諸戀 第六幕 竜田山の風

 

内裏では御禊の準備が着々と進められていた。御禊とは、新嘗祭(この場合は即位して初めての新嘗祭なので大嘗祭と呼ぶ)を前に主上が心身を清め、潔斎に入られる合図のようなものだ。多く都の東に位置する賀茂川で行われる。
御禊の日取りが四日後と近くなって、内侍司はいっそう忙しくなった。神祇官や装束司、次第司(二つとも御禊専用の役所)中務省などと協力して仕事を進めていく。実質的な長官であるは目が回るほどの忙しさだった。普通仕事は午前中で終わりだが、午後になっても仕事に追われていた。
「なんだか終わりが無い気がしてきたわ」
「なに弱気なこと仰ってんですか、姫様。四日後なんですから終わりますとも」
「だといいんだけど。ああ疲れた」
が嘆息をついた頃、温明殿に向かう人々がいた。千石たちだ。
「ねー、萩の典侍いるかなあ」
「このところ温明殿は夜まで仕事をしていると聞きますから、きっといらっしゃるんじゃないですか」
千石の問に答えた室町は、そんな忙しいときに訪ねていく千石の気が知れない、と思っていた。南はさっきから止めるよう言っているのだが千石が頑として聞かない。
「千石、頼むから迷惑かけるような真似するなよ。温明殿が忙しいってことは典侍だって忙しいってことだろ。な、止めとけよ」
「えー。だって俺らだってようやく仕事終わったのに、この機会を逃したら次いつ会えるか分かんないじゃん!」
御禊も大嘗祭も済んだらきっと暇がある。そう思っても強く言えない南である。
「亜久津さん、萩の典侍さまはどんな方ですか?」
「…俺は御簾越しだから顔なんかは分かんねえな。声もほとんど聞いてねえし。優紀は可愛いっつってたけどよ」
ややなげやりに答える亜久津に壇がまとわりつく。
「御息所さまが可愛いと仰るならきっと素敵な人です!千石さん、会えるといいですね」
「もう俺ってばそれだけを楽しみに今まで仕事頑張っちゃったもんねー。健気な俺にご褒美をくれたっていいよね南」
「……好きにしろ」
どうせ千石という男は自分の思ったとおりにしか進まない男である。南の忠告も泡のように消える。わりに常識派だと思っている室町もけっこう正論を吐く亜久津も止めないので千石は思う様進みまくっている。
千石が機会がない、というには訳がある。京職の詰め所は内裏の外にあるのだ。そして内裏の門は朝の参内が終わると同時にすぐ閉まり、よっぽどの用事がない限り中には入れてもらえない。黒羽たちはの家の家人なので許可が下りるが、『萩典侍を見てみたい』などという理由では許可の下りるはずもなかった。今日はたまたま内裏の中での仕事があり、全員揃っていたので千石は千載一遇の機会と見てとったのだ。
清涼殿から承香殿を通り、麗景殿の角を通って温明殿に千石たちがついたとき、はようやくその日の仕事を終えてくつろいでいた。
「もし」
なぜか千石に突付かれた南が声を掛ける。
「どうなさいました」
一番近くにいた朝顔が対応すると、千石が元気良く答えた。
「萩の典侍さまいらっしゃいますか!」
朝顔は笑ってその場を立ち去ってに譲る。は本当に嫌そうに孫庇の近くの御簾に寄った。
「私が萩ですが何用でしょうか」
「えっと、用事は君に会うことが用事。あ、自己紹介してなかったね。俺は左京大夫で千石清純。きよすみって呼んで」
またも『名前呼んで』攻撃である。はややげんなりしてその他を待った。
「式部大輔、南健太郎です。押しかけてしまって申し訳ない」
「左京権大夫室町十次です」
「……大和守亜久津」
「壇太一です!」
五人全員の名前を把握した後では千石に問いかけた。
「では千石さま。私に会う用事とはいかなる用事でございましょう」
硬いの態度に千石が怯む。
「…本当に、君に逢いたかったんだ。跡部くんが逢いにきたとも聞いたよ」
他の誰かが逢いにきたから自分も来た、では女の心を打つはずもない。はにべもなくこう答えた。
「確かに戯れにいらっしゃいましたが。千石さまも御戯れに?」
「跡部くんがどんなつもりかは知らないけど、少なくとも俺は本気。優紀ちゃん知ってるでしょ?」
「亡くなられた親王の御息所でいらっしゃいますね。確かに存じ上げておりますが」
「優紀ちゃんから君が可愛いって聞いたから、つい逢いたくなって。仕事で疲れてるのにごめんね」
千石が折れて配慮を見せるとは一つため息をつく。
「では私のことは亜久津王から?」
「俺は話してねえよ。千石が勝手に風評集めてきやがった」
と亜久津は面識がある。御息所(優紀)を訪ねに亜久津の邸に出向いた際、歓待を受けたのだ。歓待したのは優紀で、亜久津は座にいただけに過ぎない。
「ほんと、俺の我がままだから。文を送ったけど返事こないし、つい焦れちゃって」
来るもの拒まず去るもの追わず、が普段の千石の信念だ。しかし、に関しては違った。自ら追いに来たのだ。
「世は移ろうものならば、鳴かぬ鳥もございましょう」
男女の仲など簡単に変わるものだから文の返事を書かない人もいる──というのだ。千石は身を乗り出した。
「鳴くまで待つよ、俺は」
「……奇特なことで」
がそう答えて千石が無理に笑ったとき、温明殿の前を通りかかる人物があった。後宮などには普段縁のない真田だ。
「む。あそこにおるのは千石たちではないか。温明殿にみなで詰めて何用であろう」
そう呟いたとき、温明殿にいま噂の人物がいることに気がついた。幸村までもが文を出したという、萩典侍。彼女は機知に富んで歌も上手い上、声もかなり美しいのだという。かなりの美人だと幸村も言っていた。
「……うむ」
立ち止まって千石たちが詰めている御簾の向こうに目をやったとき。突然の風で御簾が捲れ上がり、中にいる女房たちの姿がはっきりと真田の目に映ったのだ。御簾近くに寄っていたの姿が真田にも見えた。
「…美しい」
顔はさすがに扇で隠されていたが、身の丈ほどと見える長さの髪が表着にかかる具合といい、扇を持つほっそりとした手や白魚のような細い指先、身につけている櫨紅葉の襲色目や朱色の唐衣など全てが美しく真田の目に映った。袴が緋色であったことももちろん見えていたのだが、真田は髪が表着にかかる辺りに一瞬にして釘付けになってしまっていた。
「あのような女人がおられるとは。……ふむ」
なにやら考えこんだまま、真田は渡殿を後にした。
御簾越しにと対面していた千石は大騒ぎである。扇で顔が隠されていたとはいえ、はっきりと姿を目にすることが出来たのだから。かいま見どころの騒ぎではなかった。俺ってばやっぱ運が良い!と心の内で叫んだほどだ。
「風を操るという竜田山の風神にお礼申し上げたいな。素晴らしい花を見られて光栄だよ」
「嫌な風ですわ。枯野の草をも皆様がたにお目にかけようというのかしら」
は謙遜したが、内心は心臓がばくばくいっていた。こんな近距離で扇だけを隔てて男の人と会うなど、前の夫以来である(黒羽や天根は会っているが、彼らは家族だ)。あられもない姿を人目に晒してしまった自分の不注意を恥じて女嬬に急いで几帳を立てさせた。御簾と几帳越しでは人影しか分からない。(御簾だけなら内側から外側が見える)
──御簾越しなら向こうからは見えないと思って油断してたんだわ。ここは女しかいない場所だし、滅多に殿方など見えないと思って…。このようなことがあって、さぞかし嫌な風評が立つことでしょうね。ああ嫌だ。
「姫様、お戻り下さいませ。風も冷とうございます」
人目に我が身を晒してしまい、混乱状態のが助け舟を出した。は大人しく局に下がる。
「殿方たち、申し訳ありません。姫様はご気分がすぐれぬようですので、ご容赦願います」
「こちらこそ、お忙しいのにすまなかった。風病(風邪)にお気をつけ下さい」
畏まったには南が対応した。やっと帰れるようで南は内心やれやれ、と思っていた。
「…萩典侍」
「お言葉ならお取次ぎいたします」
これ以上を表に出す気の無いは亜久津の声を遮った。
「なら伝えてくれ。優紀がこの間の礼を言っていた。文を出してもいいかと訊ねているが」
「姫様もお喜びになりますでしょう」
「分かった。邪魔したな」
が了承すると亜久津は立ち上がって温明殿を後にする。壇がついていった。
「萩の典侍。今日は本当にごめんね。でも、浅からぬ縁があるからこそ風も吹いたというもの。その縁を俺は信じてるよ」
千石はそう言い残すと立ち上がる。
「じゃあ失礼します。身体を厭うてね(身体に気をつけてね)、典侍」
その後に室町と申し訳無さそうな顔の南が続き、温明殿の外には誰もいなくなった。
「大丈夫ですか姫様」
「大丈夫なの、
や朝顔の声にはなんとか頷くことで応えてみせた。はひどく塞いだ気持ちで、あまり喋りたくもなかった。
「横になられますか」
が受けている衝撃の度合いは他の女房たちにも察することが出来た。夫や恋人、家族でもない殿方に自分の姿を見られたとあっては、その衝撃は計り知れない。もともとは男女の仲に積極的な性質ではなかったから余計だ。
「おいたわしや、なんとも疎ましい風だこと」
「本当に」
の言葉に朝顔が同調した。は返事をせずに塞ぎこんでいる。
「誰か」
温明殿全体が沈んだ気配に包まれたとき、外から声がかかった。武人のものと思われる堅い口調だ。
「ここに」
孫庇の近くにいた女嬬が返事をすると、外の人物は萩典侍に御文を、という。
「どなたさまからでしょうか」
が教えたとおりに女嬬が答える。
「左京大夫さまにてございます。なにとぞお取次ぎを」
対応している女嬬がの指示を仰いだ。は首を横に振る。左京大夫の所為で風が吹いたわけではないが、はかなり塞ぎこんでしまっている。姿を見られた本人からの文など読めまい。
「典侍様付きのお方が今はおられません。またの折になさいませ」
はっきりと断っては角が立つので女嬬は遠まわしに断った。外にいる使者はしばらく立っていたが、また参る、とだけ言い残して去っていった。





久しぶりに黒羽と天根が内裏にやってきた。に大嘗祭のときの衣装を届けにきたのだ。大嘗祭は最も大事な祭りであり、典侍の責務も重い。宴も多いため、内裏女房(主上に仕えている女性)たちにとっては装いに力の入る祭りでもあった。
姫はいらっしゃるか」
黒羽の声にが俯きがちだった顔を上げる。が東庇に出て対応した。
「私がここに。今日はどうしたの」
「大嘗祭のときの衣を北の方(の母)から預かってきた。御簾を上げるがいいか」
「はいどうぞ」
家人といっても黒羽・天根はの兄弟同然である。御簾を隔てる理由もない。巻き上げられた御簾から黒羽と天根が背負ってきた唐櫃が差し入れられた。はさっそく蓋を開ける。
「姫様もごらん下さいませ。素晴らしい衣でございますよ」
姫、具合悪いの?」
天根の声には頷いて、でも東庇に出てきた。彼らと会うのは久しぶりだ。
「きれい…」
衣を手に取って手触りを確かめるの横でが夕方遭ったことを黒羽と天根に説明した。
「災厄だったな、姫。でもあんま気に病んだらいけねえよ」
「美味しいもの食べたら?元気出るよ」
「ばか、宮中じゃ美味いもんなんてしょっちゅう出てるだろ」
天根の提案を黒羽が拳骨で収める。は仄かに笑った。家で見ていた光景と同じ、暖かな光景だったからだ。
「姫は笑ってて」
笑顔を見た天根にそう言われて、少しぎこちない笑いを浮かべたままは頷く。
「そうだな。姫は笑うと余計美人だからな!」
黒羽はそう受けあって声を立てて笑った。もつられる。はほっとした様子でその光景を眺めていた。
「黒羽、天根、ありがとう。少し元気が出たわ」
「それはようございました。二人とも大手柄よ」
の言葉に黒羽が照れる風を見せる。はそっと黒羽の狩衣を引っ張った。
「姫?」
「お母様には言わないで。心配なさるわ」
「大丈夫、言わねえよ。俺らの間に秘密なんていっぱいあるだろ?姫がちっちゃい頃木登りして…」
まだ裳着もしていなかった子どもの頃の話を黒羽がしていく。懐かしさと黒羽の温かさに自然と笑みがこぼれた。
「そうだったわね。お母様への秘密なんていっぱいあったわ。これも秘密の一つね」
「了解」
黒羽は清清しいほどの笑顔で口外しないと受けあった。もちろん天根もだ。
「あ、そうだ。お母様へ御文があるの。少し前に書いたものだけど…」
は以前主上の御前で書かされた(第五幕参照)文を黒羽に預ける。立文(正式な文の形式)にして包むほうの料紙に次のように書き付けた。
『衣の御礼に摂津の海を 
少し乾かしてからその料紙で歌を書いた継紙を包んで立文に仕上げた。
「はい。これをお母様に」
「確かに届けるぜ」
黒羽が立文を押し戴いたとき、戌の刻(午後八時)を告げる鐘の音が聞こえてきた。
「もう戌の刻か。そろそろ俺らは帰るとするか」
姫」
天根に呼ばれたは顔を上げて天根を見上げる。
「姫は笑ってたほうがいいけど、でも、本当に辛いときは泣いていいよ。涙は憂しものじゃないよ」
「そうだぜ。泣くとすっきりすることあるしな。姫は根を詰めやすいから、そこはが気をつけてくれよ」
「そうね。そうするわ」
の言葉に黒羽は頷いて、立ち上がる。
「じゃあな、姫、あんま無理通すなよ」
「姫元気でね、また来るね」
二人はそれぞれに別れを告げ、温明殿を去っていった。
姫様、少しはお気を確かになさいましたか」
「ええ、もう平気。黒羽も天根も本当にすごいわ。一緒にいるだけで元気が出るんだもの」
もし黒羽や天根が出自のしっかりした公達で、姫の相手になるのだとしたらどんなにいいだろう。姫は心穏やかに幸せに暮らせるはずだ。はそう思って姫に知られぬようにため息をついた。いつだって男女の仲はなかなかうまくいかないものだ。
典侍どの」
孫庇の外から武官のものと思しき声が掛かった。が近寄る。
「なんでございましょう」
「兵部大輔(宍戸)さまからの御文である。お取次ぎ願いたい」
はそっとを見やった。はしばらく黙った後で、首を縦に振った。兵部大輔といえば、この前麗景殿の角で鉢合わせた宍戸さまのことだろう。
「承ります」
御簾の裾から立文が差し入れられる。はそれを受け取って確かに、と使者に返事をした。
「それでは失礼する」
使者は足音も荒らかに去っていく。は文を持ってのところへ移った。霜のついた紅葉が添えられている。
「姫様、兵部大輔の君から御文です」
陸奥紙の立文は真面目そうな兵部大輔の性質をよく表しているようだった。外の紙を開いて中を見る。中には懐紙が入っており、歌が書いてあった。
『紅葉葉に 置く初霜の夜を寒み 染みは残れど色に出でめや』(紅葉の葉に置く初霜が夜が寒いので凍りつくように、あなたのことがどんなに心に染み付こうとも私は顔色に出るような真似をしようか。いや人目にたつことは決してしますまい。ひっそりと想っております)
後は名前だけで言葉も添えられていない。いっそ潔いほどの文である。
「……真面目そうなお歌」
ちらりと見やったの言葉に頷く。
「本当に。今までご覧になった文の中では一番真面目なお歌ですね」
はしばらく紙を眺めていたが、やがて硯箱を取り寄せた。返事を書くつもりだ。薄様を紅葉重ねにして、もらった文と同じように歌だけ書き付ける。
『風荒ぶ 野風を寒み秋萩の 移りにけりな人の心も』(荒んで吹き荒れる野風が寒いので萩はすっかり色を落としてしまったように人の心も移ろいやすいものです。お心本当でしょうか)
庭に生えている枯れた萩を手折らせ、結びつけて文をくくった。
「この時間じゃ人もつかまらないわね。明日にしましょ」
出来上がった文を御箱にしまい、は早々と寝ることにした。今日は疲れた。出来ることならもうあの方には逢いたくないが…あの様子ではこちらに押しかけてくるかもしれない。どうしたものか。
「それより風の噂のほうが嫌だわ」
簡単に姿を現す女、なんて風評が立ったらお終いである。女は奥まって姿を滅多に出さず、恋人であっても顔が見られるのは結婚の儀式のときがほとんどだった。とっさに扇で隠したとはいえ、髪も服も見られてしまった。軽い女だと侮られかねない。
「…宮仕えって試練が多いわ」
はそう呟いて床に伏せった。やっと一日が終わる。





第七幕『雪うさぎ』


姫様、いかがだったでしょうか。やっとこさ山吹面子を出せました。なのに千石が…。元々真田にかいま見させようと思っていて、この機会でどうだと挿入してみたところ、千石が姫様に嫌われてしまいました。しかし千石はめげずに文を送ることと思います(苦笑)。亜久津を王と呼ばせられて満足ですが、亜久津が姫争奪戦に参戦するのはいつになるんでしょうか……。


お付き合い有難う御座います。多謝。
2005 10 15  忍野さくら拝












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