諸戀 第十三幕 物思う月

 

主上の御許しが出た翌朝、公達ばらが起きる時間(午前三時)には目を覚ました。本来ならこのような曙の時はまだ寝ていて、主上がお起きになる少し前である、朝の頃に起きる。外出を日が高いうちに行うのははしたないとされているから、このようなまだ夜の帳が下りているような空の頃に起きて出かける支度をしていた。
「姫さま、ご用意宜しゅうございますか」
「ええ」
朝粥を口にし、身形を整えたはすっと立ち上がる。姫が写経した観音経は唐箱に入れてが持っていた。
「こちらでございます」
東寺がに寄越した車は八葉車だった。のような位の者が乗る車ではないが、上位の者と知って狼藉を働く輩もいるのだし、おしのびの外出は身をやつすものだ。後ろから乗り込み、上位であるが前右手に乗る。下位であるは左手だ。
牛車に揺られていく道すがら、は物見窓を少しだけ開けて外の様子を見やった。曙と言っても冬なので外は暗い。芯から冷えてしまいそうな心地がして、袂を寄せた。
「お寒うございますか、姫さま」
「大丈夫。もう朝なのだもの」
主上に起床時間を合わせているので朝起きているだが、その昔、殿の北の方であったときにはこの頃からもう起きていた。殿の起きる少し前に起き、寝顔などはしたないものは見せずに殿の用意をする。殿が起きたら支度を手伝ったり朝粥を一緒に取ったりして、内裏に行く殿を見送って、一日が始まるものだった。
四条から下っていくにつれて、段々と外が騒がしくなってきた。
「この時間に起きているのは貴族だけだと思っていたわ」
内裏の門が開く時間に合わせて貴族は起きているのだが、実は町の民も近い時間に起きていた。油が貴重品なので、日が昇り始める頃には起きて活動を始め、日が落ちる頃には活動を終えるのが町民の暮らしだ。油の消費は少ないほうがいい。
「下々の者も、この時間には起きるようでございますね。あの音、お聞きになれますか」
寒いねえ、ほんとに、とかそういう人の声に混じって、たしーん、たしーん、という響く音がする。
「まあ。なにかしら」
「砧打ちと申しまして、衣を打つ音でございますよ。氷重の表着に打った白の袿を用いますでしょう、あのようにつやが出るのでございます。柔らかくなるとも申しますね」
「そうなの」
殿と一緒であったときには、殿の衣装の支度なども行っていたが、北の方であった姫は采配を振るうだけで、実際に行うのは下の者の役目だった。
砧打ちにが感心しているとき、不意に牛車が止まった。
「あら。どうしたのかしら」
が不審に思って物見窓をすっと開けて見ると、見たことのない種類の人間がそこには立っていた。
「よう、こんな時間に帰りなすって、どこに行きなさるのかねえ」
ぼろを身にまとった男が光るものを手に従者を脅しつけていた。やっと上りかけてきた日の光にきらりと男の持っているものが光る。紙を切る刀子(とうす)にも似ているが、少し大きいようだ。
「お前、何をするか!このような振る舞い、お上が許しはせぬぞ!」
「ああ?こんな町外れまでお上の光ってやつが届くとでも思ってんのかあ?そんなもんなあ、こうして…」
男が光るものを振り上げ、思わずが身を硬くして目を閉じたとき、後ろから声がした。
「おい、お前、何をしている!」
その声の主はすぐに近づいてきて、その男と対峙した。
「京職大夫、千石さまの御前でそのような狼藉、許されると思っているのか!」
は目を閉じているので様子は見えないが、近づいてきた男によって、乱暴をしていた者は取り押さえられた。もういくつか声が近づいてくる。
「ご苦労さま〜。やっぱ治安悪いねえ、室町くん」
「そうですね。夜ならともかく朝からこんなだなんて。もっと見回り増やしますか」
「うん。ちょっと大変だけど。衛府に言って武官借りられたらいいんだけど」
室町が従者の無事を確認して、大丈夫ですかと声をかけた。
「はい。おかげさまで大丈夫でございます。ありがとうございます」
「中のお方は今お帰りで?」
「いえ。主上のもとから東寺に行きなさる方でございます」
千石はちらりと車の下簾に目をやった。出衣こそないが、これほど華やかな下簾をつけているのなら、中に乗っているのは女人であろう。主上のもと…というと後宮のお方か。ならば糸車でも使えばよさそうなものだが。
「九条なんてもっと治安悪いのに心配だなあ」
「そんなに心配ならあなたが付いていったらどうですか」
「ええ、俺?」
「俺はこいつを引っ立てていきますから。それじゃあ」
室町は乱暴をしていた者を部下に引っ立てさせながら京職の詰め所に向かう。残された千石は頭を掻いて、ややあって笑った。
「そういうことだから、護衛しますよ、お姫様」
「ようございましたね、姫さま」
やっと平静を取り戻した姫にそっと声をかける。は小さく頷いた。千石さま、このようなお仕事をなさっておいでだったのか。向かい合ったときに旋風が吹いてしまって以来、は千石の文も見ずに全く我関せずを通してきたのだが、悪い人ではないのかも、と少し思った。
「ところでお姫様、変わった香をつけてますね。俺の好きな人と一緒。丁子の強い侍従」
「……お詳しいんですね」
の言葉をがついで喋っている。
「そりゃあ、好きな人のことはなんでも知りたいからね。ちょっとしたことがあって以来嫌われちゃったみたいだけど」
「…では他の方のところへ通いなさったら宜しゅうございましょう」
「とんでもない!あの人以外は無理だもん。もう決めたんだ」
千石は話しながら照れているのか、頬を掻いている。
「何をお決めになられたのですか」
「どんなにつれなくされてもずっとあの人のこと好きでいようって。俺、けっこう気が長いほうだから」
「…そのように思っていただける方は幸せものですね」
がなにを思ってそう話しているのか、は不可解なままに言葉をつぐ。
「そうかな。でも、その人のこと思うだけで俺も幸せな気持ちになれるんだよね。へへ」
千石が照れ笑いをしたところで、車は東寺の門についた。
「じゃあ俺はこれで。心配だから、帰りにも誰かつけたほうがいいだろうけど、どれくらいでお帰りなのかな」
はどうしようと首を傾げる。主上は必要なら参籠もしてきなさいと仰ったし、でも仕事はあるのだし。
「今日中には終わるかと思いますが、なにぶん、帰りの刻までは分かりませぬ」
「あ、それなら俺も一緒に待たせてもらおうかな。どう?」
「お仕事は…」
「今日はお姫様をお守りするのがお仕事。大丈夫、俺これでも偉い人だから」
千石は京職大夫なのだから、京職で一番偉いのは当然である。その実、室町にいろいろ仕切られてはいるのだが。千石からすれば、と同じ香の人なのだから、なんとなくを傍で感じているようで心嬉しく、護衛なんて下の者がする仕事に喜んで従事していた。
「姫さま、お言葉に甘えなさいまし。京職のお方がご一緒でしたら心強いでございましょう」
は小声でに進言する。はややあって頷いた。
「ありがとうございます。ではそのようにお願いいたします」
「はい喜んで。じゃあ俺は別の局に控えてるね」
女人と分かっている千石はその姿を目にしないように、さっさと寺の中に入っていく。京職なので東寺とも馴染みがあり、知り合いを探す必要もなかった。
千石が去った後、車寄せに八葉車を寄せて、は前板を踏んで車から降りる。人目に見えないように車副の者が袖を掲げての顔を隠していた。正面は無論が檜扇を翳している。に続いてが降り、東寺の律師が迎えた。
「ようこそいらっしゃいました、姫さま。お話は聞いております。こちらへどうぞ」
御堂に近い局に通され、は高麗小紋の縁どってある畳の上に腰を下ろした。は黄色の縁どりの畳の上に腰を下ろす。
「まもなく長者が参ります。お待ちくださいませ」
律師は頭をゆるりと下げた後に立ち上がり、すっと去っていく。その姿を見送っては一つ小さく息を漏らした。
「さきほどは本当に肝が冷えまして。あのような輩がお車を襲うなど思いもしませんことで」
「本当にね。でも千石さまが助けてくださって本当に良かったわ。…あの方も変わったお方ね」
「ずいぶんと姫さまのことを思っていたようですが」
「…そうね」
は短く答えたきりで、はかばかしい答えを返さない。
突然に吹いた旋風を「縁があったから吹いたんだ」なんて言うのだから、どんなに嫌なお方かと思っていたのに、仕事を真面目に(が見た部分では)なさっていて、悪いお方ではなさそうだったわ。あのことだけで文も見ずにつれなくあたってきたけれど、それは間違いだったのかしら。には千石の真意が図りかねていた。好き者のような言葉を言う片方で真面目にを思う姿をもちらつかせる。千石の姿はにとっては不思議に満ちていた。
「お待たせいたしました」
衝立の陰から長者が姿を現す。も居住まいを正した。
「お気楽になさいませ。姫さま、お久しゅうございます」
長者は深々と頭を下げる。も頭を下げた。
「長者さま、お久しゅうございます。お会いしとうございました」
の言葉に長者は微笑んで背を正した。
「つつがなくお過ごしのことと聞きました。あれ以来、夢見はいかがですか」
「あのような夢を見ることはなくなりました。しかし、殿の夢を見ることもやはりなくなってしまって…」
「殿にお会いしたいですか、姫さま」
「……ええ。叶わぬこととは分かっておりますが」
長者はふっと厳しい顔つきになる。
「それを願うことは、自分を徒に苦しめることです。姫さまの思いが強すぎると、せっかく天上にお生まれになった殿をも引きずることになりますぞ」
「それは…」
殿が幸せであればそれで十分だというのに、離れた今では幸せを願うことさえ罪なのか。
「殿の供養をなさるのは良いことでございましょう、写経をなさり観音菩薩を拝み申し上げることも良いことでございます。しかし、殿の身を御自分に引き寄せようとなさってはなりませぬ。それは徒に殿をも苦しめることですぞ」
「もう夢にも出ては下さらぬのですか」
「天上にお生まれになり、姫さまをお待ちの殿はもはや姫さまの夢にはおいでにならないでしょう」
「そんな」
あまりの言い様にの目の端に光る粒が浮かぶ。
「しかし、お嘆きなさいますな。それは殿の幸せなのです。天上でお釈迦さまの説法を聞き、尊く過ごすことこそ殿の幸せではございませんか」
「そう、存じますが…」
では自分の幸せは、殿を思うことで満たされていた自分はどこに行けというのだろう。
「姫さまの幸せはそれとは別のものでございましょう。本来、幸せというものは、一人一人の心の内にあるものです。どんなに財を肥やし位を極めた者とて、その心が満たされねば、卑しい飢えを起こし満たされぬ苦しみの中でうごめくのです。姫さまの幸せは亡き殿を思って涙なさることではございません。姫さまが心に決めなさったお方と寄り添い心安らかに暮らしなさること、それこそが姫さまの、そして大殿(の父親)の幸せにございましょう」
「殿を思うことはもう許されぬことにございますか」
長者はゆるく首を振る。
「…殿を思い、追善供養なさるのは尊いことです。しかし、殿に縋りなさってご自分の心を徒に苦しめなさいますな。姫さまのお心はもっと柔らかで素直なもののはずです。姫さまが亡き殿のことをお考えなのは、心でなく六識なのです。その上である七識、自分では覚えのない意識こそが誰かに寄り添うことをお求めのはずです」
は押し黙る。どうにも中務卿をあしらうことが出来なくなったり、幸村に直截な言葉を聞かされても嫌うことが出来なかったのは七識の為すことだったのか。ならば抗いようがないのも道理かもしれない。
「女人は誰かに寄り添うて生きていくもの、また、公達とて寄り添う姫君を探しておいででしょう。人を求めるのは人の道理でございます。姫さまがたくさんのご家族によって支えられておいでのように、姫さまもまた他のどなたかを支えなさるのです」
そうするのは、支えるのは殿でありたかった。けれどもうそれも許されない。
「しかし、そう急に出来ることでもございません。日々を安らかにお過ごしなさるうち、次第にお変わりなさいますでしょう」
「……長者さま。公達ばらから何故か御文をいただくこともございます。御文を戴いたり、管弦を合わせたりいたしておりますと、その後にすぐさま後暗い気持ちがやってくるのです。まるで暗闇で誰かに追われているかのように、そっと、静かに、しかし確実に襲ってくるその気持ちからはどうすれば逃れられますでしょう」
長者は黙って眉間の皺を深くした。だけでなくも身体を硬くする。
「姫さま。姫さまは、他の公達とご親交を深めなさることを、どこかで殿に申し訳ないとお思いですか」
は頷く。殿に身を捧げて尼になり、供養だけで日々を過ごすことが出来ていれば、こんなことはなかったのだし、来世で殿にお会いしたときにどう謝っていいのか分からない。
「そのお気持ちが、後暗い気持ちの正体でございましょう。主上の女房としてお勤めならば、公達とご親交を深めなさることも道理のこと。何も姫さまはお悪ぅございません。心の赴くままに文をしたためなさって宜しいのでございますよ」
「殿が、なぜ姫さまを御許しにならないとお思いですか、殿は姫さまのなさること、全てを御許し下さいますよ」
「…私が、他の誰かのところへ行くことになっても、でございますか」
長者はにっこり笑って頷いた。
「ええ。この現し世では縁と因果によって全てのことが定まり、それを殿はご存知でいらっしゃいます。大日如来が全ての民を救い上げて下さいますように、天上にお生まれの殿も姫さまのことをお救いなさいますでしょう」
「罪深い私をお救い下さると…?」
深く、力強く長者は頷く。
「いかなる罪も御仏にお縋り申し上げ、お頼み申し上げることで許されましょう。姫さまが罪無きお方でいらっしゃいますことは、この長者も存じておりますよ。姫さまはお心の優しいお方です」
は再び、目の端に光る粒を浮かべる。横にいるなど袂で目頭を押さえていた。
「殿も、御仏も、姫さまのなさることを御許し下さいます。このように信心深い姫さまを誰が罰しましょう。日々、心安らかにお過ごしなしませ。そしていつか心に響くお方あらば、そのお方のもとで寄り添いこの世を生きなさいませ」
「……はい」
どこかで、殿はこんな私を許して下さらないだろうと思っていた。殿があれほど優しかったことを分かっていても尚、そう思わずにはいられなかった。しかし、それは自分の六識が許したくなかったのではないか。変わることが、怖かったのだ。やっと心の闇が晴れた思いだった。
「さて、どのがお持ちのこれが経ですかな」
「はい。漉き直させました紙に私が観音経を写経いたしました。がいたしましたのもございます」
が差し出した唐箱は仏事用とあって質素なものだった。長者は蓋を開けて中をあらためる。薄鈍色の紙が二巻き、白い紙が二巻き。
「確かにお預かりいたします。供養もこちらでいたしましょう。そういえば、さきほども経を納めにいらっしゃった方がおいででした。右近中将さまが従者の方を連れておいでですが、ご存知ですか」
「…ええ。さきの臨時祭で管弦をおやりになった方でございますね。ずいぶんとお優しい方のようにお見受けいたしましたが」
楽の手から人となりはなんとなく分かるものだ。が聞いた鳳の筝は優しく、密やかだった。
「あの方も姫さまと同じぐらい信心深い方でいらっしゃいまして、度々経を納めにいらっしゃいます。盂蘭盆の供養など、施餓鬼(供養する人がいない霊に施しをすること)をたいそう丁重に行われるそうで、御仏の道にもなかなか深い方でらっしゃいますよ」
「そうでございましたか…ここでご一緒する折あらば、お話ししてみとうございますね」
には右近中将の記憶はあまりない。そういえば文をもらったことがある、ぐらいのものだ。その文はどれも優しい手でたおやかな詠みぶりの歌が記されていた。御仏の道に深い方というのなら、話してみるのもいいかもしれない。
「姫さまも信心深くていらっしゃいますから、きっとお話が合いますでしょう。そういえば、さきほど京職の大夫がおいででしたが、お知り合いでいらっしゃいますか?」
長者の問いにはが答えた。
「いえ、さきほど道で狼藉をはたらく者がおりまして、その折にお助け下さったのでございます。危ないからとその後もついてきて下さいまして、帰りの刻が分からないと申しましたら待っていますと」
「さようでしたか。あの方も飄々となさっておいでですが、京の者がお頼み申すお方で、頼りになるお方ですよ。こうして寺にもお寄り下さいまして、守り手のことなどしっかりとして下さいます」
長者の話にが頷いていたとき、外から声がかかった。
「長者さま、お客人に朝の膳をお持ちいたしました」
「僧の口にするもの故質素ではございますが、どうぞ召し上がってくださいませ。お帰りはどうなさいますか」
「お膳を戴きまして、後に。ここから御堂を拝み申し上げて帰ることに致しましょう」
「ですか。では拙僧はこれにて失礼いたします。…姫さま」
「なんでございましょう」
長者が立ち上がったので自然、は長者を見上げた。
「いかなる者も御仏はお救い下さいます。そして殿は姫さまのことを全て御許し下さいますよ」
「……はい」
東寺についてから、初めて見せた笑顔だった。






それから東寺の出してくれた朝膳をもらって、しばし御堂の大日如来を拝み申し上げる。姫は数珠こそないが一心に拝んでいた。
「姫さま、夕刻には戻りませんと、また道中何があるか分かりません」
「…そうね。千石さまにご迷惑おかけしてしまうわね」
はようやくのことで身体を起こす。
「もう出るから、車副の者と牛飼い童にも伝えて」
「はい」
ほどなくして、東寺から一台の八葉車が出た。横には千石も居る。
「千石さま」
車が六条を過ぎた辺りで、いままでに喋らせていたが直に言葉を口にした。
「…え?なんで俺だって知ってんの?」
「一度お会いした方のお声は覚えております。龍田の風神を拝みなさった千石さま」
千石がと会って御簾が捲れたとき、千石は風を操る龍田の神にお礼申し上げたい、と言ったことがある。それを知っているのは。
「萩典侍?」
驚いて名前を言うのがやっとの千石に、はとりすまして、ええ、とだけ答えた。
「えええ!?え、最初っから萩典侍だったの?だって声違う…」
「女房に答えさせておりましたから」
千石は軽い混乱に陥っていた。今までこの中にいる姫君を萩典侍と同じ香を使っている後宮の姫君だとばかり思っていた。それが本物だとは。本当に俺ってば幸運の持ち主だな。いやいや、それよりさっきの会話全部姫が知ってるってことだから…。
「さきほどの会話も全部憶えてございますよ」
混乱している千石に追い討ちをかけるようにはそう言ってふふ、と笑う。
「いやー……まいった。でも俺の気持ちは本当だから聞かれても困らないもんね。本当にずっと好きでいるから」
からの応えはない。
「あのことを姫が憂きものだと思ってるのは分かってる。後からさんざんみんなに怒られたし。そのときにすぐに気遣ってあげなくてごめんね。でも、本当にあなたの姿が見えただけで俺は舞い上がってしまったんだ。あなたの全てに俺は囚われてしまって、もう平静な心なんてないんだ。ただあなたを思うととても幸せで、あなたが同じように幸せでいてくれたらいいと思う」
跡部のように強引でも、幸村のように直截でも、仁王のようにさらりとしているのでもない。ただただ真摯なだけだ。
「俺は京職大夫ではあるけれど、あまり身分がいいほうじゃない。でもね、ただあなたのことをずっと思い続ける、その気持ちだけは誰にも負けていないと思うよ。俺にはそれしかないけど、それは誇れることだから」
車はどんどんと大内裏に近づいていく。
「あなたが誰のことを思っていても構わない、ただ、俺があなたのことを思っていることを知って、少しでも情を感じてくれたらもうそれで、いいんだ。もし俺のことを思ってくれるときが来るとしたら、それはもうとんでもなく嬉しいことだけれど。…俺は仕事があるから大内裏の中には入れないけど、大内裏の外にそんな男がいることだけ、憶えていて」
千石の声はそこで途切れ、車は朱雀門を通って大内裏の中に入った。
「どうしよう…」
車の中でほとんどは泣きそうだった。これほどの真摯な思いをどうすればいいのか。
「真摯な方でいらっしゃいましたね。…姫さまは心がどこに向いておいでなのか、しっかり見つめなさいまし。そしてお答えを出すのが宜しゅうございますよ」
の言葉には頷いて目元を袂で拭う。大内裏を進んだ車は朔平門に寄せる。そこで車を降り、玄輝門から内裏へ入った。温明殿についた頃にはもう夕刻で、夜の膳の用意がされている頃だった。
「おかえりなさい。ご用事は済んだの?」
「ええ。大丈夫。何か仕事で困ることはあった?」
「大丈夫よ。内侍所御神楽の準備を少ししたぐらいね。さっき、未の刻回った辺りから主上のお召しがあったから、そろそろまたあるんじゃないかしら」
が入って閉めた妻戸の向こうから人の足音がして、やがて声がした。
典侍どの、いらっしゃるか。主上が夜の膳でお召しである」
「はい、参ります」
「ほんと、息つく暇もないわねえ。幸せなことだわ」
「本当に」
朝顔の言葉には笑ってうけあい、檜扇を翳して立ち上がった。
「いってらっしゃいまし、姫さま」
「ええ。行ってきます」
いつもの道を通って清涼殿につくと、主上は御帳台に腰掛けておいでだった。大床子にはもう夜の膳が並んでいる。
、帰ったのだね。せっかくだから、一緒に夜の膳を取ろうと思っていたのだよ」
「承知いたしまして」
は頷いて主上の膳を整える。自分の分も用意されていて、それは温明殿で食べるより幾分豪華なものだった。膳が向かい合わせに並んでいて、恐れ多いとは向きを変えようとしたのだが、主上に窘められる。
の顔を見せておくれ。東寺での用事は無事済んだのかな」
「ええ、つつがなく済みましてございます。主上は本日いかがお過ごしでございましたか」
膳の向きを元に戻し、恐れ多くも向かい合わせで夜の膳を取る。食事の伺候には采女などもいるものだが、を呼んだので出払ったのか、殿上に幾人か控えているのみだった。
「前の庭に雪が積もっていたからね、簾を掲げて見ていたのだが、日の光に照らされた雪というのは本当に煌いて見えるものだね。雪山なぞ作ってみるのもいいかもしれない。後宮に御子がいれば雪うさぎや雪玉など作って遊ぶのだろう。私も昔はそうして遊んだものだ」
雪うさぎ、と言われては黒羽と天根のことを思い出した。あの雪うさぎはもう溶けてしまったけれど。
「さようでございましたか。楽しゅうございますね」
「ああ、明日にでも雪山を作ろうかと思っているところだよ。も見るかい?」
は笑って応える。
「そう言えば梅壺の気の早い梅が花を咲かせたようだ。椿なども花を咲かせる時期だね」
「主上は花木がお好きでございますものね」
主上はあでやかなことがお好きで、それは人やものに留まらず、自然物にまで及ぶ。主上の御世になってから宮中には花木が増えたし、草花も増えた。また見ごろの頃を見計らってさまざまなところに行幸なさったりもする。こと、雅なことがお好きなのだ。
「温明殿の椿はどうであったかな。気の早いものなら咲いていてもいいようなものだが」
「まだ咲いてはおりませんでしたが、色づいたつぼみがいくつかございました。主上の光暖かな宮中ではすぐにでも咲きましょう」
の言葉に主上も微笑まれる。そして夜の膳を終えた後、は退出した。




温明殿に向かう渡殿を通る、その足が冷たくてついつい足が速くなってしまう。あまり早い動作ははしたないことなのだが、こうも寒くてはおっとりと渡ってもいられない。
「姫さま、お帰りなさいまし」
「ただいま。ああ寒かった」
「こちらで温まりなさいませ」
局にある火桶に袂を翳して身を暖めていると、が結び文を持ってきた。
「…どなたから?」
「京職大夫からでございますよ。どうなさいますか」
どう、とは読むか反故にするか、である。はややあって文に手を伸ばして文を解いた。添えられていたのは気の早い紅梅だった。まだ小さくやっと綻んだつぼみから微かに匂いがする。
夕暮れは雲のはたてにものぞ思うあまつそらなる人を恋うとて(夕暮れになると雲の向こうを見ながら物思いをすることです。雲井はるかな宮中におられるあなたを恋しく思って)
素直な詠みぶりで、さきほどの言葉をつい思い出すような歌だ。筆跡はさほど上手いわけではなかったが、どことなく味があった。
添えられていた梅の小枝を手に取って顔に近づける。微かな香が心地良い。これはどこの梅だろうか。千石さまのお邸か、はたまた道沿いの気の早い梅か。
白い薄様を硯箱から引き寄せて筆に墨を含ませる。しばらくそのままで思案していたが、やがて筆をすべらせた。
おほぞらに雲のはたてぞ月見えし移り変わりて物消えもする(大空の雲の向こうに見える月は見える姿を変えていくものです。月のように物思いも変わって消えることでしょう。お心信じられません)
御簾の向こうから見た月は、弓張った上弦の月だった。

 

第十四幕 『寒し夜に燈る光』

 



姫さまいかがでしたでしょうか。千石挽回編。思ったより一途な仕上がりに。そして姫さまもまた前向きに、幸せに向けて歩き始めた感じになりました。このまま誰かと幸せになれたらいいですよね(…他人事?)。

お付き合い有難う御座いました。多謝。
2005 11 26 忍野さくら拝

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