諸戀 

   第四幕 春秋の優

 

秋は日が落ちるのが特段早く感じられる、と思いながらは東庇の向こうを見やった。釣瓶落としとはよく言ったものだ。暮れてきたな、と思うと暮れなずむ間もなく一気に日が落ちる。少しはなずんでくれれば風情もあるのに、と思う一方で釣瓶落としのように暮れる様もまた風情だと思う。暮れるに従って仕事も終わり、高灯台に火を灯していると掃司の典掃がやってきた。
「格子をお下ろししますね」
格子が軋んだ音と共に下ろされると一日が終わったな、とは思うのである。日がな一日つつがなく過ぎた。仕事は忙しいが、大嘗祭を控えているのならば当然と言ってもいい位の忙しさで、これといった支障はなかった。…このときまでは。
「もう格子下ろしとるん?早よない?」
左大弁さまだわ、という朝顔の声にはひゅっと眉を顰めた。左大弁。これまで三度に文を送っている男なのだが、はそれを読んでいない。中務卿と競い合うように文が届くので(一日後とか前とか近い日時だった)なんとなく見る気が失せているのだった。
「せっかくの主上の御花たちが見られんで寂しいわ。萩典侍はおる?」
「こちらに」
本当ならば黙っておきたかったのだが朝顔が背を押すし、周りの女房たちは行方を見守っているし──名乗らないわけにはいかなくなってしまった。
「ああ居ったんやね。こっちで相手してもらいたいんやけど」
「私で務まりますかしら」
「そうそう謙ることはねえよ」
返ってきたのは中務卿の声だった。またしても女房たちが沸く。
「中務卿の宮様よ」
……あの男か。この前の腕を掴みさらに顔まで見た男である。確かに綺麗なお顔をしておいでだったけど、と思いながらは嘆息をついた。外に聞こえないように、小さく。土庇の辺りに何人か居るのが見てとれた。そこに来いというのだろう。は女嬬に几帳を立てさせてそちらへ移った。朝顔は笑って成り行きを見守っている。もう。に至っては満面の笑みである。は主人であるが公達たちから声をかけられていることも嬉しいし、がぞんざいにせずに対応していることも嬉しいのだ。
「まだまだ夕べだ。夜は長いぜ」
「っていうか跡部ばっか喋ってずるい!俺ね、芥川慈郎」
「ばか、左近中将って言わねえと分かんねえだろ。すまねえな。俺は兵部大輔で宍戸という」
几帳の向こうでわいわい言う声に混じってすっと料紙が差し入れられた。矢立てでも持っているのだろうか。が手に取ると、そこには『いつぞやの文の返しを待ち詫びて 右近中将 長太郎』と書いてある。実際文は来ていたのだが、には覚えがなかった。に一通り役職だけは言われたが興味が無かったので覚えていなかったし、その後も文を見なかったから覚えのないのも当然だった。
そこらへんに散らばっていた薄朱色の薄様を手にとって返事を書く。『人こそ見えね』そう一言書いて差し出した。
「あ、宍戸さん!それおれ宛なんですって」
「…お前振られてんじゃねーか」
は『誰も訪ねてこなかった』という意味を和歌から抜いて書き出していた。手紙も来ていません(見ていません)、の意で鳳は嘆いているが真実である。文は外側をちらりと見ただけで中を解いてはいない。
「鳳を相手にしないのは良い心がけだ。俺さまのところへ来るんだろう?」
「どこへも」
誰かのものになる──そんな気はさらさらなかった。文は来るし訪ねても来られるけど、それは一時のこと。前の夫のように心長く思ってくれる人などそういない。はそう思っていた。
「なかなか靡かへんのはええよ。落とし甲斐があるっちゅーもんや。ますます会うてみたくなったわ」
「あ、あの!」
鳳が大声を上げたので跡部たちもも一様にびっくりして鳳のほうを見やった。は几帳越しだが。
「なんでしょう?」
「萩典侍のことをもっと知りたいんです。教えて下さい」
「私のことなど」
謙遜で逃げられれば楽だが、この人たちからは逃げられまい。腕まで掴んで離さなかった中務卿の宮がいるし、左大弁も一筋縄ではいかない人物のようだ。
「そりゃあいいな。自分で話せと言っても話さねえだろうから、こっちから尋ねていくぜ」
「じゃあね、まず名前!萩典侍って家が萩殿だからっしょ?」
跡部と芥川の声は弾んでいる。
「……、と」
は本当の名前をという。しかし本当の名前は理由あって話すことが出来ないでいた。本当の名前を知っているのは両親、女房の中では乳母子の、家人の中では兄弟同然の黒羽・天根だけだった。主上もご存じないことだ。名前を隠すようにに言った人はこうも言った。
夫となるに相応しい方にはお名前をお伝えして宜しいですよ。その方だけ、です。あなたの家族にしか知られてはいけません。
前の夫はもちろんと呼んでいたし、も本当の名前を知ってもらえることが嬉しかった。でももうあの甘い声でと呼んでくれた人はいない。
?すっげー可愛い名前な!」
「良い名前だな」
芥川と宍戸はそう言祝いで几帳の向こうで軽く笑んだ。跡部は自分だけがその名前を前もって知っていたことに満足気な顔をしている。
「ありがとうございます」
のことをと名づけたのは母親だった。、か、で迷ったらしい。という名を隠すにあたってどうせならにしてくれと言ってきたのは母親だ。もちろん自身もという名を良い名だと思っているし、呼ばれ慣れているので馴染みもある。
「属星は?」
奇妙なことを聞くな、とは思った。名前と属星と揃えて呪い(まじない)でもする気だろうか。
「……文曲星にてございます」
「朝に重ねて唱えようと思ってな」
尋ねた跡部はそう言ってふっと笑う。芥川がぴん、と身体を反らせた。
「じゃあ俺らと同じ年ってこと!?」
属星が文曲星になるのは卯年か酉年。六歳上にも下にもまして十二上にも下にも見えないので芥川は同じ年、と判断したのだ。
「そういうことでございますね」
「同じ年か。落ち着いてっから俺たちなんかより年上かと思ってた」
普通の女性なら年上とは何事か、と言うところなのだろうが、はその点に関してなんとも思わなかった。まだ宮仕えを始めて間もないのに落ち着いている、と宍戸に評されて少しほっとしたぐらいだ。
「好きなうたは。なんでもええよ」
「臥龍躍馬終黄土。……人目も草もかれぬと思へば」
「なんや二つ答えてもろたわ。おおきに」
忍足はうた、と尋ねた。漢詩でも和歌でもどっちでも良かったのだ。とっさに出てくる歌はきっと日々の心情に違いないと踏んだからで、その通り、の心情にあった詩歌がの口から零れた。
臥龍躍馬終黄土。この世で活躍した人々も既に土の中だ。
人目も草もかれぬと思へば。草が枯れるであるように人目も離れるだろう。
どちらも寂寥感のある物寂しい歌である。
「じゃあ…」
「みなさまがたのことはお教え下さいませんの?」
は質問続けの攻撃にやや気落ちしていた。あとは髪の毛一本でもあれば完璧な呪詛が出来ようというほどに情報を揃えられても困る。質問で返せば気を損なうことはないし、おそらくこの人たちは聞かれたがっているはずだ。
「いくらでもいいぜ。まだ宵だ。何が聞きたい?」
「とりあえず、名前からいこか。おれは忍足侑士。左大弁や」
「中務卿。跡部景吾」
こだわり無く名前を言い出した面々に女房の小さな嬌声が飛び交う。朝顔が音を鳴らさぬように手を叩いて褒めてくれた。こういうことで褒められても困る。
「さっきも言ったが兵部大輔、宍戸亮だ」
「左近中将芥川慈郎だよ。慈郎って呼んでね」
「…右近中将鳳長太郎です」
「後はこれに何人か加わって大概俺の邸にいるな。何か俺たちに訊ねたいことは?」
何かと言われてもとっさに出てこない。は前夫が亡くなってからというもの男性に興味は無かったし、男性を前にして訊ねたいと思うことも浮かばなかった。
困った、と朝顔たちのほうを見れば料紙が差し出された。朝顔たちがこっちに来て喋ってくれれば私も楽になるのに、と思いながら料紙を受け取る。春秋の優、と書いてあった。なるほど。今は冬(十月中旬)だがこの話題なら言葉は尽きない。
「では、春と秋のどちらが優っているとお考えですか?お好きな花木などは?」
「おれは春が好きです。桃の花とか美しいですよね。宍戸さんは?」
鳳の声に宍戸が低くうなった。考えあぐねているようだ。
「…秋、かな。俺が秋生まれらしいっつーのもあるけど、朝顔(今でいう桔梗)が好きだな。きりっとしてていいと思うんだが」
「てめえ俺さまの言葉取ってんじゃねえよ。俺も秋だ。曼珠沙華がいい。まあ不如意なことにこいつと同じ秋生まれだ」
「みなさまお生まれをご存知ですのね」
「おれも秋生まれやで。姫さんは?」
「…橘の頃であったかと。伝え聞きですので詳しくは分かりかねます」
橘、と跡部と忍足が同時に口の中で単語を転がした。橘の頃はまだ当分先、初夏になる。
「橘な。おれは秋生まれやけど春のほうが好きやなあ。桜の散り際なんかええし菫なんかがちょっと固まって咲いとるのもええ」
几帳の奥でが数回頷いたので思わず忍足は拳を握った。
「おれ?おれはねー、春!春はいっぱいお祭りあるから宴会もたくさんあるし、どこ見てもきれいだし!…若菜摘みが楽しいよ」
「で、典侍は?」
質問したときから訊かれるのは分かっていたから、今度はきちんと答えを用意できた。
「秋でございますね。萩なれば」
「…じゃあ引き分けだな。もっとも春秋の優はつかないことだが」
跡部がもっともらしくまとめ、話題は終いになった。守辰丁が刻を告げる鐘の音が響いた。
「子の刻やんな。物の怪が出るとかいうん丑の刻にはぜひ宿直させてもらいたいんやけど」
温明殿にも守りの武官はいるが、覚え明るい公達が宿直してくれるとあらば女房たちも喜ばしいことである。眠い目を擦りながらが朝顔を見ると朝顔は頷いて是の意を示した。
そろそろ本当に眠くなってきたんだけど。は庚申の日でもない限り夜明かしはあまりしない性質なのでこういうときは辛い。
ひょっとして宮仕えって夜もこんなことがあんの?寝不足は嫌いなのに。
「宮様がたがいらっしゃるとなれば、物の怪とて消え失せましょう」
「その声は朝顔か。朝顔、ここに琴はあるか?」
朝顔が近寄ってきたので早やお役御免、とは下がろうとしたのだが、今度は几帳の向こうに裾を掴まれてしまった。
今度は誰よ!
がきっと几帳の向こうを睨むとそこからは軽い笑い声が上がった。
「萩は夜もすがら花を咲かせるもの」
一晩中いろ、というのである。誰の声かは幸いにすぐ分かった。中務卿宮である。
あの宮ったら!敬語も忘れは憤慨した。眠いのである。
「琴でしたら、筝の琴、琴の琴ございますがいかがいたしましょう」
対する朝顔は慣れたものである。辛抱なさい、との背を軽く叩いて座り直させ、跡部に向き合った。
「どちらとも欲しいな。こちらには横笛がある。おい忍足、あれ持ってんだろ」
「小枝のことかいな。もちろん持っとるで」
「筝と琴をお願いする」
跡部の声では筝を、朝顔は琴を手元に引き寄せた。
太食調の音取を忍足が発し、それに跡部が続き二人が合わせる。賀王恩の始まりとなった。
「美しいっすね宍戸さん」
「お前静かにしてろ」
鳳と宍戸のひそひそ声が楽に紛れていく。芥川は聞き入っているのか眠っているのかもはや分からない。他の女房たちは眠りに入っている者聞いてため息をもらす者、様々だ。
賀王恩の最後の一音をが弾いて曲はお終いになった。まだ起きている女房たちの間から素晴らしいですわ、と声が漏れる。
「忍足お前気合入りすぎて音が抜けてんだよ、ふざけんな」
「なんやの、せやかて跡部かて一遍音が浮いたことあったやろ」
「お前らなあ…」
宍戸は呆れ顔で鳳は心底困っている。朝顔が助け舟を出した。
「お二方ともすばらしい音で合わせるのが大変でございました。またいつかお願い致しますね」
「無論だ」
「ええよ」
それからとりとめもなしに話が続き、寅の刻を告げる鐘がなった。朝三時、普通起きる時間だ。
「朝やで慈郎、起きぃ」
「んー…眠い…」
「お前が眠いのはいつものことだろ。今から承香殿に行って支度するぞ」
承香殿にいるのは跡部の実妹、承香殿の女御だ。今上が東宮の頃尚侍として勤め、今上が即位してからは女御になった。宮中で夜明かしをするときなど跡部たちはいつも女御にお世話になっている。
「素晴らしい宿直をして頂きまして、有難う存じます」
「大したことはない。萩、いや
「なんでございましょう」
「次から来たやつでいい。文を読めよ」
今まで文に触れてもこなかったことが露見している。もっとも鳳にははっきり言ったのでそこから推察したのかもしれないが。
「……承知いたしまして」
こういうより他なかった。これでやっと夜も明ける、月を眺める暇も無かった。は安堵のため息をついて今度こそちゃんと膝行で下がることが出来た。局にはが眠そうな目を擦りながら待ってくれていた。
「姫様ご苦労さまでした」
「……そうね」
まだ几帳の向こうで声がする。ここで下手なことは言えない。
「それじゃあな、朝顔、。失礼する」
「そしたらまたな」
「失礼しました」
跡部の先を忍足が、宍戸が芥川を抱えて(鳳に手伝ってもらいながら)出て行く。やっと温明殿はいつもの朝の静けさを取り戻した。
「あー疲れた。ねえ朝顔」
「何?」
「こういうことってよくあるの」
一番のの疑問はそこだった。大好きな睡眠時間を奪われてたまるものですか。
「……よくあるわ。最もここは温明殿で後宮の局というわけじゃないから、そんなに頻繁じゃないと思うけど。私たちの思い人が来たりするじゃない?」
「うん」
そのこと自体はよくあることだった。誰それの思い人が庇の脇にいる、とかひそひそ喋ってる、とか。
「お友達を連れてきちゃうこともけっこうあって。……まあ有態に言えばさっきみたいな状態になることはけっこうあるわ」
「……」
朝顔の答えにはあからさまにがっかりして肩を落とした。ついでに表着がずるっとずれたほどだ。
「お父様を恨んでやる…」
「まあ姫様、朝のうちからそのようなこと仰いませんよう。少し休まれます?」
「いいわ、早く仕事を終わらせて昼寝するから。恨み辛み全部文にしたためて差し上げるんだから!」
は息巻いて後、小声で文曲星の文言を七度唱えた。鏡を見ると少し顔がやつれて見えた。一晩中起きていて、慣れない公達の相手をしたのだからしょうがないのかもしれない。化粧を直しながら洗面を済ませる。
また一日が、始まった。



第五幕『恋初まるらむ』



姫様いかがでしたでしょうか。氷帝メンツと夜を明かしましょう編。本当はこの後にジロと宍戸さんと宮中で出会って…とかそういうのもあったんですけど、しかも山吹メンツも訪れる話もあったんですけど、氷帝の人たちが長すぎ。跡部さま出ずっぱり。
「臥龍躍馬終黄土」は杜甫の七言律詩、閣夜の文句です。「人目も草もかれぬと思へば」「山里は 冬ぞ寂しさ 増さりける 人目も草も 枯れ(離れ)ぬと思へば」 源宗干作、古今和歌集-315歌です。無い知恵がますます無い知恵に…。

次回はジロと宍戸さん、そして山吹メンツとの対面です。もうちょっと恋愛色強めたいんですけどねー。


お付き合い有難う御座いました。多謝。
2005 10 7 忍野さくら 拝







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