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ソイツは、その巨体からは信じられないほどの勢いで、ボクの足元に迫って来た。
ボクの足を食い千切ろうと、バックリと大きく開いた口から、幾本もの鋭く尖った牙が剥き出しになっている。
「うああああッッ!!」
ボクは思わず悲鳴を上げて、ソイツに負けずとも劣らぬ素早さで、その場から飛び退いた。
ばくんっっ!!
長い口が、虚しく空を噛む音…。
ソイツは、恐怖に引き攣るボクの顔を、「よくも逃げたな」といった風に黄色い目でギロリと睨み、再び襲い掛らんとこちらに向き直る。
じょ、冗談じゃないっ。このままじゃあ本気で死んでしまう〜〜〜!
「あ…アップルデリーさぁあぁあんッッ!!」
数十メートルほど離れた場所で、水中からゾロゾロと這い上がって襲い掛かってくるソイツらを、まるで子供と相撲ごっこでもしているかのような楽しげな表情を浮かべながら軽くいなしている人物に向かって、ボクは叫んだ。
「がっはっはっは!!こりゃあ大漁だぞマッキンマック君!!今日はワニ肉がたっぷり食える!!」
バカでかい声と豪快な笑い声が、木々の覆い茂る密林の中に響く。
「マッケンタイアですぅうぅっっ!!これじゃあワニ肉を食べる前に、こっちが食べられちゃいますよーーーっっ!!」
次々と襲い掛かって来る巨大なワニを必死で避けながら、情けない声で訴えるが…。
「なーーーにを言っとるんだね、マイティマイル君!!若いモンが、そんな弱気でどうする!!キミもしっかり晩メシの材料を捕りたまえ!!」
キックをかまし、パンチをかまし、尻尾を掴んで振り回して地面に叩き付け…襲い掛かるワニをいともたやすく撃退しながら、アップルデリーさんはそう切り返してきた。
「マッケンタイアですってばぁあぁ〜〜〜!!無茶言わないでくださいよーーーッッ!!」
じわっと涙が浮かんだボクの目に、さらにゾロゾロと数体、川の中からワニが這い上がってくるのが映る。
あぁ…もうダメだ、オシマイだぁ…。
隕石に打たれて死ぬのは本望だと思って、今まで地図を作り続けてきたけれど、よもやワニに食われて死ぬハメになろうとは…。
あまりの恐怖に、頭の中が真っ白になってくる。
すさまじい勢いで迫ってくるワニたちの動きが、何故かスローモーションのようにゆっくりと見えて、現実感が無い。
結局アップルデリーさんには、最後まで名前を覚えてもらえなかったなぁ…などと、頭の片隅でぼんやり思う。
ボクがこのまま死んでも、アップルデリーさんはきっと生涯一度たりとも、僕の名前を正確に思い出してなんてくれやしないだろう…。
葬式でも、弔辞を読み上げる時に、「私の助手のマッキントッシュ君は…」なんてマジボケして、参列者を笑わせてしまうんだ。
下手すると、墓標に刻まれる名前まで、「マイケルダック・此処に眠る」とか…。
あああああっ、そんなのイヤだあぁあぁッ!!せめて…せめて!!
「名前を覚えてもらってから死にたいーーーッッ!!!!」
ボクは絶叫して、一斉に飛び掛ってくるワニたちを、奇跡のような身のこなしで全て避け、そのまま超音速のスピードで密林の中に飛び込んだ。
「おーーーい、マクティマーズ君!!何処へ行くんだねーーー!?」
そんな事、ボクにだって解りませんよ!!
どんどん遠くなっていくアップルデリーさんの声に、心の中でそう答えて、ボクは密林の中をひたすら走る。
あぁ、一体何故こんな目に…!
ざざざっっ、スルズルズル…と、草や地面に何かが擦れ合う音が、幾つもボクの後ろを追いかけてくるのが聞こえるが、ボクは決して立ち止まらない。
全速力で、ひたすら走る、走る、走る……!!
※ ※ ※ ※
全ての隕石が落ち尽くすまで地図を作り続けるという、広大な夢と浪漫をアップルデリーさんと共に追い掛けながら、地球上を巡り巡って…ボク達は現在、南アメリカに来ている。
果てしなく続いているかのような広大な大地は、ゲート事故の衝撃で地盤があちこちひっくり返って荒れ果てているが、地球ではこれが当たり前の光景。
今からずっと昔は、地球には多く自然が残っていて、人も沢山住んでいて、都会には無数の高層ビルが建ち並んでいたらしいが、いまや見る影無しである。
しかし、自然の力というものは偉大だ…人に造られた街や建築物は、ゲート事故によって殆ど破壊され、見るも無残な有様のまま放置されたが、長い年月をかけて、その命の息吹を自ら少しずつ吹き返していった場所がある。
ボク達の現在地は、赤道よりも僅かに南側で、比較的過し易いステップ気候の平地なのだが、赤道直下の亜熱帯雨林気候地域まで足を運ぶと、自然に溢れた昔の地球の名残を見る事ができるのだそうだ。
様々な種の植物が生い茂り、人工的ではない酸素を地球上に供給し続けるジャングルと、その内部に流れる河、そしてそこで息づく命たち。
ゲート事故によって多くの人間が死に、または他の星に移民し、地球上からは人間の数が激減したが、それがかえって、地球の自然にとっては良かったのだろう…自然を汚す「人間」存在が減った事が、回復力の促進に繋がったと言っても、過言ではない。
地球上には、毎日のように隕石が落下しており、月も徐々に地球に近づいてきている。
破滅へのカウントダウンの中で、本来の美しい姿を取り戻しつつある地球。
人間が創ったものの脆弱さと、自然の持つ力の驚くべき強さ。
そんな地球の一部始終を、軌跡を残しておきたくて、ボクは地図を作り続けている。
この地域の今日の降石確立は、0%。
ボクとアップルデリーさん、そして地図を描くために必要な基材の数々を乗せて、いつもエンジンフル回転で隕石を追い掛けている、水陸両用の乗り物…通称アップル号のハッチの上に腰掛けて、ボクは朝焼けの空を眺めていた。
時折、キラッキラッと空に何か光っているが、あれは地球上のどこかに落ちていく、もしくは落ちる前に大気圏内で燃え尽きた隕石。
どちらにせよ、この場所からは遥か遠く…此処は静かなものだ。
いつも忙しなく大地を駆け巡り、地図を描いているので、こういう日は何と言うか…拍子抜けしたような、退屈なような、でもホッとするような、妙な気持ちになる。
「キミも飲むかね〜、マルコイダイアン君!」
愛用の携帯灰皿を片手に持ち、タバコを唇に咥えながらポケーッと空を眺めているボクに、いつものお決まりのセリフが投げ掛けられた。
声が聞こえた方を振り向くと、がっしりとした筋肉を全身に纏った、これでもかというほど体格の良い中年の男が、白い歯をニッと見せて笑みながら、生卵をこちらに差し出している。
「…マッケンタイアです。いい加減にボクの名前、覚えてくださいよ…アップルデリーさん」
ボクはタバコの煙を大きく吸い込んで、吐き出し、短くなったタバコを携帯灰皿の中に押し込みながら言った。
…この人とコンビを組んでから、ボクは一体何回くらい自分の名前を訂正してきただろうか?
アップルデリーさんは、雑学に長け、自分流の哲学論を持ち、測量士としての腕も超一流。オマケに武術にも精通している、正に非の打ち所も無いスーパーマン。
なのに何で、たった一人しか居ない助手の名前も、満足に覚えられないかなぁ?
それに……。
(ただの助手、ってだけの関係でもないのに…この人は、ボクの事なんてどうでもいいんだろうか?)
ボクは肩を落として、深い溜め息を付く。
アップルデリーさんと一緒なら、隕石を追ってどんな危険な場所にだって行ける。
アップルデリーさんと一緒なら、隕石に打たれて死ぬのも悪くは無い。
自分はこんなにもあの人を慕っているというのに、あの人はボクの名前すら覚えてくれないのだ。
毎晩のように、肌を重ねている相手の名前すら…。
「どうしたんだね、マトリックタイム君?随分と浮かない顔をしとるじゃないか〜。
そら、これでも飲んで元気を出したまえ」
「だから、マッケンタイアですってば!」
ポイッと投げて寄越された生卵を慌てて受け取って、いじけた視線を送ってみるが、相手はそんなボクに全く気付く様子も無く、「おいっち、に、さんっ、し!」と元気な掛け声を出しながら、キビキビとした動作で体操をしている。
ボクは、再び深い溜め息をついた。
そう…この人は、ボクの事をどうでもいいと思っているとか、そんなんじゃないんだ。
ただ、とことん何も考えていないだけなんだ。
何せ、自分の子供を孤児院に預けたっきり、忘れてしまうような人なのだから。
恐ろしく大雑把で、驚異的なまでに物事に拘らない。
普通の人から見ると、ただの無神経で無責任なヤツ…としか映らないのかもしれないが、逆に言えば、何事に対しても抵抗無く、あるがままを素直に受け入れる事ができる、広い心の器を持っているという事でもある。
幼い子供のように自由気侭で、様々な発見に目を輝かせ、自分のやりたい事だけを追う。
そんな中にも、彼の確固たる信念や哲学論、強靭な意志が、時折ちらりと頭を覗かせる。
どうしようもない人だと半ば呆れつつも、ボクは彼の助手を辞めようとは微塵も思わない。
それはきっと、彼のそんな部分に惹き付けられてやまないからなのだろう…。
(本当に、タチの悪い人だ…)
ボクは生卵の殻を割って、中身を一気に飲み下した。
アップル号の中の鳥かごで飼育しているニワトリが産み落とした、生卵。
地球上を旅して回るボクたちの、貴重なタンパク源である。
自分は決してヤワな方では無いけれど、隕石を追って毎日地球上を奔走し、地図を作る…それだけでもかなりの労力だ。測量士というのは、肉体労働者なのである。
しかし、それだけならまだしも、夜は夜で……その、つまり、アップルデリーさんの相手をしているわけだから、ボクの体力は常に限界ギリギリ状態だ。
アップルデリーさんだって、ボクと同じ…いや、ボクより早いくらいの時間に起床して、日が暮れるまで隕石を追い、夜もボクと同じ時間に眠りについているはずなのに…あの人は、何であんなにいつも元気なんだろうか?
そのタフさ加減たるや、超人的としか言いようが無い。毎日飲んでいる生卵のせいばかりとは、とても思い難い。
(今日は隕石も降らなさそうだし…とりあえず機材のメンテでもしようかな)
気を取り直して、アップル号のハッチに手を掛けた…その時。
……ごおおおおおおおおっ……
「?」
空気を震わすような低い音が上空から聞こえてきて、ボクははたと動きを止めた。
「マッタクイヤーン君!!」
「マッケンタイアですってば…ッあああ!?」
アップルデリーさんの声に、空を仰ぐと…彼方に向かって、隕石が一つ落ちてゆくのが見えた。
方角は、ここから北…距離的には少々遠いが…。
「あれはでかいぞ、ロッケンロール君!地形もかなり変わる筈だ!」
「マッケンタイアですっ!急ぎましょう、アップルデリーさん!」
アップル号のハッチを開け、ボクは助手席に、アップルデリーさんは運転席に乗り込む。
程なく、ずうううん……という重苦しい地響きが、アップル号を揺らした。
全く、天気予報ってのは、アテにならないものである。
「行くぞぉおぉおぉッッ、発・進!!」
ぐおーーーんッッ!!
目をキラキラと輝かせながら、嬉々とした表情でアップルデリーさんが叫ぶと、アップル号はいつも以上の凄まじい勢いで、大地を疾走し始めたのだった。
※ ※ ※ ※
「えええっ!?本気ですかぁ、アップルデリーさん!?」
ボクは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「勿論、私はいつでも本気だよ」
口元に、いつも通りの余裕ある笑みを浮かべて、アップルデリーさんは頷く。
「し、しかしですねぇ…こんなトコロ、乗り物無しで入っていくのは危ないでしょう!?」
窓の外を指差して、僕は喚いた。
そこは―――――大量の草木が生い茂る、密林の入り口。
隕石はよりにもよって、未開のジャングルの奥地に落下したのだ。
「大体、ボクたちはジャングルの中を徒歩で進むための装備なんか、何一つ持っていやしないんですよ!?危険すぎますっ、絶対無謀です!!
この乗り物は、どんな地形だろうと水の中だろうと、スイスイ進んでいける優れものじゃないですか。
それなのに、どーしてわざわざ降りて徒歩で行かなきゃならないんですか!?」
「……いいかね、マウデルカイア君」
―――マッケンタイアです!!
いつもの通りに名前を訂正しようとしたが、アップルデリーさんの何時に無く真面目な顔を見て、ボクは咄嗟に口元をキュッと結んでしまった。
「このジャングルには、遥かな昔…人間がこの世に姿を現してからまだ間もないくらいの大昔から、その生活スタイルを殆ど変えずに生きている人々…『ゲンジュウミン』という人種が居る。
彼らは外界との接触を断ち、この地球と自然を愛し、自然と共に生きている」
静かな口調で、淡々と話すアップルデリーさん。
「無論彼らとて、昔から今日に至るまで、外界との接触を一切断ってきたわけではない。
ジャングルに訪れる様々な国の人々と友好的に接したし、少しずつではあるが、科学文明を生活の中に取り入れたりもしていた。
しかしゲートの大事故が起きて…彼らは人間の築き上げた文明の愚かさを嘆き、それでも宇宙への進出をやめようとしない人類に失望した。
そして彼らは、自分たちの生活の中に少しずつ浸透してきた文明の全て捨て、人類が自然の一部だった大昔の生き様へと…原点へと還り、外界との接触を断って地球と共に生きる決意をしたのだそうだ」
こんな話、初めて耳にするぞ…この人はこういう知識を、一体どこから仕入れてくるんだろうか?
「彼らにとって、地球は…そしてジャングルの自然は、母そのもであり、神でもある。
その神聖なる地に、我々が文明の産物を使って踏み込んで汚すような真似は、してはならんのだ。
そうは思わないかね?」
「そりゃまぁ、そうかもしれませんが…しかし、ジャングルの中には危険な生き物も沢山ウロついているんじゃあ…隕石の落ちた衝撃で、生き物たちの気が立ってたりするかもしれないし…。。
時間も、もうとっくに昼を回っていますし、せめて明日の早朝から作業を開始するとか…」
諭すようなアップルデリーさんの言葉に、ボクは視線を落として俯き加減でボソボソと言う。
アップルデリーさんの言う事にも一理あるが、やろうとしている事が無謀の極みである事に変わりはない。
「……マルティンタック君」
ぐいっ!!
「!?」
いきなり片腕を掴まれて引き寄せられ、ボクは面食らった。
気付けば、アップルデリーさんの腕の中に抱き締められ、唇を重ね合わされていた。
「…そう心配するな、しっかり私に付いて来れば大丈夫だよ」
唇を離し、至近距離からボクの目を覗き込むようにして、アップルデリーさんは微笑んだ。
その柔らかな表情に、ボクの胸はトクンと高鳴る。
―――こうなるともう、完全にボクの負けだ。
「…マッケンタイアです…」
ボクは低い声で呟いてガックリと肩を落とし、ハッチのロックを解除するボタンを押す。
アップルデリーさんはニッと笑って、必要な機材を素早くバックパックに詰め込むと、するりとハッチから出て行った。
ボクも幾つかの機材を手に、ヨロヨロと力なくその後に続く。
外に出ると、亜熱帯雨林気候独特の、じっとりと暑く湿った空気が肌に触れた。
「行くぞ!マッティファイヤー君!!」
「マッケンタイアですってば…」
俄然張り切っているアップルデリーさんの声に、ボクはかえって泣き出したいような気持ちになった。
ああ……本当にボクはバカだ。「私についてくれば大丈夫」の一言に、ついつい嬉しくなってしまったりして、結局この人の好きなように乗せられてるんじゃないか…。
ハイキングにでも向かうような楽しげな足取りで、鼻歌混じりにジャングルに入っていくアップルデリーさんの後に、重い足を引き摺るようにボクはついていった…。
そして、この暫くの後。
ボクは更に、自分がバカであるという事を再認識させられる事になる。
「私が君を守る」とは、アップルデリーさんは一言も言ってないという事に気付いたのは、決定的なピンチに陥ってからだったのだ……トホホ(涙)。
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