Kの呟き 昔語

3 白薔薇



翌週、土曜の夜。
いつものように、兄たちからの誘いの電話が入るはずだが、俺はあえて
法学のゼミ仲間と飲みに出歩いていた。
たまにはこんな時もある。
したたかに酔って帰ってきたあと、留守番電話に録音があることを知る。
聞いてみると、彼女……幸実からだった。
『この間……ごめんなさいね。貴征さん、気分損ねちゃったでしょう。
余計なこと言っちゃったって、英征さんも気にしてたの』
少し沈んだ声のトーンだった。いつもの明るさが影を潜めてしまっている。
『お説教みたいなこと言うつもりはなかったの。それに、あなたも言ってた
ように、はしゃぎすぎちゃったみたい』

彼女の手が兄の肩に回され、仲睦まじい恋人たちの姿を見せつけられて
いるうちに、俺の胸の底に言いようのない感情が芽吹いていた。
それを否定し、考えないようにしていたつもりだった。
仲のいい二人に妬いていた、というのとは少し違う。
時折俺を見つめる幸実に、もどかしさを感じていたのだ。
心底から兄に惚れているらしい彼女が、恋人の弟である俺に優しくして
くれるのは特別なことではない。

白い花が咲きこぼれていくような彼女の微笑み。
あの笑顔は俺に向けられたものじゃない。
兄貴への愛情のおこぼれを受けているにすぎないのだ。
彼女が俺に示してくれる好意が、今は棘のような痛みを伴ってくる。
「畜生…………」
俺は何者かの鋭い爪で、胸郭を掻きむしられていくような気分になる。
徐々に心地よい酩酊から醒めていくのがわかった。

こんな筈ではなかった。
ただ、兄の嫁さんとして、つかず離れずの関係を維持していくだけの
筈だったのに。
俺をこうして気遣ってくれるのも、他ならぬ惚れた男のただ一人の
肉親だからにすぎない。
俺はもう、子供じゃない。
彼らから庇護を受け、甘えるだけの存在ではいたくない。
『よかったら、また来てちょうだいね』
留守電の末尾の幸実の声を聞いていて、俺は胸が痛くなった。
そして、唐突に浮かんだ疑問を兄にぶつけたくなった。
もう深夜の12時だったが、宵っ張りの兄は起きているだろうと電話する。
彼らが身体を重ね合い、睦み合っているのなら、その邪魔をしてやるのも
一興だった。


予想に反し、幸実が電話を受けた。
「俺……貴征です。……びっくりした。まだ起きてたんだ?」
自分から掛けておいて間の抜けた科白が口を突く。
彼女がくすくすと笑う。
『今帰ってきたの?』
「そう。留守電聞いて……。
……ごめん。謝るのは俺だ。みっともない真似した」
『いいのよ。……謝りっこするの、もうやめましょ。キリがなくなっちゃう。
これでおしまい。ね?』
子供をあやすような口調だが、腹など立たなかった。
実際に俺はまだ19の餓鬼で、彼女は大人なのだから。
「来週、またお邪魔してもいいかな」
『あら、明日にでもどう?貴征さんの都合がよければ、だけど』
唐突な誘い文句だった。
そうだ、今夜はまだ土曜なのだ。
「じゃあ、また明日の夜にお邪魔していいかな。どうせ兄貴も、幸実さんも
休みだろ?」
日曜の夜、本当なら二人でゆっくり過ごしたいだろう。
だが、俺は兄貴と彼女に伝えなければならないことがある。
『じゃあ、待ってるわ』
どことなく弾んでいるような彼女の声だった。
兄とは替わってもらわずに、そこで切る。
彼女の声の余韻を味わいたい。








翌夕。俺はいつものように心ばかりの品を持参して兄宅を訪れた。
今度は、彼女へ白い薔薇を用意していく。
念のために花屋の店員に花言葉を聞く。
純潔。そして尊敬……
前の黄薔薇のような不味い意味合いはないようだ。
彼女には、これが相応しいと思った。


俺は彼女の用意してくれた家庭料理が好きだった。
決して凝りまくったものではないが、暖かくて沁みる、どこか懐かしい
ものだった。
あえて言うなら、郷愁を感じさせる。
俺の記憶の片隅に、遠い日の幸福な情景があるのなら、それを思い起こさせる
ような。
だけど、この状況にこのまま甘え続けてはいられない。
いずれ彼等は結婚し、幸せな家庭を築き、子供も生まれるだろう。
二人の生活に、いつまでも俺は入り込んでいい訳がない。
今ならまだ引き返せる。
彼女への想いが、あるべきだった家庭の幸せへの憧憬にすぎないと
わかっているうちに。
俺は兄に向かって切り出した。

「まだ二人は結婚しないの?」
「なんだよ、やぶからぼうに」
兄は苦笑しながら言った。
「幸実さん、もう25になるんだろ?よく言うよ、俺の周りの子も25とか
きりのいいうちに結婚したいって」
「やあね、どうせ私は年増よ」
屈託なく笑う彼女は、俺の無礼な言葉を軽く受け流す。
「結婚ってのは、二人の問題だけじゃないんだよ。準備だとかいろいろ
あるんだよ」
兄は新聞を広げながら言った。
「黒澤の家が問題大ありなのはともかく、幸実さんの方は特にそういうことは
ないんだろ?」
「うちのことは相手方のご両親も知ってるし、二人で式挙げたりするのも
賛成してくれてる」
そうか、二人だけの式なのか。
それならそれでいい。そうして欲しい。
「だったら、どうして……」
俺は思っていたことを口にした。
「俺の面倒を見てくれるつもりだっていうなら、その必要はないよ」
俺はそう言いながら、交互に兄と幸実の顔を見た。
「もう子供じゃないんだ。自活だってしてる。生活費も、学費もある程度の
蓄えはあるし、指導員のバイトでだってやっていける」
幸実は黙って俺を見つめていた。

「俺が、二十歳超えるまで待つっていうんだろ?」
そうだとしか思えなかった。
俺の保護者として、それまでは側にいてなにくれとなく世話を焼いて
くれる心積もりなのだろう。
その気遣いがあるだろうが、彼等は肯定しないだろう。
だが、それではあまりにも心苦しい。

「早く幸せになっちゃえよ。子供でも作ってさ。いつまでも俺に
かまってくれなくても、大丈夫だから」
「おまえこそ、余計な気遣うなよ。考えすぎだよ。……餓鬼のくせに」
兄は少し苦笑していた。
「結婚の時期はな、まだ微妙なところなんだ。……俺は、もしかして
北海道あたりで開業するかもしれないからな」
「…………え?」
咄嗟に冗談だと思った。
「嘘だろ?」
聞き返しても、兄の表情は変わらなかった。

「本当なんだ。俺の大先輩の人が、そこを閉じようとしてたんだけど
俺に跡を継いでくれって話が持ち上がってる」
寝耳に水とはこのことだった。
「まだわからないけど……こんな話でもないと、俺みたいな若造が
雇われの形じゃなくて、独立なんかできないんだ。……正直、迷ってる」
幸実は黙ってうつむいていた。
きっと、彼女を幸せにするためにはそうするだろう。
これはまたとないチャンスなのだ。
一国一城の主になる。
20代で開業医になれるだなんて、こんなことは自力では難しいだろう。
こんな機会が与えられて、否と言える男があるだろうか?

「……よかったじゃないか。早くそうしろよ。幸実さんのためにもさ」
「だから、まだ決まった訳じゃないんだって」
兄は困ったように彼女と顔を見合わせた。
幸実は否定も肯定もしない。
男の気持ちとしてはチャレンジしたいだろうが、女の彼女はどうだろう。
都内出身だと聞いていた彼女が、いきなりそんなところで新生活を営む
ことはできるのだろうか。
「心配すんなよ。なんとかなるさ」
こういうところが兄の兄たる所以なのだ。
腹をくくっているのか、それとも本当になんとかなると思っているのか。
懐が広いのか、深く考えていないから茫洋として見えるのか。
幸実の心中を知ることはできないが、これ以上のことに首をつっこむのは
無粋だ。
俺はあくまでも傍観者にすぎない。
「俺のことに、いつまでもかまけてくれなくてもいいんだぜ」
格好つけてそんな科白を用意してきても、その言葉はついに吐けず
じまいに終わった。


この生活が、急に根こそぎなくなってしまうかもしれないということに
驚いていた。
自分から離れよう、断ち切ろうとしていた筈なのに、いざそうなるかも
しれないと知ると、やはり物悲しかった。
俺は二人の関係を見ているのが好きだったのかもしれない。
あるべき家庭のモデルケース、そんなようなものを夢見ていたのかも
しれなかった。
今この時が、いつ泡のように消え去ってしまうかもしれないのだ。
幸実が俺の目の前から消える前に、兄嫁として慕っている気持ち
以上のものに気付いてしまった。
その彼女が遙か遠方に去っていってしまうかもしれない……
急に、ぽっかりと胸に穴が空いてしまったような気がした。





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