諸戀
   第五幕 恋初まるらむ

 

いつも主上の傍近く控えている尚侍が物忌みで局に下がっている間伺候せよ(傍仕えせよ)との仰せがあったので、は夜の御座に急いだ。
典侍にございます。主上はどちらにいらっしゃいますか」
「今は夜の御座にて藤壺の女御をお召しにございます」
「分かりました」
侍従の答えに萩の戸で待つことにした。北庇からの月明かりが冴え冴えとしている。最近昼間は仕事だし夜は突然の来訪があったりで忙しかった。主上を待っている身とはいえほっとできる時間はありがたい。は紅葉重ね八の襲に唐花菱地の唐衣を身につけている。昼間は移菊の襲を身につけていたのだが、主上の御前とあって華やかなものを、とが紅葉重ね八の襲を薦めたのだ。元々装いは位が上がるほど簡略化したものでも構わず、位が下がるほど普段からきちんと着ていなければならない。
「月、秋と期して身いづくか(月は秋になれば必ず精光を放つが、その月を賞した人は一度去って帰らない)」
ぼんやりと一節を朗じたとき、月明かりが萩に下りた夜露を光らせてきらり、と輝いた。
「…きれい」
これで我が家のように萩がたくさんあったらもっと露が煌いて美しいことでしょうに。は嘆息して実家を思いやった。もう宵を回ったころだから、黒羽たちはお酒なんか飲んでたりするのかしら。天根はああ見えてお酒がひどく強いのよね。酔っては戯言を言い合ってそれは楽しい時間だった…。がぼんやりと郷愁に耽っていた頃、外から声が掛かった。
典侍」
「…!はいこちらに」
「頭の弁、仁王じゃ。主上は大殿籠りになったき、くつろいでええよ」
主上は藤壺の女御と共に寝たという仁王の言葉を受けては温明殿に戻ろうかと腰を上げた。
「伺候するんじゃろ?もう夜半じゃき、ここで休んどったほうがええ。俺も朝から伺候するき、一緒じゃ」
仁王と会話したことはいくつかあった。が主上に伺候していた間、主上の元に蔵人頭として仁王が侍ってきたときなど、当たり障りのない会話はしたことがある。けれどこのように二人きり、というのは今までなかった。
「なんやったらもう一人か二人連れてきてもええけど」
どちらにせよ、この夜の間相手をしろということなのだろう。公達はどれもこれも言うことが一緒だ、と思いながらは嘆息をついた。
「どちらでも構いません。頭の弁の君さまはどちらのお生まれですの?」
仁王と話していていつも気になっていたのは言葉だった。京の言葉とはまた違う言葉を喋っているのに、周りから浮いた風がない。仁王から受ける不思議な印象の一つだ。
「生まれ?生まれは京で育ちが豊後じゃ。親が豊後守での。なんでか豊後の訛りが移って今でもこんな喋りをしとる」
「豊後…海というのは素晴らしいものなのですか?」
「姫さんは俺に訊ねてばっかじゃの。海か。海でもよう遊んだ。淡海(琵琶湖)は静かで波もよう立たんが、豊後の海は場所によって色も顔も違ぉた。海に行ってみたいんか?」
「…歌に詠み書に読む海というものが見てみたいと思うことはあります。家人で上総(千葉)のものがおりますが、彼らの語る海はとても素晴らしいものだと聞くので」
御簾の向こうで仁王はいくらか頷いて見せた。家人とはもちろん黒羽・天根の二人だ。
「ええもんじゃ。上総の海もええもんじゃろう。こんな冬の晩の海は海が黒うなって寒い海風が吹き付ける。海に映る月がいっそう冴え冴えして美しい頃じゃな」
「寂しい光景ですね」
「なんの、寂しいことはなか。海は…母御のようなもんじゃ。全部包んでしもうて全部許す。そんな感じじゃな」
「頭の弁の君さまは情が深くてらっしゃいますのね」
はまだ見たことのない海だが、それは母親のようだと仁王は言う。ならば黒羽や天根たちが日を惜しんで遊びに行くのも分かる気がした。
「お、柳生じゃ。呼んでもええか?」
「どうぞ」
柳生という名前は初めてきいた。そう言えば典薬寮にそのような名前の人がいた気がする。
「仁王くん、萩の戸でなにをなさっているんですか」
「こっちに萩の典侍がおいででな。一緒に夜明かしをしとったところじゃ」
「……。では私はお邪魔なのでは」
声から察するに柳生という人は大変落ち着いた人のようだ。仲が良いところを見るとよく一緒にいるのだろうか。
「そんなことありゃあせん。幸村でも呼ぼうかと思っとったが、一緒にどうじゃ」
衣ずれの音がして、柳生が腰を下ろしたことが分かった。
「初めまして、萩の典侍どの。私は典薬頭で柳生比呂士と申します」
「萩の典侍でございます」
「なんやしかめつらしいのう。柳生はもちっとくだけるとかそういうことを身につけんといかん。そうそう畏まってばかりおったら薬も苦うなってしまうじゃろ」
柳生の姿をは知らないが(今も御簾と几帳を隔てている上に夜なのでほとんど見えない)、真面目ばった役人が煎じた薬は確かに苦くもなろうと思われて、思わず笑みが漏れた。
「良薬は口に苦いものです。それにそうそうお薬がいるようでは困りますよ。みなさま元気なのが一番なのですから」
「本当に」
暁になったのだろうか、少し外が明るくなったように思われては御簾の向こうを覗いた。人影が二人、さらに濃くなったようにも思われる。
「もう曙じゃの。俺は詰め所に戻るが柳生どうする?」
「私も戻りますよ」
「したら失礼するの、典侍」
「失礼致します」
二人が立ち上がり去っていくのが影で分かった。二人が去った後に残るのは御簾から漏れる光。もう曙だという仁王の言葉は確かなのだろう。曙なのだとしたら自分も支度しなくてはならない。高杯灯台を手に寄せて鏡を見る。前の中務卿たちのときのようにさほど緊張しなかったせいか、仁王が顔馴染みであったせいか、顔のやつれは少なかった。
ほどなくして主上がお起きになる時間になり、は伺候に上がった。
にてございます」
「おはよう。夕べは頭の弁と海を語ったとか」
話がもう通じていることにびっくりしてが顔を上げると、御簾の向こうには仁王の姿があった。くすりと笑っているのが御簾越しでも分かる。
「頭の弁の君がたいそう情の深いことを申されまして、感心致しておりました」
意趣返しにそう反駁すると仁王は少しだけ眉を上げた…ようにには見えた。
「へえ。理知者の頭の弁が情の深いことを示したとは。どんなことを申したのだね」
「私が海とはどのようなものですかとお尋ねしたところ、母御のようであると申されました」
中務卿には何度もしてやられ、幸村には一発で名前を当てられ、先日は大挙して中務卿の宮たちが訪れ、ほとほとはうんざりしていたのだ。もう公達に振り回されてなるものか。どうせならこっちから仕掛けてやる。……はかくも負けん気の強い人柄なのだ。
「母御か。そう思ってみると海を詠った数々の歌もまた趣深くなるというものだね。どれ私も母宮に御文を差し上げようかな」
硯箱と一緒に近江の絵を描いた継紙を差し上げると主上がやんわり微笑まれた。
「一枚上げるからも母御になにか差し上げるといい」
「有難う御座いまして」
里の母から文は来ていたが、返事を出す暇がなかなか無かった。こうしてりっぱな紙を頂いたのだから、書くのも悪くない。
「わたつ海の浜の真砂は幾重にか 君が千年の在り数にせむ(海の浜の砂は幾重にもなっている。あなたの永遠の命がある数でしょう)」
主上の仰るままには筆を運んでいく。
「ご無沙汰いたしまして、海は母御と聞いたなれば」
「はい」
もともと手跡には評判のあるである。すらすらと書き終え、主上の御前にお目にかけた。
「素晴らしい出来だね。誰かこれを皇太后の宮へ」
「私が承りますれば」
仁王の声がした。主上は頷いて御簾の端を少し巻き上げて文をお差し入れになる。
「そなたの言葉などお聞きになれば宮もお喜びだろう。頼んだよ」
「はい」
「さてはどうするのかな」
主上と同じ筆で書くわけにもいくまいと思っていると、主上は硯を寄せてひたすらに勧めてくる。この人は…。は内心呆れながら一首書きつけた。
『君を思ふ 住吉の江に寄する波の 訪ね来ればぞ ありとだに聞く(あなたを思っております。住吉の江に寄せてくる波の訪ねが来て、無事だとだけ言うので)
いかがお過ごしでしょうか』
そう短く書きつけて御前に出した。
「名にこそ君を待ち渡りつれ、ね」
主上は返歌を口にして微笑まれる。にはすこし聞いてみたいことがあった。意趣返しの続きだ。
「頭の弁の君はどのような方でらっしゃるのですか」
「頭の弁か。は頭の弁に情があるのかな」
思いがあると思われては困る。はゆっくりと首を振った。
「いえ。主上のお褒めに預かり太后さま(今上の母親)がお喜びになるお人柄を存じてみたいと思いまして」
「ふむ」
主上はいくらか頭を捻る仕草をしながら顎のあたりを手でしゃくった。
「頭の弁は左大臣の嫡子(幸村)なんかとよく一緒にいるようだね。悪戯が好きな人だとも聞く。たわいのない悪戯だろうけれど、仲間内ではたいそう面白がられるそうだよ。人を謀るのが得意だから気をつけろと右大臣に言われたこともあったが…まさか私を謀る真似はすまい」
「そうでございましょう」
悪戯好きで人をよく謀る。実際仁王は主上の御前で悪戯をしたことも謀ったこともあったのだが…主上に気づかれない(周りの近臣にも気づかれない)ところが仁王の才覚であった。幸村や真田は後から気づいて、真田など激昂したのだが仁王が上手く取り成してその場は収まった。
「頭の弁と一緒にいる人たちは類に富んでいるね。大弁でもある参議(幸村)や弾正大弼(真田)、典薬頭(柳生)たちが一緒にいるようだよ」
「そうでございますか」
典薬頭はさっきいた人のようだ。真面目な性質が声にも態度にも表れていた。
は中務卿を知っているかな」
「……存じ上げております」
不本意ながら、と頭につけたい気持ちを抑えて答える。本当に不本意ながら存じているのだ。ああも声を掛けられ腕を掴まれ詰め所に押しかけられては知らないとは言えない。
「彼もなかなかの者のようだね。智恵に富んでいるし、職務に対する心配りも細やかだ。私の身の回りのことなどもすっかり調えてくれているし、宴などの際の下々に対する心配りも若い人の中では群を抜いている。とっさの機転も利くようだし、出自のために二品の親王であるのが惜しいところだよ。一品宮であれば東宮にとも考えたのだが。もちろん今の東宮も素晴らしい人だがね」
「さようでございましたか」
あの中務卿がこんなに褒められると思っていなかったはいささか面食らっている。はもっと強引で勝手な人だと思っているのに、こと政務に関してはとても真面目な人物らしい。
「中務卿と一緒にいるのは右大臣の嫡子の左大弁(忍足)や右近中将(鳳)、左近中将(芥川)、あと兵部大輔(宍戸)なんかが一緒によくいるようだね。みななかなかに素晴らしい人物たちで、官職が追いつかないほどだね。位ももっと上げてやりたいが、こればかりは他の者との兼ね合いというのがあるからね」
気に入っているからといって、いきなりその人物だけを昇進させるわけにもいかない。それなりの理由が必要だし、下の者を上げるとなれば今まで上にいた者からの反発もある。
「素晴らしい方々と共にお仕え出来て嬉しゅうございますわ」
「もちろんも素晴らしい人の一人だよ。尚侍として勤めてほしいほどだ」
「身に余るお褒めでございます」
尚侍は通例では東宮の女御として寝所に侍ることが多い。また尚侍が主上の寝所に侍る例もたくさんある。よって尚侍は後宮に局を頂き主上や東宮の妃の一人と数えられるようになったのだ。実務はのように典侍が担当する。典侍が寝所に侍る例も数多くあるのだが、それだけはしないと主上は約束していた。の父がそう頼んだからだ。
が頭を下げたとき、午の刻を告げる鐘の音が聞こえてきた。十二時には主上は大床子で朝の膳を召し上がることになっている。召し上がる際には六位蔵人や典侍,、采女たちが世話をする。食事が内膳司によって運ばれてきた。途中幾人か取り次いで大床子に設ける。
「朝の御膳にてございます」
、もう下がっていいよ」
「はい、失礼致します」
六位蔵人と食事を召し上がられる姿を確認したは御前を辞して温明殿へと帰ろうとした。その矢先、麗景殿の角で人とぶつかってしまった。
「申し訳ありません」
「ごめんね…ってちゃん!」
よろけた体を支える腕と後ろから声が掛かっては顔を上げた。そこにいたのは麗景殿から清涼殿に行こうとしていた兵部大輔(宍戸)と左近中将(芥川)だった。
「大丈夫か、典侍」
「大事ありません。ありがとうございます」
宍戸の腕できちんと立たせてもらい、は体勢を直した。芥川は宍戸の後ろから心配そうに覗き込んでいる。
「俺たちの名前覚えてる?」
「はい。右近中将の君さま、兵部大輔の君さま」
はきちんと覚えていたのだが、芥川は顔を曇らせた。
「ちがーう!名前。役職なんて別にいいよ。俺は芥川慈郎。慈郎って呼んでってば」
「慈郎さま?」
「…あまり困らせるなよ、慈郎。俺は宍戸だが…好きに呼んでくれて構わない」
「はい、宍戸さま」
名前を呼ばれて微笑まれたので宍戸は久々に胸の温かくなる思いがした。宍戸は仕事第一で取り組んできたので、あまり女人と接する機会がなかったのだ。接してきたのは家の者ぐらいだ。
「典侍は礼式を司るところだから礼儀正しいのは当然なんだろうが、俺たちみたいな若い奴らは名前で呼んでもらえるほうが嬉しいんだぜ」
跡部が『はいつまでたっても俺を中務卿としてしか認知していない』としきりにこぼしていたのを宍戸は思い出した。思い出して…跡部に便宜を図ったのだ。人が良いと言えばそれまでだが、みすみす敵に塩を送る真似をするあたり、不器用な宍戸らしい。
「さようでございましたか。次からは気をつけますわ」
は笑んで宍戸たちが通り過ぎるのを待った。位ではが上位だが、は女なので殿方に先を譲ろうとしたのだ。
「……」
どちらも通り過ぎず、ちょっと間が経った。へんな間で、思わず双方笑ってしまった。
「なんで俺らお互い待ってんだろ」
「おかしいですわね」
「変なのー!」
の笑顔を見た芥川がびし、とに指を突きつけた。不法者である。
「今の、いいよ!ちゃん、笑うとすごく可愛い!普通でも可愛いけどさ」
実は宍戸も同じように思っていた。普段から美人だとは思っていた。意思が強そうで凛とした美しさが彼女にはある。けれど綻んだ笑いにはまた別の美しさが隠れていたのだった。童女のようにも見える稚い笑い。しかし、俺も可愛いと思う、と言えないのが宍戸だ。宍戸は黙って笑いを抑えながら、けらけらと笑うの顔を見つめていた。
「おかしゅうございました。笑ったらなんだかお腹が空いてしまいました。温明殿に戻りますわね」
「あ、ああ」
「俺らも御飯食べに行こ、宍戸」
笑ったからお腹が空いた──宍戸だって感じることだが、それを口にする女に初めて出会って宍戸はびっくりしていた。女ってもっと奥まってそう大して笑ったりしないものだと思っていたし、それが良いともされていた。けれど、笑ってお腹が空いたと正直に言う女の方がずっと好ましい。
「じゃあねーちゃん!」
「はい、失礼しますね、慈郎さま、宍戸さま」
「おう、じゃあな」
双方笑んだままの別れとなった。が温明殿に帰ると女官たちはばらばらに朝の膳を取っていた。朝顔がを見て顔を戸口に向けた。
「お先に頂いてたわよ、
「ええ。私もお腹がすいたから頂こうかな」
そう言うとが東庇に御膳を用意する。黒漆塗りの懸盤に一汁三菜の御膳が用意してあった。海藻の汁物に氷魚の膾、烏賊の焼き物、秋野菜の蒸し物に姫飯(普通の御飯)がつく。
「今日は本当に天気が良うございますね」
「そうね。日差しに近づくと暖かだし、良い天気だわ」
出された御膳を平らげてしまうとは自分の局に戻った。休みがてら硯箱に目をやる。その中には今まで公達から寄せられてきた文が入っていた。跡部が『次からは見ろよ』と言ったその次に当たる文も入っていた。
「これからはどうなさいますか」
「御禊のことはもう準備が済んだし、ゆっくりするわ。あまり夜も寝てないし」
「夜は宿直でらしたんですか」
「うん。寝ようと思ったんだけど頭の弁の君が来て、結局寝られなかったの。なかなか面白そうな人だったわ」
はそっと目を細めた。姫が人前で──とはいっても身近なの前だが──公達を褒めるなど、なかなか無いことである。前に姫が結婚していた殿を含めて三度目ぐらいになる。
「それはようございました。…その頭の弁の君さまから御文頂いておりますよ」
「いつ?さっき?」
「午の刻前でございましたから、ついさっきでございますね。頭の弁の随人が持って参りました」
差し出された紙は継紙で、青や白の紙が継いである。
『知るや知る 塩釜の浦波寄せて 我が身の袖の乾く間も無し』(知っているでしょうか、塩釜の浦の波が寄せてくるように私の袖は乾く間がありません。あなたを想って泣いております)
海は思いを寄すならば、と付け足して書かれている。
「乾く間も無いだなんてよく言うわよ」
はいくらかためつすがめつした後で薄様に筆を取った。
『遠江 寄せては返す浦の波 先いづくにか 定まりやらむ』(海の寄せては返す波のようにあなたの想いの先はどこか定まっているのでしょうか。移り気なことで)
浅葱色の薄様に書いて紅碧の薄様を重ねる。急ぐこともないのでそのままにした。
「姫様、返事をお書きになりましたので?」
「返事って言っても拒むほうの返事よ」
返事にもいろいろある。通常、女は拒む意の返事を返し、男はめげずに文を出す。拒まれて拒まれて、ようやく女が良いかと思えば応じた返事を出すのだ。そしてその後対面に続くのだが、この場合もう仁王とは御簾越しに対面している。としては仁王は面白そうな人物だと思ったし、歌が白々しいところがまたいかにも仁王らしくおかしく思われたので返事を書くことにしたのだ。
「姫様が殿方に御文をお書きになるだなんて…」
はよよと崩れんばかりに泣きそうだ。大袈裟だ、と思いながらは別の文を見ることにした。
露がまだ消えていない萩が一房添えられている結び文があった。洒落た薄色に菫色の薄様が重ねられている。
『我が宿の 陰野の萩に置く霜の 消えかへりてぞ 恋しかりける』(私のところの陰野に咲く萩に置いた霜が消えて無くなるように、心も消え入るばかりに恋しく思っていることです)
「……」
心も消え入るばかり、とはこれまた大袈裟な。は不審に思いつつ誰から来たのかをに尋ねた。
「その萩は中務卿の宮様ですよ。頂いた当時は霜がきれいについておりました」
「……」
さらに沈黙しばらく。はため息をついてもう一度文面を見やった。どう見ても『恋しかりける』とある。心も消え入るばかり、というのが誇張表現だとしても、かりそめに思われているのは確からしい。
「あの宮さまは……」
物好きな、というべきか初志貫徹型だ、というべきか。本当にを思っているらしかった。その思いが続くか果ては本物かは知らぬことだが。
「あと他には?」
どうせなら全部見てしまえ、というやけっぱちに近い気持ちがに起きて、に言うとはかなり喜んで結び文を持ってきた。
「左大弁の君さま(忍足)、右近中将の君(鳳)でございますよ。あら」
孫庇からどの、と呼ぶ声がする。男の声だ。
「何事でしょう」
が局から声を出すと武官風の男は姫の女房はそなたか、という。
「私が姫さま付きですが」
「そなたにお預けしたい書があって参った。お取次ぎ願えるか」
「……どなた様でしょう」
「左近中将(芥川)さまからの御文だ」
はそこまで聞いてからに確認するように顔を見やった。ここで追い返せともいえず、は仕方なしに頷いた。慈郎さまだわ。
「分かりました、承りましょう」
孫庇に近寄って文を受け取り足労をねぎらってから使い人を帰した。が文を持ってそのままやってくる。結び文だ。
「左近中将の君も加わりましたね」
「……みんなして物好きね」
「姫様なんてこと仰います。みなさまお目が高いんですよ!」
はややぞんざいに言ったのだが、は主人のをこの上なく尊んでいるし愛しているから即座に非難の声が出た。
「これで五名様になりましたね。姫様お返事大変ですこと」
「…場合によっちゃあ出さないわよ」
仁王にはつい戯れて返事を書いてしまったが、全部に返事を書くつもりもなかった。どれか出したいのにだけ出せばいい。
「これが中務卿の宮さまの前に来た左大弁の君さま(忍足)の御文です」
幾種の色が打ち出してある唐紙が小さく結ばれている。添え物はないらしい。流麗な筆運びの文だった。
『冬河の 上は凍れる我なれや 下は早みの恋初まるらむ』(冬の河の表面だけ凍っているのが私だからだろうか、その下の早い流れのように私は恋し始めたことだ)
「……恋初まる、か」
これが初めなら今までの三通はなんだったのかしら。そうは思ってもわざわざしまった文(見なくて時間が立ち過ぎたので括って箱にしまった)を見る気にもならなかったので、変わった方、とは見受けた。実は忍足は似たような内容の文を毎度贈っていたのだ。あなたを想って恋し始めた──このような内容の文を前の三回とも送っている。
「そしてこれが右近中将の君でございますよ。きれいな御箱で」
唐の物と見える美しい箱に結び文が一つ、入れられていた。添え物は菊が二輪。
『くもり日の かげとしなれる我なれば 君こそ見えね身をば離れず』(あなたを想って曇りの日の影のようになった私だから、あなたには見えなくてもお傍を離れることはない)
「…すごいわこの人」
「どうなさいました」
が尋ねるので文を見せるとはあらまあ、と言って口を覆った。
「ずいぶんと情の深い方でらっしゃいますね」
見えなくてもあなたから離れないで傍にいるというのだから、すごい話だ。歌の上での誇張表現だと解釈していても情の深さは滲む。
「あんまり記憶がないんだけど…どんな方だったかしら」
「前にみなさまでお出でになったとき、姫様が手ずからお返事差し上げた方ですよ。ほら」
『いつぞやの文の返しを待ち詫びて 右近中将 長太郎』鳳がそのとき差し出した懐紙をは取り出してきて見せた。は薄朱色の薄様に『人こそ見えね(お手紙見てません)』と返事をしたのだが、あまり記憶にないらしい。
「ああ…なんかお返ししたような気がしてきた」
「姫様は興味の無いことにはとんと記憶が薄うございますから」
は取り成すように言ったが、まるで取り成せていない。は少しむくれて唇を尖らせた。
「ひどいけどその通りね。さっきの左近中将のは?」
「はいこちらです」
白い鹿の子紙に桔梗色の紙が透けている。やや子どもっぽい筆運びだ。
『さきのこと 嬉しと思い君想う 朝顔(今の桔梗)枯れてもここに花咲く』(さっきのことを嬉しく思い、あなたを想っています。もう冬で桔梗は枯れましたがあなたを想う心の花は咲いています)
「……」
人柄が素直で分かりやすいと思っていたら歌も素直な歌が来た。
「ずいぶん可愛らしいお歌ですね」
「そういうお人なの。稚いというか…」
はそう言って目を細めた。もゆったりと笑んでいる。
「姫様、どれにお返事なさいますか?」
御箱からさまざまな薄様を取り出してが訊ねた。は薄様を手に取って眺めていたが、やがて一枚を選び抜いた。
「左近中将さまにするわ。他はしまってちょうだい」
「素敵なお手のものもございますのに…」
は残念がったが、言われるままに中務卿・左大弁・右近中将の文を箱にしまった。
『風寒み 霜が下りたる 君の花 名も知らねけば見ずもせず』(風が寒いので霜が下りているあなたの花は名前も知りませんし見たこともありません。本当でしょうか)
「お返事なさいましたのは頭の弁の君さまと左近中将の君でよろしゅうございますね」
「ええ。主殿司にでも使いにやって」
主殿司を二人呼び、それぞれ頭の弁の詰め所である蔵人所と左近衛府の詰め所である陣座に使いにやらせる。二人が走り去った後では大儀そうにため息をついた。
「前の殿(夫)のときもこうやって御文のやり取りをしたんだったわ」
「朗詠のお好きな方でいらっしゃいましたね」
和漢朗詠集という文集があって、の前夫はそれを好んで歌にも文にも取り入れていた。もちろん口ずさむこともよくあって、は女があまりしなくてもいい漢文の知識をそこで身につけたのだった。
姫様は今でもこうやって公達と御文を交わされることはお嫌なのですか?」
「嫌って言うわけじゃないわ。ただ…どうせ泡沫なのだと分かっているから、期待するまいと思うだけ。誰かが通ってくるようになっても何人かの一人にすぎないわけだし、訪れを待つだけの女にはなりたくないもの」
この時代、男は妻を持つ他にも女を持つことが許された。自分の家に妻を招くこともあったが、外にいくつか女の家を持ち、歩き回るのが普通であった。女たちは夫の訪れを待つより他ない。
「きっと姫様をただ一人のお人として頼みにして下さる方がいらっしゃいますよ」
「さあどうでしょうね…」
が気の無い返事をしたとき、主上の使いがやってきた。晩の膳に伺候せよ、というお召しである。
「じゃあ行ってくるわ」
「はい、行ってらっしゃいまし」
大殿籠りになられるまでお仕えしたら、今日はお役御免だろう。明日になれば尚侍の物忌みも明けることだし。は一息入れてから主上の御座に急いだ。

第六幕『竜田山の風』


 

姫様、いかがだったでしょうか。ちょっと長くなりました。でもまだ山吹出てないんですけど…(汗)。あっくんを王と呼びたい私の願望が満たされないまま終わってしまいました。
やっとこさ姫が歌を読んで詠んでくれました。「月、秋と期すれば…」は和漢朗詠集ですが、他は古今和歌集を本歌取りしたのやら、私が一人で詠んだのやらいろいろです。雰囲気だけ受け取っていただければ。

お付き合い有難う御座いました。多謝。
2005 10 13  忍野さくら拝






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