【 花より色は13 】
葬儀やその後の法事などのバタバタした日々が過ぎると、臨時で手伝いに来ていた人たちも帰ってしまい、屋敷は急にがらんとした。早川家は元々幻刀斎が立てたものであるから、屋敷もその主人を失って悲しんでいるかのようだった。葬儀から二月もたつと、幻刀斎の弟子のうちの二人が急に武者修行に行きたいと言い出して家を出た。古くから幻刀斎について世話をしてきた使用人の数人が、幻刀斎が亡くなったのを機にお暇をいただきたいといって出て行った。その使用人たちもかなりの年配だったから、引き止める事はできなかった。左衛門は渋い顔をしながらも、まとまった金を渡して送り出した。年季を当に明けても働いてくれていたのだから、今で言う退職金が必要だったのである。
新之助の目にも、父は焦っているように見えた。ようやく道場にも顔を出して、弟子や抱えの家来たちの稽古を見てみたりもするが腰が落ち着かない。剣の指導をするような腕ではないのだから当然の事である。代わって、新之助は率先して下位の者への稽古を行った。藩校を終わるにはまだ一年はあったが、それを飛び飛びに休んでも時間を道場で過ごすことに当てたのである。
そこまでしても限界があった。通いの弟子は日に日に減り、新之助は免許皆伝の古くからの弟子たちと今後について話し合ったがいい知恵は浮かばなかった。弟子たちの中には、道場の方は今のところは左衛門が筆頭になっているが、それを弟子の中の免許皆伝の者に譲ってはと考えている者もいるようだった。新之助としてはどうにかして自分の代まで道場を守りたかったが、左衛門の手腕ではいずれそうするしかないと思うようになっていった。
幻刀斎の死の一年後、道場は実質一番弟子の佐原厳達という者の指導の下に入った。佐原は免許皆伝者で、幻刀斎が亡くなるときに新之助の免許皆伝を見届けると幻刀斎に約束した者である。今は自分が道場の筆頭になっても、新之助の代になればまた道場を早川に返すと約束してくれた。藩主へ届出の後、道場と母屋の間には塀が建てられ、入り口も別になった。佐原とその親しい者たちは道場側に小さな屋敷を建て、そこに移った。新之助は不安な思いでその塀や屋敷が建っていくのを見つめていたが、新之助の身の回りもそれどころではない出来事が起こりつつあった。
そのときまだ新之助のあずかり知らぬ所ではあったが、以前早川に預かりになっていた門田宗二郎の兄で、今の門田家の当主が病弱のため、その座を宗二郎に譲りたいと藩主に届け出た。門田家は藩の重臣であり、審議も仔細に行われたが、宗二郎の兄の病気は本当であり、宗二郎が門田を引き継ぐのは妥当となり、その届出は受理された。門田宗二郎は、二十台半ばにして藩の重臣の仲間入りをしたのである。
そうなると早川としては、かつての縁を利用してこれまで以上に門田家と深い繋がりを持たなければならないと左衛門は考えていたらしい。伝を生かしてその方法を模索していた左衛門は、ある日意気揚々と帰ってきて新之助を呼び出した。
「父上、何か御用でしょうか」
「新之助か、まあ入れ。めでたい話だ」
「はい」
「そなたの嫁が決まったのだ」
「・・・!」
相好を崩して話す左衛門に、そばで聞いていた千代も驚いて聞き返した。
「新之助に嫁ですか。それはまた、少し早すぎるのではありませんか」
「なぜ早い。新之助は今年十八だ。早すぎるということはあるまい」
「ですが、こんなに急に・・・」
「急ではない。しばらく前からお願いしていた事だ」
「ですが、・・・お相手はどこの方なのです。お年はおいくつなのですか」
「それを聞いて驚くな。門田様だ、今を時めく門田様から妹御を頂くのだ」
「門田様・・・」
「・・・」
「ですが、門田様に未婚の妹御などいらしたでしょうか。確か、門田様と一つ違いの妹御がいらしたとお聞きした事がございますが、確かもうお嫁入りされていらっしゃるとか。他に妹御が?」
「そうではない、その妹御だ。蕗さまと仰る妹御で、確かに一度嫁入りなさったのだが、二年で返されてしまったのだ」
「なんという・・・旦那様、なぜそのような方を、なにもわざわざ」
「騒ぐでない。返されたといっても嫁してすぐに病を患ってしまったらしく、子供が作れないと言って返されたのだが、その後は回復して家でずっと養生しているらしい」
「養生とは、それではまだ完全に回復しているわけではないのですね」
「いやいや、回復はしているのだが、出戻りという事で肩身が狭いので養生という事にしてあるだけらしい。案ずる事はない。蕗様の嫁ぎ先ではその後また嫁取りをしたのだが、そちらでもまだ子ができていないらしい。子ができなかったのは蕗様のせいではない。心配は要らない」
「ですが、その方はおいくつになります。宗二郎様と一つ違いでは、新之助とは七つも違うのではありませんか」
「年上の嫁は金の草鞋を履いて探せと言うではないか。いいか、今門田様は機転が利くと殿にも覚えがめでたく近頃では毎日のように話し相手として呼ばれているのだぞ。その門田様と今以上に近づきになれれば、早川も安泰というものだ」
「・・・・・・・」
「二人とも何か不満でもあるのか。新之助も、黙っておらずに喜べ」
「・・・・・・・」
千代はそれきり黙りこみ、新之助もただ下を向いて黙っていた。父母の言う通り嫁を取る事は、侍の子として当然の事であった。意見など言える立場ではない。しかも、新之助は以前千代にも父母の決めた相手と結婚すると約束している。相手が誰であれ、新之助には同じ事であった。それより、普段父には絶対服従の千代の今の態度が気になる新之助だった。千代は黙っている。新之助に父に返事をしなさいと言いつけることもせずに黙り込んでいる。千代の沈黙が不気味だったのか、左衛門は手を叩いて下男を呼んだ。
「酒を持て、今日は祝いだ。新之助に嫁が決まったぞ」
「それはそれは、新之助様おめでとうございます」
下男にお祝いを言われ、新之助は微かに頷いた。親類が呼ばれ、弟子が呼ばれ、そのまま宴会になっても新之助は静かに座ってそこにいた。祝いを言われれば頷き、杯を勧められれば飲み干した。まるで体だけがそこにいて、意識は高い、遠いところからその騒ぎを見つめているかのようだった。自分の事ではないような気がした。目の隅に、宴席へと酒を運ぶ三治の姿が映った。三治はこの宴会が何の名目か知っているのだろうか。知っていても、三治はまるでいつもと同じ顔で酒や食べ物を運んでいた。新之助は三治の働く姿を見つめた。決して客の邪魔にならず、だが客の要望を即座に汲み取って動き回る三治。よく訓練され、自分でも努力を積み重ねた結果のその働く姿は、十八になった今でもしなやかでどこか儚くて、今の新之助にとって三治はまるで夢の中の人のようだ。一番近くにいて、それでも決して触れる事ができないのなら、それは遥かに遠くにいるのと同じ事なのだ。新之助の視線に気づいたのか、三治は新之助のそばへとやってきた。
「新之助様、何か御用ですか」
「・・・いや」
「お祝いの会ではございますが、あまり過ごされませんように。何かあればお呼び下さい」
そう言うと三治はさっと立って奥へと消えた。それでは、三治はこの会が新之助の嫁が決まった祝いの会だと知っているのだ。だが三治の表情にはいつもと違った所はない。新之助の胸がキリリと痛んだ。何度も鮮やかに思い出す、あのお染役の三治が新之助を見上げてきたその視線の中には、確かに新之助を慕う気持ちがこめられていたと新之助は思う。だが、あれは本当にただの演技だったのか。演技などできないと三治は言った。あの視線が演技でないとすれば、三治もまた新之助を慕う気持ちがあったのではないかと新之助は何度も自分に問いかけてきた。そう思いたかった。だが、新之助の嫁取りが決まった今、三治の表情には暗い影はない。所詮この思いも一人相撲だったのかと思うと心が沈んでいくのを抑えらなかった。
一方三治は忙しい事に感謝しながら立ち働いていた。新之助の婚礼が決まったことは最初に呼ばれていった使用人からあっという間に家中に広がった。それこそ覚悟してきて、この二年の間に新之助が女を抱く事に慣れてきてもいた三治だったが、正妻となるとまた話は別であった。ようやくふさがりかけた傷跡は、再びぱっくりと開いて新たな血を噴き出した。新之助に奥方ができれば、その奥方はまた三治の主人ともなり二人の姿をこれからずっと見続けなければならないのだ。新之助の婚礼など、まだ先の話だと思っていただけに今回のことは三治には衝撃だった。だが、その祝いの座の主人を見たとき三治は新之助の態度に不思議な思いを抱いた。新之助は、確かに喜んではいなかった。その表情はどこか空ろで、よく知らない他人の祝いの座にいるかのようだった。新之助は、この婚礼には気が乗らないのではないのだろうか。侍の子だから、父親が決めた顔も知らない相手と婚儀を挙げることは義務であり、逃れられない。十八で婚約というのも別に早すぎる年ではない。新之助は色町に定期的に通ってはいたが、特に添いたいと思うほど入れ込んでいる相手がいないことは三治が良く知っていた。新之助の表情がすぐれない理由が思い当たらないだけに、自分の痛みよりも今はそれが気になって仕方がない三治だった。
新之助と宗二郎の妹、蕗の婚儀はそれから半年後に行われた。それ程に急いだのは、ここの所藩の財政が厳しくなってきて、不必要な支出を抑えるために御家人や旗本の石高の見直しが行われるという噂が流れたからである。門田宗二郎は財政について口を出せる重要な立場にいたから、妹の嫁ぎ先の早川家に対する減俸に手心を加えてくれるだろうと左衛門は考えたのである。それに、蕗の年齢もあった。婚礼の時、新之助は数えで十九、蕗は二十六であった。
婚儀はこれも盛大に行われた。宗二郎は以前は早川家で起こした騒動や、恥をかかせられた事など忘れたかのように新之助に馴れ馴れしく妹を頼むと涙ながらに言った。宗二郎が三治にした事は忘れられるものではなかったが、新之助は左衛門の為に宗二郎に対してその時の事をあえて持ち出すようなことはしなかった。ただ、宗二郎が早川家に来る事があれば、三治を宗二郎の目に止まらないようにと表へ顔を出す事を禁じただけである。使用人もあの時の事は良く覚えていて、その日は三治に奥で仕事をさせてくれた。だが、新之助の婚儀その日となれば話は別である。新之助の直の使用人にである三治は新之助のそばで細々と用事をしなければならなかったし、嫁御の兄として、宗二郎が新之助の所へ顔を出す機会も多かったのである。
宗二郎は、久しぶりに三治を目にした時「おお」と言いながら目を見開いた。新之助は即座にそれに気づき、三治と宗二郎の間に入るようにして三治をかばった。三治は新之助の足元にひざを突き、丁寧に挨拶をした。
「宗二郎様、ご無沙汰をしております」
「おお、三治ではないか。変わらないな、お前は。相変わらず男好きがする。その手で主人を衆道に貶めたりするのではないぞ。新之助はわが妹の婿殿だからな」
「義兄上。お戯れはおよしください。三治はそのような者ではございません。蕗殿は私が大事に致します。もう三治には関わり下さいません様」
「そうだな、蕗の事は新之助殿に頼むとして、だが三治はもう俺に寄越してもいいのではないか。蕗と引き換えというのはどうだ」
「義兄上!蕗殿は何かと引き換えに頂くものではございません。何かを差し出さなければ蕗殿を頂けないというのでしたら、今からでも私は」
「分かった分かった。お前は相変わらず頑固だな。今日は祝いの日だから言い合いはよそう。これからは早川と門田は親戚だからな、三治は俺の使用人と言ってもよかろう。それでは婿殿、今日はよろしく頼みます」
「・・・はい、義兄上」
宗二郎が行ってしまうと、三治は静かに新之助に頭を下げた。自分をかばってくれる新之助の気持ちが嬉しかった。だがこのまま宗二郎の元へ行って新之助と離れてしまえば、新之助と蕗が並んでいる所を見ずに済むのである。年季も明けず、新之助に生涯仕えると約束した以上、新之助の元を離れるのはそれしか手がないようにも思えた。宗二郎に蹂躙された夜の記憶はまだ生々しいが、それでも既にそれは遠く、新之助と蕗の婚礼が決まってからというもの刻まれ続ける新たな傷に比べたら、宗二郎につけられる身体の傷の方がまだましなのではないかと真剣に考えてしまう三治だった。
蕗は、落ち着いた優しい女性だった。年上で、出戻りという事を恥じて身を小さくして早川に来たが、新之助は誠意を持って蕗を迎えたため蕗も安心したようだ。蓋を開けてみればみればよく働き、気も利く妻であった。だが、千代とは最初から上手く行かなかった。千代のほうが出戻りという事を気にして、言葉にこそしないが態度は冷たいものだった。ずっと優しいだけと思っていた千代のそのような態度に、新之助の方が驚いたほどだ。だが、そのおかげで余計に新之助は蕗に親切にしてやる気になった。蕗とて好きでこんな年下の男に嫁いだわけではあるまい。門田家にとってはお荷物なだけであったろうし、せめて自分が優しくしてやろうと決意したのである。蕗も細やかに新之助の世話を焼き、夫婦仲は悪くなかった。程なくして、蕗は懐妊した。この時ばかりは、千代も喜んだので新之助は安心した。出産は、婚儀の日から丁度一年後の予定であった。体があまり強くない蕗は大事に扱われたが、蕗は自らよく立ち働いた。妊娠中でも動いた方がいいというのは、蕗の母から教えられた事であったらしい。全体的に、新之助の奥方は家中に好意的に迎えられていた。左衛門も、一安心と言うところであった。
三治は蕗が来てからというもの、新之助と蕗夫妻の身の回りの世話をする事になった。蕗は最初のうちどこに何があるかも分からないので、主に三治が何もかもを教えたのである。蕗は年上だけあって浮かれたところもなく、三治を下男と軽んじる事もなく早川家の仕事もそつなく覚えたので三治も蕗を憎みきる事ができなかった。新之助は十九にしては落ち着いた青年であったし、蕗と並んでいると新婚とは思えない具合だった。ついつい似合いの夫婦だと思ってしまう三治は、負の感情の行き場がないだけに一人になった時のつらさは格別だった。新之助は婚礼以来色町通いをすっかりやめていて、蕗を大事にしているのが余計辛かった。呼ばれて新婚夫婦の部屋へ行く時、部屋の中から二人の仲が良さそうな笑い声が聞こえると三治の全身がギリギリと痛んだ。それでも、三治は二人に誠心誠意尽くしたのである。逃げれば、楽になるかもしれないと思ったこともある。だが、それでも三治は新之助のそばにいたいと思った。時折新之助が三治に見せる優しいまなざしだけで、三治は新之助に尽くすことの喜びを見出したのだった。
next