10、モノクローム



 差し出された手の強さに、びくりとした。
 熱くて、何かを訴えかけるようで、胸が疼く。
 そろり、と見上げたら、涼は目を微かに伏せていて、苦しそうだった。
 菫子にかけられた声が穏やかだったのに反して、男の瞳をしている。
 今までで一番、男っぽさを覗かせている表情を見つめていられなくて、黙って隣を歩く。
「涼ちゃん、ごめんね」
「何が」
「怖くてしょうがなかったから、折角来てくれたのに酷いこと言っちゃったの」
 気まずくてまっすぐ見つめられない。
 笑って許してくれていても、傷ついていないはずがないのだ。
 可愛くなかったことがないだなんて、何故そんなに優しいことを言うのだろう。
「……そんなん知っとるわ」
 涼の足が止まり、菫子も立ち止まった。
 振り返った彼は、菫子の体を押さえつけて、電信柱に縫いとめた。
 狂おしいほどの瞳。
「……知らず知らずの内に傷つけているのかもって思ったら
 苦しい。私、何でこんな性格なんだろうっていつも……」
 目の前に、迫る表情を、見上げる。
「自分で気づいてるなら十分や。菫子はそのままで変わるな。
 俺の為に菫子が菫子じゃなくなるのだけは、あかんのや」
「……涼ちゃん」
「せやけど、俺色にも染めたい。矛盾しとるな」
 手が、頬を包み込み首筋をなでる。
 不思議な心地よさに声を上げそうになり、唇を噛む。
 舌が、唇を辿り、唇が重なる。
 小さな傷を癒すような優しいキスだった。


 涼も部屋に戻ると、躊躇う間もないまま浴室へと連れて行かれた。
 乾いた音がし、扉が閉まり鍵がかかる。
 壁際まで追い詰められ、シャワーが降り注ぐ。
「……俺ってこんなに独占欲強かったんやな」
 涼は自嘲の笑みを浮かべていた。荒っぽいキスが降る。
 膝を抱えて、抱きあげられていた。
「菫子も悪いんやで? 男と働いとるって言わんかったもんな」
「二人で働いてるわけじゃないもん……っ」
 唇を舐められて、肌が泡立つ。
「俺は嫉妬深いんやで。手握られたくらいで、いきり立つ心狭い男や」 
 吐息を深く吐き出して、涼を見上げる。
「それだけ私を好きってことなら、嬉しい……」
「……ほんまか? なら証拠見せて」
 突然止んだ口づけが、名残惜しくて眉をしかめる。
「どうすれば、いいの……」
 じっと、強く視線をぶつけると意地悪げに口元をゆがめた。
「キスして……思いっきり濃厚なやつ」
 ぼ、ぼ、ぼっと顔が真っ赤になる。火照る頬を感じ、
 顔をそむけたくても、顎を捕えられどうにもできない。
 息をのみ込み、つま先で立った。
 涼の唇にそっと唇を合わせる。
 半ば押し付けるような不器用なキスでも、菫子には精いっぱいだ。
 瞳を細めて、キスを続ける。
「だめ……?」
「へえ。菫子の濃厚はこの程度なんや。そんな風に教えたつもりないんやけど心外やな」
 喉を鳴らして低く笑った涼は、貪るように口づけた。
 思考が白濁する。
 洩らす息さえ奪いつくすキスが、菫子のすべてを染め上げる。
 縺れあわせて、離れた涼は頭上から見下ろした。
 意を決して再び口づけに挑む。
 がくがくと体を震わせながら、涼の唇を開かせた。
 もどかしげに、触れて彼の目を見る。
 観察者の瞳は、菫子を食い入るように見ていた。
心臓がとまる心地で、激しくキスを仕掛ける。
 彼にキスを送ったのは菫子なのに、声を漏らしたのは彼女の方で。
 にやりと笑った涼が、よくできたと言わんばかりに頭をなでた。
 そして、再びキスの嵐。
 シャワーに打たれ、お互い服を着たままびしょ濡れになった。
 体の力が抜けて、思考がとろけてきた菫子は、涼にしがみつく。
 力強く支える大きな体は、彼女を抱きしめて耳元で囁いた。
「……我慢できへん。もう、ここでええやん」
 確認するのは優しさなのだとは思う。
「っ……や……ベッドに連れてって」
 懇願を口にした菫子は、突如として高い声を上げた。
「……涼ちゃ……んっ」
「こんなになって……もう待ちきれんくせに」
「嫌。そんなこと言わないでよ……」
「やっぱり菫子のその目には弱いわ」
 零れんばかりの大きな瞳で涼を映す。
「……お姫様のお気の向くままに」
 なまりのない言葉をふいに使われると心臓に悪い。
 関西弁じゃなくても会話できるのではないだろうかと菫子は呑気に思っていた。
「ああ、服脱がんとあかんなあ」
「……涼ちゃんのせいよ」
「恨みがましい目で見られても、そそられるだけやし」
「ええ眺めやのに、勿体ない」
 ぽつり、洩らされた言葉に菫子は、全身が朱色に染まるのを感じた。
 シャワーを浴び続けたため下着は見事に透けて、肌を晒すよりも強い羞恥を感じる。
「……うう」
「風邪ひいたらあかんもんな。早いところ温めてやる」
 涼は、菫子が、ぼうっとしている隙に、勝手に衣服を脱がせた。
 べったりと肌に張りついていた衣服が、消えてやけにすっきりとした気分だ。
「……む」
 するりと抱き上げた彼は、ボトムを脱ぎすてて下着一枚の姿だ。
「どうせ、お湯以外でも濡れてるんやから、洗濯せな」
 浴室の扉が開き、菫子の着ていた物も含めて洗濯機に放り投げられる。
「甲斐甲斐しいやろ」
「……もう、好きにして」
 頭を涼の首に押しつけることで、顔を逸らす。
 ふわり、上からかぶせられたタオルは、紳士的な涼ゆえの行動だと思った。
 顔なんて、見られない。見せられないけれど。
「うわ、乱暴!」
 間仕切りを足で蹴倒し、ベッドに下ろされた。
 この仕切りの意味を考え、今更ながら、とんでもないことをしていたなと振り返る。
「もろバレやったな」
「涼ちゃん、私の部屋にはやっぱり来てほしくないんだけど」
「……約束ちゃうやん」
「割り勘で別の場所に」
「声も音もいっぱいだしても構へん所行くんやな」
「っ……そんな言い方しないで」
 いきなり噛みつかれ、膝を立てる。
「……想像するだけで好きなように暴走する俺が見える」
「困る……」
「俺が、欲しくないって」
「……欲しい」
「素直なええ子や」
 弾かれて、揺さぶられる。
「感触最高」
「やらしい」
「人間なんてこんなもんやろ」
「そうなの?」
「ああ。俺が一番好かんのは綺麗事やから」
「……綺麗事じゃないのは、知っているわ」
「汚れを纏わんと大人にはなれんのや……」
 辿る指先、触れる唇。
(理性なんて凍りつくくらい、狂ってしまえたら。
 あなたのことがもっと分かる。私を伝えられる)
 好きになればなるほど翻弄されて、染められる。
 涼以外見えていない。
 異性として意識することはないのだ。
「あなたをもっと……感じたいの」
 涼の瞳が、すっと細くなる。
「……無邪気なのもええ加減にせんと痛い目見て後で泣くことになるで」
 心臓を打ち貫く鮮烈な言葉。
 菫子は大胆になっていく自分に呆れながらも、そんな自分が嫌いではなかった。
「……いいの」
「そんなん言われたら、もう堪らんな」
「あっ……」
 忍び込んだ指に擦られ、駆け抜ける電流に蝕まれる。
 浅く、深く、探る奔放な指は、菫子より彼女を知っているかのように。
 耳元に触れた刺激が、奥深い所の熱を焚きつける。遠くへ連れ去っていく。
 シーツに沈んだ菫子の指先の一本一本にキスが与えられる。
 高みに登りつめた彼女は、その時の涼の表情を知らない。
 瞼に、キスが降って、菫子は、ぼんやり瞳を開いた。
「唇が良かった?」
「……瞼もいい」
 甘酸っぱくて、可愛らしかった。
「頬なんて染めちゃって」
 つん、と頬を指でつつかれ、屈託なく笑う。
 身をよじって、笑い転げる菫子は、足の間に触れる物で、現実に引き戻される。
 涼は、スムーズに事を進めている。
「覚悟してるんやろ」
「……大丈夫」
 雰囲気が瞬時に変わる。
 自分から涼の手を掴んで、固く握った。
「抱いたのは菫子が初めてやないけど、愛したのはお前しかおらんわ」
 今更嫉妬せずともいいのだ。
 愛したのは、菫子しかいないという言葉がまっすぐ信じられるのだから。
 衝撃が、凄まじくて、叫ぶ。
 涼の想いが、丸ごと伝わって来て、瞳から涙を零す。
 引き寄せては返す波が、飲み込もうと迫る。
 体勢を入れ替えられ、涼の上で、彼を感じていた。
「りょ、うちゃん……あ」
 揺れる。涼が近すぎて、生々しい。
「なあ、俺も言ったんやから正直に言えや」
「ん……」
「愛したのは俺だけなんやろ?」
「……涼ちゃんだけ」
「それが聞けたら満足やわ」
 鋭く繰り出され、めまいを感じる。
 求めて、与えてを繰り返し、同じ声を重ねて堕ちた。
 菫子の体を抱きとめて涼は、背中を撫でる。
「同じ夢見れるかな……」
 繋がったままに、眠りに身を任せた。


 手を繋いで、駆け抜けた先には虹の橋がかかっていた。
「綺麗ね」
「菫子の方がずっと綺麗やで」
「真顔で言うのね」
「こういうの軽く言えへんのや」
「何よ……何回好きになればいいのよ」
「俺かて何遍も惚れ直しとるんやで」
 ゆっくりと橋を渡る。
 欲しい言葉をくれる人が側にいるだけで、心強い。
 たとえ足元が透けていても。
 ささやかな口づけが、交わされる。
 いつまでも、この温もりが醒めませんようにと同じ願いを掛けながら。

「涼ちゃん、おはよう」
 うつぶせで横たわりながら、隣りに呼びかける。
 寝たふりだろうか。背中を揺すっても無反応だ。
「シャワー借りるわね」
 ベッドを降りようとした途端足が、引っ張られた。
 シーツの中、顔を合わせたのは、間違いなく猛獣。
「……何するのよ」
「余韻に浸らせて」
 余韻どころか、次の瞬間には深く口づけられていた。
 問答無用と言わんばかりに、攻め立てられ、
 菫子は涼の腕の中で、変わる自分を実感させられた。
「明日起きられなかったらどうするのよ」
「興醒めさせんなや。俺のええ女やろ菫子は」
「……ずるいわ」
「じゃあ、終わりにする?」
「いけず」
「菫子、やっぱりこっちの言葉好きなんや」
「褒めてないのに、嬉しそうね」
「意地悪とか言われるばっかじゃ飽きるし」
「……っ」
 菫子は、うなだれた。おかしくて笑ってしまう。
「好きやねん」
「ん……大好き」
 もぞもぞとシーツの中で動いた涼が、菫子の中に入ってくるまでわずかな時間だった。
 迎え入れる時の感覚は、言葉では表せない。
(抱かれながら、次のあなたを想像しているのは夢見がちなのかしら)
 体が一体化したまま解けないのではないかと感じていた。
一緒に燃え尽きてしまう気がして、少し怖かった。
 愛し合って、目を覚ました時には夜が明けていて、二人でシャワーを浴びた。
 奔放にからかう涼をあしらって、甘いひと時を堪能した。
乾燥機で洗った服を乾かして、受け取る時、奇妙な照れが襲った。
「パジャマはここに置いとくね」
「またいつでも来れるようにやな。しょうがないな」
 でれでれしているのが、よく分かる顔に、菫子は苦笑した。
「……そういうことでよろしくお願いします」
「ほな、行くか」
 玄関を出る時に、涼はふと立ち止まり、呟いた。
「夜通し愛すか……あの曲通りやったな」
「後から恥ずかしくなるでしょ」
「今度かけながらとか、どうや? 雰囲気盛り上がるで」
「そんな使い方したら駄目よ」
 涼は、けらけらと笑った。
「バイトのことやけど」
「……忙しくてバイトを止めなきゃならなくなるまで、同じ場所で頑張りたい」
「俺もその気持ち分かるから、菫子にばっか言ったら、自己中すぎるな。
 何かあったら、すぐSOSするんやで。
 ぶっ飛ばしていくから」
「……ありがとう。そう言ってもらえてよかった」
「行こう」
 バイクに乗って、送られる。
 回数が増えて、普通になっていくのだろうか。
 バイクから見る街は、歩く時とも電車の中から見るのとも違って見えて
 まさに、駆け抜けるというのがふさわしかった。
 
 
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