花より色は1
 早川新之助の祖父は早川幻刀斎と言い、下級侍の三男坊という立場であったが身一つで全国を武者修行に巡り、独自の剣の流派を打ち立てた剣豪だった。彼は後年生まれた国元へ帰ったが、その際各地の剣豪をことごとく倒して凱旋帰還したため、特別に殿様の剣術指南役として300石を頂く旗本となった。
 300石と言えば直参の旗本でも平均以上だが、実際は知行が300石なので、税率40%として実際の取り分は年間約120石くらいである。1石は大人一人が一年に食べる米の量とされているから、120人の大人を養えるかと思えばそうではない。人間は米だけで生きられるものではないので、特に扶持米を与えられるわけではない藩では、その与えられただけの米を売って金に変え、米以外の食糧や生活用品を買ったり、屋敷を建てた時の借金を返したりするのに使わなければならないのである。上級武士ほど、出費はいくらでもある。身分や石高が上がればその分出費も増える。300石であれば藩に何か一大事があった時には7人の軍役が課せられていたから、常にその7人の武士を養っていかなければならない。武士の体面を保つためには屋敷の修理や寺社への寄付なども出さなければならないため、屋敷の維持のためにも馬を飼い、家来を20人も雇い、女中も何人も置かなければならない武士の家では、外側に比べて家族の生活は質素なものであった。
 幻刀斎は幻刀流という剣技を打ち立て、屋敷の一部を道場として弟子をとっていた。時に、城を訪ねては殿様に剣術を教える事もあり、新興の家柄としては殿様の覚えも中々のものであった。
 だが時は元禄、戦国時代は遠く、既に大阪夏の陣すらも昔話となりつつある昨今では、武士と言うものの存在意義は薄れ始めていた。巷では大名よりも羽振りのいい豪商が吉原を借り切ったとか、そんな景気のいい話も伝わってくるが、武士は身分の上では一番上であっても、清貧に暮らし、主君にひたすら忠義を尽くすのみで余程の好き者か無頼漢でもなければ遊び回る事などしない。それがなくては朝も明けない武士道に従って、真面目に主家に勤めるのがこの時代の大半の武士の生き方だった。

 新之助の父は左衛門と言い、幻刀斎の遅くなってからの子供で、甘やかされて育った。剣術もあまり覚えず、筋もなかったため早々に自らに見切りをつけ、頭を使って藩政の場に出るのだと野望を抱いた。老中の娘千代を嫁にもらい、その縁で代官所などへも非常勤として勤めていた。幻刀斎は息子を諦め、孫の新之助を鍛える事にした。幸い新之助には武芸の筋があった。新之助は幼少ながらに武士とはなんたるかを体の芯まで叩き込まれ、剣の腕を鍛えられ、やがてめきめきと上達し、十も越える頃には更に幼い者たちの指南役を勤める事すらあった。

 だが新之助はまだ所詮子供である。武士の子は剣や弓の他にも儒学の勉強や読み書きもできなくてはならず、特に藩の方針で藩内に農民と言えども読み書きのできない者がないようにと学問に力を入れていたから、道場の子としても例外ではなく、昼間は歩いて藩校へ通い、夕方から道場で剣術の稽古をするという、忙しい生活を送っていた。
 今でこそ丈夫な体になった新之助であったが、生まれて二年もの間は誰もが長くは生きまいと想像したほど体が弱かった。老中から頂いた形の箱入りの母千代は、産後体調が優れず、新之助に乳をやる事ができなかった。千代と新之助はほとんど二年もの間、布団の上で寝起きしていたのだった。
 乳が出ない千代のため、近くの農村で子供をなくしたばかりの乳母が選ばれて連れて来られた。乳母は元々乳の出がよく、村の中でも何人もの子供に乳をやっていたとかで、新之助の乳母に選ばれたのだ。乳母のイシは新之助をよく可愛がり、千代の看病も進んでした。おかげで新之助の体は次第に強くなり、千代も回復して床を上げられるようになった。
 既に乳のいらない年齢になっても、新之助も千代もイシを頼りにしていたため彼女を村には返さなかった。もちろん、イシの家には充分な手当てがしてある。新之助も大きくなってからは、イシも自分の家族と暮らしたいだろうと考えたものだが、イシはいつも明るく、新之助たちに良く仕えた。
 新之助の体が弱かったのだという事は千代や乳母のトラウマとなっているらしく、新之助が八歳になって藩校に通い始めた時も、イシが弁当や筆や墨などを持って付いてきた。それは、新之助が藩内の各道場の中でも特に成長著しいと名前が挙がるようになってきてからも同じであった。

 もちろん、同じ武士でも重臣の子供は、学用品や弁当などを下男に持たせて藩校へやってくるものもいる。だがそれでも乳母と言うのは少なくて、新之助は二年も通ううちに乳母についてきてもらう事が恥ずかしくなってきた。新之助はどうかしてそれだけはやめてもらおうと、どうしても付いてくるなら、誰か他のものにしてもらいたい、それでも駄目なら一人で行きたいと千代に直談判した。
 イシは今では女中頭などと対等の立場で、千代の話し相手としても奥のほうへ出入り自由であった。千代に会いに来た新之助に、イシは千代と並んで繕い物をしながら顔を見合わせた。

「そう言ってもねえ、使用人たちもみな忙しくてあなたのお供をしている時間などあるかしらね」
「そうですよ奥様。やはりりここは一番時間が自由になる私が行くべきですわ」
「そうよねえ。けれどイシ、あなたもこの間腰を痛めてから歩くのが辛いと言っていたじゃないの。そのまま体でも壊されて家に戻るなんて事になったら私が困りますよ。誰か適当な者はいないかしら」
「そう申されましても・・・最近はおうちも食客の方が増えて、使用人はてんてこ舞いのようでございますから。この間も、下働きの男が食材の下ごしらえに小僧の一人でもいればとぼやいていたのを耳にしましたが」
「そうねえ・・・けれど、今使用人を増やす余裕はないし、それならいっそ、本当に小僧さんならどうかしら。大人を頼むほどの用もないでしょうし、雇うにもそれ程かからないでしょう。ちょっとしたお使いも頼みやすいわ。あなた村で心当たりはないの、イシ」
「小僧さんですか?そうでございますね、それでしたら、村で私が乳をやった子供で目端の効くいい子がおりますよ。もしその子でよろしければ、次の休みにでも村へ行ったときに連れてまいりましょう」
「それはいいわ。それなら、大切なお休みを使う事もないでしょう。明日にでも行って、その子を連れて来てくれるといいわ。ついでに子供たちの顔も見てらっしゃいな」
「ありがとうございます、奥様。それでしたら、明日朝早く出ましたら夜半には戻れると思います。あの子のうちも貧しい家でしたから、先月帰った折には子供たちの一人を吉原か陰間茶屋へ売るかという話をしていたと聞きました。話はすぐに済むと思いますわ」
「そうなの。それではよくよくお礼をしてね。不自由がないようにしてあげて頂戴」
「あの子もここで奉公できれば幸せでしょう。お優しい奥様の下では」
「そう思ってもらえるように努めましょう。さあ、それじゃあ新之助もそのつもりでいて頂戴。旦那様には私のほうから申し上げておきますからね。小僧さんには朝あなたのお供で藩校まで行ってもらって、そこから戻ってきて家の仕事をしてもらえばいいでしょう。お勉強のほうは、あなたが時々見ておやりなさいね。小僧さんと言っても読み書き位はできないと、武家の下働きでも笑われますからね。ところで、その子供はいくつだったのかしら」
「あちらの方が少し早いですけれど新之助さまと半年も変わらなかったと思いますわ。十月(とつき)か・・・それくらい乳をやって、生まれて三月(みつき)の新之助様のところへ参りましたから。帰るたびに顔を見に行くのですが、村でも評判の賢い子でございます」
「新之助。その子でどうかしら?」
「いいと思います」

 新之助は即座に答えた。新之助にしてみれば、どんな者でも構わないから早く連れてきて欲しいと言う心境だったのだ。乳母が帰った後、友達に「乳離れができない」とからかわれるのはもうまっぴらだった。

「そう、それじゃあイシ、お願いね」
「かしこまりました」

 こうして、新之助に初めての自分だけの家来ができる事になった。しかも相手は乳兄弟である。新之助は一人っ子だったから、乳兄弟といえども兄弟と名のつくものがそばに来てくれるのは願ってもない。家来と(身分違いだが)兄弟もできるとあれば、新之助にはかねてからの念願が二つも一辺に叶うようなものである。新之助は明日の来るのが楽しみだった。もっとも、家来とは言っても新之助が藩校へ行っている間は家の仕事をさせるのだから半分だけの家来ではあるが。
 
 次の日、朝早く発ったイシは、言葉通り夜半になって帰ってきた。新之助はイシが新しい子供をつれて父母の部屋へ挨拶によっているのを、自分の部屋で耳を澄ませながら聞いていた。もう寝る時間は過ぎていたが、どんな子供が連れて来られたのか気になって眠るどころではなかった。それで、儒学の本を机の上に広げ、勉強をしていると見せかけてイシの帰りを待っていたのだ。

「新之助さま。まだ起きてらっしゃいますか」

廊下からイシの声がした。

「うん。本を読んでいた」

新之助はやや緊張しながら振り返った。イシが障子を開け半分笑いをかみ殺しながら手招きをしている。

「お母様のお部屋においでくださいませ。夜も遅いですが、新之助さまが気になっているだろうとお呼び下さいましたよ」
「うん」

新之助はそわそわと立ち上がり、イシの前に立って千代の部屋に向かった。千代の部屋に着くと、声をかけてから障子を開けた。




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