【 花より色は25 】
夏の間は日が長いから、三治の美濃屋での勤務時間も長い。加えて朝晩の畑の世話は目が回るほど忙しいから、夏の時間はあっという間に過ぎていった。昼間新之助と千代が三治の助言に従って畑を世話してくれてるとはいえ、慣れない作業にはどうしてもあとからやり直しが必要な時もある。三治はせっせと働き、新之助と千代も良く働いたので、野菜の出来は今年もとても良かった。新しく開墾した土地もどうやら植え付けができるまでになり、広くなった畑で採れる野菜は、早川家の食卓を潤していた。
7月が過ぎ、8月がやってきた。明日から美濃屋が休みという日になると、三治は帰ってきてそのまま実家のある村へと向かった。そのまま一晩泊まって、次の日には早川へ戻る予定である。千代は三治が出てしまうとすぐに旅の支度をした。墓参りの準備も整え、明日墓参りをして三治が戻ったら出かけるつもりで馬借も頼んである。実家から帰省の費用が少しばかり送られてきたので、節約はしたいが使わないわけにもいかなかったのである。
次の日三次が帰って来た時、新之助は畑に出ていていなかった。千代は千代の旅姿に驚いている三治を呼び寄せ、言い聞かせた。
「三治、私は勝田の実家へ帰らなければならなくなったのです。留守の間、新之助の世話をよろしくね」
「お母上様、どうなさったのです、ご実家で何か」
「いえいえ、何もないのだけれど、母も最近は気弱でね、義姉がたまには帰る様にと煩いものだから、三治が休みの間ならここを留守にしても大丈夫でしょう。せっかくの休みに、食事の支度までお願いするのは悪いけれど」
「とんでもございません。お店が休みの間は、お母上様にお休みいただこうと思っておりました。ですが、向こうで不自由なさいませんか。お世話するものが必要でしたら私もお供に参りますが」
「いいのですよ。向こうには嫁ぐ前に私の世話をしてくれた子もまだいますからね。それより新之助の世話の方が大変でしょうけど、お願いしますね」
「はい、かしこまりました」
「三治」
「はい」
千代が真顔で三治を呼んだので、三治も真剣な顔で千代を見返した。
「いいですか、私が留守の間、新之助が無理や我儘を言ったら叱ってやっていいのですよ。この間の、お花のことと言い、新之助はお前に甘え過ぎです」
「い、いえ・・・」
「あんまり無体な事をしたり、言ったりして、お前が無理だと思ったら実家へ帰っていてもいいのですからね。帰ったら私から叱ってあげます」
「は・・・はい・・・ですが・・・」
「こればかりは素直に『はい』と言ってもらいますよ。いいですね」
「・・・はい」
千代の言葉には含みがあると思ったが、三治は素直に頷いた。千代が今では三治を親しく、そして頼りに思ってくれている事が良く分かっていたので三治には第二の母のようなものだった。
「では行ってきます」
「え、は、はい、ですが新之助様はまだ・・・」
「あの子なら畑にいます。さっき出かけると言って置いたからいいのですよ。夕食は、準備だけはしてあるけれど後は頼みましたよ」
「かしこまりました」
「さっきのこと、くれぐれも覚えておくのですよ」
「はい」
千代は満足そうに頷くと、既に荷物を預けてある馬借の元へと行ってしまった。残された三治は、何かに騙されているような気分である。これほど長い時間新之助と二人きりは、三治には初めてのことだ。それも数刻ではなく、数日だと言うので急な事にサンジは戸惑っていた。時折新之助が三治を優しく見つめているその視線が、この頃は耐え難いほどになっているから不安が募る。他に誰もいない夜、あの視線で見つめられたら三治は何を口走るか分からない。それが怖かった。
三治が家の周りを始末し、裏庭の畑の世話を終えて夕食の支度をしていると新之助が戻ってきた。三治は素早く水を張った盥を出し、新之助の足を洗う準備をした。この時代、家に帰ってきた者の足を洗うのは下男の仕事の一つであった。
「三治、自分でやるから構わないでいい。お前は夕食の支度を続けてくれ」
「はい。それでは」
だが新之助は足を洗わずにそのまま水がめの所へ行った。中を覗き込み、桶を手に取る。
「少ないな。汲んで来よう」
「それなら私が」
「いいから。それに汗をかいたから流したい。井戸へ行ってくる」
早川家で使っている井戸は、周りの数軒との共同であったが使っている人数は少ない。そのため、風呂に行かない日は行水をしたり、井戸の傍に立てかけてある葦簀(よしず)の陰で褌一丁になり、ここで汗を流してしまう事も多々あった。夏だから、余計に世話もないのである。
新之助が体をさっぱりさせたのは意味があった。できれば今夜三治に打ち明けてしまいたい、その勢いをつけるためと禊でもある。それに、仮に今夜三治を「優しくガバッと」抱き寄せる事ができたとしても、体が汗や泥に汚れていたのでは三治も嫌だろう。
三治を抱き寄せるにはどうすればいいか、新之助はあまり考えなかった。あの大福の日のように、自然に近づけたらいいと思っていたのである。ただ三治が嫌がったらどうすればいいか、それだけは思案の種だった。考えるだけで沈みそうになるが、新之助は三治を傷つけることだけはしたくなかったのである。
夕食は質素に、静かに食された。開け放した縁側から、夏の夜の涼しい風が入ってきて二人をほっとさせた。昼間は暑いが、人も少なく、土の地面を渡ってきた夜風は涼しい。庭には七輪の中で虫除けの防虫草が焚かれ、その微かな香りが家の中を漂っている。食事の片付けも終えてしまうと、二人で囲炉裏の前に座り、道具の手入れをしながら静かに語り合った。
「・・・お母上様がいらっしゃらないと、家の中が静かですね」
「そうだな。しかし母上が聞いたら怒るぞ。私は煩いですか、などと言って」
「そんなまさか。そういう意味ではございません」
「分かっているよ。母上はご冗談がお好きだから」
「そうでございますね。母上様は物静かなのに、存在感がおありですから。それに、やはり女の方がいらっしゃると華やかなのでしょう」
「それでは、男二人では殺風景か」
「いえ・・・そうですね。そうかもしれません」
三治は笑った。新之助が少し突っかかるような事を言っても、他意はない。子供の頃なら一々気にしたかもしれないが、三治も少しは言い返せるようになった。
「お前は、やはりこの家に女がいた方がいいと思うか」
「どうでしょう。お母上様がおいでですし」
「若い女子(おなご)がいた方がいいと思うか?」
「私は・・・いいえ。手伝いが私だけでは足りませんか」
「そういう意味ではない。つまり、お前の相手としてだ」
「そういう意味でしたらいりませんと何度も申し上げております。まだそのような事を」
「だが女子は華やかだと言ったではないか」
意地悪く突っ込んでくる新之助に、三治が言い返した。他意はない事は分かっても、新之助を思う三治には酷な質問だ。
「それでは新之助様は女子がいた方がいいと思われますか。蕗さまに戻って欲しいとお思いですか?」
「蕗?いや、もうそんな事は考えていない」
「それでは新しい奥方様が欲しいのですか。私は」
三治の気持ちが昂ぶっていた。二人きりで穏やかな楽しい時を過ごしていたのに、台無しにされたような気分になる。
「・・・私は、新しい奥方様がおいでになった時にはお暇を頂きます」
「何を言い出す、三治」
「それでなくてもこの家にもう一人住むなど、無理でございます。それに新婚夫婦となればお部屋が必要でしょう。私のいる場所がございませんので」
「三治。違う。そんな事は言っていない。出て行くなど、許さない」
新之助は思わず道具を取り落とし、三治の腕をつかんでいた。三治が驚いたように新之助を見返している。新之助はハッとして力を緩めたが、三治の腕は離さなかった。
「許されなくても、戻ります。これ以上そんな意地悪な事を言われるのでしたら私はもう一度実家へ戻ります。お母上様に、新之助様があまり意地悪を言うようなら帰ってもいいと言われました。こんな事なら、こちらへ戻らなければ良かった」
「三治!」
新之助は咄嗟に三治を抱きしめた。そうしなければ、三治が本当に実家に帰ってしまうような気がしたからだ。
「し、新之助様」
「駄目だ。帰るなど、許さない。帰ってはいけない。・・・三治、帰らないで欲しい」
「新之助様・・・」
新之助の腕の中で、三治は身をすくませていた。かつてこのように強い男の力で抱きしめられた時、その後に起こったことは今でも三治には悪夢同然だ。三治が震えているのが分かったのか、新之助は腕を緩めて言った。
「・・・すまない。怖がらなくていい。お前が帰るなどと言うから、つい。もうお前の嫌がることは言わないから、帰らないでくれるな」
新之助は三治の腕を優しくつかんで三治の目を覗き込んだ。一瞬吹き出た三治の苦い汗も、新之助の優しい目の前では引いて行く。今の目の前にいるのは、あの鬼のような宗二郎ではなく、ずっと一緒に過ごしてきた新之助なのだ。
「三治、お前に聞きたい事がある」
新之助は三治の腕から手首へと自分の手を滑らせ、その手を握りながら言った。
「はい」
「お前は、その、嫁をもらわずに、一生私に仕えると言ってくれたな」
「はい、申しました」
「それは、その・・・どうしてだ」
「・・・」
その直接的な質問に、三治は思わず絶句した。どうしてかと聞かれれば、もちろん大きな理由が一つある。三治はあの、お染を演じたあの日からずっと新之助のことを思い続けていたのだ。だが、使用人が主人に仕えるのは当たり前の事だ。当たり前だから、どうしてと聞かれて咄嗟に答えが思いつかないのは、その一番当たり前の部分で、実際には三治が新之助に雇われているわけではないから、理由になり得ないという事が分かったからだ。
「その、その、私は・・・何度もお救い頂いて・・・」
「それが恩だと言うなら、これまででとっくに返してもらっている。お前のお陰で、母も私も暮らしていられるようなものだ」
「ですが、私には・・・」
「返しきれないと言うのか。それならこちらの方もお前に恩を感じなければいけない」
「どうして、どうしてそんな事を聞かれるのです。もう恩は返してもらったら私は必要ないということですか」
「違う。そうではない」
新之助は激しく首を振った。三治の目は、今にも涙が零れ落ちそうに見開かれている。
「どうしてか、と聞いているのだ。私はお前にずっと傍にいて欲しい。三治、私ももう嫁などもらわないつもりだ」
「そんな、お武家様が」
「そんな事はもういい。家の為に嫁をもらって、それが家の為にいい結果になったか?本当に家の為と言うなら、そこで生きている者が本当に求めている者と共にあるべきだ。私はそれでいい。私が求めているのはお前だ。お前と一緒にいたい」
「新之助様・・・!」
三治の思いが溢れた。三治は自分の手を握っている新之助の手に、接吻するようにかがみこんだ。
「お許し下さい。お許し下さい」
三治が呟くように言う言葉に、新之助の肝が冷える。三治に拒否されたと言う事だろうか。
「怖いのです。早川家の跡取りには、跡継ぎが必要なのに、私には受け入れられない。私がお傍にいたいのです。私が、新之助様のお傍に。こんな、酷い、身勝手を・・・!」
「三治・・・」
新之助は三治の背中を抱えるように抱いた。新之助の下で体を丸め、新之助の手に唇を押し当てている三治は酷く震え、泣いているようだ。三治も新之助を思ってはいても、新之助の立場を考えればいずれまた嫁をもらう事になるだろう。そうなれば新之助の傍を離れなければいけないと必死で自分に言い聞かせてきた事が新之助の身に深く伝わってきた。三治も自分を愛していた。それだけで、新之助の身も心も熱く満たされる。
「三治」
ひとしきり泣き止むのを待って、新之助は三治の顔を上げさせた。顔は涙で濡れている。新之助は手ぬぐいでその涙を拭いてやった。三治は逆らわず、もう片方の新之助の手を離すまいと握り締めている。
「許すも許さないもない。身勝手が罪なら、私も一緒に罰を受けよう。今私はお前の気持ちが聞けて、嬉しくてたまらない。お前の気持ちが分からなかったから、意地の悪い事ばかり言ってすまなかった。三治、この世の中で、私にはお前より大事なものはない。一緒にいてくれるね。ずっと」
「新之助様・・・!」
せっかく拭いた涙が、三治の目からどっと流れ落ちた。新之助は後から後から沸き出てくる涙を、辛抱強く拭いている。泣いてばかりいては話にならないと、三治は必死で涙を堪えるのだが、どうしても止まらない。ずっと心の奥にしまいこみ、蓋をしていた思いが一度溢れたら止まらないように、涙は溢れ続けた。
「気にしなくていい。泣きたければ泣きなさい。私も泣きそうだよ」
そう言いながら新之助の目が潤んでいたので、驚いて見つめた三治の涙は一瞬引っ込んでしまった。顔を見合わせて笑い、それから互いの目から涙がポロリと零れ、そしてまた声を上げて笑った。
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