【 花より色は16 】
さて、三日前から三治が黙って姿を消した早川家では、新之助がいても立ってもいられないほど三治を心配していた。この時は、蕗の事も子供の事も考えられなくなった程である。その日の夜になってから、三治からの使いだと言って小さな文が寄越された。そこには
「母急病につき、村へ戻ります」
と一言あるだけで、使いは自分が誰かも、どこで受け取ったかも話さずに行ってしまった。千代は「こんな急に、挨拶もなしに」と憤慨していたが、新之助は既に一抹の不安を感じていた。こんな事をする三治でないことは、新之助が一番良く知っていたのである。
新之助は次の日三治の村へ使いを立てた。村にはイシがいるから、三治が帰ったかどうかはイシに聞けばすぐに分かる事である。もし本当に三治の母が急病なら金も要るだろうと、新之助は頼んだ使いの者に幾ばくかの金も持たせた。だが、戻ってきた使いはイシからの手紙を持ち帰ったが、そこには「三治は村へは戻っていない。母親も元気である」という事が書かれていたのである。
三治が消息を絶ったのは新之助が門田家に三治を使いに出した後である。そうなれば当然門田に最初に話を聞くべきと、新之助は直接門田を訪れ、三治は来ていないかと尋ねた。もちろん、蕗や子供に会えないかと聞くことも忘れなかった。だが、蕗も子供も現れず、ただ宗二郎の奥方が出てきて今主人は留守だし、三治という者も奥の者に聞いたが新之助の使いで来た後すぐに帰ったと告げただけであった。
新之助はそれでも、三治は門田で何かあったのではないかと思っていた。だが新之助も石取りのため、一応役所勤めに出なければならない。亡くなった父から譲られた仕事で大した仕事ではなかったが、新之助は父の不甲斐なさを取り戻すかのように一生懸命勤めていた。三治ばかりにかかずっていられない事情もあったのである。
三治が村に戻っていないと聞いてからは、千代までが心配し始めていた。千代も新之助と三治の事では思うところはあったにせよ、三治が一心に早川に仕えてくれている事は良く分かっていた。その三治が、自分はともかく新之助に何も言わずに消息を絶つなど考えられなかったのである。そして、千代は今更ながらに三治がどれほど早川の為に働いてくれていたか思い知った。新之助は役所へ行かねばならず、下男がいない今家の切り盛りは千代の肩にかかっていた。千代はかつては箱入り娘ではあったが気概もあり、骨惜しみもしなかったのだが、それでも一軒の家の何もかもを仕切る訓練は受けていなかった。三治が軽々とこなすそれらの仕事を見て理解して、それを点検して抜けたところがあれば三治に言いつけてやり直しをさせていたにも関わらず、見るのとやるのでは大違いだった。三治が行方不明になって三日、千代は既に次の下男を探す事を考えていた。もちろん慣れるまでは不都合も多いだろうが、何もかも自分でするよりはいいと思ったのである。もちろん、三治が戻ってきてくれるならこれ以上のことはなかった。三治は安い給金で良く働いたし、千代や新之助のやり方や好みを知り尽くしていた。千代は、何があったにせよ三治が戻ってくれるなら何も言わずに迎えようと思い始めていた。
三治が裏道に捨てられてから半日が過ぎた。辺りが暗くなり始め、表通りに明かりが灯り、色町のざわめきが溢れ始めてようやく、三治は地面から体を起こした。三治は打ちのめされていたが、衝撃と痛みが薄れ始めてから徐々に頭を働かせていた。新之助の子供が亡くなったというのは、宗二郎の嘘だと三治は見抜いていた。なぜ蕗と子供を返さないのか、今三治にははっきりと分かっていた。宗二郎夫婦には子供がいない。当主に子がいないのは、取り潰しの格好の材料である。門田家は藩の重臣ではあるが、子供がいなければ取り潰しになるのは当然の事だった。藩の財政は逼迫していたのである。重臣といえど、例外はなかった。
蕗が子供を生んだのを見て、宗二郎はなんとかしてその子供を自分の養子にできないものかと考えたのだ。武家の跡取りは、子供がいなければ養子でも構わなかったのである。もちろん、近い血が繋がっていれば更に心強い。だが蕗の子は早川の跡取りである。他家の跡取りを養子に取る事は、さすがの重臣と言えど無理であった。ごり押しすれば、新之助が役所に訴え出るのは目に見えていた。一度訴えられてしまえば、まだ新之助を慕っている蕗も新之助よりの証言をするであろうし、他家の跡取りを横取りした事が分かればそれこそ確実に取り潰されてしまう。宗二郎が策を練っていたところへ、三治が現れ、「子供と引き換えに宗二郎のものになる」と言った。宗二郎は今でも三治が欲しかった。子供のことはともかく、三治をもう一度抱く事は宗二郎の執念のようなものであった。だが、三治に「子供を早く返して欲しい」と言われ、咄嗟に子供は死んだ事にしようと思いついたのだ。そして子は、自分の妻が産んだ事にすればいい。三治の体に宗二郎はまだ未練があったが、家の存続と秤にかけられるものではない。宗二郎は三治を切り捨て、家の存続を取ったのである。
今の三治にはその全てがはっきりと分かっていた。その事を新之助に知らせなければ、子供を門田に奪われてしまう。だが、この体で新之助の前に出ることは叶わない。宗二郎に陵辱され、再び三治の顔は赤く腫れ上がり、体は傷や打撲痕だらけだった。自分の浅はかさで宗二郎にまたとない機会を与えてしまった事が、三治には悔やまれてならなかった。なぜあんな男の言葉を信じてしまったのか、自分でも信じられなかった。三治は新之助に死んで詫びるつもりだったが、それより前にやる事がある。三治は門田に乗り込み、新之助の子供を奪うつもりだった。宗二郎は、蕗が新之助の名前を呼んでいたと言った。蕗はまだ、新之助の妻である事を忘れてはいないだろう。おそらくは蕗は宗二郎に何か吹き込まれて帰らないか、もしくは軟禁されているのだろうと三治は考えた。蕗に会い、何とかして蕗と子供を早川に連れて帰るのだ。もちろん三治は罪を問われるだろうが、蕗が一度早川に戻ればもう二度と門田に戻ることはないだろう。死んで詫びるのは、それからだ。
時間はなかった。三治は気力で起き上がり、色町を出た。冷たい川に浸かり、体を洗い清めた。最後に一目でも新之助の姿が見たいと、三治は早川の屋敷近くまで行った。だが、この酷い姿を晒す気にはどうしてもなれなかった。三治は遠くから早川の屋敷を見つめ、深く頭を垂れてから毅然と背筋を伸ばし、門田の家に向かった。
三治は裏口近くの塀をよじ登って門田の家に忍び込んだ。門田も禄高を減らされて使用人を最小限に抑えていたので警戒も薄かったのである。三治は庭に入り込み、そこから屋敷を眺めて蕗と子供がいそうな部屋に当たりをつけた。砂利を避け、おぼつかない足取りでコケの上を滑らないように歩きながら、三治は当たりをつけた部屋へと近づいていった。屋敷は既に闇に閉ざされ、動くものはいない。ゆっくりと足を進めていくと、屋敷のどこからか赤子の鳴き声が聞こえてきた。三治はそっと部屋に近寄り、耳を済ませた。
「どうしたのです、坊や」
部屋の中から女の声がする。蕗だ。赤子を抱き上げたのか、赤子は泣き止み、甘えるような声を出している。三治は周囲を見回してから小さく、鋭い声で蕗を呼んだ。
「蕗様。蕗様」
部屋の中の女が赤子をあやす声がぴたりと止まった。三治は更に言った。
「蕗様。三治です。三治でございます」
「・・・」
部屋の中で絹擦れの音がして、それから微かに部屋の障子が開いた。
「・・・三治」
蕗の声が言った。三治は膝を乗り出した。
「蕗様。お元気そうで何よりでございます。三治でございます」
「三治なのですか。どうしたのです、一体・・・」
蕗は障子を開け、左右を見回してから三治に手招きをした。
「三治。そのなりは何事ですか」
月明かりに三治の姿が浮かび上がると、蕗は息を呑むように言った。
「このような姿で申し訳ございません。ですが、時間がございませんので説明は後に。蕗様、お聞きしたい事がございます。お子様はお元気でございますか。まさかお亡くなりになったなどという事はございませんか」
「何を言うのです、いきなり現れて・・・元気に決まっているではありませんか。おかしな事を言うと許しませんよ」
「申し訳ございません。火急の事でございましたので、とにかくもと。蕗様、お願いでございます。お子様を連れて、早川へお戻りくださいませ。新之助様が待っておられます」
「三治・・・」
蕗は戸惑ったように言葉を止めた。
「蕗様のお子様は早川の嫡子でございます。お戻りくださいませ。このままでは、お子は」
「子供が、どうだと言うのですか。このままではどうなるのです。そなた、何を知っているのですか」
「・・・このままでは、お子は門田の嫡子にされてしまいます。それとも蕗様はそれを承諾なさっておられるのでしょうか。だから、早川へお戻りにならないのでしょうか?」
「まさか、何を言っているのです。この子は新之助様の子ですよ。そんな事をさせるわけがないではないですか」
「それをお聞きして安心致しました。宗二郎様は、お二人のお子様を亡くなったものとされようとしておられます。その上で、お子様をご自分の子として届け出ようとされておられます」
「・・・それは誠ですか」
「恐らくは」
蕗は考え込むしぐさを見せた。三治の話を一笑に付さないのは、蕗にも何か心当たりがあるのだろうと三治は思った。蕗は言った。
「・・・一つ聞きたい事があります」
「はい。ですが、時間がございませんので、もし後からでもよろしければその方が」
「長くは取りません。兄上が、言っていたのですが」
「はい」
三治は蕗をまっすぐに見上げた。蕗は宗二郎に何かを吹き込まれていると思っていたが、どうやら本当らしい。蕗は少し躊躇った挙句に言った。
「・・・新之助様とお前は、衆道の仲だと。私が里帰りをしている間に、そなた達は楽しくやっているだろうと兄が言いました。下男が皆解雇されてしまったのに、そなただけが残されているのがいい証拠だと」
「・・・」
つくづく汚いやり方と、三治は嫌悪感を顕にした。そんな事は有り得ないと知っていて、蕗にあらぬ事を吹き込んだのだ。年上女房とはいえ、住まい換えをした新しい家で主人と下男が抱き合っていると思えば、帰りたくなくなるのも無理はない。三治は静かに言った。
「・・・私は新之助様に子供の頃からお仕えしてきました。まだ子供でいらした新之助様につけられた、ただ一人の召使が私だったのです。私は新之助様をご主人様としてお慕いしております。新之助様も私を何かと頼りにしてくださいました。新之助様のことは誰よりも知っております。新之助様がご学友に連れられて色町へ行った日、お迎えに上がったのも私でございます。蕗さまとご婚礼をされるまで、私は何度か色町へ新之助様をお迎えに参りました。新之助様が陰間茶屋へ参られたことは一度もございません。そのような面では、新之助様は潔癖と言ってもいいほどでございます。蕗様がいらっしゃらない間も、色町に行く事もなさいませんでした。私は新之助様を尊敬しております。新之助様が、ただそのような欲を処理したいために下男である私と何かあるなど、蕗様は本気でお考えでしょうか。もしそれが理由で蕗様がお帰りになられないのであれば、私は新之助様に死んでお詫びしなければなりません」
「三治、もうおやめなさい。私が言い過ぎました。もういいのです。それに、私がここへ留まっていたのはその話のせいではありませんよ。兄に止められたのです。兄は昔から、やると言ったら絶対にやる人でしたから、私も怖かったのです。一緒に行きましょう。今からでも。私も新之助様にお会いしたい」
「・・・ありがとうございます。お供いたします」
蕗は素早く部屋に戻り、赤ん坊とおくるみだけを取り上げてすぐに部屋を出てきた。
「・・・こちらへ。表は人がいます」
蕗は自ら前に立って三治を先導した。庭を抜けて使用人の長屋を通り、そこから裏口を目指す。だが、そこまでだった。
「蕗!蕗!」
後ろから宗二郎の声が追って来た。ずっと蕗が一人で屋敷を逃げ出す可能性があると、使用人に見張らせていたのだ。使用人も本当に蕗が抜け出すとは思っていなかったのか、ここに来るまで見つからなかったのだがさすがに気がついたらしい。
当主の怒鳴り声とともに屋敷には一斉に明かりが灯された。蕗の背中を押すようにして三治は走った。屋敷の中の声は多く、大きくなる。裏口から道へと飛び出したときには、すでに表の方からも誰かが走ってきた。
「蕗様、蕗様!お戻り下さい!」
咄嗟にどちらへ逃げようと辺りを見回した三治の目に、有り得ないものが映った。屋敷の前の道に、数人の男が立っていた。あれは、一郎太、それに平太郎、そして、その真ん中で驚いたようにこちらを見ているのは、早川新之助その人であった。
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