花より色は12
 新之助はそれから何度も平太郎に連れられて色町に行った。失敗を繰り返しながら酒の量を覚え、夜具の上での手管も覚えた。そうして女の体に慣れる内、このような行為が新之助に与えてくれる快楽の上限をも知っていった。平太郎はいつも新之助に「女の体はどれだけ探求しても探求し足りん。この道は奥が深い」などと言っていたが新之助はただ笑ってそれを流した。どれだけ乱れ、女と絡み合っても、新之助にとってそれは上辺の満足に過ぎなかった。どんな相手も、どんな行為も、新之助の指が三治の唇に触れたあの一瞬以上に新之助の心を甘く満たす事はなかった。それはもう、汚れた自分には手を伸ばす事さえ許されない遥かな空の高みに、消える事ない光としてあった。現実の三治が手を伸ばせば届くところにいても、千代との約束を守り続ける為には、新之助にも衝動を吐き出す場がある事は必要な手段だった。

 一方、三治も新之助が色町に通う事に少しずつ慣れていった。慣れるより他に道はなかった。初めて新之助が色町に行った時に感じた、血の吹き出るような思いを繰り返していては壊れてしまうだろう。本能が自衛したのである。年上ではあるが、三治に思いを寄せていることを隠さないカヨと恋愛の真似事をしてみた事もある。だが本気にはなれないと分かってすぐにやめた。本気になれなければ、カヨにも可哀相な事になると分かったからである。三治は感情を封じ込める技に長けていった。それは、優秀な雇われ人として重要な要素である。三治は次第に家の大事な用事をも頼まれるようになっていった。

 だが、そんな矢先の事である。幻刀斎の体が急に変調をきたし始めた。幻刀斎は胸の痛みを訴え始め、朝起きられない日が幾日も続いた。殿様の剣の指南をする日だけはどうにかして城へ向かったが、結局は城の家来に付き添われて帰ってきた。殿もお気に入りの幻刀斎の体を心配して特別に藩主専属の医師を寄越してくれたが、結局は年のためと、医師もいくつかの丸薬をお置いては行ったが諦め顔だ。強靭な体のため、この年まで元気で過ごしていたのが奇跡のような高齢だったのである。幻刀斎があえて語らなかったので新之助もはっきりと祖父の年齢を知っていたわけではないが、幻刀斎はこの時齢八十を超えていたのである。
 一進一退が続くある日、新之助は祖父に道場に来る様にと呼ばれて行った。この会合は秘密らしく、道場には他には誰もいなかった。

「お祖父さま」

新之助は呼びかけた。最近は師匠というよりも祖父という思慕が募って、すっかり年老いたように見える幻刀斎の部屋に何度も足を運んでは祖父と孫としての穏やかで親密な時間を過ごしていたのである。その続きのような気持ちで呼びかけた新之助に、幻刀斎は厳しい声で正した。

「道場では師匠と呼びなさい」
「はい。師匠」

新之助は瞬時に姿勢をただし、幻刀斎の前に座った。幻刀斎は言った。

「新之助、お前はまだ未熟だが、これを孫のお前に伝えずに死ぬわけにはいかない。今からお前の前で技を見せる。力が尽きるまで何度でも見せよう。すぐに習得するのは無理だろうが、できる所までやって見せなさい。教えられる限りは教えてやろう。習得できなかった所はお前の脳裏に焼き付けて、いずれお前のものとするのだ。分かったな」
「はい。・・・はい、師匠」

新之助はゴクリと喉を鳴らした。涙が溢れそうなのを止めたのである。幻刀斎は立ち上がり、道場の真ん中へ進み出た。新之助は一筋の動きも見逃すまいとそれを見つめた。これを会得できるか否かは、新之助の技量にかかっている。早川家の跡継ぎとして、どうしても習得しなければならなかった。できなければ、道場を維持していく事も難しいだろう。自分の父のことではあるが、左衛門が祖父の弟子たちから尊敬されているとは言いがたい事を新之助は知っていた。道場の主たるもの、少なくとも毎日稽古に顔を出すべきところを、左衛門は他の方法での出世を試みてそれをないがしろにしてきたのだ。新之助の心中は不安でいっぱいだった。幻刀斎が亡くなった先、道場はどうなるのだろうか。仮に今幻刀流を新之助が会得できたとしても、その先は明るいとは言えないと新之助は考えていた。あと五年、新之助が二十二、三にもなっていれば話は違っただろう。新之助はまだ十七で、子供だ。古くからの弟子たちが新之助に付いてくるとは到底思えなかった。それでも、やるだけの事はやらなければならない。そして、幻刀流を極めることは新之助の夢でもあった。新之助は、まるで舞を舞うかのように真剣を構えた祖父の姿を、じっと見つめた。


 それから七日の間毎日秘密の訓練は続いた。それを知っているのは幻刀斎と新之助、そして新之助の世話をしていた三治だけだった。三治は厳しさを増す稽古の合間に摂れるようにと、飲み物と小さな握り飯を作っては道場の入り口にそっと置いていった。着物が濡れるほどに汗を滴らせ、何刻も稽古を続けていた幻刀斎も、三治が差し入れた茶をいかにも美味そうにゴクゴクと飲み干して、再び新之助に稽古をつけ続けるのだった。

 最後の訓練の後幻刀斎はとうとう起き上がれなくなり、そのまま新之助と三治とで部屋へと運び込んだ。幻刀斎は間もなくこん睡状態に陥り、呼ばれてきた医師、家族に見守られて身まかった。最後の最後まで、新之助を厳しく指導し続けての死だった。こん睡状態に陥る寸前、幻刀斎は新之助の名を呼び、震える手を差し出した。新之助がそれを握ると、幻刀斎はかすかに頷いた。その穏やかな顔が、新之助の師匠から祖父の顔に戻っていたことが、新之助には嬉しかった。生きている間に免許皆伝とは行かなかったが、弟子の中で免許皆伝している者が、新之助のそれを見届けると約束してくれたのが幻刀斎の心を落ち着かせたようだ。覚悟を決めた人の、最期は静かな死だった。

 幻刀斎の葬儀は盛大に行われた。藩主自身も葬儀に訪れ、左衛門は呼べる限りの重臣を葬儀に呼んだ。逝った人への追悼よりも、重臣への接待を主に動いている父を見て新之助は悲しかったが、そんな事で自分の純粋な悲しみを紛らわせたくなかった。新之助は葬儀の後の盛大な宴席が行われている間、席を抜け出して静かに祖父を偲べる場所を探して敷地の中を一人歩き回った。生まれた時から住んでいる家ではあるから、どこに何があるか良く知っていたはずだが、さすがに今日という日は手伝いの使用人や客人でごった返してどこにも居場所がなかった。新之助は三治に会いたかった。三治とは幻刀斎を部屋に運び込んだ時から会っていなかった。新之助の世話すらイシに任せたまま、三治は葬儀の用事で忙しく働いていたのである。
 だが新之助が一人ぼうっとしたまま歩いていたのを、三治のほうから見つけてくれたらしい。三治はどこからか走り寄ってきて、新之助に小さな包みを手渡した。新之助がその包みを開くと、小さな握り飯が入っていた。新之助の好きな、ノリのついた贅沢な握り飯である。新之助は三治に言われるまま台所脇の小さな縁台に座り、その握り飯を頬ばった。思えば、悲しみで食事も碌に喉を通らなかった新之助である。三治の差し出した握り飯は、すきっ腹を思いださせて染みるほど美味かった。そしてその握り飯は、最後に祖父と二人で道場で握り飯を食べた優しく悲しい一時を思い起こさせて、新之助は忙しく動き回る使用人の中で優しく無視されながら、心置きなく悲しみに浸った。






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