花より色は21
 三治が美濃屋から帰るのはこの時期五つ半(午後九時)頃である。この頃の店は日が明けてから日が暮れるまでを営業時間としていた。夏も近づくこの時期、美濃屋が暮六つから六つ半の間に閉まって、店の片づけをして歩いて帰ってくるとそれ位になってしまうのである。美濃屋の場合、三治は通いだから朝は明け六つ(午前六時)頃に家を出て行けばよい。また、奉公人の休みは月に一度ほどである。それ以外は町の祭りや店の祝いの日なども休みになるが、あとは通いであれば盆と正月に数日の休みがあった。住み込みならその時期に里帰りをするのである。
 そんなわけで、今はどうしても帰りが遅かった。三治が早川に戻ると食事をして、それから畑で草取りや虫取りをし、家の回りの始末をして眠る。朝は洗濯物があれば朝の内にやってしまい、新之助と一緒に畑仕事をしてから朝食を食べて出かけるというわけだ。住み込みよりも時間的にはきつくなるが、三治には新之助と一緒に暮らせる事が幸せだったので苦にはならなかった。

「ただいま帰りました」

三治は早川へ戻るとまず新之助に手を付いて挨拶した。新之助は三治が帰るまでの間道具の手入れなどして待っているが、その手を休めずに頷いてみせる。

「おかえり。疲れただろう。そこはいいから、先に食べなさい」

新之助は、早速水を汲みに行こうとする三治にそう言った。三治は水桶の中の水の量をもう一度覗き込んでから素直に土間から上がってきた。

「では、頂きます」
「うん」

三治が質素な夕飯を食べている間、新之助は今日あった事を三治に話してやる。畑のこと、鎌を受け取りに行った帰り道のことなどである。三治はそれを楽しそうに聞きながら、聞かれるまま自分のことを話したりもする。三治にも新之助にも、楽しい一時だ。
 三治が夕飯を終えるとそのまま後片付けをしてしまい、それから水汲みに行き、畑を見回ってくる。暗いので大した事はできないが、月明かりで崩れた畝を直したり、間引きをしたりと三治は忙しく働いた。

 三治が早川の家に戻るのは既に十一時を回っている。節約暮らしでは油もふんだんには使えないが、新之助は三治が戻るまで小さな行灯を付け、儒学の本などを読んでいた。どんなに落ちぶれても、気持ちだけは武士でありたかったのである。

「新之助様。戻りました」

三治が戻ってきて土間で足を洗った。新之助は、囲炉裏にかけてあった鉄瓶を下ろして三治に湯を入れてやる。

「新之助様、そんな事は私が」
「いいからこっちへ来なさい。お前が帰ってくるのを待っていたのだ」
「先にお休みくださいと申し上げておりますのに」
「それではお前と話す時間もない。この時期は時間があっという間に過ぎるな」
「そうでございますね。今日も昼間は暑い位でございました」
「三治。これを」

新之助は仏壇から半分の大福を取って、それを更に半分に割ると三治に手渡した。

「これは。どうなさったのです。お母上様に差し上げなかったのですか?」
「差し上げた。母上が私に半分下さったのだ。母上も私の大好物だと知っていたから」
「それではこれは新之助様のものでございます。私はもう一つ頂きましたから」
「私も一つ食べた。これはお前と食べようと思って取っておいたのだ」
「そんな。新之助様がお食べ下さい。私は今頂いたばかりですから腹もいっぱいでございます」

腹が一杯などという事はある筈がなかった。野菜ばかりの汁の、具は大して入っていなかったのである。それでも貧しい農家に比べれば大ご馳走だが、腹いっぱいというわけには行かない事は新之助にも分かっていた。

「三治、遠慮はしなくていいのだ。食べなさい」
「頂けません。新之助様の大福でございます」
「三治」
「新之助様は私を甘やかしすぎます。私は下男なのですよ」
「今お前を雇っているのは私ではないではないか。お前は賃金を皆うちに入れてくれている。お前と私は対等だ」
「新之助様。お武家様と農民の子供は対等にはなれないのでございます。新之助様のお気持ちは嬉しいのですが」
「・・・三治」

新之助には三治の言葉が悲しかった。対等になれない限り、新之助が自分の気持ちを三治に打ち明けることは決してできないのである。目上の者が打ち明ければ、目下だと思っている限り三治が同じ気持ちでなかったとしても新之助を喜ばせようとしたくない事までするだろう。
 しゅんとなってしまった新之助を見て、三治の方がとりなすように言った。

「申し訳ありません、出過ぎた事を。ですが、新之助様」
「・・・うん」
「・・・大福を私に残してくださった事、嬉しいのです」
「三治」

新之助は三治の顔を見た。薄暗い明かりの下では分かりづらいが、三治はうっすらと目の周りを染めているようだった。新之助の胸が詰まった。このまま三治をきつく抱きしめたい気持ちに襲われる。昔と変わらない憧憬のまなざしで見つめられると、知らず新之助の体は熱く疼いた。

「三治」

新之助は膝の上で手を握り締めながら言った。手を開けば、三治を引き寄せてしまいそうだったからである。

「お前が対等だと思えなければ、それでもいい。だが、私にしてみればお前は恩人でもあるのだからな。あの時の事は母上が気落ちしていたから思い出させてはいけないと思ってあまり話した事がなかったが、私はお前に感謝しているよ。お前がいなければ、何も知らずに子供を奪われてしまったかもしれない」
「・・・ですが、私のした事は何のためにもなりませんでした。むしろ宗二郎様にあのような事を思いつかせてしまったのは私のせいではないかとずっと後悔しています」
「もう言わないでくれ。お前が後悔しているというなら、私も後悔している。お前を、門田へ使いになどやった私が悪かったのだ」
「それは違います、新之助様」
「いや、そうなのだ。だが違うというなら、お前の後悔も間違っている。宗二郎殿に酷い目にあわされたお前を見て、私がどんな気持ちだったかお前には分からないだろう。二度と再びあんな目に合わせまいとずっと思ってきたのに、お前は私の為に・・・。だが、今更そんな事を言っても仕方がない。起きてしまった事は取り返せないのだからな。私はこれから、決してお前を門田の家に近づけることはしない。お前も、私に後悔させたくないなら二度と宗二郎殿の口車になど乗ってはいけない。お前が受けた事を思うと私は落ち着かなくなる。お前の傷は私には想像する事もできないが、私も苦しかった。お前が私に詫びたいと思っているなら余計に苦しくなる。だから私もお前も、もうそんな風に考えるのはよそう。今はこうして三治と、それから母上と、三人で静かに暮らせるのが私は嬉しい。私にはこういう暮らしが性に合っているのだ」
「そんな、ですがお家は」
「藩がこのような状態ではどうにもならないだろう。殿はお優しい、いい方だがこの時勢ではそれが仇になったようだ。そもそも我が藩は外様だし、万が一にも改易などという事にならないように重臣たちが結束しなければならないのに門田様からしてあの様子ではな。ご自分のことより、藩の心配をしていただきたいものだ」
「・・・」

難しい話は三治には分からない。だが、新之助が我が子を宗二郎に取られてしまっても思っていたよりもあっさりと手を引いたのは、藩の重要な役についている宗二郎に、これ以上内輪の事でゴタゴタさせたくないという気持ちがあったのではないかと三治は密かに思った。
 新之助はそれよりも気になる事があった。今日美濃屋で見た町人の群れの事である。それに、三治に色々と菓子を持ってきてくれるという客の事も気になる。新之助は口調を変えて言った。

「そんな話は良い。それより、お前に大福をくれたという客の話を聞かせてくれ」
「あ、はい。そうでございますね。最初は父親と一緒に使いで来ていた娘さんなのです。どうやら棟梁の一人娘らしく、家の仕事を娘に覚えさせるんだと一緒に連れてまいりました。そこで父親が材木を注文したり前に注文したものを受け取ったりするのを見ていたのですが、父親が世間話を始めてしまったらどうも手持ち無沙汰になってしまったらしいので、私がお相手をしておりました」
「そうか。それで」
「それ以来ちょくちょくやって来ていて、元からはしっこいのかすぐに要領も覚えてしまいました。最近では材木を荷車に載せて運ぶのに若いのを一人連れてくるだけで、注文も一人でされるようになって、いっぱしの商売人でございます」
「年はいくつくらいなのだ」
「さあ、確か十七とか言っておりましたでしょうか」
「それはしっかりした娘だな」
「本当に。父親はいずれ娘に婿を取って継がせるつもりのようで、いい職人がいれば紹介してもらいたいなどと言っておりますが」
「それがどうしてお前に菓子など」
「娘さんが一人で来られる様になってからもらい物だと言って何かと持ってきてくれるようになったのです。他のお客さんでも時々いますので、ありがたく頂いて店の人たちと分けて頂いていました」
「だが大福ももらい物なのか?」
「これは自分のお八つに買ったついでだと言ってわざわざ買ってくれたようです。お小遣いがなくなるからおよしなさいと言ったのですが、こういう時の娘さんは強引で、何かとまくし立てて押し付けられるものですから断るのもどうにも・・・それにこの大福は柳屋のでしたので、今回はありがたく頂いてしまいました」
「・・・三治」
「はい」
「その娘はお前に気があるのではないだろうか」
「・・・はあ。他の店員にもそのような事を言われましたが・・・父親が婿を取ると言っているのですからどうにもならないでしょう」
「それはどうか分からないぞ。お前は大工や職人ではないが材木屋に勤めているのだし、満更部外漢というわけでもない。一人娘なら、父親も娘の我儘をきかないとも限らない」
「ですが、私の方は全くその気はございませんので」
「その父親は大きな取引相手なのか」
「そうでございますね、美濃屋の中では上客に入るかと思います」
「それなら、もしその父親がお前の主人に話を持ってきたらどうするのだ」

新之助はつい詰め寄るようにして聞いていた。

「し、新之助様・・・」

知らず触れるほど近くなっていた三治が体を後ずさりさせた。








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