Étolie sérénade le deuxième mouvement
翌日。廊下に面していて一番後ろにあるの席の周りは、女生徒でいっぱいだった。転校初日もいっぱいだったが。
「さま、ご実家は京都でいらっしゃるんでしょう?こちらではどうなさっておいでなんですの?」
「別宅がこちらにあるので、そちらにおりますわ。両親と離れているのは心細いものですけれど、あなたのような優しいクラスメイトがいらっしゃるので、そう寂しくはありませんわね」
「さまは今までずっと京都にいらっしゃったんですの?」
「ええ。家はずっと京都ですけれど、時々ヨーロッパに出かけますわ」
「あの家の方と同じクラスだなんて、とても嬉しいですわ。仲良くしてくださいませね」
「こちらこそ、仲良くして下さいね。昨日とは髪型を変えられまして?とてもお似合いですわ」
「まあ、そんな…」
「さま、今度の日曜日、私の家でパーティがありますの。ぜひおいでくださいませ」
「ありがとうございます。招待状、頂きますわね。制服姿のあなたもお綺麗ですが、正装なさったあなたはさぞかしお美しいことでしょうね」
「さまったら…」
「さま部活動はお決めになられまして?ぜひ私どもの部へいらっしゃいませ」
「どんな部活動をなさっておいでなのですか?」
「華道部ですの。家の方から見れば物足りない思いをなさるかもしれませんけど…」
「何を仰います。あなたという花が美しい、そのことだけでも十分に価値があることじゃありませんこと」
とクラスメイトのやり取りを少し離れたところから見ている光と馨は少しだけ肩をすくめた。ハルヒは二人の間で予習の続きをしている。
「なんていうか、ってやっぱホストぽいよな」
「自然に出てくるところがちょっと殿っぽいけど、女版殿って感じかな」
「…疲れないのかな、」
「「さあ?」」
休み時間中、同じようなやり取りが続いていた。は誰の言葉にも嫌な顔一つせず、そして相手が思わず頬を紅潮させてしまうような言葉を返事にしてしまうので、あっという間にファンクラブもどきが結成されていた。結成したのは昼休みで、クラスメイトの有志が集っている。
放課後、真っ先に第三音楽準備室にやってきたは、昨日鏡夜からもらった鍵で扉を開け、中に入った。中では鏡夜がノートパソコンを操作しているところだった。
「鏡夜先輩、こんにちは」
「ああ、。早かったな。双子たちが来るまで、ここの物を把握しているといい。お客様にお茶を淹れてくれるんだろう?」
「ええ」
頷いたはティーセットを一つずつ確かめ、ポットの生地の厚さを確かめたり、茶葉の種類を確かめていた。方針なのか、BOPではなく、OPばかりが揃っていた。種類はダージリン、アッサム、ウバだが、バリエーションが数種類あった。もちろん、冷蔵庫にはミルクもあるし、無農薬レモンも用意されている。鏡夜は資料を数枚手渡した。
「常連のお客様の好みはここに書いてある。紅茶をテーブルまで運ぶこともあるかもしれないが、くれぐれも気をつけて。は男だからな」
「はい」
「「ー、じゃなかったー!」」
第三音楽室から、双子の声が聞こえてきた。揃って間違えたらしい。
「こっちです」
の声に、双子は揃って控え室にやってきて、鞄を置いた。
「鏡夜先輩、の制服は?」
「これだ」
「ほらカツラ取って」
光が男子制服を受け取り、馨はカツラを外している。カツラを外したの髪を馨が整え、光はの制服を脱がしている。が全く抵抗しないので、鏡夜は内心驚きながらパソコンの操作を続けていた。
「こんにちは…って何やってるの光!は女の子だよ!」
「え、だって抵抗しないからいいかなって」
「も抵抗して!」
「?そういうものなの?」
はきょとん、としている。まだ後ろのファスナーが外され、袖を抜いて下着姿の上半身が見えている程度で済んでいた。ハルヒが光との間に割って入る。はアイスブルーのスリップを身につけていた。
「ハルヒ、はいろんな人の前で着替えるのが平気なように育ってきてるはずだ。使用人の前で着替えることは普通のことだろうし、人に脱がされるのには慣れてるだろうな」
「そうなの?」
「ええ」
ハルヒの問いにはあっさり頷いた。日常の着替えもちょっと難しいもの(ワンピースのファスナーが一番上まであがりにくい、等)はいつだって傍にいる使用人に頼んでしまう。パーティに出るときは、ドレスを身にまとうために裸同然の状態もさらすことがある。が、慣れているので羞恥心が働かない。相手が男であっても、だ。
「ともかく、女の子が男の前で簡単に脱いだらダメだよ。光、続きは自分がやるから貸して」
「…分かったよ。じゃあこのサラシ巻いて。は胸があるみたいだから」
「ある程度はきつく巻かないと、途中で解けちゃうからね」
光と馨からアドバイスを受けたハルヒはサラシと男子用のシャツ、ズボンを持って自分が着替える時に使うスペースにを引っ張っていく。は中途半端に脱げた制服を手で持っている。
「、今度から着替えるときは自分が手伝うから、光と馨に脱がされたりしたらダメだよ」
「…ハルヒがそう言うなら。いけないことだったのね」
二人きりなのでは自分から脱いでいる。脱いだ制服とスリップ、ブラジャーを受け取って、窓際に置いた。サラシを巻き始める。
「いや、いけないっていうか、スタイリストさんとかなら大丈夫だろうけど、普通の男子高校生にされるのって何か違うと思う」
「…そうなの?」
の胸にサラシを巻きながら、ハルヒは途方に暮れた。この違いをどう説明したものだろうか。カーテンで区切られていて、誰も入ってこないとは言え、外には光に馨、鏡夜もいる。
「うーん…。今度二人っきりのときに話すよ。きつくない?大丈夫?」
「着物のときはもっと締められてるから、平気よ」
「ああ、それで慣れてるのか」
サラシを巻き終え、解けないように端を中に畳み込むとは男子生徒用のシャツを羽織って制服を完全に脱ぎ、ズボンに足を通した。一応の体裁を整えて、カーテンから出る。
「後はネクタイとジャケットだけか。おいで」
「ええ」
ほとんど子どものような素直さでは馨の前に移動して、ネクタイを締めてもらっている。ハルヒはの制服を皺にならないようにハンガーにかけながら、鏡夜を見やった。
「っていうか、いたなら止めてくださいよ、鏡夜先輩」
あのままじゃブラジャーまで脱がされてましたよ、とハルヒが文句をつけると、鏡夜はしれっと答えた。
「美味しいじゃないか」
「……」
「冗談だ。いくら何でもそこまでいったら止めるよ。さすがに裸はまずい。家の方たちやハニー先輩たちにバレたら殺される」
下着姿は見たくせに。この人も変態だったか。ハルヒは心の中でブーイングをしながらお茶菓子の用意をした。
「「これでよし!完璧な男子生徒出来上がり!」」
双子の声にハルヒがそちらを見ると、そこにはすっかり男子生徒の格好をした、いやがいた。
「ハルヒ、どうかな」
同じ境遇(理由は違えど男装)にいるハルヒに一番に意見を求める。
「男の子に見えると思うよ。あとは言葉遣いに気をつければ大丈夫なんじゃないかな」
「分かった」
が満足そうに(男装させた双子も満足そうに)頷いたところで、環が入ってきた。
「やや!、いやじゃないか!よく似合っている」
「本当ですか?ありがとうございます」
ここで下着姿露見事件のことを喋ったら今日の部活は中止だろうな…(環が双子と鏡夜に抗議したり号泣したりして仕事にならないから)とハルヒがぼんやり思っていると、隣にいた鏡夜に止めとけ、と止められた。
「環本人はどうにでもなるが、あいつがハニー先輩やモリ先輩に隠しとおせるとは思えないからな。武芸一門を敵に回すのは嫌だろう?」
「まあ、そうですね。でも次からは脱がせる前に止めてください。自分がやるんで」
「…了解しよう」
鏡夜とハルヒの間に密約が結ばれたとき、ちょうど四時を知らせるチャイムが鳴った。営業開始時間だ。
「行くぞ。営業開始だ」
「「はーい」」
「私は?」
「は接客じゃないから、ここにいたほうがいいな。お茶の注文が入ったらこちらから声をかける。そうだ、」
鏡夜は控え室と第三音楽室を繋いでいる扉ではなく、その横にある小さなすりガラスに手をかけた。
「実はここから中が覗ける。カーテンの隙間だから、ほんのちょっとだけどな。雰囲気を掴むぐらいなら出来るだろう」
「分かりました」
営業、開始。
すぐにやってきたお客様は双子の常連客で、お茶の注文がかかった。
「、お茶を五人分。英塚さまと東院さま、花明さまに光と馨の分だよ」
注文を受けて伝えに来たのはハルヒで、が頷くとハルヒ自身は光と馨の分を淹れ始めた。お客様はダージリンを好むのが二人、もう一人はウバだ。まとめてお湯を沸かしながら、茶葉を量る。電気ポットのお湯を紅茶ポットに入れて温め、カップも温める。
「光と馨はいつもアッサムで、ミルクは入れないんだ。他の人のも後で教えるね」
温めていたお湯を捨て、量った茶葉を入れて沸騰しきったお湯を注ぐ。たっぷり二分半待ってからストレイナーで漉した。
「ありがとう。お客様の分、出来上がったよ」
出来上がったわよ、と言いたいところをちょっと我慢して、男風に言ってみた。
「じゃあ持っていくね。これから忙しくなるよ」
お茶菓子をつけて、ハルヒは紅茶をトレイに乗せて持っていった。
「ねえ環様」
「なんだい姫君。今日の君はいつもに増して楽しそうだね、何か素敵なことがあったのかな」
「私のクラスに素敵な方がいらっしゃいましたの。昨日転校していらっしゃった、さまと仰るんですわ」
環は一瞬驚いたが、客にバレないほどの一瞬で、気づいたのは鏡夜だけだった。
「、というお名前はもしかしてあの家の?」
「そうなんですの。お噂ばかり拝聴しておりましたが、本当のさまは本当に素晴らしい方でらして。お優しいしお美しいし」
環を挟んで反対側に座っている女生徒も、頷いて身を乗り出した。
「本当にお優しい方ですの。環さま、さまにお会いになったことはございまして?」
「いや、残念ながら一度も。フランスにいた頃、ひょっとしたらお会いしていたかもしれませんけどね。…それにしても、姫君たちの麗しい唇から、他の人の名前を聞くのは寂しいな。僕よりもその方のほうが魅力的なのかい、姫?」
女生徒の顎を細い指でくっと持ち上げ、心持ち顔を近づけて環が喋っているので、女生徒はぽーっと頬を上気させている。
「そんなことありませんわ、環様…」
双子の客を案内していた鏡夜は、環とその客の言葉を耳に挟んだ。
「昨日の今日でそんなに評判になるのか?」
鏡夜の疑問は、営業終了後に判明した。
「「すっごかったよ」」
双子があっさり証言したのだ。ハルヒとは片付けをしている。
「なんていうの、女版殿って感じ」
「ずーっと休み時間中女の子がべったり。昼休みには何でもファンクラブが出来たらしーよ」
「…ほう」
鏡夜の頭の中にはいくつか計算があったが、それは想定していることが現実になったときの話だ。まだ、今はがだとバレないようにすることを優先させるべきだろう。
「の淹れるお茶は本当に美味いな」
環と光邦、崇はが淹れたお茶で休憩中だ。
「ありがとうございます。趣味でしたのに、人に褒めていただけたり役に立てるのが本当に嬉しいですわ」
格好は男子生徒だが、もう客はいないのでとして女言葉に戻っている。…ちょっと不思議な光景だ。
「ちゃんのお茶美味しいって、お客さんも言ってたよー」
「本当?みっちゃん」
「うん!ね、崇」
「ああ。茶葉を変えたのか、と尋ねた客もいたな」
茶葉は変えていないのに味が変わったように感じられた。それはの腕だ。ハルヒも淹れ方を習って丁寧に淹れていたとはいえ、趣味で追求しているほどではないので、やはり少し味が違ったのだろう。
「じゃあ自分もに習おうかな。自分が淹れる機会もあるだろうし。今度教えてね」
「もちろん、いいわ。片付け終わったら、私たち用に淹れましょう?そのときに教えるから」
は慣れない手つきで洗った茶碗を布巾で拭いている。拭いてから自然乾燥させ、棚にしまったら仕事は終わりだ。
「にはお茶のほかに音楽も担当してもらう予定だったが、どうかな」
「いつも今日みたいにクラシックを?」
「ああ。お客様と部員の会話を邪魔しない程度にな。だがいつも同じものを流すわけにはいかない」
同じ音楽がルーティーンで流れていると、それに敏感に気づく客も現れるだろう。一日の営業時間で同じ音楽が流れることはないとはいえ、常連客は通い詰めなのだから気づくこともある。
「それでしたら、後でレコードを見せていただいて、家から持ってきますわ。似た系統の、違うものを」
「でいることに慣れてきたら、ぜひ生演奏も聞きたいものだが」
環にはまだ何も言っていないが、環と合奏させれば目玉になるし集客率もいいだろう。の演奏が評判になれば、また別の客を集めることも出来るかもしれない。
「…それは私の演奏を聴いてから判断してもらいますね。趣味ですから」
「ちゃん、すごいんだよ。コンクールで賞もらったことあるんだ。ね、ちゃん」
「みっちゃん何で知ってるの?」
確かその話は光邦にも崇にもしていないはずだった。
「お父さんが教えてくれた!さまはすごいんだぞって!」
そのルートなら防ぎようがない、とは納得して仕方なしに笑顔になった。
「コンクール?何てコンクールか覚えてますか、ハニー先輩」
「チャイコフスキー国際コンクールと、ショパン国際コンクール!ちゃんと覚えてるよー」
偉いでしょ、と光邦は自慢気だ。崇が無言で褒めた。
「それすごいんですか?」
全く知識のないハルヒは首を傾げたが、鏡夜と環は驚いて立ち上がった。鏡夜は立ち上がっただけだが、環はに向かって突進中だ。
「「!」」
「は、はい…」
「「何で隠してた!!」」
まるで双子のようにそっくりだ。環が耐えかねたようにの両肩を揺さぶっている。
「ショパン国際コンクールに出てたはお前だったのか!あんな素晴らしい腕を!」
「えっと…その…」
揺さぶられているので視点も定まらず、上手く喋れない。見かねたハルヒが手早く救出した。
「環先輩、困ってますよ。ほら落ち着いて」
「というから、あの家の分家か、たまたま同じ苗字の者なんだろうと思っていたら、本人だと!」
「でも、入賞しただけで…」
「入賞するのが大変なんだ、世界最高のコンクールの一つなんだぞ」
「たまたまショパンが得意なので、父の友人の薦めで出ただけなんです。それ以外のコンクールには出てないですし」
環はくぅ、と拳を握りこんだ。コンクール入賞者の台詞とは思えない。入賞したことは非常な名誉で、プロになるきっかけを掴む者ばかりだというのに、は趣味だという。
「チャイコフスキー国際コンクールのほうにはバイオリンで出たのか?」
多少冷静になった鏡夜がそう尋ねると、は頷いた。
「そうです。せっかくだから一度コンクールに出てみないか、と言われたんです。15歳になった記念で」
「記念受験で入賞…」
環は脱力してしまっている。
「…ちょっとだけ弾いてみてくれないか。何でもいい」
「分かりました。じゃあ少しだけ」
奥にあるグランドピアノを指すとはこだわりなく頷いてピアノのふたをあけた。鍵盤を覆っている布を外してたたみ、椅子に腰掛ける。少し左よりに腰掛けて、指をそっと鍵盤に乗せる。左手の低いオクターブから始まった。
曲はショパンの『幻想即興曲』。
そう長くもない曲が終わったときには、いくつもの拍手が起きていた。ぱちぱち、という可愛らしい拍手はもちろん光邦のもので、崇はゆったりとした乾いた音の拍手、鏡夜もハルヒも拍手をしていたが、一番情熱的な拍手をしていたのはやっぱり環だった。
「素晴らしい!C'est fantastique!!Brava!!」
「ありがとうございます。人の前で弾いたのは久しぶりだけど、つっかえなくて良かった」
「ねー、殿、これってそんなにすごいことなの?」
「確かにすっごく綺麗な音だったけどさー」
審美眼のある双子には、綺麗なものに聞こえたらしいが、その音を出すまでの苦労が一切分からないらしい。
「当たり前だバカもの!、いつからピアノを?」
「生まれたときからありましたから、二歳ぐらいだと思います。バイオリンは三歳の誕生日プレゼントでした」
「十何年弾き続けてこその音だ!ピアノは弾かなくなるとすぐに指が動かなくなる。いつも弾いているんだろう?」
は肩をすくめた。そこまで分かるとは思わなかったのだ。
「ええ。本当に、好きなだけなので。弾いていると落ち着きますし」
「鏡夜、何やってるんだ?」
環が盛んにキーを叩いている鏡夜に尋ねると、鏡夜はパソコンの画面から目を離さずに答えた。
「『』のリサイタルを知らせる告知だ。コンクールの名前を出すとさすがにバレかねないからな、経歴不詳にはしているが、さっきの音源を試聴出来るようにしているところだ。この音を聞けば、分かる人間には分かるだろう」
「いつの間にそこまで…」
ハルヒは驚く以上に呆れている。しばらくして、鏡夜はパソコンから顔を上げた。
「…というわけで、今週の金曜日から、毎週金曜日はのリサイタルということになった。曲の組み立ては全部に任せる。そうだな、30分程度頼みたい」
「分かりました。ピアノだけで?それともバイオリンも入れていいのですか?」
「の自由だよ。好きなようにやって欲しい。客の受けだとか、曲がメジャーだとかそういうことは考えなくていい」
「承知しました。そうなったら、もっと家で練習しないといけませんね。レパートリーも増やさないと」
「ここで練習してよ、ちゃん」
突然の光邦の言葉にはびっくりして光邦を見つめた。
「だってそうしたら僕らは毎日ちゃんのピアノが聴けるし。聴きたいよー」
「でも、片付けとか…」
「なんなら俺が片付けても構わん!ぜひそうしてくれ!」
「「殿が片付け!?」」
双子は心底驚いたのか、目をぱちぱちさせている。ハルヒも驚いて口が開きっぱなしだ。
「…そこまで乞われたら、断れませんよ。同じピアノで弾いたほうが分かることもあるでしょうし、ここで練習ということでいいですか?鏡夜先輩」
「ああ。但し、の姿で。いつ不測の事態があるやもしれぬからな」
「分かりました。じゃあ楽譜とバイオリンと持ってこないと」
「わーい、ちゃんのピアノとバイオリンだー!」
翌日が持ってきたのは、アマティとストラディバリの二丁で弓を数本ケースにしまってあった。もちろん、営業終了後なのでの姿になっている。
「何で二つあるのさ?」
「こっちが練習用で、こっちが本番用。指鳴らしはこっちのストラディバリでやるの」
光の質問に答えながら、はストラディバリを手にとって、弦の張りを弓で確かめている。環は宣言通りに片付けながら、そわそわしてが弾くのを待っている。奥から持ってきた楽譜台に楽譜を乗せ、その前でバイオリンを構えた。
滑り出すように流れ出たのは、バッハのバイオリンソナタ。
環は片付けをしているはずなのだが、ほとんど手が止まっている。ハルヒや崇はせっせと片付けをしている。鏡夜はいつものようにノートパソコンに向かっていて、光邦と双子は聴き入っていた。バイオリン独奏曲で最も有名な曲の一つである、バッハのソナタは第三番まであり、通常は『6つのソナタとパルティータ』として認識されている。が弾いているのはソナタ部分だけだ。
弾き終わると、はバイオリンを構えから戻し、一つため息をついた。
「バイオリンは引っ越して以来だから、やっぱりちょっと下手になってますね」
相当弾きこまないといけないわね、と言いながらはぱらぱらと譜面をめくっている。
「…光」
「なんだい馨」
「あれ下手だったと思う?」
「全然」
「「すげーな、」」
双子は美術やデザインに興味や才能があるとはいえ、もともと芸術のセンスはあるほうなのだ。音楽というジャンルにおいても審美眼は発揮されたようだった。
「…」
「はい、何ですか?」
「その…リクエストしてもいいだろうか?」
あまりに環がおずおずと喋っているので、双子やハルヒはびっくりしている。
「私に出来る曲でしたら。何を弾きましょう?」
「パガニーニの独奏曲を頼みたい」
「ソナタですか?カプリース?」
有名な曲をあげると、環の目はいっそう輝いた。
「カプリースの18番!好きなんだ、パガニーニ」
「分かりました。楽譜を持ってきていないので、間違えても許してくださいね」
「もちろんだとも」
環のリクエストに沿って、はバイオリンを構えて弾き始めた。24のカプリースのうち、18番は特に抒情的なのでよくテレビなどでも使われている。
が弾き終わったときには、既に片付けも終わっており、ハルヒや崇も拍手を送った。
「ありがとう。じゃあバイオリンは次で終わりね」
そう言ってが弾き始めたのはパガニーニのバイオリンソナタだった。環は放心したように聞きほれている。環にとっては習い事で始めたピアノだったが、元来ロマンティックなものが好きな性質なので、クラシックには相当はまっている。自分のピアノの才能とは折り合いがつけられるようになったが、やはり上手な演奏には胸が躍る。
それからピアノでショパンを数曲、リストを弾いてからの練習は終わった。
「、家ではどれだけ弾いてるんだ?」
「…朝と夜に二時間ずつ。ピアノとバイオリンそれぞれ二時間ですね。本当はもっと弾きたいけれど、これ以上睡眠時間削るわけにもいきませんから、ちょっと物足りないです」
コンクール前なんて一日中弾いてましたから、と言いながらはピアノのふたを閉めた。
「そこまでやらなくてもいい、と言いたいが、まああまり無理はするなよ」
「はい、大丈夫ですよ。明後日には間に合わせます。じゃあ着替えてきますね」
「自分も手伝うよ、」
ノートパソコンから顔を上げずに言った鏡夜の言葉に頷いたは着替えるために控え室に入っていった。ハルヒが手伝うために後を追う。
「鏡夜先輩?何してんの?」
鏡夜のキーを叩く指がいつになく忙しないので、うるさく思った馨がそう尋ねると、鏡夜はひとしきりキーを叩いてから、顔を上げた。
「さっきの音源をファイルにしてサイトに上げてる。既にかなり反響があるぞ、『』のリサイタル」
「いつのまに…?」
「ここ盗聴器でも仕掛けられてんの?」
「「ま、どうでもいいけど」」
双子は自分たちに害が及ばないと判断してそう結論づけ、放心状態のままフリーズしている環に声をかけた。
「殿、いつまでフリーズしてんの」
「のピアノ聴くたんびにそれじゃ、大変でしょ」
お客の前でも披露するのに、と馨が言うと、環は握りこんだ拳をふるふると震わせる。
「お前たち…あの音色の素晴らしさが分からんのか…!?」
「「そりゃすごくきれいだったけど」」
双子が声を揃えると、環はばっと立ち上がり、握りこんだままだった拳を引き寄せた。
「きれいなど、陳腐な言葉で済むか!あれはまさしくミューズだ…!!」
「ミューズ(芸術の女神)でも構わんが、あいつはここでは男だからな、環」
作業を終えたのか、鏡夜はティーカップを片手に環たちを眺めている。
「ならば何だ?そうだ、ミューズは太陽神であり音楽神であるアポロンに仕える九人の女神…。はアポロンなのか!」
「新しくギリシア神話設定でも作るつもりなのか?」
そのついでに夫婦設定を忘れたりしないだろうか、と鏡夜は思いながらミルクティーをゆっくりと飲んでいた。
「みっちゃん、崇くん、待たせてごめんなさい。帰りましょう?」
環によってミューズ(時折アポロン)になったが、女子制服に着替えて戻ってきた。バイオリンケースを二つと学校指定鞄を持っているので、両手が塞がっている。持ちにくそうだ。
「大荷物だねー」
「ええ。でもバイオリンを置いていくわけにもいかないし、明日からは一つだけに…」
鏡夜がの持っているバイオリンケースを二つとも持ち上げたので、は不思議そうに鏡夜を見上げた。
「鏡夜先輩?」
「片方だけなら、ここに置いていても大丈夫だろう。控え室の鍵はが、ここの鍵は俺が持っているのだし」
本来なら用務員や教師がマスターキーを持っているはずだが、鏡夜が鍵を作り変えているので、本当の鍵を持っているのはと鏡夜だけだ。
「でも…」
「大丈夫、木を隠すなら森の中、ってね。ここは音楽室だから、バイオリンはそれこそたくさんあるんだよ。ほら」
カーテンを勢い良く鏡夜が開けると、壁際に楽器がたくさん並べられている棚が作りつけられていた。バイオリン、ビオラ、フルート、クラリネット、オーボエなど、弦楽器から管楽器が並べられている。
「打楽器やコントラバスなんかは控え室の奥にあるよ。ここに空きがあるだろう?」
バイオリンが並べられている棚には確かに一つ空きがあった。並べられているバイオリンはどれも現代物だが、数百万はする品ばかりだ。のバイオリンはバロック時代のものなので、その数百倍はする。
「ここに?」
「毎日持ち歩くのは大変だし、が持ち歩いているならともかく、が持ち歩いているのは不審に思われかねないからね。今日はどうやってごまかしたんだ?」
「何となく…」
確かにバイオリンケースを見た女生徒から指摘を受けたのだが、そのときは昨日と同じようにホスト節で話をそらしてしまったのだ。だが毎日同じことをやるわけにもいかないし、毎日持ち歩けば確かに不審がられるかもしれない。
「がだとバレるわけにもいかないし、ここに置けばいいんじゃないか?」
「…毎日持ち歩くのが大変だとかは建前だね」
「絶対=ってのがバレるのが嫌なんだぜ」
「「売り上げに響くから」」
『』がホスト部に現れてから二日、今日初めてお客の前に姿を現したのだが、反応は上々だった。お客の前にお茶を提供しただけだったのだが、名前を尋ねるお客がたくさんいて、接客希望の客もかなりいた。もちろん、サイトを見てがピアノを弾くことを知っている客もいて、リサイタルの予約チケットもたくさん売れて、ありがたいことに完売御礼だった。鏡夜はさっき、の音源をファイル化する前、どうやってさらに席を増やしてリサイタルを行うかを考えていた。接客しながらのリサイタルを考えていたのだが、それよりはコンサート形式にしてしまって、その時間だけたくさんの人間を入れたほうが効率はいい。
「じゃあ、練習で使うこっちだけ」
にこやかに勧める鏡夜に押されるように、は練習用のストラディバリをケースごと並べた。どのバイオリンもケースに入ったまま並べられている(埃除け)ので、ぱっと見には分からない。
「ちゃん、帰ろー」
「ええ。じゃあお先に失礼しますね」
アマティを片手に、もう片手に学校指定鞄を持ったが部屋を出ようとして、崇の横を歩いていた光邦に鞄を引っ張られた。
「みっちゃん?」
「こっちは僕が持つよ!だって大変でしょ?」
「でも…」
普段より光邦の等身は大きかったが、それでも同じ鞄を二つ持っていると、鞄に押されそうだ。横から手が伸びる。
「これなら問題ない」
崇の大きな手がの鞄と光邦の鞄両方をさらっていった。光邦とは顔を見合わせて、二人揃って破顔した。
「「崇(くん)ありがと!」」
学校の正門にたどり着くと、二台の車がたちを待っていた。黒いジャガーは家のもの、もう一台のベンツSクラスは埴之塚家のもので、崇は家が近いので一緒に通学している。家の運転手がからバイオリンケースを受け取り、後部座席に丁寧に置いた。
「また明日ね、みっちゃん、崇くん」
「ああ。明日」
「じゃあねぇー」
崇から受け取った鞄を手にはジャガーの後部座席に乗り込んだ。鞄を座席に置き、バイオリンケースを抱える。
「お嬢様」
「何かしら?」
「学校生活はいかがでございますか?」
助手席に座っている執事の言葉に、はふっと微笑んだ。
「楽しいわ。とても楽しくて、お家に帰るのが寂しいぐらいです」
「それはようございました。初めてお一人で外の世界にお出になられたので、私どもはとても心配申し上げておりましたが、それも杞憂でございましたね」
「ええ。学校のお友だちと離れるのは寂しいけれど、あなたたちのおかげでお家にお母様やお父様がいなくても、寂しい思いをしなくてすみますもの。いつもありがとう」
「お嬢様…」
執事と運転手はの言葉にひっそりと微笑んだ。高校に行きたい、と言い出したときにはどうなることかと使用人一同思ったものだが、良い方向に進んでいるようだった。
→第三話
いかがだったでしょうか、お嬢様。お嬢様言葉って難しい…。
お付き合い有難う御座いました。多謝。
2006 5 15 忍野桜拝