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猫伝 第五話

ご主人を見失ってしまった今、我輩はその黒髪の男の後をついて行くことにした。
男は森の中をフラフラと彷徨う。
時折、ぬぼーっとした顔の大男が立っているのが見えた。
灰色の皮膚の上が苔に覆われている、グゥーブーと呼ばれる生物だ。
彼らの生態は極めて深い謎に包まれており、少し前までは名前の発音でさえ「ゴッブー」、
「グービュー」、「どーも君」などと諸説入り乱れる有様だった。
だが鈍重そうな形をしているだけあって、どうやら森を歩く我々には気付かなかったらしい。
どれ程歩いた後だろうか、男は森の奥にそびえる立派な大樹の前で立ち止まった。

「神木……これか……?」

男は鞄からマサカリを取り出し、聖地の木の枝を切り落とした。
だがそのとき、我輩は木々の間から凄まじい殺気を感じた。
横を向くと、生えていた樹の一本が突然動き出している。
気のせい? いや、樹の精である。
そいつは、後ろを向いたままの男に向かって太い根を叩きつけた!
男は急なことに対応が出来ず、横殴りに吹き飛ばされる。

「くっ……敵がいたか……。」

男は腰に挿した短剣を抜き放ち、左右の手に構える。
続いてきた樹の番人の攻撃をかわすと、二本の刃を同時に敵へと突き刺した。
が……

「効いてない……のか……。」

短剣は樹皮の表面を浅く削り取っただけで終わった。
番人は相変わらず平気な顔をしている。

我輩は助けに入るべきか躊躇した。
戦いを見ていると、我輩が行った所で役に立つのか疑問だ。
義を見てせざるは勇無きなりとはいうが、自分が死んでしまっては万事休す。
そもそも我輩はこの男とは縁もゆかりも義理も無い。
名前が同じというだけの誼である。

そうこう考えていると、守護者は今度は葉っぱを撒き散らし始めた。
小さな葉の縁がナイフのようになり、男の全身を切り刻む。
男の体がたちまちの内に、赤い色に染まっていく。
もう助からないだろう……と、そのとき我輩は思った。

ガキィッ!!

番人の太い幹の真ん中に、小振りな斧が鋭く叩き込まれた。
守護者は驚いて、思わず後ろを振り向く。
そこに現れたのは皮鎧に身を固めた一人のミスラ……それはまさしく我輩のご主人だった。

「私が相手になってあげるわ。かかってらっしゃい!」


ご主人の参戦で形勢は変わった。斧が一振りされる度に着実に幹が抉られていく。
だが、樹の側も勢いは全く衰えない。
直撃こそ避けているものの、華奢なご主人の体に当たれば大怪我にも繋がりかねない。
我輩は慌ててご主人の側に駆け寄ろうとした。
その時、ご主人が男に目配せをした。そして、回すように斧を大きく振り回す。
タイミングを合わせ、男は短剣を素早く走らせる。つむじ風が巻き起こり、番人の枝を削ぎ落とした。
激しい風と葉の摩擦のためか、樹の怪物が巨大な爆炎に包まれる。
身を焼かれた番人は熱さのためか暫くのたうち回ったが、その内に炎の中へと崩れ落ちていった。
こうして、戦いは終わった……。


「キャル……どうしてオマエがここに……。」

「ユキトラ、その前に言うことがあるでしょう。」

ご主人は男を睨みつけた。男は一瞬口を噤んだ後、ボソリと答えた。

「助けてくれて……ありがとう。突然居なくなって悪かった。」

「はい、よく出来ました。」

それを聞くとご主人は自分の服の裾を破き、包帯代わりに男の右腕に巻きつけた。

「大丈夫だ、こんな怪我は放っておけば……。」

「化膿でもしたらどうするの。
 大丈夫と言うなら、せめて傷の手当てぐらい自分でやったらどうなの?」

わかったよ、と言って男は包帯を奪い取った。
そして端の方を結ぼうとするのだが……逆腕で利き腕を縛るのは中々困難らしい。
男がもたもたしてると、サッとご主人が手を伸ばして結び目を作った。

「ほら、自分じゃ何も出来ないくせに、何偉そうにしているの。」

「うるさい、仕方ないだろ。怪我してるんだから……。」

「私が来なかったら、怪我どころじゃ済まなかったかもしれないけどね。」

ウッ……、と男が返答に窮す。それを見てご主人はニヤリと笑う。

「ね。やっぱりアナタには私が必要なのよ。」


二人は神木の根に腰を下ろした。疲れたのか暫くは沈黙が続く。
聖なる森の深奥で男と女が肩を並べる。薄暗い森にさす木漏れ日が、二人の姿を土に映し出す。
幾許かの時間が経った後、男はご主人の近くへとにじり寄った。
男はご主人の肩の周りに腕を回そうとする。だが、ご主人の手がそれを押し留めた。

「何をしようとしてるの?」

「ごめん……。」

「謝れなんて言ってない。アナタが何をしようと思ったのか、それを答えて。」

「……。抱き締めたい、って思った。」

ご主人の目が細められる。しかしそれは直ぐに表情を殺したような冷たい顔に変わった。

「アナタ、私と別れるって手紙に書いてたわよね。
 ってことは、私が助ける義理も無いはずだから、アナタは今ここで死んでたってことになるわね。
 逆に言えば……私が今からアナタを殺しても、結果は同じだと思わない?」

「何を……。」

「ふふっ、冗談よ。でも、もし私が居なかったら、アナタは何を抱き締めるつもりだったの?
 樹の股とでも付き合うつもりかしら?」

そこまで聞いてから、男は深く溜息をついた。頭を何度か左右に振る。

「オレには誰とも付き合う資格なんて無いんだったな……。」

男は自嘲気味にそう言った。

「オレは、闇の世界で生まれた人間だ。向こうの奴らには、この世の法律も道徳も通用しない。
 必要と有らば親兄弟でも殺しあうような連中だ。目的のためには手段を選ばない。
 キャル、オマエのことは好きだった。いや、今でも好きだ。
 でも……オマエをそんな世界に巻き込ませたくは無い。」

ご主人は暫く黙って聞いていた。それから考えを決めたのか、男の方を向いて口を開いた。

「要するに……アナタはサッサと死にたいという訳ね。
 そうなる位なら……本当に今ここで殺してやるわ。」

ご主人は腰に差していた斧を構え直した。そしてその切先を男へと向ける。

「おい、何でそう……。」

「さっきの戦いだって、アナタ一人だと何も出来なかったでしょう。
 あの程度のことも乗り越えられないくせに、自分だけで何をしようっての……?」

「……。それは……。」

ご主人は斧を男の頭上に振り上げた! 
男は足が竦んだのか、覚悟を決めたのか、その場から全く動こうとはしない。
風圧と共に斧が勢いよく振り下ろされる!


……斧は男の脇を掠め、地面に深々と突き刺さった。
だが安堵したのも束の間、ご主人の体が男にぶつかり土の上に引き摺り倒す。

「いいかげんにしてよ! バカっ!」

ご主人は男の上に馬乗りになった。突然、堰が切れたかのように叫び始める。

「私はアナタが好きなの! 一緒に居て欲しいの! 他の事はどうだっていいの!
 私だって……アナタが居ないと、何も出来ないんだから!」

ご主人は顔をうずめて、男の胸板を拳で叩く。その肩が小刻みに震えてるのが判った。

「いきなり居なくなって、悲しかったんだから。寂しかったんだから。探したんだから。
 アナタ無しの暮らしなんて、考えられなかったんだから。」

途中から声が擦れてくる。ご主人の瞳から何かが零れ落ちるのが見えた。

「嫌いなら、そう言ってよ。そしたら、辛くても諦めるしかないから。
 でも……好きだと言っておいて、どうしてウダウダ言い逃れようとするのよ……?」

「キャル……。」

西日はゆっくりと沈もうとしていた。
ご主人の泣きじゃくる声だけが、深い森の奥に響き渡る。



「オレが……間違ってた。」

男はようやく重い口を開いた。

「キャルは立派だよな……自分のやりたいことを真っ直ぐに信じることができて。
 オレは今まで、やらなきゃいけない事の方が、やりたい事よりも優先されると思ってた。
 だけどそのせいで……一番大切なものを、見失っていた。」

男の目つきが変わった。先程までは何処か虚ろな瞳をしてたが、今はそのような浮つきは無い。

「オレの一番大切なもの……それはキャル、オマエだ!」

それを聞いてご主人の顔が微笑みに変わる。そのまま男の上にしなだれかかった。

「約束してくれる? もう、いなくなったりはしないって。私を独りぼっちにはしないって。」

「ああ、約束する。」

そしてご主人は、はにかんだ声でこう言った。

「ユキトラ……抱いて、いいよ。」

いつしか太陽は地平線に沈み、辺りは闇に閉ざされていた。



男がご主人の服を一枚づつ剥いでいく。片腕は背中に回されたまま、固く抱き締められている。
ご主人の『っゃっゃ』の肌が露わになる。男の唇がその上に吸い付き、全身を嘗め回した。

「ユキトラ……お願い。私と、一緒に……。」

男も服を脱ぎ捨てた。それを見てご主人が両脚を大きく広げる。
そこに生えた毛は、遠目から見てもビショビショに濡れていることがわかった。
男の体がご主人の上に覆いかぶさる。

「あっ、んっ……。」

男の腰が蠢動を始める。それを受けてご主人の体が激しくのたうつ。

「っぅ……! ぁぁっ……!」

ご主人が苦しそうに悲鳴を上げる。
にもかかわらずその眼差しだけは、艶を帯びて男のほうに注がれていた。

「愛してる……ユキトラ……!」


聞き覚えのある台詞……そうだ、メリファトでご主人に咥えこまれた時の言葉だにゃ。
ただ、あのときのご主人は、どこか心ここに有らずといった感じだったにゃ。
今は意識の全てを、あのユキトラという名前の男に奪われている。
そういえば、交尾という生理行動があるということを今更ながら思い出した。
これで鈍感な我輩にも、ようやくあの不可解な行動の合点がいった。
あの時ご主人は発情期だった。あそこでご主人が呼んでいたのはこの男にゃ。
でも誰も来なかったから……我輩で代わりにしたんだにゃ。
我輩を拾ったのも、単に一人でいるのが寂しかっただけかもしれぬ。
そう言えばあの男の居所を掴んで以後、我輩の姿は殆ど眼中に無かったようだった。
同じ猫に見えても結局は別の存在……所詮我輩は気まぐれの代用品でしかなかったということにゃ。

二人は既に自分達の世界に入ってしまっている。その世界に割り込むことなど誰にも出来ない。
ご主人は求めていた者を探し当てた。我輩を必要とすることは無いであろう。
それに折角ご主人が想い人に出会えたのだ、それを邪魔するような野暮な真似はしたくない。
幸いこの森には同族がいた。我輩は連中と棲むことにすれば良いであろう。
流石にあの人間の街に戻る気はしない。


我輩は足早に立ち去った。
背後では雌ミスラの嬌声が響き渡る。


我輩は猫である。名前はもう無い。

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小さな妖精の散歩

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