バレンタインなんて関係ないって言うヤツは、今まで一個もチョコをもらったことのないヤツだ

 

 

二月も十日を過ぎ、百合は捜査報告の資料を片手にお茶をすすっていた。もうすぐ時候は春だが、二月はまだまだ底冷えがする。監察の詰め所も寒く、熱いお茶は胃に沁みいって身体の中から温まることができた。
「そういえば、百合さん」
「なに?」
百合は報告資料から目を離さない。京にいる隊士や間者からの報告資料だ。
「もうすぐばれんたいんでーですね」
「…そういえばそうね。あたしはあのチョコってお菓子が好きじゃないんだけど、男の人はあのお菓子が好きなのかな」
小さい頃は戦争のせいで貧しかったし、忍になってからは無論のこと、百合は嗜好品と呼ばれる甘いものを口にしたことがなかった。酒なら変装中に口にしたことがあるが、甘いものを食べる機会がなかったし、食べようと思ったこともなかった。真選組に入ってから、度々近藤が出張の土産でくれるお菓子を食べだして、甘いものが少し好きになった。好みは和菓子に集中していて(近藤が買ってくるのが和菓子ばかりだというせいもある)、特に餡子を使った菓子が好きだ。
小首を傾げた百合に、山崎たちは苦笑してみせた。男はチョコが好きなわけではない。そもそも、天人たちの間で受け渡すのは花だったと聞くが、その風習が江戸に入ってしばらく、気がつけばチョコを渡す風習に変化していた。誰かから好意の証としてチョコを受け取る、ということが男たちにとっては重要だったし、見栄も手伝って数で張り合う男どももいた。
「今年も土方さんや総悟は大変ね。いろんな娘さんからチョコをもらって」
花街でも人気のある土方や、見た目がかわいらしいという理由で人気のある総悟には毎年チョコが殺到する。飛脚が一日がかりで屯所にチョコを運びまくり、屯所はしばらくチョコの甘い匂いでいっぱいになるのだ。
「お返しが毎年大変そうですもんね、副長も隊長も」
山崎はそう相槌をうつ。百合に向かって、誰かにあげるんですか、などど問う隊士はいない。愚問だ。百合は未だに好意のなんたるかが分かっていなかったし、大事だ大切だという気持ちは育っているが好きだとか愛だとか、そういった感情は未だに理解出来ていない。当然、ばれんたいんでーにまつわる男女の感情の機微も分かっていなかった。
「山崎もそういえば去年もらってたわね。ちゃんとお返しはしてあげたの?」
ばれんたいんでーの機微が分からない百合だったが、もらったらお返しをする、という一連の流れは理解していた。土方や沖田がきちんと返している姿を見ているので、学習していた。
「ええ、一応。お付き合いのあるお店の娘さんですし、丁重に」
「……どうして娘さんたちはチョコをあげるのかしら。近藤さんに尋ねたら愛だって言ってたけど、あたしにはよく分かんないな」
百合はため息をついて、資料を机にぱさりと置いた。





ばれんたいんでー当日。朝早くから飛脚が屯所を訪れており、用意されたダンボール箱には早くもチョコが積みあがっている。百合は朝食の後、土方たちのいる詰め所に顔を出した。
「毎年だけどすごいわね。きれいな箱ばっかり」
どれも丁寧に包装されたものばかりで、中には自分で作ったものなのか、自前の包装の品もあった。
「屯所にチョコ持ち込むなって高札出したはずじゃねェのか…」
土方は自分の名前が書かれたダンボールの中を見て、頭を抱える。屯所の前に、チョコ持込禁止、送りつけることかなわず、と書いた高札を数日前から出していたというのに、今年も変わらぬ量のチョコが届いている。飛脚は恐る恐るチョコを差し出すものの、飛脚はそれが仕事だし、隊士たちは咎め立てることが出来ない。直に娘が持ってきたのなら説得のしようもあるのだが。
「土方さんは娘っ子の心が分かんねェやつだねィ。娘っ子ってのは、禁止されると余計やりたくなっちまう性質なんでさァ」
「そういうものなの?」
百合は首を傾げているが、土方は依然頭を抱えていた。甘ったるい匂いが土方の鼻腔を刺激している。一日中、ひょっとしたらもうしばらくこの匂いの中にいなければならないのかと思うと、思わず土方はため息をついた。
「はぁ…」
恐る恐る、といった態で隊士が詰め所に入ってくる。隊士は両手にチョコを抱えており、書かれている宛名を見ながら土方と沖田とに振り分けてダンボールにしまった。土方は、文句を言う気概も失せたらしい。沖田はにやにやと楽しそうな笑みを浮かべている。
「総悟、あんまり土方さんで遊んだら駄目よ」
「へーい。姉御がそういうなら仕方ねェや」
詰め所を出るときに百合がそう声をかけると、沖田はしぶしぶ頷いてみせた。百合はそれを見届けて詰め所の障子を音もなく閉め、監察方の詰め所へ向かった。


内勤の作業を百合と篠原が分担してやっていると、夕方近くになってから山崎が潜入先から戻ってきた。
「ただいま戻りました」
「お帰り山崎。どうだった?」
「高杉はやはりこちらに来ているようですね。接触した、という浪士もいるようです。ただ、どう張っても高杉本人と接触出来ませんでした」
百合は山崎の報告に頷いて、山崎を労う。
「分かったわ、ありがとう。高杉を捕捉しないとね。あたしが出ようかな…」
んー、と小さく声に出しながら、詰め所の一点を見つめて考え込み始めた。隊士たちは、百合の言葉を静かに待っている。
「…高杉の狙いは分かっているの?」
「今はまだ。派手好きな高杉のことですから、何か大きなことを起こすつもりだろうとは思いますが」
「分かったわ、あたしが出る。あいつは目立つ風体をしているから、しばらくしたら捕捉できると思うわ」
百合はそう言いながら、久しぶりに新造の真似をすることになるな、と思っていた。高杉は遊び好きで、江戸に上がるとかなりの金を吉原に落としていく。京にいるときは、島原で遊んでいる。仲間たちを大勢連れて貸しきるようなことも少なくないので、吉原や島原としても上客の扱いをしていた。吉原・島原のような廓は外の世界と異なり、思想や権力とは皆無の世界だ。攘夷派を上げるな、と幕府や真選組が言おうとて、彼らは高杉たちを迎え入れるだろう。それが分かっているので、土方も吉原に圧力などかけはしない。もっとも、廓に集まる情報量はかなりのものなので、百合や土方は往々にしてそれを利用している。土方は客として、百合は太夫付きの新造として。百合の実年齢から言うと新造とはとても言えない歳なのだが、座敷持ちの真似をして下手に客をとるより、高杉と馴染みの太夫につく新造として化けたほうが、情報を得る効率はいい。
「明日からさっそく出るから、駒屋に連絡入れておいて。あたしは副長に報告してくる」
「…分かりました」
駒屋、というのは百合が度々潜伏している置屋で高杉の馴染みがいる。幾度も潜伏しているので、太夫とも既に親しい。潜伏を許可してもらう代わりに、百合が駒屋で上げた代金はすべて駒屋の懐に入ることになっている。そう交渉して、やっと許可されたのだ。
「副長、よろしいですか」
「百合か。どうした」
土方の返事を聞いて、百合は音もなく障子を開けするりと中に入って後ろ手で副長室の障子を閉めた。
「明日から、高杉を捕捉するためにしばらく潜伏します。監察の指揮をよろしくお願いします」
「…また駒屋か」
「ええ。それが一番手っ取り早いですから」
土方は、あからさまに苦虫を噛み潰したような顔をして百合を見上げる。百合は表情を少しも変えない。
「下手は打つなよ」
「分かりました」
渋々、といった態で土方は百合に声をかけ、百合は頷いて土方の部屋を後にした。土方のため息が背中に聞こえる。
「あ、百合さん」
監察の詰め所に戻ろうとしていた百合を隊士が呼び止める。確か、三番隊の隊士だ。
「どうかした?」
「屯所の門に、百合さんを呼んでくれっていう客が来てます。呼びに行く途中だったんですよ」
「客?誰?」
「銀髪で天パの侍です。追い返しましょうか?」
銀髪で天パの侍、といえば百合の知り合いに一人いる。
「大丈夫、一応知り合いだから。門のところにいるのね?」
「ええ」
隊士に礼を言って、百合は引き返して門に向かって歩いた。門に近づくにつれて、声が聞こえてくる。
「なんかさァ、イイ匂いすんね、ここ」
「…副長と沖田隊長宛にチョコが届いているからな」
「えー!?俺が一個ももらえてねェのに、あんたら山のよーにもらってんの!?」
「副長と沖田隊長だけだ、山のようにもらってんのは。他は寂しいもんだ」
門番の隊士と話しこんでいるのは、やっぱり銀時だった。
「銀さん」
「あ、百合!」
銀時は百合を目に留めるとすぐに近づいて、片手を差し出してきた。
「なに?」
「なにって、お前、ばれんたいんじゃん。義理でいいからさ、一個くれよ」
「え?」
門番の隊士は、どうなることかと固唾を飲んで成り行きを見守っている。もう一人が、報告に走っていった。
「いや、男所帯に女一人だし、義理チョコ余ってねェかなーと思ってさ」
「…義理チョコって何?」
もはや恥も外聞もなくチョコを求める銀時に対して、百合は不思議そうに眉を寄せる。
「何って、本命じゃねェけど、そこそこ付き合いのある野郎に渡すチョコレートのことじゃね?」
「本命?」
百合のばれんたいん知識は「男の人に娘がチョコを渡す。男はお返しをする。行動原理は愛(近藤曰く)」という三点のみで、本命だの義理だの、友チョコだのといった用語は全く知らない。
「…ひょっとして、百合、ばれんたいんって知らねェの?」
「知ってるわ。娘さんが男の人にチョコってお菓子をあげることでしょう」
銀時の顔が一瞬にして引きつったのは、百合の答えに驚いたからではなく、百合の後ろに鞘から抜いた刃が幾本も見えたからだった。
「万事屋ァ…てめェ、死にたいらしいな」
「旦那、その手はなんでィ」
百合に差し出したままだった片手をあわてて引っ込める。土方、沖田が先頭にはいるが、他にも隊士が幾人もいた。もちろん監察の隊士もいるし沖田以外の隊長たちもいる。百合は殺気に気づきながら、自分に向けられているわけではないのが分かっているので、何もしない。今の百合の行動原理は真選組にあり、隊士たちが怒ることに自分も怒る。よって、現在の機嫌はやや悪い。
「義理チョコ一個でなんでこうなるかな」
「てめェがうちの隊士たぶらかしてるからだろーが。暇人」
「暇じゃねーよ、仕事がねーだけだ」
「一緒だ馬鹿」
土方と銀時の言い争いはヒートアップし、他の隊士たちはついていけない。抜き身の刀を持っているままの沖田が、空いている片手で百合の手を引いた。
「姉御、こっちにおいでなせィ」
「総悟?みんな仕事はいいの?」
「百合の姉御のが何倍も大事でさァ」
「…ありがとう」
三年間をかけて大事、だとか大切、という感情を百合に理解させたのは真選組の隊士たちで、百合は理解した今でもそう言われると嬉しそうに笑う。大事な人たちに大事に思われている、ということが百合の中で自分自身をとても誇らしいものに錯覚させる。闇に生きる忍である我が身が、陽のあたる場所で息づくことが出来るように思えるのだ。
刀を収めた沖田に手を引かれて、詰め所に入る。沖田と百合の後を追うように、他の隊士たちも一緒に詰め所へ入った。土方と銀時は未だに言い合いをしているらしく、激する声が詰め所まで届いてくる。真選組の屯所内で、門に近いのは来客の相手をする応接間と詰め所だ。広間や資料室を挟みながら隊士の部屋になる。水周りは一つ所にまとまって奥にあり、母屋と廊下で繋がった離れに監察の詰め所と監察たちの部屋がある。道場も門近くにあるが、建物としては別棟だ。
「そうだ、総悟」
「なんでィ」
「明日から、あたし仕事でしばらく留守にするわ」
何の仕事か、などと沖田は聞かない。聞いても百合が話さないことを知っているからだ。監察は副長である土方直属の組織なので、上司の土方には報告をするが、他の隊士たちに仕事の話をしたりはしない。
「いつ頃戻るんでさァ」
「うーん…。ひょっとしたら一ヶ月ぐらい留守にすることになるかもしれないわね。目標を捕捉出来たら戻ってくるけど、出来るまでは戻れないかな」
百合の言葉に沖田は眉を寄せて、しかめ面をつくった。
「…ずいぶんかかるんですねィ」
「最近は長く空けてなかったからね。でも前はよくあったでしょう?」
確かに、真選組発足当初こそ短い潜伏ばかりを繰り返していた百合だが、監察の隊士たちが仕事をこなせるようになってくると、京に長く潜伏してアジトを洗ったり、過激派を追尾するために長期間尾行して屯所を空けたりすることがよくあった。沖田は渋々頷く。珍しく監察の詰め所ではない場所に百合がいるので、何やかんやと隊士たちが百合に世話を焼き、いつの間にか百合の前には淹れたてのお茶とお茶うけ菓子、大江戸新聞の朝刊までが用意されていた。向かい合う沖田の前にも一応用意されている。
「山崎にでもやらせておけばいいんでさァ」
頬を膨らませつつ拗ねる沖田に百合は苦笑しながらお茶を一口飲んだ。ほどよくあったかくておいしい。
「山崎は基本的に屯所待機だから。あたしがやったほうが経費も掛からなくて済むし」
百合は自前で衣装を持っているし、潜伏している間の雑費だけで済むが、山崎が客として入り浸るとなると、経費は何倍にも膨れ上がる。百合自身、手の掛かる仕事を抱えているわけでなし、どうせなら安くあがるほうがいい。
「経費なんてものァ、どーせお上のモンなんだから自由に…って痛ェ!」
がら、と障子の開いた音とともに沖田の頭上に拳が振り下ろされた。振り下ろしたのは土方だ。入り口に仁王立ちになっている。
「てめェか!ここんとこ使途不明金が多いって事務方からネチネチ言われてンのは俺なんだぞ総悟!」
細かい雑務一式を取りまとめているのはもちろん副長の土方で、事務方からの苦情も土方に集中する。沖田は殴られた後ろ頭に両の手をやりながら、土方をにらむ。目には微かに涙らしきものが浮かんでいた。
「ひでぇや土方さん。自分はしこたま業務用マヨネーズ買い込んでおいて、俺のささやかな楽しみを奪う気ですかィ」
「ささやかじゃねーだろ、テメェはよ!お前の部屋、どこの過激派の武器庫かってんだ」
この前あやうく死ぬところだったんだぞ、と土方は続けて説教をスタートさせる。百合は苦笑しながら立ち上がって、すっと部屋を出た。説教モードに入った土方は、一時間ぐらいは軽く説教をし続ける。沖田に非があったのかどうかは分からないが、あれでは話も出来ない。
「隊長、駒屋に連絡はつけておきました。いつものように迎えを寄越すそうです」
百合が監察の詰め所に戻ると、篠原が真っ先に報告してきた。
「分かったわ、ありがとう。明日早いうちに出るから、仕事の指示は今日中に終えないとね」
そう言いながら、机に置かれている書類を細かくチェックしていく。一つずつチェックを入れながら書類を見終えた後に、隊士の業務予定にも目を通して、百合は一つため息をついて髪をかきあげた。
「何かあったら今のうちにお願い。定期的に前やっていた方法で裏から連絡をちょうだいね」
隊士たちは揃って頷いた。吉村が声をあげる。
「高杉はどうしますか?」
「あたしが捕捉するから、基本的には放っておいて構わないわ。でも、もし捕捉出来たら真っ先にあたしに連絡をして。あいつの目的が分かり次第、こっちからも連絡するわ」
「分かりました」
吉村は頷いて、他の隊士も了解の意を示した。
「桂や他の攘夷派はどうしましょう?」
「桂はまだ張ってる途中だからそのまま、他の攘夷派も折に触れて張る程度で構わない。天人の大きな動きもないしね。あたしの留守は副長の命をちゃんと聞いてね」
「はい」
百合はその他にもいくつかのことを言い含めて自室に戻った。とうに外は暗くなっており、廊下には月の光が投げかけられている。薄暗い自室に入り、すばやく明かりを点けた。ぼう、と点った明かりに照らされた部屋の中で、百合は箪笥の引き出しを開ける。普段使うことのない、箪笥の下の引き出しには女郎になりすますときのための着物がしまいこんであるのだ。
普段絶対に着ないような、あでやかな着物と帯や小物をいくつか風呂敷包みにし、抜かりなく忍具もしまいこむ。忍具といっても、クナイや手裏剣のように戦闘向きのものばかりではない。移動に使うものや、連絡に使うもの、また身体の機能を維持するためのものなどさまざまある。
すべての準備を終えて百合が床についたのは夜遅くのことだった。




翌朝、まだ日も昇らない内に百合は用意していた風呂敷包みを抱えて、浪士姿にほっかむりをした格好で屯所の外に出る。迎えに来ていた駕篭に乗り込んで、吉原の大門をくぐった。吉原大通りを二間行ったところに駒屋がある。




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いかがだったでしょうか。バレンタインの話だったのに、気がつけば廓潜入捜査の話になってました。次はいよいよ廓話と高杉との接触です。粋に遊ぶ高杉と仲間たちを書きたいと思っています。

お付き合い有難う御座います。多謝。
2006 4 5 忍野桜拝













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