花より色は3
 三治が早川家に来て早くも二年が経った。三治は変わらずよく働き、最近では台所の下働きをさせてもらえるようにもなっていた。だが今でも新之助の荷物もちは変わらず、どんなに忙しくても三治は時間になると新之助について藩校へ行き、夕方も走って迎えに行くのだった。帰る道すがら、友達と分かれた新之助が、藩校での出来事や見聞きした事を三治に話してくれる事は、三治には大きな楽しみだった。新之助は今でも偉ぶらず、三治の友達のように接していた。三治のほうはもちろん主人だから友達などとは到底思えず一歩引いてはいたが、それでも新之助と三治の間には、半分兄弟のような、主人と家来という関係以上のものがあった。互いに、相手がいないと夜も明けないほど頼りにしていたのである。一年務めた頃から、イシと一緒に里帰りも許されたが、三治が里帰りをした日は誰が自分の通学について来てくれるのだと新之助が情けない顔で言おうものなら、三治も懐かしい里帰りを早く切り上げても新之助の元へ帰ってさしあげたいと思うのだった。
 
 そんな年の秋の祭りの時期である。道場に通ってきている弟子たちが、道場でも何か出し物をしようと言い出した。元々祭りの時期には近くの神社や寺へ手伝いの人手はもちろん、寄進もしていたものである。早川家は道場という事もあって、地元の神社の祭りの際には道場の庭先でもちょっとした当てくじのようなものを出していた。ついでに、子供相手に今で言う剣道の体験入学をさせたりして、道場を運営していくための弟子の確保のいい宣伝場だった。だが、神社から遠いためあまり流行らず、芝居でもやれば人が集まるのでは、と考えたのが初めであった。
 幻刀斎は新之助に似て、というか新之助が幻刀斎に似たのであろうが、余興好きであった。日常のちょっとした事を面白おかしくする名人である。だから弟子たちの思いつきに二つ返事で乗った。世の中は芝居流行であり、常打ちの歌舞伎など見に行くには相応のお金がかかって、下っ端の武士などでは尚更見に行く事もできないのであるが、祭りなどで興行される素人芝居なら別であった。上方で流行った演目はドサ廻りの田舎芝居で繰り返し上演されていたので、観客の方も見栄も台詞も全て頭に入っている。規律の厳しい武士だからこそ、たまには羽目を外して芝居など打ってみたいと考えるのも当然の事だろう。
 演目は「妹背門松(注:別名「野崎村」)」に決まった。田舎芝居は上方のものよりも短く作られており、場面転換もあまりなく、登場人物も多くないので素人芝居にはうってつけである。

 ちなみに「妹背門松」とは実際にあった心中事件を元に作られた人形浄瑠璃の演目である。その後歌舞伎などでもこれを基にした脚本が書かれ、上演された。
 話の内容は、こうだ。油問屋に勤める丁稚の久松は、元は武士の息子で、家が取り潰しになった際に乳母の家に養子にもらわれ、その後油問屋に奉公に出た美少年である。久松は店の娘であるお染といい仲になるが、ある時金を盗んだと言う疑いで店を追われ、野崎村の養父の元へ帰る事になる。養父とは久松の乳母の夫だった人間で、家が取り潰された際この夫婦に引き取られたのだが、久松が養父の家の帰った時点で既に乳母は亡くなっている。養父は、子連れの後添えをもらっていたが、その後妻の娘と久松を結婚させようと考えていて、久松が店に暇を出されたのを時機と、娘の光との結婚式をすぐに行おうとする。お染と二世を誓っていた久松は、その事を言い出せずにいたが、式の前にお染が久松を追って野崎村にやってくる。お染は既に久松の子供を身ごもっていたのである。久松とお染の縁組を許さない父に、久松は牢に閉じ込められてしまうが、お染は夜半その牢を訪ね、二人で話をした末に、心中するしかないと決め、牢の中と外で一緒に死のうとする。そこへ二人の身を案じた光がやってきて、自分が身を引けば丸く収まるのだと言って、久松を牢から出す。そして雪の中去っていく二人の背中を、光が万感の思いをこめて見つめているのだった。
 とまあ、若干できすぎな話ではあるが、久松とお染の思いつめた恋と、お光の人情が涙を誘う分かりやすく情に訴えやすい話だったので当節人気だった。

 その頃芝居と言えば、女歌舞伎が風俗を乱すと禁止になってから、全ての役を男がこなすのが決まりであった。役者の人気は高く、中でも女形は大変な人気で、いわばパトロンになりたいと言う酔狂者は捨てるほどいた。女形は特に、贔屓の客と寝るのが接待の一部だった。役のついた女形を買うのは当節の流行であり、役のついた役者を買えない手合いは、陰間といって芝居小屋が抱えるそれ専門の少年を比較的安く(と言っても女郎屋よりも遥かに高いのだが)買うのだった。三治がかつて売られようとしていたのは、まさにその芝居小屋であった。

 さて、演目は決まった、それでは主役の三人を誰がやるかという段になって、お染役はあっさりと三治がやる事に決まった。三治は屋敷一の美少年と言われていたから、誰もが予想した配役である。もっとも本人は散々に逃げ回った挙句に、新之助に説得されてようやく役を受けたのであった。その際、一人では恥ずかしいので、新之助様も出てくださいと三治が頼んだところ、新之助もやってみたいと言い出したので、弟子のほうは真っ青になって師匠にお伺いを立てたのであった。幻刀斎は笑ってこれを許した。そうなると、跡取りに脇役はさせられないので当然久松役は新之助である。新之助が久松役に決まったと聞いて、一番喜んだのは三治、ついで乳母のイシだった。

「りりしいお顔立ちの新之助さまが化粧して舞台にお立ちになったらどんなに映える事でしょう」

とイシは今から眼を潤ませて喜んだ。この時ばかりは武士とはかくあるべきと厳しく新之助を育ててきた千代も、新之助の晴れ舞台が見たいと密かに思っている事はその表情からのみ窺い知る事ができた。
 他に、お光の方は内弟子の中で一番年若い林一郎太という者がやる事になり、久松の養父、後妻、お染の女中なども使用人や弟子の中で芸達者な者の中から順調に決まっていった。衣装などは、ほとんどが自前である。久松は丁稚であるので着古した着物で充分だったし、久松の養父なども問題ない。女形の衣装は、千代が昔着ていたという振袖を出してきて丈を詰めてくれた。これは、イシと千代が自らしてくれた事であった。

 秋祭りまでの間、道場はにわか稽古場と化し、使用人たちも仕事の合間を縫って稽古に励んだ。同時に、舞台装置なども下働きの男たちが喜んで作った。通い弟子から口伝でうわさも広まり、宣伝も万全である。準備は着々と整い、祭り当日が近づくと道場の前庭に簡単な舞台も作られ、道場の一部は舞台袖になった。

 三治と一郎太は慣れない女形に悪戦苦闘していた。一郎太は元々芸事が好きらしく、台詞も最初から頭に入ってるので所作を覚えればよかったが、三治の方は家が貧乏なだけに村では祭りに行く余裕すらなかったから、筋立てもうろ覚えな上に台詞も普段の話し言葉とは全く違うので何もかもが難しい。三治にはもちろん下男としての仕事もあるのだから、そうそう練習している暇もない。泣きそうなほどに悩んでいる三治を見かねて、新之助が夜稽古に付き合ってやった。二人は恋仲の役だから丁度いいのである。それに時には一郎太も付き合ってくれて、新之助と一郎太は付きっ切りで三治に稽古をつけてくれた。
 ようやく所作も台詞も頭に入ってきた頃、衣装が出来上がった。芝居の中で一度衣装を変える必要があるため、三治は振袖を自分で着る練習をさせられた。これはイシが手伝ってくれた。衣装ができたと聞いて、新之助は三治に言った。

「一度衣装をつけて稽古をしてみたらいいのじゃないか」

しかしそう言われても、三治はかたくなに首を振った。

「当日までに汚したくありませんから」
「だが衣装を着けて動いてみた方がいいと思う。動きづらいだろうが、その練習にもなるし」
「その練習は自分でやっておきますから、新之助様」
「どうしてそんなに嫌がるんだ。一度見てみたい」
「やめた方がいいです。似合わないのでお恥ずかしいのです」
「私は似合うと思う」
「本当に似合わないのです」

頑なに固辞されれば新之助としても無理強いするものではない。どちらにしろ、当日になれば見られるのだからそれまで待てばいいだけの話だ。

 三人で稽古をしていたある時、一郎太がふと思い出したように言った。

「そういえば、門田宗二郎様なのですが」
「門田様?」

新之助は聞き返した。その名前にはあまりいい思いはない。

「先日お手合わせ頂いた後、門田様が少し気になる事を仰っていました」
「何だ?」
「新之助様が芝居をやるといわなければ、自分が久松をやった所だったのにとか」
「そうだったのか?」
「いえ、そんな話は存じませんでした。それでも門田様は姿がよろしいですから、もし新之助様がやると仰らなければ門田様のお名前が挙がっていたかもしれません」
「それは悪い事をしたのかな」
「いいえ、名前が挙がっても決まりはしなかったでしょう。門田さまがこうして熱心に稽古をされるとは思いませんから」
「それは分からないが、そうか、門田様が・・・」
「お気にされる必要はないと思います。いくらお身分が上でも、宗二郎様はご次男ですし、早川家に習いに出されている身でいらっしゃいますから。私も三治も、久松役が新之助さまで良かったと思っておりますよ、な、三治」
「は、はい」

三治は難しい事はわからないが、新之助と一緒に芝居ができて良かったと思っているのでそこだけは力強く頷いた。それでも、新之助は思案顔で黙っている。確かに新之助が考え込むのも無理のない事であった。宗二郎は預かりの身だが藩の家老職の次男であるので身分としては相当に高い。左衛門は習いに来ているはずの宗二郎を厚くもてなしており、幻刀斎の顔を渋くさせている。性根を叩きなおしてくれと言われて預かった者を、甘やかしている左衛門のやり方は、幻刀斎には受け入れられないものであった。新之助は祖父よりの考えだが、子供だから大人のやる事に口出しする事はできない。宗二郎が剣の稽古をさぼろうと、家の女中を泣かせるほどにからかおうと何も言えないのであった。宗二郎は新之助よりも8歳ほど年上の若侍だが、態度だけは大人ぶって家の中を我が物顔で歩き回っていた。生活を切り詰め、質素堅実に暮らそうとする早川家のやり方を馬鹿にしている向きもあり、新之助が宗二郎にいい思いを抱きようもない。だが宗二郎が久松役をやりたいと強く言っていたら、父がやらせたのではないだろうかと新之助は思っていた。それくらいの事は、押し通しそうな宗二郎である。
 しばらく考え込んでいた新之助だが、心配そうに見つめる三治に気づくとにっこりと笑った。

「すまない、稽古の途中だったな。立派に芝居を務めれば宗二郎様も納得してくださるだろう。頑張ってやろう」
「はい」

三治はどこまでも前向きな新之助にじんと心が温かくなった。三治には、新之助がいつでもまぶしく見えるのだった。


 祭り当日になると、家のものは祭りの手伝いに借り出されるもの、屋敷で出す振る舞い料理を作るもの、芝居の準備をするものと誰もがてんてこ舞いだった。三治は芝居の始まるギリギリまで雑用を片付けており、急いで終わらせて道場に駆けつけると、新之助も一郎太も三治の着物を抱えて待ち構えていた。三治は着物を受け取り、この時ばかりは間に合わないのではないかと焦りのあまり恥ずかしいという気持ちはすっかり消えて、急いで着物に着替え、鬘をつけながら女中に化粧をしてもらった。表では口上が始まっており、裏方も出演者も準備万端で袖に控えている。三治は最後に女中に着物などを手直ししてもらうと急いで袖に向かった。着物のすそを気にしながらできるだけ急いで袖に向かう三治を、これまた女形に着飾った一郎太と丁稚姿の新之助が口をぽかんと開けて迎えた。新之助様は一体何を素っ頓狂な顔をしているんだろうと三治は不思議に思いながら、出演者の前の方へ並ぶと舞台袖から見える客席を覗き見た。そこにはびっくりするほどの観客が並んでいて、三治の頭は一度に大混乱に陥った。

「新之助様、新之助様、凄い人です」

三治は縋るように新之助の着物を掴んで言った。新之助はまだ面食らったような顔で三治を見ながら、それでも三治の肩をつかんで励ましてくれた。

「大丈夫だ、稽古の通りにやればいい。客を見るから緊張するのだ。三治、緊張したら私だけを見ていればいい。分かったね」
「はい」

ほっと息をつきながら新之助を見つめる三治の肩を、一郎太もそっと叩いて励ましてくれた。見れば、化粧を施した一郎太は、振袖が似合っているような似合っていないような微妙ないでたちで笑いを誘う。一郎太は華奢だしうりざね顔の美形だから女形も似合うだろうと思っていたがやはりこうして女装をしてみるとやはり男である。自分もさそかし滑稽だろうと思うと恥ずかしさにいたたまれないが、三治は新之助がいれば大丈夫だと思った。新之助の言うとおり、新之助だけを見ていればいい。

 拍子木がなり、芝居が始まった。最初は丁稚の久松と油問屋の娘お染が家の中で言葉を交わすシーンである。家人に気づかれないように逢引の約束をし、分かれる場面だが、丁稚の久松が最初に出て問屋の仕事をしている場面の後にお染役の三治が舞台に現れると、客席が一斉にどよめいた。三治はそのどよめきが似合わない女形に皆が笑っているのだと冷や汗をかいたが、素人芝居とは所詮そのようなものである。新之助の真に迫った優しく熱い眼差しで見つめられ、三治はずぐに芝居に没頭した。滑り出しは、まずまずであった。



 一方新之助の方は、三治がお染の姿で現れた時からその姿がとても三治とは思えすに何度も目を擦っては見直して三治を見直していた。三治は女形姿は似合わないと言っていたが、逆であった。三治のお染役は、驚くほどぴったりとはまっていた。最初一郎太が光の格好で現れたときには田舎芝居の女形とはかくあるべきというようなちぐはぐな姿で思わず笑い合ったが、三治の女形は似合うどころの騒ぎではない。どこからどうみても女の子にしか見えない。しかも、見た事がないほど可愛らしい女形だった。新之助は二年前、人買いが陰間茶屋に三治を売ろうと何度もやってきたという話をイシから聞いたことを思い出していた。あれは、売り専門の陰間にするためではなく、本当の役者としてもやっていけると踏んだからあれほどに何度も足を運んできたのではないのだろうか。人買いには、今こうして女形となった三治の美しい姿が見えていたのではないだろうか。
 それほどまでに、三治の女形は美しかった。客の目も、ひたすら三治の後を追いかけているのに新之助は気づいていた。しかし当の三治はそんな事とは全く気づいていない。新之助の言い聞かせたとおり、三治の目はただひたすら新之助に向いていたからである。
 それは芝居としてはいい傾向であった。お染と久松は恋仲なのだから、三治が新之助を見つめれば見つめるほど真に迫っているという事になる。舞台に立った三治は自信のなさから頼りなげで、時折震える声が愛らしさを募らせる。本物の「妹背門松」はお染が割合に積極的な娘なのだが、三治のお染は美少年の久松に言い寄る金持ちの娘というより、ただ強く久松を愛しているためにらしからぬ大胆な行動に出てしまう一途な少女であった。久松に思いを告げる場面も、三治の恥じらいがそのままお染の娘としての恥じらいに見えて、新之助にはこれが三治だと分かっていても思わず引き寄せてしまいそうなほどに儚げだった。深夜の逢引でお互いの気持ちを確かめ合った後、濡れ場である。もちろんそこは芝居だから、無人の小屋の舞台装置に二人で手を取り合って入っていくだけである。観客の目が三治に釘づけになっている事を知っていた新之助は、三治の手を引いて小屋に入りながら、これでお染=三治を独り占めできるような不思議な優越感に浸っていた。

 場面は変わって野崎村の場面である。そこからはしばらくお染は出てこないので三治は裏でゆっくり振袖を脱ぎ、旅衣装に着替えた。あとで野崎村へ久松を追って行くための衣装である。舞台では、一郎太扮する光が久松と結婚するのだとおきゃんに喜んでいる。一郎太の女形姿は三治と比べてはさすがに最初笑いを誘ったが、一郎太はそこを演技力でカバーした。無邪気に久松との結婚話を喜ぶ光は、次第に観客の同情を集めている。困ったような久松と光の場面を袖から眺めていた三治は、胸にちくりとするものを感じて驚いていた。新之助は、久松は自分のものだと思うのである。それ程までに役に入り込んでいるのが三治は自分でおかしかった。早く久松を追って出たかった。新之助は、また優しい目で三治を迎えてくれるだろう。いつでも優しい新之助だが、舞台の上の新之助はまたいつもと違うように三治には思えた。イシが舞台袖で新之助の姿がりりしくて誇らしいとずっと泣きじゃくっているが、三治も新之助の晴れ姿を見るだけで胸が一杯になる。どこまでも、新之助は三治を引き付けてやまない。

 やがて三治の出番が来て、そこから見せ場まではずっと忙しく出たり入ったりした。最後、閉じ込められた牢の中の久松を助けられないかと、お染は手に傷を作りながら牢を開けようとする。どうにもならないと悟った二人は、牢の中と外ながらまるで抱き合うように寄り添い、このまま他の相手と添う位なら二人で死のうと決意する。客席の啜り泣きが頂点に達したとき、光が現れて二人を逃がしてくれるのであった。光は気丈に二人を見送り、その演技力で侘しさを表現して観客の同情を誘い、芝居は終わった。




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