笑んだ。
ああ、やっと笑い顔を見ることができた。
俺はこの女性の、こういうところに惹かれたことを思い出した。
抱いた時の夜の顔と、こうした顔との違いに戸惑って、それでも
どうしようもなく魅きつけられた。
「……好きだよ」
俺は幸実の顔を真正面から見据えて言った。
「兄貴の彼女でも、嫁さんでも……好きだ」
一言ひとこと、区切るように言った。
「いつか離れる時が来るまででいい。それでも、俺は君のそばに
いたい」
自分自身に言い聞かせるように、刻むように。

幸実が唇を噛みしめる。
見る間に、今にも泣き崩れそうな表情に変わっていく。
そうなる前に、駆け寄って抱きしめた。
俺の胸に顔を埋める幸実から、嗚咽が洩れてくる。
この女性は、静かに声を殺して泣くのか。
泣いている顔を見るのが辛くて、俺は彼女の髪を撫で続けた。
「ごめんなさい…………」
どういう意味で、謝っているんだろう。
「あの人と……別れられない」
しゃくりあげながら彼女は言った。
俺は息を吸って天井を見上げた。
わかりきっていたことだ。
彼女は兄と結ばれる。
俺は途中で立ち寄るだけにすぎないのだと。
「でも……あなたが、好きなの。でも……でも……」
「もういい」
俺は彼女の言葉を遮ろうとした。

「私、ひどい我が儘言ってるのよ……」
「………………」
「それでも、私の側にいてくれるの?」
「いるよ」
俺はうなずいた。
「だから、もう言うな。わかってるから」
そこからまた、堰を切ったかのように彼女は啜り泣いた。


人を好きになってしまうことが罪になるのだろうか。
倫理にもとるからこそ不倫というのだろうが…………

いつかは終わらせなくてはならない恋。
これが、罪に堕ちた罰なんだろうか。
だとしても、兄嫁の心を盗んだ報いを受けるのは俺だけでいい。
祈るような気持ちでそう思った。
彼女を傷つけたくはない。
俺は幸実が落ち着くまでの間、彼女を黙って抱きしめていた。



ようやく彼女の肩の震えがおさまり、手で涙を拭う素振りもなくなった。
溜息をつきながら顔を上げる。
外はすっかり陽が落ちて、夕闇が迫っていた。
「……ごめんなさいね。とり乱しちゃって」
笑おうとしているのがわかる。
「顔、洗ってくるわ」
俺から離れて、洗面所の方に消える。
俺の着てきたシャツには、幸実のこぼした涙の跡がついていた。
くすぐったさの中に、胸に小さな棘が刺さるような痛みも混じる。
この棘も込みで、彼女を受け止めるつもりだった。
傷つくのは承知の上で踏み出したのだから。


化粧を直してきた幸実は、恥ずかしそうに出てきた。
「……ねえ、貴征さん。ご飯まだでしょ?」
「ああ……」
そういえば、そういう時刻だった。
「外にでも行こうか」
「外で食事じゃなくて、買い物に行きたいの。貴征さんの好きなもの
作ってあげる」
「俺の好きな?」
「できるものならね」
彼女は微笑んで言った。
そこで、二人でスーパーへ買い物に行くことになった。


幸実は明るく振る舞っていた。
もういつもの彼女に戻っている。
それでも、俺の胸に沁みた涙はまだ乾ききってはいない。
いつもこうして、笑顔の裏に涙を隠していたのか。
俺は彼女を見ていてなんともいえない複雑な気分になった。
そんな俺をよそに、幸実はスーパーで肉やら魚、野菜類をたくさん
買い込む。
「男が持つのよ」と言って俺にいっぱいになった袋をいくつも
持たせた。
傍からはまるっきり恋人のように見えるだろう。
俺に笑顔を見せてくれる……今はそれだけでいい。
そう思おうとしていた。

幸実は帰る方角を急に変える。
「まだ、他に寄るところあるの?」
「私の家に行きましょ」
突然の提案だった。
俺は驚いて返答に詰まった。
「それとも、嫌?」
「嫌じゃないよ。ただちょっと驚いただけだ」
確かにその方が気兼ねしなくていい。
それに、女性の部屋に招待される機会など初めてだった。
俺は彼女と連れだって、幸実の住むマンションへと足を運んだ。


How long  can I hold on
till You say  good by  baby 
You're gone
so long
and my heart cry for you girl



背景画像は作者が描きました。
今回ちょっと使ってみました……


12 欲望 へ


10 We still be hangin' on


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