【 花より色は28 】
翌朝新之助が起きると、昨夜の乱れた布団はきちんと敷き直してあった。どうやらあれから眠ってしまったらしい。新之助には夢も見ない、深い眠りだった。見回してみると三治は既におらず、新之助の体も綺麗になっており、素肌の上に着物がかぶせてあった。昨夜ここで稚拙とはいえ密度の濃い交歓が行われたとは思えない、朝日の中でも恥ず所のない整った部屋である。
三治は既に起き出して畑へ行ったのだろうと新之助は思った。店が休みの間も、規則正しい生活は変えない三治である。新之助は、本当は千代が勝田へ戻っている間役所へも道場へも行かないつもりでいた。すぐに三治に打ち明けられるとは思っていなかったから、機会を逃したくなかったのである。だが今、新之助は今日は道場へ行こうと考えていた。三治を手に入れたから、興味を失ったわけでは決してない。昨日気持ちを通わせ、熱い夜を過ごした二人だが、新之助はまだ三治の全てを手に入れたわけではないと思っていた。三治は着物を着たままだったし、それ以上にもっと、三治に近づける術が確かにあるはずである。だがそれを知っているはずの三治に作法を尋ねる事はしたくなかった。急いで何もかもを得られると思ったわけではないが、準備をしておくに越したことはない。道場の仲間の中で、それを知っていそうな誰かに聞いてみるつもりでいた。この時代、僧侶から始まった男色は武士に、やがては町民の間にも広まっていたため、そういう手合いを扱う茶屋も多く、念者(男同士の恋人)を持つことも珍しい事ではなかった。新之助は三治への気持ちを封じるため、あえてそいうものに近づこうとしなかったので知識はなかったが、二ノ輔を始め、男色を好む男が多いことは知っていたのである。
新之助が起き出して、井戸で体を拭き、それから裏庭の畑と花の手入れをしていると三治が戻ってきた。三治は遠くから新之助を認めるなり走り帰ってきた。
「申し訳ありません、遅くなりました。今すぐに朝食の支度を致します」
それは昨日の事など嘘のようにいつもと変わらない姿で、新之助は一瞬夕べのことは夢だったかと思ったほどである。だが三治が新之助に視線を合わせようとしない事に気づき、台所へ走って行こうとした三治を呼び止めた。
「三治」
「は、はい」
振り返った三治の顔は、不意の事に対応できず、眩しそうに新之助を見ていた。新之助の胸が熱くなる。
「三治」
新之助は外も構わず、三治の腕を掴んで引き寄せた。あ、と小さな声を上げながら抱き寄せられた三治は、戸惑いながらも嬉しさを隠し切れないように笑顔を見せた。新之助の顔も同じだったに違いない。三治の目は愛しげに細められた。
「・・・新之助様、泥が付いてしまいますから」
拒むでなく、三治は優しく新之助を押し返した。そしてくるりときびすを返し、再び台所へと走っていった三治の首筋が赤くなっているのを、新之助は満ち足りた思いで見つめた。
朝食が済むと、道場へ出かけると言う新之助を三治は「行ってらっしゃいまし」と当たり前のように送り出した。新之助が何をしてくるつもりか知らない三治は、千代がいないとはいえ普通どおりの生活が続けられるのは当たり前と思っていた。正直に言えば、あのような夜を過ごした後では、明るい日の光の下で新之助の顔を見続けるのは難しかった。昨夜の事を思い出し、堪えきれない喜びや、また新之助に触れたいと思う気持ちが顔に出てしまわないか心配だったのである。
新之助は道場での稽古が終わると一郎太に声をかけた。人気のない所へ連れ出し、こっそりと一郎太に言った。
「すまないのだが、他に頼れる者がいないので、お前に尋ねたいのだ。その、昼間から話しづらい事なのだが、男同士の作法を教えてもらえるところを知らないだろうか」
新之助が一郎太に聞いたのはわけがある。一郎太はかつては美少年と呼ばれ、三治と共に女形を演じた線の細い少年だったが、成長すると逞しい青年になった。真面目で面倒見のいい性質は道場の年少の弟子でも憧れるものが多く、陰では誰が一郎太の念者になるかで争った者さえいたらしい。一郎太は心得ていて、一人に入れ込むことはないが、どうやらその幾人かとは関係しているだろうと新之助は考えていた。もしも見込み違いでも、それを教えてもらえる所は知っているだろうと見込んでいた。果たして、一郎太は一瞬絶句した後、心得たように頷くと、黙って新之助を茶屋へ案内してくれた。
「そうですか。とうとう」
一郎太は茶屋に着き、茶屋の女将になにやら囁いて、一室に新之助と落ち着いてからようやく言った。
「・・・とうとうとは、どういう意味だ」
新之助は怪訝そうに言った。そんな事を言われる理由は思いつかなかった。
「三治でございましょう。新之助様」
ところが一郎太に即座に核心を突かれて新之助は絶句した。もちろん相手は誰かと邪推されることは分かっていたが、最初から一郎太には新之助の相手が三治だと分かっていたのである。さすがの新之助も顔が赤らんだ。
「そんなに恥ずかしがらなくてもよろしいのです。あの三治のお染姿は、私も今でも鮮明に覚えております。可愛らしゅうございました。それを見て新之助様がどのような顔をなされていたか、ご本人は分からなくても当たり前でしょうが、一番近くにいた私にははっきり分かりました。あれ以来、新之助様と三治が互いにどれだけ思い合って、どれだけ苦しんでこられたか私は知っていました。他の者は気づかなかったでしょうが、あの時一緒に演じていた私には分かったのです。だから今はお祝いいたしますよ。思いを遂げられたのですね」
「一郎太・・・」
いくら衆道が流行りだとしても、武士の嫡男としては大っぴらに誉められるような事ではない。だからこうして祝福してもらえる事があるとは思っていなかった新之助は思わず胸が詰まった。三治にもそうだろうが、新之助にも辛い日々だった。今それを過ぎて、新之助は三治をようやく手にしたのである。躍り上がりたいほど嬉しい思いを、誰かに話せる事が新之助には大きな幸せだった。
「新之助様が蕗さまをお迎えになると決まった日、三治が宴席の支度をしながらどんなに苦しそうな顔をしていたか新之助様は気づかなかったでしょう。三治は新之助様の前に出るとしゃんと顔を上げていましたから。あんまり可哀相で、慰めてやりたくてたまりませんでしたよ。三治が望まないと思ってやめましたが」
「そうなのか。一郎太、お前には驚くぞ。しかし三治が苦しそうな顔をしていたのは気づかなかった。三治があまりにも普段と同じ顔をしているので、苦しいのは自分だけだと思っていたのだ。私は身勝手だ。可哀相な事をした」
「もう昔の事ですよ。忘れましょう。今から可愛がって上げればいいのです」
「うん、そうだな」
可愛がる、という一郎太の言葉に、新之助はつい顔が赤らんだ。それを見た一郎太が微笑んだ。そして、それから女将が差し入れてきた道具を指し示し、新之助に男同士の作法を一からみっちりと教え込んでくれたのである。新之助は一言も聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けた。そして、用意された道具を、一郎太に進められるまま懐に仕舞い込んだ。どうやら三治と今以上に近づける術があると分かって新之助は満足である。三治の事を思えばすぐにとは行かないだろうが、いつかそうなれるかもしれないと思うだけで新之助の心は満たされた。時間はかかっても、いつかそこに到達したいと新之助は思った。
作法の話が終わると、早々に帰ろうとする新之助を一郎太が真面目な顔で引き止めた。
「新之助様、この際ですので、一つお知らせしておきたい事が」
「うん。どうしたんだ」
新之助は一郎太の真面目な顔を見て座りなおした。どうやら大事な話らしい。
「・・・新之助様に黙ってしてしまった事なので、申し訳ないとは思ったのですが、これ以上私達も我慢ができませんでしたので」
「我慢?どうしたのだ。何かあったか?」
「厳達さまです。新之助様の免許皆伝を見届けると仰って、あれから何年経ちます。新之助様も随分上達された事ですし、今なら皆伝も夢ではございません」
「うん、そうだな。だが私としてはまだまだだと思うのだが。厳達殿はますます充実しておられるし、弟子も良く指導しておられる。いい指導者を選んだと、祖父を見直していたのだ」
「もちろん厳達様の剣技は素晴らしいものでございます。ですが、早川幻刀斎を継ぐのは新之助様ではございませんか。初代のお孫様が継がずにどうするのです。免許皆伝したら道場を返すと言う約束も、厳達様はお忘れになったのではないかと心配しておりました」
「そうか。お前の気持ちはありがたいが、私の腕は到底幻刀斎を継げる様なものではない。お前も分かっているだろうが、今の早川は暮らしていくのに精一杯だ。今日のように道場へ来る事で、私の働き扶持が三治や母上の肩にかかってしまうのだ。それに、もしも道場を返されたところで、殿から与えられた屋敷を勝手に替わる事はできない事はお前も分かっているだろう。それに厳達殿はあの剣技と指導力であそこまで上られたのだ。立場が逆転したからと言って恨む筋はない」
「厳達様も同じ事を仰っていました。ですが、せめて免許皆伝だけでも果たさなければ、幻刀斎さまに顔向けできません。あれだけ厳達様に頼んでお逝きになった幻刀斎さまですよ。新之助様」
「うん。それは私も考えていた。今の私は、祖父に叱られそうな事ばかりしている」
「そんな事は・・・新之助様、厳達様はもしも新之助様が望めば、いつでも免許皆伝を見届ける準備ができていると仰られました。新之助様さえ良ければ、私がお取次ぎいたしますが」
「うん・・・」
新之助は考え込んだ。祖父がなくなって道場を明け渡してから、蕗との婚儀の準備で忙しく、その後屋敷を追われ、父の失態で更に追い詰められ、父の葬儀や子供のこともあってまともに稽古ができない日が続いた。屋敷でただ稽古と勉学にいそしんでいた時とは比べ物にならないほど、新之助の剣は鈍っていると自分で分かっていた。もちろん、今の家に移った後も生活の間を縫って朝晩の素振りは欠かさなかったが、道場で鍛えるのとはわけが違う。新之助は自分の体が、今は武士と言うよりは農民向きになってきている事を知っていた。
新之助はしばらく考えてからようやく言った。
「・・・色々すまないな、ありがとう。一郎太。お前には感謝しているよ。いつでも私の味方でいてくれる。本当に信頼できる友というのは中々いないものだ」
「友などと、何を・・・もったいないお言葉でございます」
「だが今ではお前の方が余程立派になったではないか」
一郎太は元々は藩の豪商の息子だったのだが、次男に商家は譲って藩士の養子となり、本物の侍になったのだった。豪農や羽振りのいい商家では、台所事情が厳しく、跡継ぎのいない藩士の家に息子を婿に出す事が多々あった。もちろん、持参金を沢山持っての婿入りである。
「いいえ、生まれが違いますから。今でも早川家を主家と思っております」
「ありがとう。先ほどの話だが、私も今まで生活で精一杯だったが、私の免許皆伝はお祖父さまの悲願だったからな。いずれは果たさなければならないだろうと思う。恥ずかしい限りだが、今我が家は三治が家賃を入れてくれているのでもっている様なものなのだよ。だが最近は畑も順調で食べるに困ることもなくなった。これからはもう少し道場へ頻繁に顔を出す事にするよ。時期が来たら、厳達殿にも見届けていただけるよう、お願いしよう」
「そうでございますか!良く決心なさいました」
「うん。だが、母上と三治に今までより負担をかける事になってしまう。それだけが心配だが・・・」
「お母上も三治も、新之助様が免許皆伝となれば大喜びされる事でしょう。心配は要りません」
「そうだな。それでは私はそろそろ帰る事にするよ。明日また道場へ顔を出すから、その時に厳達殿にもこちらからお願いしておこう」
「はい、新之助様」
新之助は帰りの道々、免許皆伝のことと三治の事を交互に考えていた。免許皆伝が果たせたとしても、現実的には道場を返してもらうことは難しい。それを見込んで皆伝を見届けると言うほど厳達が腹黒いとは思わないが、厳達とてせっかく手に入れた道場主と言う立派な肩書きを失いたくはないだろう。だが新之助には、立派な道場の道場主になって弟子を指導する自分の姿が想像できなかった。小さい子供たちに剣や心構えを教える事も、自分の剣技を磨くことは新之助なりに好きだったし、精神を鍛える場としてこれ以上ないと思っている。だが自分には幻刀斎のような道場主よりも他の道があるような気がしていた。武家に生まれたならこうあるべきという考えに、染まりきれない自分を感じていたのである。
家が近づくと、新之助の頭の中は次第に三治の事で占められていった。懐の中を確かめ、これを三治に見られる前に自分の長持ちの中にでも仕舞い込まなければならないと思う。今日も三治と二人きりで過ごせると思うと新之助の足が軽い。終いにはほとんど小走りで家に帰り着いた。町に寄っていたので、もう夕方だ。家の周りはいつもより片付いており、壊れかけていた柵も直っていた。休みだと言うのに、三治は普段できない事をと一生懸命になってやってくれたのだと新之助は思った。
「新之助様、お帰りなさいまし」
不意に現れた三治に声をかけられ、新之助ははっとした。新之助はどうやらかがんで庭の花の世話をしてくれていたようだ。新之助が咲かせた花の間に三治が立っている。泥に汚れていても、その姿は新之助にはなによりも美しい光景だ。
「うん、帰った」
「道場はいかがでした」
「うん、色々あってな。後でゆっくり話をしよう。裏の畑はどうだ」
「茄子も胡瓜も良い出来でございます。明日には全部取ってしまわないと」
「そうか。明日も道場へ行かなければならないので、今日の内に収穫してしまうよ」
「いいえ、新之助様は少しお休み下さい。明日の収穫は一人でも充分でございます」
「お前は今から夕食の支度か?いいから畑は私に任せておきなさい。自分の畑くらい、自分で世話しなくてどうする」
「それでは、お願いいたします」
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