花より色は2
「母上、お呼びですか」
「まあ、この子ったら」

すまして言う新之助に、千代もイシも笑いが堪えられないようだ。新之助が新しい家来が来るのを楽しみに、眠れずに待っていたことなどお見通しなのだ。

「まあこちらへお座りなさい。この子がそうですよ。利発そうな子で良かったじゃありませんか。あなたの役に立ってくれることでしょう。さあ三治、顔をお上げなさい」

新之助は、千代の前にかしこまって頭を畳に擦り付けている子供を見た。三治と呼ばれたその子供は、そう言われてますます小さくなって、後ろへずりずりと後ずさっていく。イシがとりなす様に言った。

「三治、お顔を上げなさい。ここなら何も怖い事はないのですよ。新之助様にご挨拶なさい」

そう言われ、三治はようやく頭を少しだけ上げて、小さな声で言った。

「・・・三治と申します。一生懸命勤めさせていただきます」

新之助は、三治を不思議な思いで眺めた。確かイシは三治と新之助は同じ年、三治のほうが半年ほど年上だと言っていたではないか。だが、目の前の三治はまだ就学前と言っても通りそうな程に痩せて小さく、幼くみえる。農村の方はここ数年の不作で食べるものも食べられないと聞いていたが、そのせいだろうか。

「偶然と申しますか、本当に時機がようございました。三治の家でこの冬にまた子供が生まれて、どうにも暮らし向きが立たないと言うので三治が売られる寸前だったのでございますよ。前々から三治に目をつけていた人買いに何度も連れて行かれそうになっていて、この子の母が何とか必死で働いて三治を売られないようにしていたらしいのですが、ここへ来てとうとう・・・。それで三治は私がここへ連れてこなければ、芝居小屋へ売られて陰間にさせられている所だったんでございますよ」
「まあ・・・それは」

イシの言葉に千代は絶句した。この時代によくある出来事として分かってはいるが、お嬢様育ちの千代には無縁の事だ。それでも、子供を売らずに済むように必死で母親が働いていたと聞けば、同じ子を持つ母親としては同情に耐えなかったらしい。新之助も陰間という言葉は知っているしどんな仕事をするのかも分かっていたが、目の前のこの少年が陰間になるなどと言う事は想像もできなかった。だが三治がこうして硬くなって半ば震えているのを見ると、三治には陰間になる事が余程恐怖だったに違いない。

「三治、ここで励めばあなたのおうちの方も良く面倒を見て上げますからね。新之助によく仕えなさい」
「はい。奥様」
「疲れたでしょう。お菓子では腹の足しにならないかもしれないけど、お上がりなさいな」

千代は三治の前に置いた茶菓子を三治のそばへと押しやった。三治は恐縮してまたずりずりと下がりながらそれでも菓子皿に眼をやった。そしてそのままの姿勢で菓子をしげしげと眺めている。

「三治、これは砂糖菓子ですよ。食べた事がないでしょう。少し硬いけれど甘くて美味しいものですよ。奥様が仰っているのだから遠慮せずに頂きなさい」

三治はこの中で唯一知る者であるイシに言われ、ようやく手を伸ばした。初めてきちんと顔を上げた三治を見て、千代も新之助も思わず微笑んだ。

「まあ、女の子のように可愛らしいこと」

千代が手を叩いて言うと、三治は菓子を持ったままおどおどと視線を走らせた。確かに、三治は農民の子供とは思えないほど色も白く、小さな顔に眼が大きく、体はやせこけてはいるがどこかふっくらとした頬の線はまるで女の子のようだった。なるほど人買いが芝居小屋に売るために何度も足を運んだと言うのも頷ける。

「三治は村で一番の器量よしと言われておりましたよ。あんまり可愛らしいので村の女の子に妬まれていじめられる事もございました。それでも、こんななりでも仕事はよく覚えますし骨惜しみなく働きます。どうか新之助さまも可愛がってやって下さいませ」
「うん。分かった。三治、明日からよろしく頼むぞ」
「は、はい。新之助様」

急に声をかけられ、三治は手に持っていた菓子を取り落として畳に平伏した。新之助は笑いながらそれを拾ってやり、そして三治に手渡してやった。

「母上の部屋は綺麗にしてあるから汚れていないよ。せっかくだから食べるといい」

三治は顔を上げ、まぶしそうに新之助を見ながら菓子を両手で受け取った。

「あ、ありがとうございます」

三治は受け取った菓子を、大事そうに一口ずつ食べていった。新之助も千代も、そんな三治を微笑みながら眺めていた。三治の姿には、人の心を和ます何かがあるらしい。藩校へと連れて歩くようになって、新之助はその事を実感させられる事になるのだった。

次の日から三治は綺麗にみなりを整えられ、新之助の後ろをついて藩校へついてきた。初めてのことだが、本や弁当を持って歩くだけなので大した仕事ではない。だが新之助を送ったらまた屋敷へ戻らなければならず、武家屋敷は表札も出ていないため慣れた者でも迷いやすいので、最初の二三日はイシが一緒についてくる事になった。三治は新之助の学業道具を大事そうに胸に抱え、イシに帰り道の目印を教えてもらいながら真剣にあたりを見回している。途中学友に出くわすと、新之助はいかにも鷹揚な態度で
「今日から俺についてきてくれる事になった三治だ。覚えておいてくれ」
と三治を紹介した。三治はその度に
「よろしくお願いいたします。三治と申します」
と深々と頭を下げた。学友が
「なんだ新之助、また随分とお稚児さんみたいのを連れてるじゃないか」
とからかっても、新之助にはまだ乳離れできないのかと言われるよりも大分ましであった。それに、その言葉は三治を女の子のように可愛らしいと言っているのだから悪い気はしなかった。新之助をからかう学友の眼が、三治を見た途端に驚くように見開かれるのが、彼らが強がっているだけだという証拠だからだ。
 三治は二日目の朝には道を覚え、イシも新之助も何も言わなくても藩校までたどり着いた。そこでイシはお役御免となった。三治は藩校から帰ると、下働きの男のその下について家の様々な雑用を言いつけられた。今ここで洗濯の手伝いをしていたと思ったら、次は薪割をしている、台所で皮むきを手伝ったと思ったら、屋敷の庭の落ち葉を集めて焼いていると言う具合だ。仕事はいくらでもあった。
 道場でもある早川家には、絶えず様々な人が出入りしていた。いざと言う時のための兵役の頭数は内弟子が兼ねていたが、それ以外にも地方からやってきて手合わせを願ってくる放浪の剣士や、他家から預かっている子息などもいる。家人は質素にしても、それら全てを賄わなければならない、それが武士である。野菜の皮も魚の尻尾もおろそかにせず、集めたくず野菜は使用人の食材となった。それでも、三治にとっては農家での暮らしに比べたら天国のようであった。三治の家は畑の隅に立っている掘っ立て小屋で、扉すらなく筵をかけて戸の代わりにしていたのである。四畳半に他の使用人四人と一緒に押し込められても、しっかりとした柱に雨戸もあり、せんべいながらも一人一枚の布団で眠れる事がどれだけ幸せか、三治は早川家に来られた事が天の恵みのような思いでいた。イシが来るのが二三日も遅れたら、三治は芝居小屋へと売られていたのだ。新之助が「自分のお供に小僧を」と言ってくれた事が三治の運命を変えたのである。それを思えば、誠心誠意勤めるのが自分の役目と、三治はどんな仕事も嫌がらずに働いた。仕事の覚えも早かった三治は、家の中のどこでも重宝がられ、あちこちで仕事を言いつけられるため、仕事が終わらずに新之助の藩校へと走って迎えに行くことも常だった。そんな時、ほんの少し遅れただけでも殴る蹴るなどの暴行で下男を折檻するのが当たり前の武士であったのが、いつもギリギリに藩校の入り口に走りこむ三治に、新之助は一度も怒ったことがなかった。一度だけ、本当に一分ほどの差で藩校から新之助が出てくるのに間に合わなかった事があったのだが、新之助は息を切らせて走ってくる三治を怒りもせず、何もなかったかのように荷物を渡して笑いながら肩を叩いた。新之助も、三治が家の中のあちこちで散々に使いっぱしりをさせられていることをよく知っていたのである。

 ある時、藩校の帰りにあぜ道を歩いていて新之助の下駄の鼻緒が切れた。新之助はよろけ、咄嗟に後ろをついてきていた三治の肩をつかんだ。三治は新之助をしっかりと支えた。
「今直しますから背中に足をお乗せ下さい」
三治は言うなり、道端にかがみこんだ。今埃だらけのあぜ道を歩いた足を、背中に乗せろと言うのである。新之助は躊躇ったが、躊躇う事が武士らしくないと思い直し、三治の背中にそっと足を乗せた。
 三治は懐に新之助の学業道具を抱えながら、器用に手ぬぐいを裂き、鼻緒を付け直した。切れた元の鼻緒と寸分違わぬほど綺麗に直った下駄を、三治は新之助の前に差し出した。
「どうぞ」
「うん」
新之助は下駄をはいた。武士が何をしてもらっても、礼など言う必要がない時代である。だが、新之助は普段からも使用人たちにぞんざいな物言いをする事を嫌っていた。何かしてもらったら、相手が誰であれ礼を言うべきである。新之助は言った。
「上手いな。ありがとう」
「そんな、滅相もございません」
そんな新之助の変わった性格を一番近くで見ているものだから、屋敷の中で一番恐縮しているのも三治だった。だがその一方で新之助を深く尊敬していた。年少ながら成長著しい剣士として藩の重役の間でも名前が挙がり、勉学も怠らず、藩校一の秀才だと噂される新之助に仕える事ができるのは、三治の誇りだった。

 三日に一度ほど、三治は新之助に読み書きを習っていた。時間になると新之助の部屋へ行き、小さな机を前に新之助と向かい合って勉強を教わるのである。新之助は人に教える事も上手いのか、三治は予習してくるようにと渡された本を、自分で読んでもわからなかった事が、新之助の説明で眼が覚めるように分かって来るのが面白くてたまらなかった。三治は覚えがよく、新之助にしても教え甲斐のある生徒だったようだ。三治は仕事があるので勉強の時間は一時(二時間)ほどだったが、その時はどちらにもあっという間に過ぎた。新之助は楽しく勉強をする事を心がけていて、教本の中の良く知られた格言などを、巷で流行っている狂歌とすり替えて三治に読んで聞かせることもあった。初めはハハアと頭を垂れて聞いていた三治も、新之助が真面目な顔でおかしな狂歌を読むものだからたまらず噴出し、つられて笑い出した新之助と一緒に笑い転げた事もある。その声を聞いた家のものはきっと、一体何事かと首を傾げたであろう。新之助は、そんな遊び心もある武士の子供であった。
 三治は、この小さな主人を心から崇拝するようになっていった。難しい儒学の本を、よどみなくすらすらと読んで聞かせる新之助。切れ長の眼を伏せ、一心に読み聞かせてくれるその新之助の顔を、なんとりりしく整った顔だろうかと、三治はしみじみと見つめるのだった。



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