【 花より色は10 】
数日後の事である。宗二郎は稽古の終わった道場に呼ばれていた。幻刀斎と左衛門、それに数人の弟子が勢ぞろいして宗二郎を迎えた。
「何か御用ですか」
宗二郎は横柄な態度で周囲をねめつけながら幻刀斎の前に座った。早川家では既に代替わりしているとはいえ、この道場の筆頭はまだ幻刀斎である。左衛門は剣に熱心ではなかったから、殿様に剣を教授する役割は未だ幻刀斎であり、直接殿様の覚えめでたい幻刀斎は禄高こそ高くはないが宗二郎の実家である門田の家からしても、軽視することはできない藩の重要人物なのである。まして次男の宗二郎には幻刀斎の話を軽々しく聞くことはできない。宗二郎は幻刀斎に預けられた身なのである。
幻刀斎は場に漂う緊張を和らげるようなくだけた口調で言った。
「そなたがここへ来てからどれ位になりますかな」
宗二郎は普段厳しい幻刀斎から世間話のような話をされ、微かに疑いながら答えた。
「一年と、半年ほどになりましょうか」
「一年と半年」
幻刀斎は呟くように言った。ますます宗二郎は警戒感を募らせる。
「どうですかな、その間、少しでも御身が成長したとお思いか」
「・・・それを判断するのは私ではありますまい。むしろこちらがお聞きしたい。そろそろ門田の方へ戻して下さいますか」
「ほう、戻りたいですか」
「それはもう。使用人一人自由に使えないような所では窮屈でなりません」
「宗二郎殿、慎まれよ」
宗二郎の態度に、さすがの幻刀斎も鋭い声で言った。宗二郎は畏まって小さく頭を下げはしたが、口元は微笑を浮かべている。幻刀斎は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「少し甘やかし過ぎたようですな。ですが、よろしい。先日城で父上にお会いした時も聞かれましてな。宗二郎殿が心を入れ替えて真面目に剣に打ち込んでおられるか、ご自分の楽しみよりも藩の為に身を入れて励もうと言う気になってくれているかどうか尋ねられました。私もここしばらく道場で宗二郎殿の稽古を見られなかった事情もあって即答はできませんでしてな。宗二郎殿の上達具合をとくと見てみようと少し前から稽古を密かに見せてもらっておりましたが、どうも道場へ来られない日もあったようでしたな。どこか具合でも悪かったのであろうか」
「それは、その、所要で出ていた日もあったでしょう」
「左様ですか。預かりの身で、どこへ所要がとは野暮なことは聞きますまい。宗二郎様も男子であられるから。それはそうと、息子から宗二郎殿がうちの使用人を一人ご自分用にもらえないかと言っておられると聞き申したが」
「はあ、それは是非にお願いしたい」
「ですが宗二郎殿、我が家では余分に使用人を雇う余裕があるわけではないのでしてな。それにこの話を父上が聞かれたらどのように言われるか。それでもどうしてもと我を通されるのであれば、一つ宗二郎殿に見せていただきましょう」
「何をです」
「宗二郎殿が我が家へおいでになって、どれ程成長なさったか見せていただこうというのです。私たちに納得できる程剣の腕が上達していれば、そなたの心も成長したとみなして父上にそう申しましょう。宗二郎殿の希望通り、使用人を一人お貸ししましょう。それでいかがですかな」
「・・・それは、お弟子のどなたかと立会いせよと申されているのですか」
「まあそうです。弟子というのも面映いが」
「では、誰と」
「孫の、新之助ではいかがでしょうかな」
「・・・!」
「新之助、ここへ」
道場の控え室から、ついと出たのは既に立会いの準備を整えた新之助である。抱えていた面と竹刀を床に置き、新之助は幻刀斎の前に出て宗二郎と並ぶようにして座った。
「どうですか、宗二郎殿」
畳み掛けるように聞く幻刀斎に、宗二郎は新之助に向かって吼えるように言った。
「・・・貴殿、謀ったな」
新之助は体を少しだけ宗二郎のほうへと向け、落ち着いた声で答えた。
「謀ったとは。何か謀られる様な事をなさったのでしょうか」
「それ程までにあの三治とか言う下男が可愛いか。たかが下男ではないか。大人しく俺に渡すと言え。悪いようにはしない」
「たかが下男と仰るなら三治にこだわる必要はございますまい。三治は私のたった一人の使用人なのです。欲しいと言われてどうぞと差し出せるようなものではございません」
「どうせ貴殿も俺のした様な事を三治にしたいと願っているのだろう。先に食われてしまって悔しいか。取り澄ました顔をして、そんな顔をした人間ほど面の下では何を考えているか分からないと言うぞ」
新之助の顔にさっと赤みが差した、がそれも一瞬で、新之助が言い返す前に幻刀斎が宗二郎を一喝した。
「道場内で不謹慎な事を言うでない!下男の事などどうでもよい!宗二郎殿、口が過ぎますぞ」
「失礼仕った。お孫様でしたな」
言葉だけは丁寧だが、顔に浮かぶ笑いに弟子たちも不興を隠せない。
「宗二郎殿」
新之助は静かに言った。
「ただの下男と宗二郎殿は仰る。宗二郎殿はご存じないでしょうが、三治と私とは乳母を同じくする乳兄弟なのです。他に兄弟のいない私にとって、三治はただ一人の兄とも同様に頼りにしているのです。立場は下男ではありますが、その乳兄弟が酷い目に合わされると分かって、何もせずにいられる人間がおりましょうか。宗二郎殿も兄弟がおありなら分かるはずです」
「・・・ふん、乳兄弟か。上手い事言い逃れたな。だが本意は変わりあるまい。よろしい、幻刀斎殿、お孫殿と立ち会って勝てば私を認めると仰るのですな。分かり申した。このような少年に勝ったとて大した手柄でもあるまいが、それで認めようというならやりましょう。新之助殿、そなたの力量は分かってますぞ。乳兄弟を渡すまいとするその熱意は認めるが、ご自分の力量を考えてからにした方が良かったですな。三治は私のものに決まったようなものだ」
「・・・」
新之助はもう何も言う気にならなかった。宗二郎は、新之助を動揺させようとして言っているのが分かるからだ。つまりは、新之助を動揺させないと勝てないかもしれないと宗二郎が考えているからに他ならない。新之助は宗二郎の準備が終わるまでじっとその場に座ったまま目を閉じて精神を集中した。楽に勝てる相手ではない。だが、新之助の気力は充実している。変わって、宗二郎は自分で暴露したようにここ数日色町に入り浸っていて体が緩みきっている。その状態で勝てなければ、新之助もそれまでである。
胴着を身に着けた宗二郎が道場に戻ってきた。弟子たちが、審判するために道場の隅に寄った。さすがに、竹刀を持った宗二郎は気力をみなぎらせて立っていた。この短い間にここまで集中できるのは、元から宗二郎に剣の勘があるからだ。新之助も立ち上がった。比べてみれば、新之助はいかにも華奢で背も小さい少年剣士である。宗二郎は体格もよく、みなぎる気力がその体を倍ほどに見せている。道場が緊張感で満たされた。道場で向かい合わせに立ち、二人は互いに礼をする。
「宗二郎殿と新之助の立会いを行う。三本勝負、はじめ!」
幻刀斎の声で、同時に竹刀を構えた。互いに右足を前に出してわずかに前後しながら間合いを計った。
新之助は、宗二郎が最初から打ってくると踏んでいた。こちらの体勢が整う前に奇襲してくると思ったのだ。果たして、数秒の後に宗二郎の剣先がわずかに動いたと思ったら鋭い突きが来た。当然、宗二郎は最初から二本取る気などない。反則すれすれの喉への突きで新之助を沈めようという算段だ。それを予想していた新之助はわずかに体をひねっただけでそれを避け、中段に構えた。宗二郎の方は避けられることを予想していたか、即座に八双に構えて新之助を誘う。中段に八双では明らかに不利なはずだが、それでも勝てるのだと言いたいのだろう。新之助は冷静に隙を見た。小手を狙えば確実だが、宗二郎には他に作戦があるように見えた。それに、新之助は面で勝ちたいと考えていたのである。果たして、宗二郎は新之助が誘われないと知ってすぐに青眼から上段に構えたところを、新之助は即座に打って入った。これは軽く受け流され、さっと飛びのいたところへすれすれの小手が来た。さすがに、体格の差は如何ともしがたい。腕の長さが違うのである。だが、俊敏さは新之助が勝っていた。
じりじりと時間が過ぎていた。宗二郎は動かず、新之助も宗二郎に体を向けてじりじりと互いに足を進めるだけで打っては行かない。宗二郎が、焦れたようににじり寄った。新之助も合わせるように寄る。構えはどちらも万全である。だが、精神戦は宗二郎には向いていない様だった。宗二郎の動きに合わせてしか間合いを詰めようとしない新之助に、明らかに宗二郎が焦れた。打って来いとばかりに上段に構えたところを、新之助は剣が振りあがる前に懐に飛び込んで胴を打った。
「一本!」
幻刀斎の鋭い声に、宗二郎は更に動揺した。崩れた構えの隙を見つけるのは簡単だった。新之助は気合鋭く打ち込んだ。宗二郎はそれを受け、面が触れるすれすれまで寄って押し合った後、跳ね返した力は新之助の気迫が勝っていた。宗二郎に構える隙を与えず、上段から振り下ろした竹刀が宗二郎の面を捉えた。
「一本!新之助の勝利!」
幻刀斎が声を上げた瞬間、空気の張り詰めていた道場が、ふーっと息を吹き返した。周りで見守っていた弟子たちも興奮を抑えきれずに顔を見合わせている。新之助の剣儀が上達していることは分かっていたが、それでも宗二郎は大人であり、弟子たちの中でも上級者に入る達人だったのだ。鈍っているとはいえ、少年剣士に負けるのは明らかに恥であった。だが、弟子たちの関心はそこよりも新之助にあった。一週間前よりも、三日前よりも新之助は成長していた。面を取り、礼儀正しく礼をする新之助の顔はただ無心だ。これで三治を手元において置けるという喜びは、誰の目にも見て取れない。新之助が三治のために立会いをしたとは誰も考えなかった。
宗二郎は礼どころか立ち上がることもせずにその場に座り込んでいた。さすがに恥じ入っているのかと弟子が手を差し伸べても、宗二郎は首を振ってそれを逃れた。面の下の表情は窺い知れない。どうにか一人で立ち上がり、宗二郎は幻刀斎の前まで来てようやく面を取った。ふてぶてしい表情だ。
「・・・ちょっと、鈍っていましたな。こういう事なら最初から言って置いていただければ」
「宗二郎殿。殿の前で同じ言い訳ができますかな。侍は、いつでも準備ができていなければならないもの。新之助は確かにこの事を知っていたが、いつも通り藩校にも通い、稽古に割ける時間は宗二郎殿よりずっと短かったはずですぞ。熱心に稽古をしてはいたが、それでもこの試合の為に誰かが何かを教えてやったという事でもない。新之助の勝ちです。それでも貴殿は、自分は成長した、ご褒美をくれと仰るか。まるで駄々っ子ではないか」
幻刀斎の言葉は、宗二郎が負けただけに真実味を帯びていた。宗二郎はぐうの音も出ない。新之助のおかげで、幻刀斎は面目を保ったのである。
さすがにそれ以降、宗二郎はおとなしくなった。というのも、宗二郎と新之助の試合の話はあっという間に藩内に広がってしまったからである。宗二郎の父、門田様は怒り、早川の少年剣士全てに勝つまでは帰ることまかりならんとわざわざ宗二郎のおじに当たる人間を使って言って寄越したのである。宗二郎のおじも、帰る前にたっぷりと宗二郎にお灸を据えて行った。ついでに門田の母君が送って寄越していた宗二郎の小遣いも止められてしまったので、宗二郎は色町に出ることもできず、従ってしぶしぶながら稽古に精を出す羽目になった。宗二郎の新之助への恨みは深かったが、それでも面目を取り返すには新之助に勝つしかないという事が分かる程度には侍であったらしい。それ以降、宗二郎は早川の家を出るまで熱心に稽古を続けた。
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