花より色は9
 それから一月が経ち、三治の顔の腫れも納まった。今では新之助のお供をして藩校へ行く仕事も元通りに続けており、三治は今までにも増して働いた。新之助との勉強も再開されていた。二人の間で宗二郎の一件は語られる事がなく、新之助はただひたすら元のように三治に接し、三治も屈託なく新之助に仕えた。だが、心の中までは分からない。事実、新之助の内容は大きく変わった。それまで当たり前のように感じていた武士の暮らしにも、新之助は違和感を感じるようになっていた。父の言う事はどんなに間違っていると思っても逆らえず、父や宗二郎をはじめ、使用人を人間とも思わない同じ武士がいる事に嫌悪感を抱くようになっていた。新之助は思慮深くなり、自分の行動に今までよりももっと気をつけるようになった。父母と話していてもふと思案気に一点を見つめる新之助は急に大人びてきたように父母の目には映ったようだ。あと一年、二年もすれば新之助も元服である。いい傾向だと、左衛門は単純に喜んでいたようだ。
 新之助が考えていた通り、その頃から宗二郎はまた裏へ現れては三治に声をかけてくるようになった。三治は宗二郎が恐ろしくてならなかったが、さすがに昼間人目のある場所で何かされるとも思えず必死で平静を保った。使用人はほとんどが三治の味方だった。それに、今のところは幻刀斎の無言の脅しが効いているのか、夜呼ばれるようなこともなかった。さりげなくではあったが、新之助からもし次に次に夜中誰かに呼ばれたら、新之助の部屋へ走って来るようにと短く言われていたから、余程でない限りあの時のような事が起こる事はないだろう。だが、宗二郎は狡猾だった。三治が新之助の使用人だから自由にできないのである。それならば、自分つきの使用人にしてしまえば好きなようにできると考えたらしい。宗二郎が左衛門にそう何度も催促している事を、三治は知らなかった。
 新之助がそれを知ったのは、祖父からであった。新之助は内心の動揺を抑えながら祖父に訴えた。

「お祖父さま、ですが三治は私の使用人です。父上であれ誰であれ、私に断りなく誰かに譲り渡すなど私には承服しかねます」
「新之助、そなたの気持ちは分からんでもない。それに、門田様も勝手気ままをさせるためにこの家に宗二郎殿を預けたわけではあるまい。だが、そなたに口が出せるような話ではないぞ。三治は確かにお前の使用人だが、雇っているのはそなたの父だ。私は隠居の身だし、そなたの父が決めたことならそなたも逆らうわけにはいくまい」
「それは分かります。ですが、一つだけ私のわがままを聞いていただけないでしょうか。門田様がどうしても三治を欲しいと言われるなら、私を門田様と手合わせさせて下さい。私が負ければ三治は黙ってお渡しします。ですが、私が勝った場合には」

新之助の言葉に幻刀斎の目がきらりと光った。新之助は若い者の中では抜きん出て強い。だが、新之助と宗二郎の間には五歳の年の差がある。宗二郎も道場へ預かりになった以上さぼりがちではあるが稽古はしているし、それなりの、天性の腕を持っていた。だからこそ本人が天狗になるのもある意味仕方のないことなのである。新之助と宗二郎、どちらが強いかは幻刀斎にもすぐに見分けが付くものではなかった。だがもし、宗二郎が五歳も年下の少年剣士に負けたとあれば、さすがに恥と感じて反省もするかもしれない。左衛門も、何のために宗二郎を預かったのか分からないと少しは真剣に宗二郎の性根を変えようと考えるかもしれない。幻刀斎はしばらく考えた後に言った。

「・・・いいだろう。だがそなたが負けたら使用人一人を差し出すと言うのでは、そなたには少し有利すぎないか。何も失うものがないではないか」

新之助は黙った。幻刀斎にも、新之助にとって三治がどれほど大事な存在か分からないのだ。新之助は自分の中の反抗心がむくむくと上がってくるのを押さえきれずに言った。

「そうですか。それでは、私が負けたら私が宗二郎様の夜のお相手を仕(つかまつ)るというのではいかがでしょうか」
「馬鹿を申すな、新之助!」
「・・・申し訳ありません」
「・・・まあ、よい。まだ宗二郎殿も無理を言っているわけではないようだし、そこまでする程の事もないだろう。だがもしそのような事になれば、立会いを許そう。だがその前に、そなたは母上を説得しなければならないぞ。母上は、そなたが三治に対して宗二郎殿のような振る舞いをしてしまうのではないかと心配しておるのだ。そなたが三治をかけて立会いをするなどという事になれば、母の心配は深くなるばかりだ」
「・・・はい」

新之助は頭を垂れた。自分の浅はかな行動が、ここまで父母を心配させているのだ。祭りの後三治に対して邪な思いを抱き、それを面に出すような事さえしなければ、三治は自分の使用人なのだと大きな声で言っても邪推もされず、いらぬ心配もされなかったであろう。新之助は目を閉じてじっと思案した。宗二郎が強情を張らなければそれでいい。だが、もしそうなれば千代を説得しなければならない。母を説得する方法は一つだけある。だが、それは新之助には心を捨てるようなものであった。

 それから一週間ほどの内に、三治は二度夜中に新之助の部屋に逃げてきた。宗二郎は余程切羽詰っていると見えた。幻刀斎がいても、強硬手段に出るようになったのである。

「新之助様、新之助様」

廊下から三治に呼ばれ、新之助はハッと目を覚まして飛び起きた。そのまま障子を開けて三治を中へ入れる。廊下の向こうから、宗二郎がやってくるのが見えた。

「こんな夜更けに、どんな用事だと言うのだ」

宗二郎が不機嫌そうに廊下から問いただしてくる。三治は、宗二郎に呼ばれてすぐに「新之助様に用事を言いつけられていたのを忘れていました」などと言って新之助の部屋へ逃げて来たらしい。

「藩校のご本の整理を手伝って欲しいと言っていたのです。思い出してくれて助かった、三治。明日持って行く本を探さなければ」

新之助は三治を後ろにかばいながら言った。三治は、すぐに新之助の書棚に向かっている。新之助も並んで書棚に向かった。

「少しは片付けておかないといざと言うとき困るな。今から頼めるか、三治」
「はい、新之助様」

宗二郎を無視するように二人で本を引っ張り出し、それからまた並べ替えて本棚にしまったと思うと新之助が「これはこっちのほうがいいだろう」と再び引っ張り出す。廊下でじりじりして待っていた宗二郎も、二人の辛抱強さに飽きてやがて部屋に戻っていってしまった。宗二郎の部屋の障子が閉まる音がして、ようやく二人で息を吐く。ここへきてようやく三治の顔が青ざめて、細かく震えていた事に気づいて新之助は肩を抱いてやった。いつも何もなかったような顔はしているが、宗二郎との一夜は三治には忘れられない恐怖なのだ。

「ありがとうございました、新之助様」
「うん、何もなくてよかった」
「こんな夜更けに、ご迷惑ばかり」

二度目のとき、三治は目に涙をためて新之助に謝った。新之助にこのような迷惑をかけるくらいなら、宗二郎の好きにさせてやるべきだと思うのだが、最初の時の恐怖が強すぎてどうしても宗二郎の言うままになる気にはなれない。だが新之助は優しく言った。

「いいんだ、気にする事はない。いいか、おかしな事は考えずに、これからも宗二郎どのに呼ばれたらすぐにこちらへ逃げてくるのだよ。宗二郎様の好きにさせるのは、宗二郎どののためにもならない。早川家だからこそと頼みにして宗二郎どのを預けてくださっている門田様にも申し訳ないことだ。こうするのは早川家のためなのだよ、分かるな」
「はい・・・」

三治は頭を垂れて頷いた。早川家のためと新之助は言ってくれてはいるが、新之助が当主の意に逆らっているのは確かだ。その気持ちがありがたくもあり、恐れ多い気持ちもする三治だった。

「それでは、部屋に戻ります」
「うん。もう宗二郎様も寝たことと思うが、また呼ばれたら何度でもここに来るのだぞ」
「はい」

三治はそっと身を引いて手をつき頭を下げた。甘えすぎてはいけない事は良く分かっていた。それでも、新之助の優しさが三治の身に染み渡る。どんな事があっても、この主人についていくのだと三治は強く思った。



 それから数日の後、宗二郎が正式に三治を自分の使用人として譲って欲しいと左衛門に言った事を新之助はイシから聞いた。それをイシに教えたのは千代だが、イシは真っ先に新之助の部屋にやって来て訴えたのだ。イシはほとんど気が動転していた。自分が三治をこの家にと推薦したせいで、逆に三治には悪い事になってしまったと自分を責めているのだ。とうとうこの時が来てしまったのだと、新之助は努めて心を鎮めながらイシに言った。

「イシ、こんな事になってしまってすまない。だが私も黙って三治を渡す気はない。母上の許しがないとどうにもならないかもしれないが、それでもやるだけの事はやってみるつもりだ。上手く行くよう、祈ってくれ」
「新之助様・・・」

イシは畳に伏して号泣した。自分の力ではどうする事もできないのだ。新之助の言葉だけが頼りのイシだった。
 さて、こうなった以上考えても仕方がないと新之助は早速立ち上がった。宗二郎と立ち会う事は、幻刀斎には許してもらっているが、千代の許しがなければどうしようもない。いわば三治をかけて決闘するのだと知ったら、千代の心配は募るばかりだろう。千代に言うべき事はもう決めていた。迷っていても仕方がない。やらなければ、新之助は三治を失うのだ。

「母上、おいでですか」

新之助は千代の部屋の前で声をかけた。すぐに千代の声が返事をする。

「おりますよ。お入りなさい。何か用ですか」
「はい」

新之助は千代の部屋に入って障子をきちんと閉めると、何か書き物をしていたらしい千代の前に正座した。

「母上、お願いがあります」
「何ですか、改まって」
「三治のことです」
「それは、どういう事ですか」
「宗二郎殿が三治を使用人として自分に欲しいと仰ったと聞きました。父上は宗二郎様の言うとおりに三治をお渡しになるおつもりでしょうか」
「さあ、それは私には分かりません。ですが、恐らくはそうなるのではないでしょうか」
「母上、三治は私の使用人です」
「分かっておりますよ。ですから、私も新之助に無断でお譲りになるのはどうかと申し上げました」
「本当ですか」

新之助は少しだけ驚いた。母が父に逆らうような事を言う事はないと思ったのだ。千代はわずかにしまったと言う顔をして視線をそむけた。

「いえ、そこまではっきり申したわけではありませんが・・・。旦那様のお決めになった事なら、私たちにはどうする事もできませんよ」
「それは分かります。ですが、私の納得できない気持ちもお分かり下さい。それに、お祖父さまも簡単に宗二郎様の言うとおりにするのはどうかと仰っていました。宗二郎殿が我意をお通しになるなら、それなりに早川家へ来た成果をお見せいただいたほうがいいのではとお祖父さまとお話しました」
「そうなのですか。ですが、成果などと言っても簡単に見せられるようなものは・・・」
「私と立会いをお願いしたいのです」
「立会い?」
「はい。私は元服前の弟子の中では筆頭になっています。その私と立会いをして、宗二郎様が勝てば三治をお渡しします。ですが」
「新之助」

千代が厳しい声で新之助の言葉を止めた。

「はい」
「あなたは三治をかけて宗二郎様と立会いをするというのですか」
「はっきり申し上げれば、そうです」
「なんという・・・そんな事は許しませんよ。三治をかけるなど・・・そこまでしてそなたは三治を自分のものにしたいのですか」
「三治は私の使用人です。最初からそう申し上げています」
「そういう意味ではありません。まだあの芝居を引きずっているのかと言っているのです。分かっているのでしょうからはっきり言いましょう。そなたは三治が好きなのですね。宗二郎様と同じように、三治とそのような仲になりたいと思っておいでなのですね」
「違います。私は宗二郎殿と同じことをしたいわけではありません。あんな非道な事は決して」
「新之助、話をすり変えるのではありません」
「申し訳ありません、母上が宗二郎様と同じようにと言われたのでつい・・・。母上の心配されている事は分かっています。母上には私が宗二郎どのと痴情の上の果し合いをするように思えるのでしょう。ですが、そういう意図は決してありません。もし私が勝って、三治が今のまま私の使用人でいられる事になっても、私は三治をそのような対象にはしないとお約束します。父上と母上の仰る方を娶って立派に早川家の跡継ぎを作ります。ですからどうかお願いします。宗二郎様と立ち合う事をお許し下さい」
「新之助・・・」
「それに三治は私の乳兄弟ですよ、母上。乳兄弟が非道い目にあうと分かっていて、黙っていられる兄弟がいていいものでしょうか」
「・・・」

千代が考え込んだのを見て、新之助は黙った。言うべき事は言ってしまった。本当は嫁取りなど考えられなかった。三治をそのような対象にしないと誓ったのは、新之助には辛い決意だった。芽生え始めていた新之助の性は、今は三治にしか向いていなかった。だが、武士の家の男子として、それは許されないことだ。だがそれを忘れなければ、使用人としての三治すら失う事になる。それならば、心を捨てても三治を手放さなずに済む道を取るべきだ。
 しばらく思案していた千代がようやく言った。

「・・・分かりました。そこまで決意しているのなら許しましょう。立会いの事は、お義父さまがお許しになれば旦那様もそうされるでしょう。宗二郎様がそなたに勝てば、うちへ預かった体面も立つでしょうし、そなたに負ければ宗二郎様も少しは心を入れ替えるかもしれません。さっきの事、信じますよ、新之助」
「はい、必ず」

千代は頷いた。新之助はつと頭を下げて立ち上がった。千代に笑いかけたほうがいいと思ったが、笑えなかった。まだ勝つと決まったわけではない。そして勝ったとしても、新之助には破れない約束ができた。三治の唇に指で触れた時の事を思い出す。あんなに心が震える事は、これから一生ないだろう。それでも、三治を失うよりはましだ。新之助は稽古をするため、一人道場へと向かった。



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