Kの呟き 昔語り

5 奔流





いつまでも気分はすっきりしなかった。
あんな生々しい淫夢を見て、しかも何年かぶりの夢精にまで
至ってしまったことへの恥辱もある。
それよりも、……普段は努めて意識せずに押し殺していた部分
……幸実への恋慕の情を、あんな形で表出させられたことへの
ショックもあった。

俺が望んでいたのはああいうものだったのか?
否定はしきれない。
今まで深層心理に沈めきっていたはずのものが、いちどきに
噴出してしまったことへの驚き。
自分のいやらしさを、まざまざと見せつけられた気がして
鬱々とした気持ちが晴れない。

こんなことはありえない、そうどこかで思いながらも、夢の中では
まごうかたなき事実だと確信していた。
しかも迷うことなく、俺は欲望の赴くまま彼女を抱いた。
そして、あの爆ぜるような夢幻の中の快楽。
思い出すだけで、また沸々とたぎりたつほどの最高のエクスタシーを
得られた。

このまま、汚辱と快楽の混じりあった世界にたゆたっていたい。


ただ、現実にはそうもいかなかった。



闘争心が薄れてしまった気がして、珍しく道場の稽古に身が
入らなかった。
移動稽古や組手では相手があるので真剣に対峙できるが、
ミット蹴りやウエイトなどを単独でしていると、つい余計な
雑念が湧いてきそうになる。
こんなことでは駄目だ。

やりきれない想いを胸に、俺はややもすると気持ちが沈みそうに
なっていた。
ふと、講義やレポート、忙しさにかまけている中でエアポケットの
ような時間……休講や、電車通学の合間に、空虚な気分になる。
どうやら、この前の兄夫婦が引っ越す可能性の話に端を発して
いるらしかった。
友人たちとの馬鹿話や恋の悩みにつきあっているうちはいい。
ただ、ひとりきりになると心のどこからかすきま風が吹いてくるよう
だった。

今までは、一人が辛いと特に意識などしていなかった。
それどころか、むしろ自分は孤独を楽しめるタイプだと思っていた。
ただ、あの日からなにかが違ってきてしまったのだ。
女性に花を贈りたいと、そう思ったあの時から。


彼女を汚してしまった夢を見て、その気恥ずかしさから、幸実に
逢えないと思いこんでいた。
だが、今は無性に彼女に逢いたい。
せめて顔を見たい。
自分の抱いている気持ちがなんなのか、確かめるために。
俺は金曜の夜、決まってかかってくる彼女からの定期便を心待ちに
していた。
そして土曜の夕食をともにしたいと願った。
幸実の明るい声を聞けただけで、俺の沈みがちだった気分が
途端に浮き立つ。
我ながら単純だ。

彼女への好意を、今はもうはっきりと自身で認め、受け容れたい。
彼等が俺の許を去っていく日が来るのなら、なおさらだ。
せめて気持ちを伝えることだけでもしたい。
兄嫁に惚れるなんて、我ながら馬鹿げているとは思う。
ただ、このことを告げて、彼女をどうこうしようというのではない。
気持ちに区切りをつけたいのだ。
そして、……俺は前を向いて、顔を上げて歩いていきたい。
彼女以外の女性を愛せるようになるには、彼女の口から
俺を否定して欲しいのだ。
エゴだということはわかっている。
ただ、この想いを一人きりで溜めているのはいささか重すぎる。
いつか……近いうちに、俺は想いを告げるつもりでいた。
それでどうしようだとかは、考えていなかった。



土曜の夜、8時過ぎ。
俺は幸実と兄のいる部屋に出向いた。
幸実が応対に出てきた。
「いらっしゃい」
いつもの笑顔だ。
俺は胸がほっと暖まるような気がした。
俺はダイニングに通されると、いつもはいるはずの兄が自分の席に
いないのに気付いた。
「兄貴は?」
「……出張よ。急にね、決まったの」
「ああ、そうなの?……久しぶりだな」
兄が留守とは知らなかった。
けれど、俺はそれでも帰るつもりはなかった。
幸実を紹介される前は、兄は数ヶ月に一度こうして出張する
ことがあった。
多くは学会、医師会などの集まり、そして高名な教授や博士の
講義などを聴きに各地を回るのだ。
それは一日二日で終わるものから、長くは一週間近くに及ぶ
ものもあった。
俺も、時々スライドや資料の整理を手伝ったこともある。
「今度は長いのかな?」
「そうかもね」
答える幸実の声が少し固かった。
俺に背を向けて、食事を温めているので表情がわからない。
「……あのね、やっぱり北海道、行く気みたい。それに関する
打ち合わせと視察を兼ねて、現地に呼ばれて行ったの」

俺は驚きを隠せなかった。
それよりも落胆も大きかった。
ああ、やっぱりそうなのか。
幸実は遠くへ行ってしまう。
俺は自分の顔がこわばっていくのがわかった。
幸実がビーフシチューを差し出しながら、俺に笑いかける。
「落ち込んじゃった?」
俺ははっとして彼女の顔を見た。
「大丈夫よ、まだ決まった訳じゃないの。私だってどうするかなんて
わからないし……」
「でも、ついていくんだろ?」
俺はせっかくのシチューを味わう余裕もなかった。
「さあ……とりあえず、今は彼がその先輩と直接やりとりしている
だけだから。彼の話を聞いたりしてからね」

本決まりな訳ではない。
ただ、彼女の表情がどことなく沈んでいるような気がする。
無理に明るく振る舞おうとしているような。
彼女は、普段はあまり飲まないワインを出した。
俺にも勧めてくる。
俺も、酒は嫌いではないし、弱くもないので彼女につきあう。
杯を重ねるごとに、彼女が饒舌になっていく。
白い頬がほのかに桜色に染まる。
「幸実さん……もう、そのくらいにしといたら?」
彼女のピッチがいつになく早い。
酔いつぶれてしまいかねないのが気にかかる。
「大丈夫よ。これくらいで……」
彼女は立ち上がるが、よろけてテーブルの角にぶつかりそうになる。
俺は彼女の腰を抱きとめてしまう。

間近で見た彼女の頬は上気し、瞳はうっすらと浮かんだ涙で潤んでいた。
ふわっとした香水のような香りが俺を包む。
甘さと艶めかしさ、そして彼女自身の身体の匂いが織りなす調べに
俺は酔いそうになった。
不意に、思いもよらない衝動が湧き起こってくる。
内心の動揺をよそに、俺の身体は正直な反応を見せてしまう。
危うく抱きしめてしまいそうになった。
うっかり目と目を合わせたら、……唇を奪いたくなってしまう……
俺は彼女の顔から無理に視線を外し、顔をそむけた。
精一杯の理性だ。
柔らかなヒップラインを包んでしまった手を、そっとほどく。

幸実はどこか放心したような表情になっていた。

「……ごめん」
俺は気まずくなって彼女から離れた。
喉がからからに渇き、さほど酔っている訳でもないのに激しい動悸に
襲われる。
「……俺……帰るよ」
言ってしまったあとで後悔した。
ここで帰ったら、ひどく酔っている彼女はどうなる?
気分が悪くなってしまいそうに見える。
介抱してやりたい。
俺は瞬間的にそんな考えを巡らせた。

「待って」
背中に幸実の声がかかる。
俺は振り向いた。

「……帰らないで」
幸実は俺の目を真剣な眼差しで見つめ、言った。
その瞳は、俺がたじろぐほど危うげな光を帯びていた。
「…………側にいて。お願い…………」
彼女の言葉が、俺をその場に長く釘付けにさせた。

俺は凍り付いたように止まった空気を感じた。
そして無理に笑って言う。
「なんだ、兄貴がいないからって弱気になっちゃったの?」
「………………」
幸実は答えなかった。
「行かないで……」
それだけ、俺を見上げていった。
「じゃあ、……側にいるよ。気分悪くないか?幸実さんにしては
ずいぶん飲んじまったみたいだし」
「そうね……。……ちょっとね。酔いたい気分になっただけ」
彼女はうつむき加減になって髪をかきあげた。
まっすぐな黒髪がはらはらと彼女の横顔にこぼれ落ち、それが一瞬
彼女を途方もなく色っぽく見せた。

「幸実さんらしくないな」
俺は素直に思ったまま口に出した。
こんなに弱くなっている彼女を見ることはなかった。
今にも崩れ落ちそうなもろさを感じる。
やっぱり、遠方の新天地を求める兄についていくのに不安なんだろう。
「ついていくんだろ?兄貴と一緒に……」
俺は彼女を突き放そうとした。
揺らいでいるのは今だけで、きっとそうなるに違いない。
「迷ったり、不安になる気持ちはわかるよ。でも、信じなくちゃ」
自分でも空々しいことを口にしていると思う。
うわっつらの、ただ口先だけの慰めの言葉が虚しかった。
本心では、……彼女を抱きしめてやりたいのに。
心とは裏腹な言葉で、自分の気持ちをこれ以上彼女に傾けまいと
必死だった。


「信じられないのよ…………」
幸実は低くぽつりと言った。
「信じられないの。自分が……」
幸実が肩を震わせながら言った言葉は、俺をひどく驚かせた。

「好きなのよ。あなたが…………」




言いようのない衝撃が、俺の足元から頭頂までを瞬時に貫いた。

俺の気持ちを、いつか近いうちに伝えたかった。
そしてその後に遠ざかろうと決意していた。

俺が誤解をしていたのではなかったのだ。
彼女が、時折俺を見つめる瞳の意図がわからなくて戸惑っていた。
ただ、恋人とその弟を比較する目だと思いこもうとしていた。

「…………好きなの…………」
俺は動けなかった。
俺もそうだと言ってしまいたい。
だが、言えばどうなる。
雪崩を打つように、なるようになってしまうしかない。
兄貴の恋人。
もう間もなく彼女は此処を去っていく。
間に合わないかもしれない。
けれど奪うつもりもない。
そう思って、一人で自己完結させようとしていた。

「一度だけでいい…………」
幸実の声が、かすれて震えている。
「あなたのものにして。お願い…………」



俺の中でなにかが砕け散った。
夢ではない、現実の出来事。
行き場のない想いの出口をぶつけあうように、気がつくと俺は彼女を
抱きしめていた。
唇が重なる。
柔らかすぎて少し驚いた。
彼女の方から舌を絡めてきた。
夢に見た女性との口づけ。
あまりにも甘美なその唇は、もう俺から理性を奪い去るのに充分だった。
「幸実…………」
俺は初めて彼女を呼び捨てにした。
「………好きだ」
胸が詰まって、もうそれ以上言葉は続けられない。
彼女の身体の温もりと柔らかさが、俺をゆるやかに溶かしていった。


禁じていた想いが、奔流となって互いを包んだ。
今だけ、なにもかも忘れたい。
二人をとりまく環境も、しがらみも、なにもかもすべて。
一夜だけでもいい、幸実を感じていたい。

もう止められなかった。
そして、長い一夜が始まっていった…………




6 抱擁へ


4 Bedroom Eyes へ


今回のカットも壁紙も自作してみました……。


エントランスへ





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