諸戀 第九幕 龍の声

 

宵に入った頃から、ぱらぱらと頭上で音がしていた。絶え間なく続く音に起きている掌侍や女嬬たちは顔を見合わせる。
「まあどうしたんでしょう」
炭櫃の周りに出来ている座でがそう言うと、はふっと立ち上がった。
「姫さま?」
「ちょっと見てくるわ」
「そんな、御簾の外になど出てはなりません」
の制止も聞かず、は妻戸を押し開いて北土庇のほうに出た。外からは絶え間なくぱらぱらと降り続いている。手を伸ばして見ると、何か雪と一緒に降ってきている。雪は手のひらで溶けてしまったが、小さな氷の粒みたいなものが手のひらにまだ残っていた。
「霰だわ。雪霰ね」
しばらく手を翳していたは、手も冷たい土庇につけている足も冷え切ってしまって、戻ろうと身を翻したときに外の渡殿に人影を見た。
「やだ、こっちに来てる」
素早く妻戸から中に入り、妻戸を閉める。
「なんだったの、
朝顔が身体を炭櫃に寄せたまま訊ねた。はゆっくりと炭櫃のほうへ近寄った。
「雪あられが降っているみたい。ちょっと外に出ただけだったのに冷えちゃって」
「お早くこちらへ」
は自分が炭櫃に近寄っていた、その場所をに明け渡してにじり去る。はそのまま炭櫃に寄って冷えた身体を暖めた。
「そう言えば、さっき誰かがこっちに来ていたみたいだったけど、こんな雪あられの夜に何の御用かしらね」
雪や野分など荒れた天候の際に、公達が馴染みの女人や親族の女人を見舞うということはよくあることで、そう珍しいことではない。内侍所にいる誰かの馴染みなのだろうと思ったはそのまま炭櫃の火にあたっていたのだが、外から声が掛かった。
「雪あられの絶えない宵のようだが、いかがお過ごしか」
「まあ跡部さまよ」
掌侍たちの声には一瞬驚いたが、呼ばれもしないのに相手をする必要もないと思い、炭櫃の前から動かない。朝顔はそんなの姿に苦笑することしきりだ。
「土庇ではお寒うございましょう。東庇の方へどうぞ」
東庇に几帳で三隅を囲った場所を設え、そこに炭櫃を一つ寄せ跡部のための場所を作った。跡部は雪あられに混じる衣擦れの音を立てながら東庇に移動した。御簾の内に入ったことで跡部の衣につけている黒方の香が母屋に香る。
「お気遣い感謝する。ところで典侍はいるか」
朝顔や、他の女房たちの視線がにすっと集まる。は小さくため息をついて、几帳の傍に寄っていった。衆人環視なので無体な真似はしないだろうと思うのだが、それでも左京大夫(千石)たちに顔を見せてしまったことを未だに辛く思っているは女嬬に几帳を二重に立てさせた。失礼な扱いかとは思ったのだが、雪あられの宵に馴染みでもない女房の下に来ているのだから、これぐらいは許されるだろうと踏んだ。
対する跡部は几帳が二重に立てられたことに些か腹を立てもしたのだが、千石に顔を見られたことを気にしているような可愛げがあるのだと思いあたって、少し面白くなった。仄かに漂ってくる侍従の香りはが好むものだと分かっていたが、こうも几帳を立てられては几帳についた香かもしれず、部屋にたかれた空薫かもしれない。その辺りはどうも分からない。几帳の向こうには高杯灯台がいくつかあり、外には石灯篭がある。どこまでも暗く寒い闇の中にぼうっと浮かび上がる灯篭や灯台の灯りに紛れて香る侍従はとても趣があり、侍従は秋の香であることを忘れさせる。
でございます」
「跡部だ。こんな宵はどうしているかと思ってな」
跡部の声にも絶えず雪あられの降りかかる音が落ちる。
「竜頷の珠の響きはいかがだろうか」
「……寒々しく脆いようでございます」
鹿牙米簸て声々脆し
竜頷珠投げうって顆々寒し
(あられが屋根をうつ音がかの鹿(くじか)の牙にも比すべき精白の米粒を箕でひるように、ぱらぱらと軽やかに聞こえます。またそれは、竜のあぎとにあるといわれる千金の真珠を一粒一粒うちつけるように寒い響きです)
菅原道真の漢詩だ。和漢朗詠集に採られている。
跡部はに漢詩の覚えがあることを知っている(第四幕参照)。自分が思ったとおりにが応えたので満足して口の端を上げた。やはりな。打てば響く才気だと噂されているが、どうやら本物らしい。喉にこもる笑いをこぼした。跡部の笑う声が密やかにもれ、屋根を絶えず打つぱらぱらという音が混じる。
「そういえば、先だって左京大夫と話したのだが」
にとってはあまり聞きたくない名前だ。なんせ顔を見られてしまった相手なのだから、千石に悪気はないにしても、なんとなく印象が悪くなってしまうのは否めない。縁があって風が吹いたのだと言われればなおさら。
「俺がここに来ることを戯れだと称したとか」
「……」
確かに言った。あのときは忙しくて機嫌も良くなくて、しかも『跡部くんが来たから自分も来てみた』などと言われて、まるで自分が見世物にでもなった気分がして、そう返した気がする。
「思わぬ間もないことを分かって頂けていないようだ」(絶えず思っています)
「いつわりのない世であればそれも信じましょう」(信じられません)
のにべもない返しに跡部はやや苛立ったが、やがてふっと息を吐いた。
「そうこないと張り合いがねえな」
跡部の楽しそうな声色には頭を痛める。きっぱりとした返事をしたつもりだったのに、逆に気に沿ってしまうとは。礼儀と思って応えを返してはいるが、いっそ何も応えないほうがいいのだろうか。
「雪霰の日はそれなりに趣のあるものだと見えるが、やはり寒夜の月には叶わねえな。暗い中に降り積もった雪が月の光を受けている姿など、かなり素晴らしいものなんだがな」
跡部は外のほうに目をやりながらそう話し、几帳の向こうの気配を伺う。のいるさらに向こうにはまだ起きている女房たちがいるようだった。
「遊び(管弦の遊び)といきたいところだが、こんなに寒くては絃を押さえる御手が可哀相というものだろう」
そう言うと跡部は持っている笛で宗明楽を奏で始めた。和琴や筝の音がない笛だけの旋律は返って気高く聞こえ、あられの降りしきるぱらぱらという音に重なり合い不思議な楽を奏でている。
「寒々し夜を過ぐる間に龍の声 人は雪を吹きたるものか」(とても寒い夜が過ぎていく間に竜笛の音がします。雪を吹いているのでしょうか)
は傍にあった硯箱を引き寄せて、中に入っていた料紙にそっと書き付けた。まだ梅の季節には早いが、温明殿の東庇の庭には二本梅の木がある。紅梅と白梅だ。他にも山吹、桜、桃、椿、榊などの木が植わっており秋や夏の草花が植えてある。元々あったのは榊や山吹だが、が来るということで主上の命あって整えられたものだ。いつの時期でも花を愛でられるようになっている。
宗明楽の音が終わったとき、書いた料紙を女嬬に渡して跡部に渡す。跡部は手元の明かりを引き寄せるようにして料紙に目を通して、やがて笑った。
「梅花落をご所望か。花を落とさぬよう」
の詠んだ歌の「雪を吹く」という表現は菅原道真公の漢詩によったもので、梅花落を吹くと白梅がはらはらと落ちて唇は雪を吹いているようだ、との一節に寄る。そして梅花落という曲を詠んでいる唐代の漢詩から跡部は「花を落とさないように」と言った。その漢詩は梅花落の曲が素晴らしくて布を裁っている女の心を捉えてしまい、女が夫を思うあまり間違えて梅の枝を落としてしまうという詩だ。
跡部の梅花落はやはり気高く響き、ぱらぱらと雪あられの落ちる音にまるで白梅の花びらが見えるようだ。前にが筝を朝顔が琴を合わせたとき(第四幕)よりも何倍も素晴らしい笛の響きになっており、この宮はたくさんのことがお出来になる、とは思った。この気高い笛の音は性根に汚いところのある人の奏でることが出来るものではない。跡部は性格として強引なきらいはあるが、情けを深く知っている人柄なのだろうと思えてくる。高貴な生まれ育ちだから出来るものでもないだろう。
梅花落は笛の古曲だが、跡部本人はたいそう耳がよく楽にうるさい。前にたちと合奏したときに満足のいく出来ではなかったので、あれから忍足たちをつき合わせて相当な量練習をした。清暑堂の御神楽の調楽や節会で披露することもあって練習していたのだが、納得のいく出来になったらの前で披露したいと常々思っていた。筝か和琴と合わせてもらえれば言うことがないのだが、この寒さでは酷というものだろう。
頓に燈の下に衣を裁つ婦をして 誤つて同心一片の花を剪らしむ
は跡部が応えた漢詩を下し文で傍の料紙に書き付ける。衣も花の枝もまして鋏も手元にはないけれど、確かにこの音は思う人を心に描かせるような楽だ。亡くなった夫の面影が浮かんでは消え、輪郭がぼやけていく。極楽浄土の同じ蓮の上で来世出会うことを間際に誓い、亡くなってからは一心に成仏を願ったけれど、どうして思い出せる面影の姿はぼやけていくのだろう。二人でいた日々は三年もあったはずなのに、思い出せることがだんだん減ってきている。それは自分の情が薄いからなのだろうか。先に逝かれてしまっては三途の川も渡してはもらえない。時折、はっとするほど鮮やかに思い出せていたのは前の話で、忙しさに紛れた今は思い出す姿すらはっきりと見えない。あの方が「」と呼んでくれた声さえも、たまさかにしか聞こえない。母も父ももう一度誰かと逢うことを望んでいる。そうやっていつかは思い出のよすがもなくなり、誰か出逢った人と笑いあって暮らすのだろうか。あの方のことを忘れて。
「…典侍。どうされた」
跡部の声で現実に引き戻され、ははっとした。
「あまりに素晴らしく、聴き入ってしまいまして」
「そうか。そろそろ夜中にもなるころだな」
ぱらぱらと雪あられが降る音に守辰丁が刻を告げる鐘の音が響いた。子の刻にあたる。
「あまり遅くまで御簾の内にいたとあっては要らぬ風評も立つだろう。これで失礼する」
「さようでございますか」
思っていたより跡部があっさりと引き下がったので、としてはやや拍子抜けした気分だ。前は朝までいたのに。けれど、殿方は朝まで女人のところにいることは良しとされない。共寝をしていたのならば明け方近くになって出て行くのが通例で、さしたる仲ではない場合は今のように夜半すぎぐらいで帰る。深い仲であっても夜半すぎで帰ったりすると思いの深さを窺われたりもする。
「…やっぱりお前はいいな」
跡部の低い囁きは小さな声だったのでと傍に控えていた女嬬にしか届かなかった。いつにもまして丁寧な喋りをなさっておいでだ、とは思っていたのだが、それは周りの女房たちを慮ってのことらしかった。さっきの呟きこそ跡部本来の声音であり、跡部の喋りだ。
「北の対は磨きたてて空けてある。早く来いよ」
やはり小さな声でそう囁いて、跡部は御簾の外へ出た。朝顔と一言二言交わしていたのだが、には聞こえなかった。
北の対。それは正妻の居るところだ。跡部ほどの生まれや育ちの殿方であれば、添臥の姫君(高貴な男児が元服のときに共寝する女性。そのまま結婚するのが普通)の他にも幾人か通うところがあっても不思議ではない。は噂話というのがあまり好きではないから、ここに来たり文を遣したりする殿方ばらの噂もほとんど聞いてこなかった。だから跡部にどれだけ通うところがあるのか、北の方がいるのかすらよく知らない。けれど、北の対を用意して待っているというのは並大抵のことではない。跡部は本気だ。女嬬もそれを察したのか、の顔色を窺っている。
「姫さまどうなさいました?お顔がすぐれぬ様子でございますが」
「…、中務卿には北の方がいて?」
「そう聞いたことはございませんけど。朝顔さま、何かご存知では」
中央の間で炭櫃にあたっている朝顔をは仰ぎ見る。朝顔はしばらく考え込んでいた風だったが、やがて口を開いた。
「跡部さまには正妻はいらっしゃらないわよ。添臥の姫君とも共寝をせずに返してしまったそうだから。なんでも、自分でお決めになった方しか嫌だと仰ったそうよ。院(先代の天皇、跡部と今上の父親)はお嘆きになっていらっしゃったけど、跡部さまらしいと皆で話していたものよ」
朝顔は先代の頃から内侍司に勤めている。馴染みの殿方も多く、ちょっとした事情通だ。
「中務卿、北の対を空けてるから早く来いって仰ったの。どうしよう」
普通、結婚の申し込みは親や知人を通じて行い、文を交わし共寝をするようになったとしても親が認めなければ正式な結婚は出来ない。いきなり本人に言い出した跡部はかなりの型破りだといえる。
「まだ正式なお話ではございませんし、姫さまがお嫌ならお父上に仰ってお断りすることも出来ますから大丈夫でございますよ」
はそう言ってを慰め、そっと背を撫でてやる。朝顔は心配顔だ。
「こう言っていいのかは分からないけど、今まで跡部さまと噂があった姫君って大概姫君の親族や姫君本人からお話があったそうなの。跡部さまご自身は皇子でらっしゃるから後宮の方ともお付き合いがおありだけれど、あれでいて浮ついたところのない方なのよ」
普通女性の側から言い寄ることなどあまりない。跡部の将来性や才能、容姿がもてはやされている証拠である。
「だって、そんなこと言われても、良いとか嫌とか以前の問題なのに」
跡部のことを好きだ嫌いだの前に、は元々男女関係に慎重な性質で前の夫が亡くなってからというもの、一切そういうものと関わらずにきた。典侍になってからいろんな人から声を掛けられたり文を届けられたりはしていたが一貫して断る姿勢を貫いているし、どの方がいいかどうかなんて考えたことがなかった。断ることを前提に接してきたにとって、正妻に迎えたいという跡部の申し出は晴天の霹靂で、どう対応していいか分からない。実家の母親に指示を仰ごうにも母親はに結婚してほしいのだし、跡部からとなれば身分や将来性など言うことはないのだ。
「これを機会に少し踏み込んで考えたほうがいいのかもしれないわ、は」
「朝顔…」
ほとんど泣きそうな顔のを見て朝顔は哀れに思ったのだが、そのまま口にする。
の事情は知っているけれど、女が一人で生きていける世の中ではないし、誰か良い方がいらっしゃったらその方に委ねてもいいと思うわ。今は良くても親御さんと別れた後一人で生きるには厳しい世の中よ」
そう言う朝顔は母親を早くに失っており、父親ともあまり縁がない。典侍をやっているのは有能ゆえ頼まれた口だが、自分で生きる糧を得るために働いているところもあるのだ。
「お父様たちと別れたら…」
想像するのも悲しいことだが、の父親はとても高齢で、今でも十分に長生きしている部類だ。四十から行う賀の宴も幾度も行っている。死に別れることなど考えたくないが、そうなってしまう可能性はとても高い。残念なことに。父親は余分すぎるほどの財をに既に渡していて、が一人で暮らす分には困ることがないが、母親や黒羽たち、家にいる皆を全て養うとしていつまで過ごせるかは分からない。
父親との今際の別れまで想像してしまったの顔に涙が浮かんで流れていく。がそっと袂で拭った。
「ごめんね、泣かせるつもりじゃなかったの。でも、少しは殿方のお気持ちを汲んで、良さそうな方には色よい返事をしてもいいと思って」
朝顔は顔が広く、いろんな殿方ばらと親交がある。恋の関係から友情関係まで幅は広いが、幾人かとの仲立ちを頼んできた殿方もいる。が主上の御前に伺候することが多く、あまり温明殿に詰めていられないのでそういうときは朝顔とが対応しては断ったり文を預かったりしてきたのだった。真剣に頼み込んでくる殿方の姿を幾人も見ており、如何だとは思っても彼らの恋が成就すればいいなと思うときもある。
「…でも少し考えてみる。ありがとう朝顔」
幾筋か涙のあとが残った顔でそういったの表情はすっきりとしていて、朝顔はほっと胸をなでおろした。を泣かせたとあっては主上にも申し訳なく、またの家族にも申し訳ない。
「少し眠ったほうがいいわ。もうすぐ暁だけどまだ朝までは時間があるから」
「そうなさいまし、姫さま」
「……うん。じゃあ休むわね」
は自分の局に引き下がる。あのときの跡部の声が耳元から離れない。不覚にも、鼓動が高まってしまった自分が許せなかった。







ふいに誰かに呼ばれた気がしては辺りを見回した。夜の闇のように暗いここはどこだろう。

「殿!」
微かに聞こえた声は愛しい夫のものであった。優しく甘やかな声。
「殿?」
声がしたほうを確かに見ているのに、夫の姿がない。衣擦れの音も聞こえるのに姿だけが見えない。いつもいた北の対にしては暗すぎるし、御帳台のはずなのに畳の感触がない。
「殿、どちらにいらっしゃるのですか、殿」
心細くなって声を張る。夫の声はほがらかに笑った。
「ここにいるよ、
声は確かに近くから聞こえているのに姿が見えない。なぜ。手を伸ばした。
「殿…!」
「姫さま?」
の声がして、ははっと我に返った。夢だったのか。
「どうなさいました」
近くで休んでいたは心配そうに近寄ってくる。
「……殿の夢を見たわ」
「そうでございましたか」
「でも私には殿のお姿が見えなかった。もう殿は私を思ってくださらないということなのかしら」
夢に相手の姿が見えるのは相手が自分のことを思うが故だと言われている。前までならはっきりと見えたはずの夫の姿が微塵も見えなかったことには動揺し、はらはらと涙を流した。
「どこもかしこも真っ暗で、殿のお声は聞こえるのにお姿が見えなくて。なのに殿はお優しくて…」
「姫さまが悲しんでお休みになったので、ご心配になられたんですよ、きっと」
「そうなのかしら」
は流れ出る涙を袂で拭いながら寝乱れた髪を整える。尼になろうとしてこの髪を切ろうと思ったのに、思いとどまらせたのはやっぱり夫の言葉だった。家族総出で止められたこともあるが、夫の言葉を思い出したのだ。
『本当にの髪は美しいね。艶やかで長くて…ずっと触っていたいようだ』
この髪は殿が愛でられた髪、この身も殿が愛して下さった身、ならば自分から捨て去ることなど出来ない。自分の業の深さを嘆きながら、それでも生きていかねばならぬと思ったのだ。
「姫さまはやはり殿のことを思ってらっしゃるのですか」
「思っているわ。思っているのに、ふとしたときに浮かぶ面影が次第に霞んでいくことが悲しいの。喪に服していた間はいつだって鮮やかな面影が見え声が聞こえていたのに、もうたまさかにしか浮かばないのよ。…薄情な女と殿はお嘆きになるわ」
はどう声を掛けていいものか悩んで押し黙る。亡くなった人への思いはいくら強く持っていてもやがて日々に紛れて薄れていく。それはどうあっても抗えないもので、は父親を亡くしているためにその過程がよく分かる。薄れていく思いに自分を責めてしまうことはにもあったが、は菩提を弔うために勤行に明け暮れて父を一心に弔った。親を弔うのは子の務め、親を送るのもまた子の務めなのだと思いあたったときに、霧が晴れるように心の平安を得たのだった。しかし、が亡くしているのは大して年差のない夫である。たまに訪れていた夫ではなく、北の方としてかしづかれ愛された背の君を失った心の痛手はが想像していたよりはるかに深かった。
「…夢見の僧をお呼びになりますか」
俗人である自分より、悟りの境地を目指す僧になら何か相応しい言葉が掛けられるかもしれない。はそう思ってに訊ねると、は弱弱しく頷いた。
「そうね。私の信心が足らずに殿が苦しんでおられたら大変だわ」
「ではさっそく東寺に声をかけておきましょう。今日はお休みになられますか?」
こんな状態では仕事はもとより主上の御前での伺候など出来ないのでは、とは踏んだのだがは首を横に振った。
「だめよ。もうすぐ賀茂の臨時祭だもの。私事でお勤めを疎かにしてはいけないわ」
「私は東寺に赴いて長者さまと話して参りますが、お一人で大丈夫ですか?」
「…ええ。ありがとうね。私には朝顔もいるし、今日一日ぐらい大丈夫よ。長者さまによろしくね」
「はい。…あら」
がやっと弱弱しい笑みを見せたとき、孫庇のほうから声がした。典侍さま、とを呼んでいる。
「どうなさいまして」
が近寄ると、御簾の下からそっと唐箱が差し入れられた。
「中務卿の宮さまからの御文です。なにとぞ」
中務卿、という名前には微かに反応し、ややあって頷いた。
「確かに承りました」
の声に随人は頷き返して帰っていった。差し出された唐箱は見事なもので、蒔絵螺鈿が細かに施されており、意匠も凝らされている。名のあるものに見えた。大事に抱えての前に持っていく。
「姫さま、中務卿の宮さまからでございます。しまっておきますか?」
「そこに置いて。気が向いたら読むから」
てっきり唐櫃にしまってと言われると思っていたは面食らう。姫は確かに中務卿のことをわずかながら気にかけている。それは嬉しいことだったが、さっきの嘆き様を見ると心底から喜べることではなかった。まだ姫の心には亡き夫が確かにいる。
朝の粥を共に取り、は仕事には東寺に出かけていった。



「きれい…」
は文机に置かれた唐箱の表面を指でなぞる。細かな蒔絵螺鈿は荒涼とした山野に紅葉が舞う様を施してあり、不思議と目を留めたくなる絵だ。中を開けて文を見るべきだと思いつつ、なかなか手が進まない。幾度も山野の蒔絵に指を這わせ、ややあっては蓋を持ち上げた。中には紅葉が敷き詰められており、驚くほど鮮やかだ。紅い紅葉だけでなく黄色に紅葉した落葉樹の葉も取り混ぜてある。敷き詰められた紅葉の上に置かれた緑青の薄様が枝のようにも若葉のようにも見える。結ばれている薄様をゆっくり解いた。
「恋しくば見ても偲ばむ紅葉葉を心をうつすよすがにもせむ」(恋しく思ったならばこの紅葉葉を見て偲んで下さい。心を私のほうへ移す縁にもしてほしいものです)
今までと違う、激情をこちらに浴びせるのではなく、寄り添うかのような詠みぶり。強気一辺倒な人柄だと思っていたのに、意外な気持ちだ。笛の音を聞いたとき、情けを深く知る人柄なのだろうと推察したが、やはりそうであったようだ。でなければこのような柔らかな歌は詠めないだろう。
「中務卿、か…」
の呟きは御簾を通って抜ける冷たい風に乗って流れた。あられは朝方には止んでいた。





が跡部の文を見ていた頃、は東寺に着いていた。女性ならば初瀬の長谷寺や近江にある石山寺がよく信仰されていて長谷寺詣でや石山詣でが多い。観音信仰が元になっているのだが、の目的はの夢占と鬱屈とした気分を払うことにあるので密教の寺である東寺を選んだ。東寺にはの父親も深く関わっていて、と馴染みのある僧侶も幾人かいるのだ。
「これはこれはどの。どうなされましたかな」
知り合いの律師が対応に出てくれた。物静かな壮年の僧侶だ。
「実は姫さまのことでお話したいことがございまして。長者さまはいらっしゃいますでしょうか」
「姫さまのことですか。私が長者を呼んで参ります故、こちらの局でお待ち下さい」
律師はそう言うとゆるやかに立ち上がり、が通された局を後にした。どこかで護摩が焚かれているのか、芥子のような匂いがする。
「お待たせいたしました」
さきほどの律師を従えてやってきたのは一の長者だった。頭にはもはや白いものしか見えないが、悟りを得た者なのか年を感じさせない健やかさがある。律師はそのまま座を辞して帰っていった。二人きりで向かい合う。
どのの姫さまと言われると…」
「はい。さまのことでございます」
長者はの本当の名を知っている。それというのも長者本人がに名を隠すように進言したからである。
「秋頃から宮仕えをなさっておいでとか。いかがお過ごしでしょうかな」
「姫さまはお勤めを進んでおやりになり、幸い人にも恵まれてお過ごしです。けれど、姫さまが今朝お起きになってから泣いておいででして。夢見が悪いのではと心配になりまして相談に参りました」
「どのような夢をご覧になられたのでしょうか」
「亡くなった殿のお声が聞こえて、でもお姿は見えなかったと仰っておいででした。殿を思うお心が薄れてしまったのではないかと泣いておいでです。お休みになる前に、殿方から北の対に来ないかとお聞きになったそうで、ひどく悩みながらお休みになっておいででした」
長者はゆっくりと息を吐いて低く唸る。何か悪い前触れなのかとは身を硬くした。
「姫さまは自分の信心が足らずに殿が成仏出来ずに苦しんでおられるのではないかとも仰ってましたが」
の声にも長者は考え込んでいる。ややあって、長者はゆっくりと喋りだした。
「夢というのは、第六識である意識が見せているものです。つまり、お心のうちにそう思っておいでなので、夢を見るのです。北の対に来る、という言葉が自然と自分が北の対にいた頃の意識を呼び寄せてしまったのでしょう。亡くなった殿を思っておいでなのはとても素晴らしく、信心深いとお見受けしますが亡くなった殿はもはや御仏に委ねられた身。四十九日も終わった今ではきっと天上にお生まれのことでしょう。ご心配なさることはありませぬ」
「殿のお姿が見えないことに意味があるのではございませんか?日々においても殿の面影が滲んで鮮やかに見えないことを嘆いておいででした」
「人は必ず親しい誰かを亡くすものです。父母、兄弟、せうと(夫)、いもうと(妻)、子、亡くならぬ人などないのです。姫さまと殿が今生でお別れしたのは人の世の定め、決して姫さまや殿のご愛情が薄いからでもご縁が薄いからでもございません。もし姫さまが誰か愛しいお方と逢うことがあったとしても、それは姫さまの現世の幸せにございます。御仏は来世をお救い下さるだけでなく、現世の悩みもお救い下さいます。殿の面影が薄れていってしまうこと悲しゅうございましょうが、それは殿が来世にお生まれになったことの証でもあるのです。姫さまのご信心はとても篤く深くいらっしゃいましたし、きっと天上で穏やかな日々をお過ごしのことでしょう。ならば現世に生きる姫さまはご自分の幸せをお考えになっても宜しゅうございましょう。殿も天上から幸せな姫さまをご覧になって喜ばれることと思いますよ」
さすがに一の長者(東寺で一番の僧)ともあるお方だ、とは思わず拝んでしまった。自分や奥方が姫さまに再び幸せをと思ったことは間違ってはいなかったのだ。この場に姫を連れてくれば良かった。きっと喜びの涙を流したに違いない。
「姫さまはご自分の幸せを遠ざけようとなさっておいでなのです。殿のことを一心にお思いになり、殿方ばらとも深くお付き合いしようとなさいません。私や奥方さまは姫さまの幸せを御仏に祈っているのですが…」
「ご自分の幸せを遠ざけようとなさいますな。あらゆる悩みは御仏にお任せし、ご自分は幸せに穏やかにお過ごしになるのが一番でございますよ」
長者の言葉には深く頷き、一言一句間違えずに伝えようと必死になった。
「観世音菩薩を深く敬い申し上げ、観音経を写経なさいませ。御仏が必ず救って下さいます」
さらに深く頷いたとき、思わず涙がこぼれた。袂で拭っては笑った。
「俗人である私などには姫さまのお嘆きが深くどうしてよいか分かりませんでした。真にありがとうございます。長者さまのお言葉、必ず姫さまにお伝えします」
「はい。私も修法を執り行い、姫さまのお心の平安を御仏にお祈り申し上げましょう。少しお待ち下さい」
主上の御修法も執り行うような尊い僧侶であるのに、長者はに対しても丁寧な言葉遣いで話し、姫のことに関しても親身になって執り行う。の父上と深い仲がある寺とはいえ、本当に有難いことで涙がどうしても出てきてしまう。
長者は近くにあった硯箱を寄せて何事か書き付けていた。姫への文であろう。
「もしまたお困りのことがございましたら、遠慮なく仰ってください。今は忙しいので姫さまにお目にかかれないのですが、近いうちに必ずお会いしたいとお伝え下さい」
「はい、確かに」
長者から立文を預かっては深く頭を下げた。これで少しでも姫さまが心穏やかにお過ごしになり、ご自分の幸せのことを考えて下さったら、はもうそれだけで十分幸せである。
「それでは、失礼致します」
法衣の衣擦れの音さえ、尊く聞こえては一人また頭を下げた。





が八葉車を急がせて温明殿に戻ると、は仕事を終えて文を眺めているところだった。
「姫さま、ただいま戻りました」
「おかえり。長者さまはどう仰っておいでだった?」
文を文机に置いたまま、を迎える。
「何もご心配になるようなことはございませんでした。殿のお姿が薄れゆくのは殿が来世天上にお生まれになった証ではないかと」
長者が書いていた立文を手渡すと、さっそくは包みを開けて中の文を取り出した。厚い文だ。
「……私の信心や殿にお仕えしていた皆の信心で殿が天上にお生まれなら、それはとても喜ばしいことだわ。同じ蓮の上ではないかもしれないけど、きっと天上でお会いすることが出来るわね」
ゆっくり文に目を通しながら、はぽつりぽつりと喋っている。
「私、本当に殿ではない方とお逢いしてもいいのかしら」
「宜しゅうございましょう。長者さまもそう仰っておいでですし」
長者が遣した文には、に話したことが書いてあり、気遣いの言葉も述べられていた。あまり深い嘆きに陥ると、それは悪いものを呼び寄せてしまいがちなので、嘆きを信心に換え現世を幸せに生きることが肝要だと書いてあった。
「…今はどなたが、とかそんなこと分からないけど、でももお母様もそう願っているのだし、そんな風に考えてみることにするわ」
「姫さま…!」
このまま車を走らせて奥方に報告に行きたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。堪えているとなぜかまた泣けてしまった。
ったら、なんで泣いてるのよ」
「姫さまがそうお決めになったのが嬉しゅうございます。奥方さまも及ばずながら私も姫さまのお幸せだけを祈って過ごしておりますから」
や母親だけでなく、黒羽や天根、邸にいる皆が自分の幸せを待ち望んでいることはも分かっていた。けれどどうしても振り切れないでいたのだ。
「長者さまは姫さまのために修法をなさると仰っておいででした。観世音菩薩をお頼み申し上げ、観音経を写経なさるとよいそうですよ」
「……なら、あの唐櫃に入っている紙を使うわ。里の西の対にまだあるはずよ」
あの唐櫃、が何を指すのかが分かっては驚いた。殿が亡くなったときに、殿と交わした文の全てを唐櫃に入れてしまいこんだのだ。初めて交わした文から後朝の別れの文、日々の細やかな文全てが収められている。
「漉き直してよろしゅうございますか」
漉き直したら前の文はもちろん読めない。薄鈍色の紙になるだけだ。
「あれで写経して、長者さまに差し上げるのが一番いいことだと思うの。殿のことを思って悲しむのはそれで止めにするわ」
「分かりました。そう仰るのなら、すぐにでも里に使いをやって漉き直させましょう」
本当なら、四十九日の間にでもそう出来ればよかったのだが、は殿を思う気持ちが強いあまりにそれを眺めては嘆き暮らしていた。殿の残したもの全てを失いたくなかった。よすがになる子もいない間柄では自分の身と自分の思いだけが頼りだった。
殿が天上で幸せにお暮らしなのなら、それを邪魔するような涙は流すまい。自分も幸せに暮らすことが何よりの供養になると長者さまは仰った。
はぼんやりと外を見やった。殿と別れてから、季節はもう一回り以上回ったのだ。あのときは、夏の終わりだった。


第十幕『寄せて返す波』


姫さまいかがでしたでしょうか。諸恋跡部さま編。跡部さまの心証がちょっと上がりました。そしてやっとこさ姫さまも少し前向きになり始めました。長者が現世の幸せを力説するのは密教だからです。大乗仏教は来世の幸せを説いたりすることが多かったのですが、密教になってからは現世利益を求められるようになりました。

お付き合い有難う御座いました。多謝。
2005 11 3  忍野さくら拝












テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル