【 花より色は8 】
そっと障子が開き、カヨが顔を出した。カヨは年頃の女中で、屋敷の使用人の中では一番可愛らしい顔をしているので若い男の使用人の間では人気があることを新之助も知っていた。年はおそらく三治や新之助よりも三つ四つ上だったと思うが、新之助の目から見ても可愛らしい娘だった。だが今、新之助はカヨの後ろに三治を探していた。見れば、三治はさっきの使用人に抱きかかえられるようにして廊下の隅にいた。
「さあ、三治」
カヨと使用人の男に半ば強引に新之助の部屋に押し込められ、カヨと使用人が素早く部屋を出ると三治はそのまま畳に突っ伏した。
「三治」
新之助は震えて小さくなっている三治をじっと見つめた。顔を伏せたままなので表情はわからない。だが、着物の袖やすそから出ている手や足に、紫色の痣がある事に新之助はすぐに気づいた。手首には、くっきりと宗二郎がつけたと思われる指のあとが残っている。三治がどれだけ抵抗したのか、叫び声さえ上げられないまま酷く扱われながらなぶられたのか、それだけで良く分かる。新之助は、体の芯から怒りが湧き上がってくるのを感じていた。
だが、その怒りは三治に向けられるものではない。新之助は立ち上がり、三治のそばへと寄った。途端に、三治が座ったまま部屋の隅へと身を寄せた。そして、このまま消えてしまいたいと思っているかのように身を小さく小さく丸めている。
「三治」
新之助は優しい声で言った。イシが、三治は新之助の事を怒っている訳ではないと言っていた。それを信じよう。
「三治、夕べは待っていたんだぞ。どうして来なかったのだ。この間渡した本は読んできたか」
三治は伏せたまま首を振った。小さな水玉が飛び散る。三治は泣いているのだ。
「顔を上げなさい。三治。それとも、口がきけなくなってしまったのか」
あえて軽口を言ってから、もしかしたら本当にそうなのではないかと新之助の背中がひやりとした。イシが言葉を濁したのは、ショックのあまり三治が言葉を失ったと言う事ではないのか。
「三治」
思わず新之助は真顔で三治に近づいた。三治が逃げる間もなく、新之助は三治の肩を掴み顔を上げさせた。
「三治・・・!」
三治の顔を見て、新之助は絶句した。三治の顔は、口の周りから頬、目の周りまで何かにかぶれたように赤く腫れていた。宗二郎の酒含みの口で顔中を舐められ、涙と鼻汁が混じり、その顔を宗二郎の布団や畳に押し付けられて後ろから責められたのだ。その腫れは、それから一月ほども引かなかったものである。だが、新之助が詳しく見る間もなく三治は後ろに跳び退って逃げた。
「手をお触れになってはいけません」
三治は小さな声で言い、また畳に突っ伏した。自分がどんな顔をしているのか良く分かっているのだ。新之助にだけは見られたくなかった。三治は言葉が出ないわけではなかった。新之助は先走った心配が晴れて少しだけほっとする。
「どうしてだ。そんなもの、うつる訳ではないだろう」
新之助は努めて平常心を保とうとした。新之助が激情しては、話にならない事は三治を見れば良く分かる。
「それでも駄目なのです。私は、私は汚いのです。触ってはいけません」
「何を・・・」
「新之助様のお世話はイシ様にお願いしました。カヨさんもやると言ってくれました。私はもう、新之助様の前には出られません」
「三治!」
「お願いです。こんな汚い体で新之助様のお世話をしたくないのです。新之助様が汚れます」
「馬鹿な事を言うな!どこが汚い!汚いのは、汚いのはお前ではない。悪いのは私だ。私も、父も、門田様も・・・お前をこんな目に合わせたのは私たちだ。お前が汚れていると言うなら、その汚れを押しつけたのは私たちだ。お前に咎はない」
「違います、違います!」
「違うものか!お前はずっと私に仕えると約束したではないか。その約束はどうするのだ。私の代になってもずっと私のそばにいると、約束を破るのか!」
「でも、新之助様・・・」
三治は顔を上げ、新之助を見つめながら涙を零している。新之助は、体の底から三治を愛しいと思う気持ちが湧き上がってきて、耐え切れずに三治を抱きしめた。
「許してくれ、三治」
「!何を、新之助様・・・」
「お前を助けられなかった。お前の悲鳴が聞こえていた。父母に止められて、どうしても行けなかった。振り切ってもお前を助けるべきだったのに」
「そんな、そんな事をしてはいけません。お父上の言いつけに逆らうなど」
「お祖父さまならきっと止めた。お祖父さまがいてくださったら良かったのに。お祖父さまが帰ってきたら話をしてもらう。お前を門田さまに渡したりなどするものか」
「新之助様・・・」
三治の目から新たな涙が溢れ出た。だが今三治の心は満たされていた。どれだけ洗っても落ちないと思っていた汚れが、新之助の言葉で洗い流されていくような気がした。辛かったのは、宗二郎にされた事ではない。汚れてしまった体で、もう新之助のそばにはいられないと思った事が辛かったのだ。だが、新之助は三治にいて欲しいと言ってくれる、それだけが、三治の幸福だった。
「新之助様」
三治はそっと新之助を押し返した。主人が使用人を抱きしめるなど、こんな事をいつまでもさせてはいられない。新之助の優しい目が三治を見つめていた。三治も、自分の顔を恥じることなく見つめ返す。新之助が三治の頬に指を触れて言った。
「・・・辛い思いをしたんだろうな」
「いいえ、もういいのです。何でもありません。新之助様にこれからもお仕えできれば、それだけで」
「三治」
新之助は三治の唇に自分の唇をそっと押し付けたい欲求と闘っていた。だが、そんな事を三治が望んでいるとは思えない。それを無理にすれば、宗二郎の振る舞いと同じ事だ。
「お前が、芝居小屋に売られるのだったとイシに聞いた事がある。そこへ行った方が、お前には幸せだったのではないか」
「何を仰います」
「お前だったら人気の役者になった事だろう。こんな思いは、する事などなかった」
「新之助様。私は役者など無理です。祭りの芝居を思えばお分かりでしょう。演じるなどと言う事は私には向いていないのです」
「だが、お前のお染は綺麗だった。お染役も真に迫っていた」
「それは・・・」
相手が新之助だったからとは、言い出せない三治だった。
「・・・それでも、役者になどなりたくありません。芝居小屋に売られていたら、新之助様にお会いする事はできなかったでしょう」
熱く語りながら見つめ返すその目に、主人に対する思慕以上の気持ちがなかっただろうか。だが、それを推察するには新之助は子供過ぎた。ただ新之助は三治を離したくないと思った。新之助は、三治の頬から唇に指を這わせる。それだけで、体が震えるほどの痺れが新之助と三治の体を駆け巡った。それは、強い幸福感と苦しみに似た痛みが混じる不思議な感覚だった。それが何だったのかを二人が知るのはもう少し先のことである。今の二人は、元の間柄に戻れる事だけが一番の幸せだった。
幻刀斎が帰ってきても、新之助は幻刀斎に宗二郎の振る舞いを言いつけることはしなかった。告げ口が嫌だった事と、幻刀斎がすでに宗二郎のことを知っているらしいと分かったからだ。祖父と父はその事で少しもめたらしい、だがそれは決して三治を気遣うものではない事は新之助にも分かっていた。三治を守ってやれるのは新之助しかいなかった。しかし今は幻刀斎が苦言を呈した事で宗二郎は少しおとなしくなった。加えて、三治の顔が腫れ上がっているのを知って、自分のせいであるのに宗二郎は三治に興味を失ったように見えたからだ。だが、それも一時だろうと新之助は思っていた。三治の顔が治れば、幻刀斎のいない隙を狙ってまた宗二郎は三治を床に呼ぶだろう。新之助は、自分の力で決着をつけたいと思っていた。左衛門がどう言おうと三治を宗二郎に渡す気などなかった。
そんなある日、新之助は道場の備品倉庫に用があって裏庭に来たとき、使用人たちが噂話をしながら洗濯をしているところへ行き当たった。その中にはイシもいた。イシは、千代の洗濯物を洗っているのだった。新之助は咳払いをして行き過ぎようとして、イシが三治の名を口にしたのを聞いて思わず立ち止まった。
「おかげで三治の傷も大分良くなってきましたよ。あなたの薬草のおかげだわ」
「いいのよ、いつでも使って頂戴。三治は本当に可哀想だったわねえ。カヨが同じ目に合っても可哀想だったと思うけど、男は受け入れるようにはできてないんだからねえ、そういう意味では娘がされるより痛かったのじゃないかしら」
「・・・本当にねえ。それに、門田様の言い分たらあなた」
「なに、どんな事を言ったの?」
「私、三治が死にやしないかと門田様のお部屋の前で終わるのを待っていたのよ。三治が苦しそうな声を上げてねえ。猿轡をされていたのよ、一つ間違えば死んでいたわよ」
「酷い話ね・・・」
「門田様は私が廊下にいることをご存知だったのよ。終わったら、まるで雑巾を捨てるみたいに血だらけの三治を私に投げて寄越したわ。私もう怒れてきて、思わず『死んでしまいます。三治は新之助様の使用人です』と言ってしまったのよ。そうしたら門田様が何て言ったと思うの。『下男などいくらでも代わりはいる。死んだら俺が弁償してやると坊ちゃんに言っておけ』って・・・。私もうあんまり怒れて何も言えなかったわ」
「あんまりだわね・・・この家の方たちはいい方たちばかりなのに、三治は本当に不運だったね」
その話を聞いていた新之助は、怒りのあまりその後の事は良く覚えていられないほどだった。必死で自分の部屋にたどり着き、それから体を震わせながら冷静になるのだと自分に言い聞かせた。想像はしていたが、宗二郎の態度はあまりにも酷い。これが自分と同じ武士なのだと思うと新之助は吐き気がしてくるほどだった。新之助とて、手段こそ間違いだと思うが、宗二郎が本当に三治を愛おしんで床に呼んでいるのなら理解もできる。だが、宗二郎にとって三治は欲を処理するだけの相手に過ぎない。顔が少し可愛いからその気になったのだろうが、三治の何を理解して肌を合わせたいと思ったわけではないのだ。もしも宗二郎のお小姓にでもなれば、三治は本当に死んでしまうかもしれない。そんな事は絶対にさせられなかった。どうしたらいいかと、新之助は今までの経験と知識をかきあつめて必死に考えた。三治を渡す事は絶対にできない。新之助は体を固くしたまま、ひたすらに思案し続けていた。
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