【 花より色は23 】
その月の三治の休みの日である。三治が休みの日は、新之助も役所勤めを休む。この頃の武士の勤めは今で言うワークシェアリングで、一つの仕事を何人かで受け持っているのだ。余程でなければ、休みたいと思う日に休めるのである。あまりにも良すぎる待遇だが、元々は武士は戦いに行く準備をする事が本分であるのでそういう事になるのだろう。だが江戸も中期になると戦もほとんどない。時に農民の一揆などを鎮圧するために借り出されることはあるが、普段の生活は平穏なものだ。その中でも武士道を叩き込まれることで生活態度や威厳を保っていたのであろう。
新之助は役所のない日はほとんど行っている道場も今日は休みだ。朝から三治と一緒に畑へ出て、朝から新しい畑を広げるために木の根を掘り起こした。この間から新之助が悪戦苦闘していた木の根で、今日二人掛りでやっつけてしまおうと思っていたのである。新之助の畑の野菜は、三治の指導がいいのか出来がよく、新之助が出勤時に街の市場に持っていっても言い値で売れた。それで家計は大分潤っていたから、ここは少し畑を広げておきたかったのである。
午前中かけて木の根を掘り出し、それから畑の世話をすると三治と新之助は一旦家に戻った。既に朝食は千代が握り飯を握って畑に持ってきてくれたのである。昼からは庭に作ってある小さな畑を世話するため、昼飯がてら帰ってきたのだ。
「母上、今日の昼はなんですか」
新之助は裏庭に面した縁側に腰掛けながら母に聞いた。農民が農作業の合間に家に戻る時、足を洗うのは面倒なのでこうして縁側や土間で用事を済ませる事が多いが、新之助もすっかりそのような習慣に染まってしまっている。三治は土間の方へ表から回りこみ、食事やお茶を運ぶのを手伝った。
「いいから、三治もお食べなさい。今日は暑いから大変でしょう。三治は汗だくじゃありませんか。午後からも気をつけておやりなさいよ」
「母上、今日はあの木の根をとうとうやりましたよ。やはり一人より二人ですね」
「三治はこのようなナリをして力は強いですからね。新之助より三治の働きの方が良かったのでしょう」
「いえ、そんな」
「母上は三治贔屓だからなあ。焼きますよ」
「お焼きなさいお焼きなさい」
「そんな、お母上様」
「母上、しかしこの漬物は美味しいですね。母上も格段に料理の腕が上がられた」
「おだてるものじゃありませんよ。この間イシが来てくれたでしょう。その時に少しやり方を教えてもらったのですよ」
「おや、そんな有意義な事も話していたとは気づきませんでしたね」
「新之助ったら、もう・・・」
新之助の言うのも無理はない。イシは一晩泊まって行ったのだが、久しぶりに会った女主人とその使用人は、尽きる事がないかと思う程に喋りっ放しだったのである。普段は日が落ちると寝てしまう千代が、イシを相手に手を動かしながら夜半まで話していたと思えば、次の日も朝早くから女二人のかしましい話し声である。三治も新之助も寝ていられず、いつもより早く起き出して畑へ退散した。イシが帰ったのは三治が美濃屋から戻る前だったが、家にいる間ずっと二人の話し声に辟易させられた新之助は、三治が帰ると本当にほっとした顔で出迎えた。三治は新之助の疲れた様子に驚いて、それから笑った。女がかしましいのは、武家の台所にいれば充分に思い知らされている事だったからだ。
昼食が済むと千代が二人に茶を淹れてくれた。茶も高級品だから中々手に入らないのであるが、イシが親戚の家で作っているからと持って来てくれたのだ。早川では、それを大事に飲んでいた。
千代は二人に茶を出すと台所に戻った。昼の片づけをしながらこの夏の神社のお祭りに幾ら出したらいいかと悩んでいると、縁側から三治と新之助の笑い声が聞こえた。笑っているのは主には新之助らしいが、三治の笑い声も時々混ざっている。千代は一体何を笑っているのかと土間から縁側を眺めた。二人はどうやら庭先の何かを見て笑っているらしい。それ程面白いのなら見逃せないと、千代は手を拭き吹き縁側へと向かった。
「一体何を笑っているのです。庭に何があるのです」
千代は好奇心を抑えきれずに裏庭を覗き込んだ。だがそこには、猫が一匹いるだけだ。それを見て、三治と新之助は涙を流して笑っている。
「猫が一体どうしたのです。二人ともそのように笑って」
「そ、それが母上、猫が、猫が」
だが新之助は笑うばかりでちっとも説明にならない。千代は一人で置いていかれたような気分になって三治を見た。三治なら説明してくれるだろうと思ったのである。
「三治。どうしたのですか。新之助はどうしてしまったの」
「は、は、お母上様、それが、ははははは」
しかし三治も笑って話にならない。千代がしかめ面をすればする程おかしいらしく、二人で腹を抱えて笑い出した。三治は必死で話そうとするのだが、言葉は断片で何を言っているのかわからない。仕方なく、千代は二人が笑い終えるまで待つ事にした。見れば、猫の前に蝶が飛んでいて、猫はどうやら蝶を追いかけているようだ。猫がさっと前足で蝶を引っ掛けようとするのが、蝶の方はヒラヒラと飛んで捕まらない。猫は意地になって蝶を追いかけようとし、蝶ももっと高く逃げればいいのに猫をからかうようにして猫のほんの鼻先を飛んだりする。猫がいかにもイライラしているような気がして、千代も思わず笑顔になった。
しかしそれにしても三治と新之助は笑いすぎである。最近はあまり煩く言わなくなった千代も、新之助の武士らしからぬ振る舞いに一言言ってやらねばと思った。
「新之助、いい加減になさい。侍がそのように大口を開けて笑うものではありませんよ」
「も、申し訳ありません母上。ですが、三治が、三治が・・・」
「三治が一体どうしたのです。三治が何か新之助を笑わせるようなことをしたのですか」
「申し訳ありません、お母上様。私はあの猫が、いえ、その・・・」
新之助はようやく気を取り直して息を整えてから言った。
「私があの蝶を三治のようだと言ったのです。そうしたら三治がそれではあの猫は私だと言うものですから」
「一体、それのどこがおかしいのです」
千代が呆れ果てた様に言うと、新之助もまた笑い出した。どうやら今度は千代の呆れた様子がおかしいらしい。
「全くそなた達と来たら、箸が転がってもおかしいと言う少女のようではありませんか。年をわきまえなさい」
「すみません・・・」
千代の言葉に、さすがに三治が真顔になった。主人とはいえ、直接叱るようなことはあまりしない千代である。新之助は終いには縁側に転がって笑っていたのを、ようやく三治に掴まりながら体を起こして言った。
「母上も聞けば笑いますよ」
「蝶が三治で猫が新之助のどこがおかしいのです」
「ほら、見てごらんなさい。猫があんなに必死で蝶を捕まえようとしているのに蝶は涼しい顔ではありませんか。三治はどんなに忙しくてもいつも涼しい顔をして飛び回っているから、三治のようだと言ったのです。掴まりそうで掴まらないのも三治のようだ」
「・・・」
「そうしたら三治が、それではあのしなやかな動きで獲物を狙う猫は私のようだと言ったのです。確かに、幻刀流の動きは剛というより柔ですからね。稽古を見ていたのは随分昔の事になるのに、よく観察していたのだなと感心したのですよ。おかしいでしょう」
「・・・」
新之助の説明にまたしても笑い出しそうな二人を見て、千代は考え込んだ。新之助の説明を聞いてもちっとも面白いと思わないのは、自分が年をとったからだろうかと思わず考えてしまう。確かに猫と蝶のしぐさは面白い。だがそこまで爆笑する程の事はないと思案してから、千代はふと気がついた。
つまり、二人は今何を見ても、何を言ってもおかしいのである。三治の休みは月に一度しかないから、昼間こうして二人で並んで縁側に座り、畑仕事の合間の、つかの間の休息を分かち合う事も中々できる事ではない。二人でいる事が嬉しくて、何を見ても楽しく、何を言っても面白く感じられるのだろう。その事に気づいたら、二人の楽しい時間を邪魔する事もあるまいと、千代は仕方なく同意する事にした。
「・・・そうですね。それはおかしいですね」
優しく笑った千代に、新之助も三治も満足そうに笑った。
二人を縁側に残したまま台所へ戻ろうとした千代は、三治の声に振り返った。
「あっ、こら、そこは駄目だ。そこへ入ってはいけないよ」
振り返ると三治は裏庭へ駆け出して、猫を追い払っている。三治がしそうにないしぐさに驚いてよく見れば、猫が蝶を追って入り込もうとした場所は、新之助が先に近所の農家でもらってきた花を植えた場所である。千代が時々川原から花を摘んでくるのを知っていて、新之助が家でも少し植えようともらってきたのだ。裏庭の開いている場所に植えたその小さな花の苗は、日に日に大きくなって蕾をつけ始めている。新之助がそれを大事に育てているのを三治も千代も知っていたのだ。
三治の声に猫は驚いて行ってしまい、三治は新之助の小さな花壇が猫に荒らされていないか神妙に確かめている。新之助も縁側から降りてそれを見に行き、二人で座り込んで花壇を覗き込んでいる。その様がとても仲睦まじく見えて、千代は密かに微笑んだ。新之助の想いはまだ実ってはいないようだが、千代の見るところ恐らくは両思いであろう。だが三治が二ノ輔にされたことや、三治と新之助が身分違いである事で三治がその想いを決して新之助には明かさないような気がしていた。もしも明かしたとしても、三治の傷ついた心が、土壇場で新之助を拒否するのではないかと言う心配もある。だがこればかりは千代が心配しても仕方のない事だ。三治の心を癒せるのは、恐らくは新之助だけだろうと千代は思った。
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