〇久



 真弓が憲実の勧めに従い、剣道部に入って3日。
 さすがに練習後は街へ繰り出す気力も、そしてすでに繰り出す必要性も無く、真弓は部活後まっすぐ部屋に戻ると、風呂に入るための支度をしていた。
 部活に入っていないあずさは、すでに風呂に入ったのだろう、寝間着に着替えており、今は机の上に教科書を広げている。

 今まで運動部などに入ったことは無く、体が慣れていない分、つらい。
 しばらくは趣味の読書なども諦めて、早めの就寝を心がけよう。
 空想に逃げ場所を求めなくても、現実に居場所があるのだから。

 部屋を出ようとした真弓に、あずさが、どこかためらいながら封筒を差し出した。
「真弓、これ読んでくれる?」
 珍しいこともある。
 いつもなら高慢に「真弓、読んどいて。」で済まされるのに。
 最近、あずさの雰囲気が少し変ったとは思っていたけれど。
「何?」
 真弓は何気なくその封筒を受け取り、その見知った字面に凍りついた。
「これ・・・」
「亜弓お姉様からの手紙なんだ。」
「あずさ宛だろ?」
 真弓はあずさに封筒を押しつけた。
 あの女の触った物になど、触りたくも無い。
「そうだけど、3枚目が真弓宛なんだよ。」
 あずさが困ったような、泣きそうな顔をした。
「・・・僕宛?」
 意味がわからない。なんであいつが、僕に?
「お願いだよ。読んであげて。」
 本当に、珍しい。あずさのこんな態度も、声も。
「なんで・・・」
 我ながら声が硬い。
「姉様、ホントに真弓に伝えたいみたいなんだ。
 どうして、そんな風なのか僕にはわからないけど、姉様の必死な気持ちはわかるから。」
 あずさはうつむいた。
 そう、あずさの中心はやっぱりあいつで。
 別に自分のことを気遣っての態度じゃないわけだ。
 馬鹿あずさ。
 いつまで騙されてるのさ、あの女に。
 いっそ、今ここで、中身ごと封筒を破り捨てたい。
 そしたら、あずさは怒るだろう。怒って・・・もしかしたら泣くかもしれない。
 それは、ちょっと見てみたいけれど。

「強くなれ。」

 憲実の声が胸に響く。
 そう、それじゃただのやつあたりだ。
 あの人にしたのと・・・いや、しようとしたのと同じ。
 あずさを怒らせたからって、泣かせたからって、心の中で馬鹿にしたからって、それはただの代償行為だから。

「強くなれ。」

 約束した。先輩と。
 あの女からの手紙だからってだけで、こんなにも心はざらつくけれど。
 傷はまだ、癒えていないけれど。

「わかった。読むよ。」
 真弓は封筒から便箋を取り出した。

 あずさの近況を訪ねたり、身体を心配したり、近況報告したりする普通の手紙。
 その後に、婚約が決まった、と書かれていた。
 そして、続く三枚目に書かれていた言葉は・・・真弓への謝罪。
 便箋と一緒に入っていたのは、婚約者であろう、陸軍の軍服を着た目元の涼しい青年が、亜弓と共に写っている写真。

 読み終えて、言葉が出なかった。
 真弓は便箋を封筒に戻さず、そのまま全てあずさに押しつけて、部屋を飛び出した。

「真弓っ! どこ行くの!」
「風呂だよ。馬鹿あずさ。」
 あずさの声を後ろに聞きながら、真弓は走った。
 洗面器など持っていないことに、その時は気づかなかった。



 寮の廊下を駆け抜けて、外へ出る。
 さらに走って、剣道場へ。
 部員も帰ってしんと静まり返った道場内へ入りこみ、練習用の竹刀を持って、あずさは覚えたばかりの素振りを始めた。

『なんだよ、あれは。』
 筋肉痛で腕が悲鳴を上げている。
『今更。謝ったくらいで・・・・・・・・』
 手のひらの豆が、剥けている。じんわりと血がにじんで、竹刀が滑る。
『馬鹿じゃないの? ていうか、馬鹿だよあの姉弟は。』
 体中が痛い。
『今更。今更! 自分はちゃっかり幸せそうに写真に納まって。』
 握っていられなくて、竹刀が真弓の手から落ちる。
 真弓は道場の床に座りこみ、竹刀を胸に抱えた。
『先輩。土田先輩。』
 その竹刀が、憲実自身であるかのように、真弓は抱きしめる。
『僕は・・・僕は強くなんかなれない。』
 真弓の目から涙が零れる。
『こんなにも、悔しくて、悲しくて、痛くて、切なくて、苦しい。』

 便箋も封筒も破り捨て、大声でなじってやりたかった。
 寮中に響く大声で、あずさの姉の亜弓は淫乱で陰湿な最低な女だと非難してやりたかった。
 そこら中に醜聞を振りまいて、火浦の家も、亜弓も評判を落としてやって、婚約破棄にしてやりたかった。
 あずさを、何も知らない、気づかない、知ろうとしない馬鹿なあずさを張り飛ばしたかった。
 何もかも、壊したかった。
 そして、そんなことを考えてしまう自分も。
 やっぱりあいつの言う通り、醜くて汚くて、自分でも大っ嫌いな自分を。
 全部、壊して。

 硝子ケースに納まっている蝶の標本を床に叩きつけるように。
 家という名のケースも、飛べない自分も、粉々になるように。

「・・土田先輩。」
 声に出して呟く。
 先輩が強くなれと言ったから、強くなるのに剣道を勧めてくれたから。先輩も、迷う時はここに来ると聞いたから、今、ここに来たけれど。
「僕は・・・強くなんかなれない・・・」
 笑って許すなんて出来ない。
 どんなに自分を傷つけたか知らないで、いや、知っていて、それでもなお、あんな、紙に書いたものだけで、許されてる気になってる奴なんて、祝福できるわけない。
 こんなに、まだ、痛いのに。
 こんなに、まだ、苦しいのに。
 涙が止まらなかった。


「木下。いるのか?」
 ふいに、道場の入口から声がした。
 明かりもつけずに入りこんでいたから、道場の中からは、廊下の明かりが逆光になって、人影しか見えない。
 でも、その声は間違え様も無く・・・
「土田・・・先輩?」
 弱弱しい声で真弓は答えた。
「木下。」
 人影が近づいてくる。
 古い板の床がきしむ。
 ふいに、怖くなる。
「来ないで下さい。」
 堅い声を放つ。
 きしみが止まる。
「どうした?」
「僕は・・・約束を守れなかった・・・だから・・・」
 見ないで下さい。
 弱くて、どうしようもない僕を。
 助ける価値も無い、醜い僕を。
「・・・」
 静寂が道場に満ちた。
 憲実の足音は近づくことも無かったが、遠ざかることも無い。
 ただ、憲実はそこに居る。

 小さな吐息の音。
「火浦が、心配していた。」
 静寂を破ったのは、憲実の声。
 低くて、無感情のように聞こえるが、奥に優しさを含んだ声。
「あずさが・・・?」
 そういえば、風呂に行くと言いつつ、自分は洗面器など、風呂の道具を持っていない。
 あの時は「馬鹿あずさ」なんて言ってしまったけど、案外馬鹿なのは自分の方かもしれない。
「ああ。心配して、寮の俺の部屋に来た。真弓は来ていませんかと。」
「なんで・・・先輩の所に・・・」
 剣道部に入ったことは言ってあったが、どういう経緯でそうなったかは話してなかったから、憲実と自分の関係などわからないだろうに。
「火浦は火浦なりにお前を見て、気遣ってるってことだ。」
 あの馬鹿あずさが?
「・・・」
 真弓は何も言えなくなる。
「悪いと思ったが、その・・・手紙も読ませてもらった。」
「・・・え・・・」
 あの、亜弓からの手紙を・・・憲実が・・・読んだ・・・。
「俺は、前にも言ったが、文系の授業は苦手だ。
 推理というやつも、得意ではない。だから推測でしかないし、間違ってるかもしれん。
 お前が苦しいのは・・・ずっと苦しかったのは・・・火浦の姉のせいなのか?」

 誰にも言えなかった。誰にも気づかれるわけにいかなかった。
 もしも、回りに知られたら、まず蔑まれるだろうし、下手をすると興味を覚えて手を出されかねないし、なにより確実に、火浦の家にいられなくなる。
 でも、この人なら・・・
 真弓はゆっくりと頷いた。
「・・・そうか・・・」
 小さくなる憲実の声。
「先輩・・・あずさには・・・」
「俺からは言わん。だが、多分火浦は気づくぞ。」
「そう・・でしょうか・・。」
「ああ。人は変っていく。変ろうとする。誰も、昨日と同じ自分ではいられない。」
 憲実の低い声には、不思議な説得力がある。
「木下も・・・強くなったな。」
 その言葉が理解できるまで、数秒を要した。
「え?」
 それでも、あまりにも意外な言葉に、真弓は聞き返す。
「強くなったな、木下。」
 憲実が繰り返す。
「僕は・・・強くなんかない。弱いままで・・・。
 あの手紙を読んで・・・心が壊れそうで、ここに来たけど、全然やっぱり駄目で。」
 真弓は頭を振る。暗い道場の中で、憲実に見えるはずも無いけれど。

 みしり、と、床板が鳴った。
「あ・・・」
 どうしよう。逃げなきゃ。真弓は後ずさった。
 けれど、疲れ切っていて、体が上手く動かない。
 その場で戸惑っているうちに、すぐ傍に憲実が来ていた。
 ふわりと、抱きしめられる。
 背も高く、体もしっかりしている憲実の胸の中に、細身の真弓の体は全て納まってしまう。
 汗の匂いがする。
 同じ時間に部活をあがったから、憲実もまだ、風呂に入っていないのだろう。
 自分もそうだから人のことは言えない。
 微かに混ざるのは憲実自身の匂い。自分と違う、他人の匂い。だけど、不思議と嫌じゃ無い。

「最初から強い奴なんていない。
 誰でも、弱さを抱えて、それを克服するために、努力するんだ。
 強くあろうとする力と心、それが、本当の強さだ。」
 子供をあやすように、背中を叩かれる。
「お前は、弱く無い。
 いや、弱い部分もあるんだろうが、強くなれる。」
 淡々とした憲実の声。

 どうして、この声を聞いていると安心してしまうんだろう。
 どうして、この声の紡ぐ言葉を、信じてしまいたくなるんだろう。

「本当に?」
 涙を堪えているから、どうしても声が震えてしまう。
「ああ。」
 間髪を入れない、力強い肯定。
 泣きたくなる。
 今はこんなに辛いけれど、まだこんなに痛いけれど、いつか、笑える日がくるんだろうか。
 自分が弱いように、他人も弱くて、それで何かを壊すしか無かったんだと、仕方が無かったんだと、納得出来る日がくるんだろうか。
 本当に?

「もう一度、言って下さい。」
 真弓は竹刀を抱えたまま、憲実の胸に額を押し付ける。
 耳からだけでなく、体でも言葉を、声を捉えたくて。

 憲実が息を吸う。胸の動きを感じる。
「木下、お前は、強いよ。」
 憲実の言葉が、入ってくる。
 耳からと、押しつけた額からと。

 自分のことは信じられないけれど。
 貴方の言葉なら信じられる。
「はい・・・。」
 自分のことは、まだ嫌いだけれど・・・
 貴方が認めてくれるなら、少しだけ自分を好きになれる気がする。
「土田先輩・・・僕・・・強くなります。」
 貴方のために。
 自分のためでは無く、貴方のために。

「ああ。木下なら出来る。」
 静かな応え。
 抱きしめられる腕の優しさ。
 とても残酷で、酷く優しい仕打ち。
 でも、居心地がいい。
 ここが、自分の存在を許される場所。
「土田先輩・・・」
「ああ。」
 好きです。その言葉は声に出来ないけれど。
「ありがとうございます。」
 答える代わりに、背中を軽く叩かれた。
 今は雛鳥扱いされててもいい。
 いつか、本当に自分が強くなって、同じ目線で話すことが出来るようになったなら。
 その時こそ、言えるから。伝えられるから。自分の声を。

『貴方のことがとても』
 憲実の胸の中、真弓が口の形だけで綴った言葉は、空気を伝わることは無いが、ほんのわずかな振動を押しつけた胸に伝える。
『好きです。』
 堪えきれずに溢れた涙が、一滴、音も無く床に落ちた。



 

                                               了(2003.0602)


2003年5月のお祭り企画、TOP賞(?) さとみ様に捧げます。


ごめんなさい。暗くなってしまいました。
手紙ネタにしようと思い立ち、
土田と真弓のシナリオをうがーーーーーーーっと読んで、中に手紙が出てこないことを確認し、
その後、真弓とあずさのシナリオをうがーーーーーーっと読んで、手紙の内容を確認し、
ここで止めておけばいいのに、
亜弓の性質を知るため(?)に真弓陵辱、あずさ使用なんて読んでしまったもんだから、
なんだかもう、真弓が可愛そうで可愛そうで可愛そうで。

ああ、うん。辛かったね。痛かったね。苦しかったね。
泣いていいんだよ。泣くがいい。さぁ泣け! という気持ちに。
書いた後、要とあずさのシナリオを確認したら、真弓の手紙読んだ後の態度がかなり違ってました(滝汗)
もっとドライ。クール。
でもね、ホントは泣きたかったと思うの。彼は。
せめて土田との純愛ルートくらい。というわけで、捏造です。(核爆)
 
くどいくらいに否定形やら逆説やらが使われているのは、〇久の習性でもありますが、
真弓のひねくれ加減を現してるつもりでもあったり。(うざい手法かなぁ・・・どきどき)

「果てしの無い物語」(ネバーエンディングストーリーですね)に出てくる主人公は、物語の途中、愛されたいと願います。
そして、充分愛されてから、愛したいという願いを持ちます。
幼少時に愛を注がれなかった人間は愛し方を知らない、なんて説もあります。
真弓は、上手く育つことの出来なかった子供のイメージ。
今から愛情を注げば間に合うと思うので、がんばれ土田。(え?)
いやその。約1年、親鳥的な愛情注がれて、育ち直した真弓と、8年後には対等な立場で、改めて。
学生時代の二人は、やっぱり「恋愛」とは違う気がするのですよ。



思い出す声、心の声、手紙の声、音にしない声、肌で感じる声。音にならない声。
優しい声、柔らかい声、信じさせる声、安心する声、甘い声。音で伝わってくる声。
色々な感慨を篭めて「声」
Loving Your Voice.

薔薇薔薇TOP

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