Kの呟き 昔語り
1 兄の恋人
……その人を初めて見たのは、いつだったか。
確か季節は春だったと記憶している。
兄の婚約者として俺に紹介された。
彼女に対する俺の印象は、さほど強くもなかった。
この人が兄の妻になるのかと、表層的な感想を抱いたにすぎない。
邪魔をしたくなかったので、その場は挨拶だけで済ませて俺は引き上げた。
ただ色白の頬と、漆黒の髪の対比が鮮やかに目に残った。
それだけのことだったのだ。最初は。
どんな恋物語でも、最初の出会いがドラマチックなものに彩られて
自分たちの舞台は華やかに用意されているものだとは、俺は思わない。
あとになってあれがきっかけだったと思い起こすのか、それとも自分でも
それと気づく間もなく惹かれていくのだろう。
大学に入学し、それまで続けていた空手にますます熱心に、それこそ
心血を注ぎ始め、これこそが俺の生涯目指す道だと思っていた。
恋愛沙汰には無縁とは言わないが、それでも空手を続けている上で
女などは邪魔だ、と真剣に信じていた。
禁欲的な姿勢を貫くことで己を磨き、自分自身の信念を持ち、それに
従いひたすらに突き進んでいく最中だった。
俺は大学に入るとともに下宿し、実家を出ていた。
8歳上の年の離れた兄は歯科の勤務医として自活し、独りで暮らすには
十分な生活を送っていた。
実家には、女に溺れて年老いた内科医の父が残るばかりだった。
家庭生活などとうに破綻し、子の親としても、母の夫としても不誠実な
この男は、別宅を構えてさんざんに女遊びに明け暮れていた。
俺が高校に入学するまで戸籍上母はいたが、既に彼女も父に見切りを
つけて別な男性と生活を共にしていた。
実家に殆ど独り暮らしだった俺は、早くから家を出ていた兄の家に
入り浸っていた。
鷹揚な兄は俺の鬱屈した様子を黙って見守ってくれていた。
自分に甘く他人に厳しい人間の典型だった父が押しつけようとした、
医師への道を俺は頑なに否定した。
夫に見捨てられた母は躍起になって兄を医師に仕立て上げようとし
兄はその期待に応える。
だが、内科医を選ばなかったのは口には出さないが、兄の密かな反抗だろう。
俺は早くから鬼っ子扱いだが、その分だけしがらみからは解放される
ことができた。
兄は両親の期待通りにそつなく進み、その分俺を自由にさせてくれた。
長子の兄が医学の道へ進むことへ成功したので、反抗的な俺の進路は
両親とも半ば諦めて放任したというのが事実だ。
親が親の役割など放棄していた家庭の中で、兄は実質的な俺の保護者
だった。
恋人と呼べる女性は、兄にもそれなりにはいたらしい。
ただ、自宅に呼び寄せたりするような仲にまでは至らなかったようだ。
それがいきなり婚約者などと言って俺に紹介するとは、正直言えば
青天の霹靂だった。
その女性は、医療事務の仕事をしているのだという。
勤務先で知り合い、来年には結婚……
絵に描いたような幸せってやつだった。
俺は週末になると兄の家に顔を出していたが、このことでそれを控えようと
思った。
そして俺は、自然と彼らの部屋に足が遠のくようになった。
「おまえも早く彼女作れよ」
そう言ってやにさがる兄の表情を思い浮かべると、唇が笑いを形作る。
ただ、俺の行くべき道は変わらなかった。
いずれは検事を目指し、そして空手の道でも全力を尽くす。
それだけが全てだった。
その後、意外な誘いを受けるまでは。
『夜分に失礼します。黒澤貴征さん、でしょうか?』
夜間の突然の電話。
受話器の向こうの女性の声に、心当たりはなかった。
どこから番号を調べてくるのかわからない勧誘の類と思い、無愛想に答える。
「はい、そうですが」
『あの……突然ごめんなさい。私、幸実……野川幸実です。英征さんと
おつきあいしている……』
俺は事情が飲み込めなかった。
彼女がいったい何の用で、俺のところへこんな電話などしてくるのか。
「はあ……」
俺は間抜けな返事しかできなかった。
『最近……英征さんのところへ、貴征さんが来なくなったから、英征さんも
心配しているんです』
彼女は言いにくそうに言葉を切った。
『もしかして、私がいるから。……そうじゃないですか?』
それはそうだが、その通りだとは言えない。
「いや、違います。ただここのとこ、忙しかったから。それだけです。
貴女のせいじゃありません」
このくらいのことしか言えない。
『私、避けられてるんじゃないかと思って……』
俺は戸惑いを隠せなかった。
そんな風に受け取られているとは。
二人の家庭となるべき場所に邪魔をするのはよそうと、俺なりに気を遣っていた
つもりだった。
ただ、一月も寄りつかなかったのはさすがにまずかったかと思った。
これでは避けられていると思われても仕方がない。
『あの、英征さんと替わります』
なんだ、側に兄貴がいたのか。
『よう、貴征。おまえ、暇ならうちに来ないか。幸実が夕飯作ってくれたんだよ。
たまには栄養つけないと、勝てるもんも勝てないぞ』
確かに、最近食生活はいいと言えなかった。
もともと自炊も好きでしているのではなく、必要に迫られて兄に教えて
もらったものでしかない。
「わかった、お邪魔するよ。余計な心配かけてごめん。幸実さんにも
そう伝えておいて」
人はどうして、一人きりでは生きていけないのだろう。
誰にも頼るまいと気負ったところでそんなことはできようはずもない。
明るい場所へと否応なく引き寄せられていくのは何故だろう。
誰も、誰かと寄り添わずにはいられない。
実質的に黒澤家の家庭生活が破綻した中学の頃から、見様見真似で、食事と
いうよりは餌に近いものを作ってみたが、見かねた兄が時折食事を作って
くれるようになったのだ。
自立、いや……自活を強く望むようになったのもその頃からだった。
団欒の記憶といえば、兄と二人のささやかなものしか覚えていない。
せめて妹か姉がいたらよかったのに、と兄は冗談交じりで言った。
実際、俺と兄の間にはもう一人子供があったらしい。
死産だか生まれてすぐに亡くなったのか定かではないが、それがきっかけで
父と母の間に亀裂が生じていったらしい。
俺には女性のいる家庭の食卓の記憶がない。
だから突然の招待を受けて、少々困惑していた。
この場合、食事を御馳走になるのだから手土産を持って行くのが筋だろう。
甘ったるいのは苦手だが、俺なりに知恵を絞っていくつかのケーキと
花を見つくろって買う。
花の種類なんて、俺のような無風流者には薔薇くらいしかわからない。
だから適当に、小さな薔薇を束にしてもらった。
あの人には大輪の花のイメージはない。
おぼろげな記憶を辿り、彼女の面影を追った。
兄のマンションのインターフォンを押した。
ドアを開けた兄の後ろから、彼女がついてくる。
薔薇柄のエプロンをしていて、俺は偶然とはいえ笑いそうになってしまった。
照れくさくて、持っているものを後ろ手にまわす。
「いらっしゃい。……貴征さんは、食べられないものとかあります?」
「いや……特にないです」
この女性は、こんな人だったのかとしげしげと見つめる。
長い髪は肩を過ぎたあたりでまとめられ、際だった美人というわけでは
ないが、可愛らしい印象だった。
180pの俺よりも頭一つ低く、兄も178pの長身だから、小柄な方
なのだろうと思った。
テーブルには暖かそうな、和洋折衷の料理が湯気をたてている。
「あの……これ」
俺はそれだけ言って、彼女に花と包みを差し出した。
彼女は嬉しそうに俺に微笑む。
「わあ……いいの?……ありがとう」
まさしく、花がほころぶような表情だった。
穏やかに満たされた笑顔。
見ているこっちまでもが、つられて笑いたくなる。
兄がその薔薇の花を見て吹き出した。
「貴征。おまえ、その花の色、どうやって選んだ?」
「え?……いや、適当に。……なに?なにかまずかった?」
「黄色の薔薇にはな、嫉妬って花言葉があるんだよ」
「…………嫉妬?」
俺はきょとんとして呆けてしまった。
「ま、おまえのことだから知らなかったんだと思ったけどな。
今度から、女性に花贈る時には気をつけた方がいいぞ」
俺は彼女の方を向くと、彼女は少し困ったように笑っていた。
当然彼女も知っていたはずだ。女性ならこんなことには敏感だろう。
ただ、兄のこの指摘は彼女が居ないところでして欲しかった。
……俺の意識していないところで、図らずもそんな感情を言い当てられて
しまったような気がした。
彼女はまだしばらくは医療事務の仕事を続ける予定で、結婚は来年の
末くらいに予定しているとのことだった。
兄より3歳年下の、24歳だと言う。
女性は早く結婚したいものじゃないんだろうか。
のんびり待っている間に、彼女は二十代後半に入ってしまうだろう。
婚約とはいっても、双方の親が認めるとかそんな段階ではなく
まだこうして二人の間に合意があるだけだった。
うちの場合には、黒澤の人間は俺以外ノータッチで通す羽目になる
だろう。
結婚式の規模も小さく、簡素に済ますつもりだと二人は言った。
派手にドライアイスの煙を出したり、着せ替えごっこを何度も何度も繰り返す
ような披露宴に出席することにはならないようだ。
そんな堅実なところも、俺には好感が持てた。
彼女の心づくしを受けながら、俺はいつか穏やかな空気に包まれていくような
気持ちになった。
兄が彼女のこんなところに惹かれたのだとわかる。
明るく、それでいて出過ぎず、ふわりと人を包み込むような雰囲気を持っている。
温厚で鷹揚な兄の性格と合っている。
きっといい家庭を築くことが出来るだろう。
俺はいつもどこかで張りつめている気持ちが、ほぐされていくような気がした。
2 懊悩 へ
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